『切羽へ』���井上荒野

切羽へ
井上 荒野
新潮社  2008-05

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 離島の小学校の養護教諭をしているセイと、夫で島の幼なじみである陽介。セイの勤める小学校に、東京からイサワという不愛想な男が赴任してくるー。

 セイと、同僚の月江は完全に対称で、結婚して地に足をつけているセイに対し、月江はいかにもコケティッシュであり”本土”に住むから皆に”本土さん”と呼び習わされている男性の愛人である。”本土さん”は自営業で、月江に会うために月に一週間ほど渡ってくる。月江はそれを隠そうとせず、だから島の人間みな知っており大らかなものだ。
 それにしても苛立つのは女の心の揺れ様で、既婚ながら石和に興味を持つセイにしても、既婚者と関係を続ける月江にしても同じことで、その恋愛感情自体は有り得べきものだと思うし苛立ちもしないが、自分が完全に安全な場所に身を置いた上で揺れるのがたまらなく腹立たしい。安全な場所に身を置いていながら、さも安全ではないかのように思っている、それに苛立つのだ。

 まず目を引いたのはその島の大らかさで、これは”離島”という、狭く閉じたコミュニティに特有のものか、それともモデルとなったと思われる長崎・崎戸町に特有のものか。もしかしたら、世間というのは実はどこでもこれくらい鷹揚なもので、僕が異常に神経質なだけなのか。この小説のポイントがここにないのは明らかなのだけど、月江を巡る男性の諍いと、セイに何も「起こらない」ことの対比に、島の人々の鷹揚さがグラデーションをつけているように思える。

 セイは、あまり内面を出そうとしない頑なな男・石和���イサワ���に引っかかりを持って、小学校で仕事を共にしたりするうちに惹かれいく。しかしながら、いつも寸でのところで決定的な一歩を踏み出さずに済む。物語の終盤、夫である陽介を置いて、石和と丘の上の病院の残骸を目指すのは、限りなく決定的に近いが、結局何も起こらない。戻ってきたセイを、陽介はそのまま受け止める。陽介は、自分の”妻”という人であっても、窺い知れない内面があることを認めていて、それをもまるごと引き受けているのだろうか。それとも単に鈍感なだけなのだろうか。そして、外面的には結局何も起こらなかったからと言って、それで「何も起こらなかった」と片付けられるものなのだろうか。単にサイコロがそちらに転がったというだけで、自分の意思でない以上、起きたのと同じことではないのだろうか���

 物語は、そういうことを考えさせたいという表情は全く見せない。ただただ、セイを取り巻く三月から翌四月の出来事と心情をつぶさに描いてみせるだけだ。だからこそ逆に気になる。病院の残骸のある丘からトンネルを見ながらセイが持ち出した話、「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」という言葉が気になって仕方がない。セイの母は、切羽まで歩いて宝物となるような十字架を見つけてセイの父に送った。我々も、自分の人生は掘り続けているしかなく、掘り続けている間はいつも切羽に立て、宝物を見つけられるのではないか、と。そう考えても矛盾する、セイや月江の日々がフラッシュバックする。それこそがまた、人生なのか、と。 

���������「島の人間は、自分が島の人間であることへの誇りとともにある屈託みたいなものを抱えていて、それをちょうど裏返しにした気分」
���������「そうして、その日帰るときまでに帽子に触れることはなかったが、帽子がそこにあることは、ずっと心の中にあった。」
���������「うちへいらっしゃいますか」
���������「じゃあ、僕もどこかへ行こうかな」
������������「あたしはそれが頭に来るのよ。あんたは奥さんを捨てられないって言う、それはいいわ。でもせめて、彼女に引き止めさせるくらいいいじゃないの」
������������「石和先生は、どこかに行きたいんですか」「行きたいですね」
������������「どんなにかいいものなんでしょうね。だって、あなたも、あの東京から飛んできたバカ女も、妻でいることがすごく大事そうだもの。しがみついているもの。あたしはかねがねあなたのそういうところがきらいだったんだけど、考えを変えて、自分で試してみることにしたのよー石和と」
������������「ご亭主をほかしたらいけんよ」


『GOOD ROCKS! Vol.08』

GOOD ROCKS!(グッド・ロックス) Vol.8 (シンコー・ミュージックMOOK)
シンコーミュージック・エンタテイメント  2009-03-13

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しかし絵になる男だ、吉井和哉。40歳だぜ、40歳。



5th Album『VOLT』発売とツアーを控えて、プロモーション全開のおかげで、吉井和哉特集の本がどんどん出てくる。インタビューも、だいたい似たようなこと言うだろうな���と思うのに買ってしまうのはこの人の愛嬌のせい。それに絵姿がやっぱカッコいい���『Talking Rock!』も部屋に飾ってるし、この『GOOD ROCKS!』も部屋に飾ること間違いなし。表紙がカッコいいんだよ。読みやすいように、表紙をきっちり折り返すなんて、できません。



