地元で遊ぶということ

”絶望感の暗闇を 何度も抜け出したはずだ”

(the pillows/トライアル)

地元で遊ぶのが楽しくて堪らなくてどうしよう。金曜の夜、五味さんがソロライブするというので藝育カフェSankakuに出向き、そこでそのソロライブがオープニングパーティだった個展のアーティストのカワかわワイわいさんと知り合いになったりSankakuの山本さんに僕のことを思い出してもらったり、夜、興福寺界隈を無意味に少し散歩したり、通りすがりにSILM STYLE GARAGEの安川さんに会ってジッタリンのライブを実現させたい!と盛り上がったりTRANSITの大将の向井さんと修理中のロードバイクをあーだこーだ言ったり、仮退院したその愛車で春日大社行ったり唐招提寺行ったり、pechakuchaで通ってたcafe WAKAKUSAで初めてマスターのクレープを食べたり。地元で遊びまわるのが楽しくて仕方ない。

でも、地元で遊び回っているだけでは、生きていくことはできない。

奇しくも五味さんがMCで「外からはアクセスできない、悪い言い方をしてしまえば自分の身の程を知らない、そういう人たちが地域で何かを初めていて、僕はそれがおもしろいなあと思ってやっている」と言ったように、確かに感度の高い人たちが集まって、おもしろいことが生まれる素地は現代の日本なら多くの郊外都市でもそのチャンスがあり、我らが奈良もそんなチャンスがある街で、ここ数年実際にそうなってきていると肌で感じてる。そういう感度の高い人たちのネットワークが広がり、強くなって、「外からはアクセスできない」一種の経済圏が出来て、その中で、それぞれがそれぞれの得意技を仕事にしながら、持ちつ持たれつでやっていく。

それは夢のような日々だけど、それを実現するには奈良は規模が小さい、小さすぎると思う。

僕には、先に挙げた人びとのような、手に職もなく、アーティスティックな能力もない、ほんとに唯の会社員に過ぎない。だから、「外からはアクセスできない」一種の経済圏の仲間入りをするのは気持ち的にも若干ハードルがあったりする。でも、そういう「おもしろい」ことが、この地元奈良でこれからも続いていくような、そんな土地になるためには、その「経済圏」の外側にいる、僕らのような一般市民が、その「おもしろい」ことに「お金を払」わないと、そういう土壌ができないと、実現しないと思う。息切れすると思う。

だからこれは僻み根性かも知れないけれど、「おもしろい」と思ってお金を払って参加する側の人間も、おもしろいことをやっている側と対等だと認識してほしいのです。自分達のネットワークだけで閉じてしまうのでなく。もちろん、徹底的にハードルを下げて、誰でも彼でもとは言わないです、でも、一般市民でも、それほど詳しくなくても、共鳴する、お金を払ってくれる人は少なくないはずです。そういうところを大事にしようと思ってほしい。

地元で遊ぶために、お金を稼ぐために働く。それは僕の人生のごく一部かも知れないけれど、大切な考えの一つでもあると思う。