『メモリー・キーパーの娘』���キム・エドワーズ

メモリー・キーパーの娘
キム・エドワーズ
日本放送出版協会  2008-02-26

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 1964年。デイヴィッドとノラは男女の双子を授かるが、娘はダウン症だった。デイヴィッドはノラを悲しませないようにと思い、ノラには死産と偽り、施設に預けることにしたが…。1964年から1989年に至る、ディヴィッドとノラ、その家族と周囲の物語。

 デイヴィッドが娘フィービを施設に預けることにしたのには訳がある。ダウン症だったから、ダウン症は寿命が相対的に短いから、といった理由だけではない。しかし、もし自分がその立場だったら、死産と偽って施設に預けるという決断ができるだろうか���反対に、ダウン症で生まれてきた子どもを育てていくことに、なんら悲嘆や不安を感じずにいられるだろうか���あるいはダウン症をどれほどのことか把握できるだろうか���何もかもわからないことだらけだった。そして、そのわからないことだらけのまま人生を生きていかなければならないという命の重みを静かに味あわせてくれたのは、この小説が25年という年月を描き切っている長編であるからに他ならない。

 デイヴィッドは妻ノラと息子ポールに秘密を打ち明けることができず、その後起きる辛い出来事はすべて、自分のその決断の報いだとして絶えて生きていくことに徹する。その秘密を隠し通したことで、彼と家族のすれ違いは解かれないまま彼は生涯を終えてしまう。その秘密を打ち明けたほうが正しかったのかどうか���デイヴィッドがどこまでそのすれ違いに自覚的なのかは判らないけれど、自分の行いの報いだとしてそれを受け入れて生きていこうとする姿勢は、例えそれが独り善がりでも間違いでも、なぜか共感するところはある。

 ポールの「アメリカ人にはうんざりだ」や、ポールの恋人ミシェルの「犠牲を払うのはいつも女」など、しばしば「日本人の習性」といって嘲笑される行動や、欧米ではこんなに男女平等が進んでいるなどと取り上げられる知識が、いかに受け売りで胡散臭いものなのかを知らされる部分があった。一方で、会話で出てきた事柄を真実として前に進んでいくところ、これはやっぱり日本とアメリカで違うところなのかも知れないとこれも改めて思った。日本は、いくら会話をしたとしても、「本当のところはどこか違うところにある。隠されているものが真実である」という感覚を胸に持って生きている感じがどうしてもするから。 

p26「まぶたを横切る蒙古襞。平たい鼻。」
p57「ノラは額縁にはいった父の写真を段ボール箱にしまいながら、やり場のない怒りに駆られて顔をほてらせた。」
p183「さっきまでケイ・マーシャルを羨んでいたかと思えば、今度はまったく別の理由でブリーを妬んでいる。」
p202「おまえはこれから順風満帆の人生を歩むんだ、たぶんもう父さんや母さんに連絡をよこすこともなかろう。わしらみたいな人間に割く時間はもうないだろうしな」
p222「テーブルで飛び交うのは、いまや数字や記号、そして制度の変更は無理だという声、声、声。」
p254「その秘め事のおかげで、デイヴィッドとの距離に以前ほど耐えがたさを感じなくなった。」
p316「辛抱を切らした自分が腹立たしかった。」
p351「たぶん広く一般にも、”代償の理論”というのがある。」
p363「ジューンを、母を、ノラを慰めたい、そう願ってきた。そしていまもやはり、これまで同様なにもできなかった。」
p447「アメリカ人にはほんとうんざりだ」
p480「土曜日���アルが仕事から帰ってくる日。いつもフィービにはなにかプレゼントを、妻には花束を持って。」
p508「犠牲を払うのはいつも女のほうなの。」
p522「あなたぐらいの歳のころ、私もこんな色が好きだった。」
p528「そのすべてが、フィービの歩んできた人生とくらべて、なんだかくだらなく思えた。」


