20190101 Kindle vs honto (vs 紙の書籍)

きっかけは、『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』。

日本語版が出るのを知らずに、(読めもしないのに)英語版を買おうと考え、そうすると選択肢は自ずとKindleということになり久し振りにKindleの出番となったのだけど、まずやっぱりhontoアプリよりKindleアプリのほうが読書体験はスムーズだと思う。いちばんはKindleで購入した書籍で目次が中途半端なものがない。hontoアプリは、目次が「章」レベルしかないものがあったりする。これでは立ち戻ってとある記載を読みたいと思ったとき、スワイプスワイプして送っていくか、ブックマークを確実にやるしかない。また、マーカーの機能なんかも、hontoは使える書籍があったり、使えない書籍があったりする。だけどKindleは確実に使える。

そして日本語版も発売されるとわかって日本語版をKindleで買って気づいたもう一つの難点、それは・・・

「スクリーンサイズ」。

あまり認めたくはないものの、40歳も中間地点を過ぎて50歳に近づいてきて、視力が衰えてきているのは否めなくて、スマートフォンで読書をするというのはフィジカルに結構ツラい状況になっていると最近急に気づいた。いろんな理由は思いついていたのだけど、電子書籍での読書(特にいわゆるビジネス書系)が捗らない一番の原因はこれだと思う。そしてそれに関連して、スマートフォンで読むとすべての書籍の「外観」が一緒なので、なんというか読書がのっぺりとした行為に脳の中で記憶されているような感覚がある。

それを考えるとハードウェアのKindleはよくできた端末だったなあと改めて感じる。僕が電子書籍に求めていたものは可搬性と検索性で、それはハードウェアは専用でなくても、むしろ専用ではないほうが望ましくて、スマートフォンでもPCでも読めるならそれに越したことはないという結論だったんだけど、事ここに及んで読書の質に影響を与えるという話になると、専用ハードウェアを持つKindleでこれからは購入しようかなあ、という気分になってくる。

ただ、Kindleでも「のっぺりとした行為」には変わらないので、書籍によっては紙形態で購入することも必要だと特に最近感じる。実際、『さよなら未来』は紙の書籍で購入した。同じ内容のテキストをデータと紙で二重持ちして何か意味があるのか、という感じだけど、必ず意味があると最近確信し出した。テキストがどのようなメディア上にあるのかは、利便性は印象に影響を与えて結果読書体験にも違いを生み出す。それならばデータと紙の両方で読むほうが、テキストの読解という点では望ましいはずだ。だから、「データ+紙購入で価格は1.1倍分」みたいな値付けで売るストアが出てきたら、確実にそちらに乗り換えると思う。

そんなことを考えながら導いた今年のテーマは『アクティブ・ダブル・スタンダード』。矛盾があるなら消去法じゃなくて両方追いかけてみる。


2012/04/15-2012/04/21の振り返り / 独走会 - 醍醐寺

本エントリがこのposterous最後のエントリ。

花粉症の時期も終わり、気候もよくなり、いよいよツーリングにもってこいの季節になってきたというのに、天気予報は土曜の午後から雨!ということで、早朝出発して大津まで走って、その後京都まで戻ったら13:00くらいなのでそこから輪行で帰ろう、という予定だったのですが、ルート確認が曖昧で途中で大幅に時間を食いつぶし、挙句GARMINにガイドさせてみたら、醍醐山を横断せよというルートを案内されていることに途中で気が付き、引き返して大通りに出ようとした醍醐寺境内でリアがパンク、もうムリ、と大津は諦めたのでした。

でも、通り掛からなければ知らなかったし、走りに来ようという候補になかったお寺なので、これもいい機会。コースも行先も気の向くまま、偶然を楽しめるのがツーリングのいいところ。走ってるときは「なんでだよ~GARMIN!」と苛立ってましたが(笑)。

 

仁王門。既にパンクは修理済み。この近くでパンク修理してたら、結構貫禄のある高齢のお坊さんが「パンクですか?」と声をかけてくれました。「すみません、こんなところで」「いえいえ、構いませんよ。ゆっくりなさってください」後で遠目にお坊さんを見かけたとき、追いかけて声を掛けさせてもらえばよかったです。


金堂。意外と金堂に近づく人が少なかったです。


五重塔。なんかちょっとスマートな感じ。五重塔で淡い朱色はあまり見たことがなく、珍しかったです。

 

観音堂。中には後から入れます。観音堂の中で、御朱印を頂けます。3種類ありますが、御本尊と観音様を頂きました。

醍醐寺は世界遺産で、上醍醐・下醍醐・三宝院と境内も広くみどころたくさんで、今回見て回ったのはほんの少しだったのですが、少し立ち寄ったというのもまた悪くないもんだと思っています。


