『WIRED』とお上と『踊る大捜査線』

日本人の僕には胸の奥底に間違いなく「お上信仰」が宿っている。少しでも気を緩めると襲い掛かってくる。

そして僕が最も嫌うのは、権力に楯突くフリをする癖に、自分に有利になると判ったら権力のある人や有名人著名人やインフルーエンサーと言われる人に近づける機会があれば簡単に擦り寄りお近づきになろうとする心性だ。その節操のなさはどこから来るのか。だからと言って「権力大好き」と開き直っているのも好きにはなれないが、「誰かが得をするのは許せないけれど、自分だけが得をするのは全然オッケー」というのは軽蔑以外の何物でもない。

そしてそれを自分に課するのは本当に苦しい。なぜなら、そういうふうに振る舞う同じ種類の人がそんなにはいないからだ。疎外感。何の「得」もない疎外感。それでも、自立を掲げる人間は必要なのだ。それが小さい自分にとっての唯一の矜持な気がする。自立を掲げられない人間が組んだ徒党など社会にとって百害あって一利もない。

『WIRED』の若林恵編集長のこのEDITOR'S LETTER、素晴らしいとしか言いようがない。お上とサムライ。いつからこんなものを奉るようになったんだ。もう片方の手で自由を求めるようなフリをしながら、もう片方の手でお上の庇護を渇望している。そんなバカな振る舞いないだろう。西欧にだって「神」はいて、神が見ているから善を行え、それと同じように日本ではお上が見てくれているから耐え忍べ、本気でそう思っているならそう振る舞えばいい。それでいて同時に自由を欲しがるなんて勝手すぎるだろう。お上が何もしてくれないから。国の補助が。助成が。バカバカしい。

先日、「地上波初登場」と謳ってた『踊る大捜査線 THE FINAL』を観て、踊る~を観るといつも感じる違和感を今回も同じように感じてた。なぞるべきストーリーはおもしろいんだけど、ストーリーを通して作者が言いたいこと、みたいなテーマがいつも頷けない。『THE FINAL』では、青島が「正義なんてのは、胸に秘めてるぐらいがいいんだよ」と言う。多数の人々が協力してことを成し遂げる組織では、組織のルールと体系に沿うことが必要なんだ、と説く。この組織は「社会」と言い換えてもいい。そして悪いことをしてた人は、「お上」=人事官が捌いてくれる。現場は、ルールを逸脱して告発のような行動を起こすのはご法度。『THE MOVIE 2』か『3』かで、ネットを使って連携をする、誰かがリーダーではないヨコのつながりで活動する犯人グループに対して、自分たちには素晴らしいリーダーがいる、と青島が叫ぶシーンがあったと思う。あれも、ある種のお上信仰だ。立派な君主が登場して立派な君主による「独裁」のほうが、組織=世間はうまく行く、と言っているかのようだった。時代はフラットな組織の有効性をうたいだしていた中で、それに反論するかのような「テーマ」を訝しんだ。『THE FINAL』に戻るけれど、確かに鳥飼たちのやり方は違法なだけに許されないものの、アクションを起こしたということを否定するような筋書きは評価できない。

自分のことは自分でやる。お上をあてにしない。そこにしか未来はないと思う。それは、政府がバカでもなんでもいいということではない。自分のことを自分でやろうと思わない人が多いから、まともな選挙結果にならない、ということだと思う。