『ゆれる』���西川美和

ゆれる
西川 美和
ポプラ社  2006-06

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 しっかり読んだのに、メモを取る前に返却期限を過ぎてしまい、時間に余裕がなくてそのまま返しちゃったのが後悔。人間の感情の襞のイヤーなところを畳みかけてくるところがなかなか良かった。現代文学ではあんまりこういうモチーフの小説がないから。近代小説だとほとんどこういうモチーフなのにな。やはり、現代の問題意識というか興味というかは、人間性ではなくて欲望だからなんだろうかな���近代小説も、もちろん欲望がテーマになってるのもたくさんあるけど、人間性がテーマになってるのも、それと同じくらい存在する気がする。
 『ゆれる』は、人間性の問題というより、タイミングの問題なんじゃないかなこれって、と思うとこがない訳じゃなかったけど、妬んだり決めつけたりというネガティブな人間性でドラマが成り立ってて面白かった。最も認識に残ったのは、血のつながりがある関係であっても、あまりに繰り返すと、決め付けが固定してしまうんだなあという怖さ。我が子であっても、「こういうヤツだ」って決めつけてしまうくらい疲れてしまうんだなあと、その点は怖かった。

『ピンクペッパー ���』���南Q太

ピンクペッパー 1 (1) (Feelコミックス) (Feelコミックス)
南 Q太
祥伝社  2008-10-08

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 できちゃった結婚した������代カップルの育児、仕事、日々。

 南Q太は『さよならみどりちゃん』で知って大好きになって、結構コレクションしてます。新刊が出たというのでamazonで買ってみたら、今まで見たことのない作風・テーマでこれまた感動。
 できちゃった結婚ってなんでそうなるんだろう���と思ってたら「えー���こんなことほんとにするんか���」という驚きもあったし、南Q太らしい生々しいタッチももちろんあるんだけど、同じ生々しさでも、子供をもったことによる日々の心持の違いを、陳腐なようで陳腐にならない表現で描いててどんどん読み進む。

 「������過ぎてやっとわかることってあるんだね」というセリフがあって、もしこれを������代の頃読んでたら、絶対今のオレでわかってやるって意地になってたと思う。でも、今は、������にならないとわからないこともあるんだろうなあと思うし、オレが今不安に思ってるコレは、実は人より少し早く気づいちゃったことで、まだそのキャパシティを持てない年齢だったから余計不安になっているので、もう少し落ち着いたほうがいいとか、逆に������代に気づいておくべきことを、今頃気づいちゃったよ情けないなあとか、いろいろちぐはぐな自分をちょっと落ち着いて見つめるきっかけにすることができる。これは大きなことじゃないかなあと思う。

 「欲しいと思ったものをすぐに欲しがる 子どものようだ」と主人公のしょう子が思う場面。欲しいと思う、こうなりたいと思う、こうなってほしいと思う、それ自体は悪いことじゃないと思うけど、思い通りにならない間や思い通りにならなかったときに次にどうするのかで、その人が決まるのだと思う。南Q太の漫画に出てくる人物は、みんな、出くわした場面に対していっこいっこ正面からぶつかっていこうとする。その姿勢を見習わないとなあと思う。

 やっぱり、しょう子と両親との関係のあたりが泣けてくる。お母さんとのジェネレーションギャップは大変なものだけど、当然思いやりとか優しさとかはおんなじで、そういうのが愛だよねと泣けてくる。

 

『葉桜の季節に君を想うということ』���歌野晶午

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫 う 20-1)
歌野 晶午
文藝春秋  2007-05

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 普段あまり読まないミステリーですが、この小説は、読み進めながら頭の裏側で少しずつ感じてる違和感がラストで一気に繋がっていくところが面白かったのと、主人公の成瀬将虎の切符のいい語り口が楽しくてすいすい読めました。成瀬は言葉もそうだけど、何か行動を起こすときのロジックが驚くほど筋の通ったもので、それが「筋を通すことの大切さ」を改めて思い起こさせてよかったです。

p101「とにかく観察しろ。意味は考えなくていい。見たことをそのまま頭に叩き込んでおけ。そうすればおまえの頭がそのまま貴重な資料となる。」
p104「しかし労力を厭う人間は珍しくない。」
p130「過去から学ばない人間は、猿以下の動物と一緒だ」
p135「そう自覚しているだけまだましだと、愚にもつかぬ自己分析に酔いしれている甘ちゃんなのである」
p139「戸島会の組織図が頭の中に叩き込まれ、組員の性格や癖もかなり把握できた」
p178「誰が殺ったのであろうと敵は討つ」
p234「わからないふりをしてみせるのも、円滑なコミュニケーションを図るうえでは重要である」
p250「しかし、不動産屋にフィリピン人妻と聞かされて驚いた俺にも、差別の意識が根深くあるのだろう」
p265「千恵が生まれて半年くらいはしあわせだったなあ」
p341「俺は自己愛が強い男だ」
p362「明日、心が穏やかになっている保証はない」