動画は、醍醐山を引き返してきて醍醐寺の境内に入り、パンクして落胆するまで(笑)。

  • 一週間がやたらに早い。
  • ひとつの物事について、要・不要に関わらず探りまくる。
  • 腹の立つこと、面白くないことが続くときは、一旦無神経になる。
  • 責任感を悪用されないように立ち回る。
  • まだまだ足りないとは言え、瞬発的にカウンターを出せたことは自分で評価できる。
  • 固有名詞。

Grit Computing(グリット・コンピューティング)

いつでも正しい人なんているのかな
まあ そんなこと たいした問題じゃないネ
行こうよ行こうよ あいかわらずなボクら

(『あいかわらずなボクら』/B’z) 

2013年の年頭、最初に意見したのは、「”ちゃんと年下の人に憧れられてる?”って、なんだその”ちゃんと”って!ちゃんと憧れられてる?ってどんな言い草だ!!」というものでした(笑)。

以下、箇条書き:

  • ライフハック以降、「習慣」「仕組」「仕掛」ということに、非常に力点が置かれてきた昨今だったと思う。確かに、アクションを起こすための「工夫」としての仕組み、システム、コツというのは非常に助かるし有用だけど、ちょっとそれに頼り過ぎになってきてるような気がする。「精神論の強要は、物事を何も解決しない」という反省点が、「仕組」論者の出発点だけれども、それが行き過ぎて、なんでもツールとフォーマットで小器用にやれ過ぎて、芯の通ったモノに出会えない傾向にあると感じている。
  • なので、今年はひとつ、「やろう」という気概、意思、精神、そういうものが大事なのだ、とリマインドしてやっていこうと思う。IT-コンピューティングはいつも「習慣」「仕組」「仕掛」側の味方だったと思うけれど、そのコンピューティングを使う「意思」を、コンピューティングと並置してみたい。Grit ComputingはもちろんGrid Computingと掛けていて、「意思を持ってコンピューティングする」という、何かを導くためにコンピューティングするというスタンスの再確認と、「意思とコンピューティングの両輪で、新しい地平を見出す」という大方針の両方を指している。
  • 「つなぐ」というのにももう飽きた。「誰かと誰かを繋ぐ働きをしたい」というのに僕は興味がない。興味がないというよりも、誰もがみんな、誰かと誰かを繋ぐことにばかり興味があるように思える。それは言うなれば商社ばかりの社会、物流機能ばかりの社会。確かにどんな人間でも、誰かと誰かが出会うことで何かは起きる。しかし、「誰かと誰かを繋ぐ働きをしたい」というのは、自分自身は何もしなくても、誰かと誰かのチカラを利用して生きていくようなところがある。僕は、「つながれる」役に立てる何かを実現するほうに自分を注力したい。できていないだけに。
  • ビジネスにおける「目標」という言葉と、人生における「目標」という言葉の、意味は異なる。
  • 美の追求。
  • いろんな人の話を聞くというのは、30代までの方法だと認識。
  • 何を受け取るか、何を読み解くか、批判、の順。
  • 仕事においては、つまるところ、あまりにも時間ロスが多いことが、そしてそれを「付き合わなければいけないものだ」と思い込んでいるところが自分を苦しめている。付き合わなくてもよいと思うことは説明する。そして、思い定めた方向に対する時間を死守する。
  • 無駄にする時間がない、本当にいつ死んでしまうかも知れない、来年はやれないかも知れない、そう思って元日の1:00の電車に乗ってみた。乗車はPiTaPaで出来るけれど、記念に買ってきたこの切符を毎日眺めて、この思いを日々思い返し、日々の行動に繋げよう。

リザルト

ちょっと前の話だけど昨年度の会計年度が〆られた。
自分が到達しようとしてきた地点と、会社からの期待との、双方を十二分に満たしたリザルトだった。

恐らく、自分が想定した通りのスケジュールで、このまま行けば今年の下期には狙ったポジションを手に入れられるだろう。
世間一般の会社でいうところの事業部長賞的な賞と副賞も勝ち得たし(これは限りなく不正な匂いがするものではなく、会社としてきちんと認められているもの)、昇給がある可能性もある(基本、うちの会社ではリーマンショック以来凍結されているんだけど)。

もちろんこれが仕事の本質でも醍醐味でもないことは判っている。
けれど、口だけでウダウダ言ってて結局何も出来ていないよりはずいぶんマシだと思うし、そういう輩を見つけたら、このオレのリザルトを見せつけてやりたいという衝動も実はなくはない。