インタビューは、後半でかなり吉井和哉の関西滞在状況が引き出されてて釘付け。堀江って������行きます行きます。琵琶湖ホール前後はもうあらゆるところでアンテナたてまくります���笑���。でも、吉井和哉って、ここまで具体的に書いても、ファンが群がって危険でしょうがなくなるってカンジがあまりしない。もちろんイエモンのときのような状況ではないけれど、今でも吉井ファンというのはかなりディープなもので、だから吉井和哉が特集された雑誌は結構売れる訳だし、だけど、琵琶湖に吉井和哉がいるかも、となっても、大混乱になったりはしない。ファンが大人だとか言いたい訳じゃなくて、このインタビューで吉井が語ってる、「������代になった時にやっぱり今まで日本に無かったタイプの���������中年アーティスト���みたいなのになりたいな思っていて。」という、それが実現できる状況になってるなあと。吉井は、ソロになってから、いろいろ紆余曲折を作り乗り越え七転八倒してここに辿り着いた、ということに思いを巡らせられるインタビューでした。飄々としていてかつ真摯である、まさにロックスター。  



『GOOD ROCKS!』をamazonで検索してたら、同じシンコーミュージックムックで『ROCKS OFF』なんてのがあってそれも表紙が吉井和哉じゃないか���また買うものがひとつ増えた���笑���。



『雲の果てに 秘録富士通・IBM訴訟』���伊集院丈

雲の果てに―秘録 富士通・IBM訴訟
伊集院 丈
日本経済新聞出版社  2008-12

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 どんなことにも、どんなものにも、歴史があるのだと教えてくれる一冊。

 まず、IT業界にいながら、何もわかっていなかった自分が恥ずかしい。OSは自明のものだと思っていた。違うのだ。OSは最初から存在したものではない。ハードウェアと、ソフトウェアしかない時代があったのだ。互換機ビジネスとスーパーセット戦略はそういう歴史の中から生まれたもので、単純にメインフレームの後続だった訳ではないのだ。そんなことすら知らなかった。そして、その中で知的財産と著作権が最大の焦点になったのだということも知らなかった。知的財産と著作権は、自明のものだと思っていた。最初にそれを作った人間が、それを独占的に使用する権利を持つ。それはソフトウェアについても当然そうだろう、という「感覚」を持って育ってきた。そこには争点があり、歴史がある。そういう認識に欠けたまま、来てしまったのだ。

 IT業界だけではない。今でこそ米国は著作権を当然のように振りかざす存在だが、かつてはコピー天国と言われ欧州に軽蔑されていたのだ。その米国が、歴史の中で、自分たちの権益を守るための方便として、著作権に目をつけ、それを振りかざすようになっていく。そんな、欧州から「幼稚だ」と言われる米国を日本は追い続け、その米国に屈し、果てに「この国は駄目になる」と言われる。そんな米国流の資本の論理が席巻した数年前、買収される側の日本企業の抵抗を、精神論でしかないと切ってすてるような論法が持てはやされたが、果たして米国でも������������年時点では、アムダールという会社は富士通に対して、金と技術の提供は受けるが経営に口出しされたくない、という署名活動を起こしているのだ。おまけに、僕は「日本は器用で技術力の高い国で、日本製品は高品質だ」と子供の頃から思い込んで生きてきたが、������������年代でも日本人は「そもそも日本人が先端技術に手を出すことが間違いだ。日本人にコンピュータを開発する能力なんてないんだ」などと言われるような存在だったのだ。

 すべて目から鱗だった。簡潔に纏めてしまえば、声のでかいものが勝つ、ということと、先を走ったものが勝つ、という、単純な結論しか出てこない。けれど、本書の終わりのも書かれている通り、米国流の金融資本主義は瓦解し、繰り返す歴史と新しい歴史が混沌としている時代に来ている。まさに多く歴史を学ばなければいけない時代であり、全てにおいて自分の目で先を見通し生きていかなければならない。この本に教えられるところは多い。

���������「見栄とか、プライドだろう。そういう奴が俺は一番嫌いなんだ。知っていて喋らないということは辛いんだ���知らないほうがはるかに楽なんだ���」
���������「Fear Uncertainty & Doubt」
���������「アムダール博士が���������金と技術の支援は受けても、経営には干渉されたくない。」
���������「持ち株比率が下がっても売上げさえ増えればいいという意見が多数を占めていた。」
���������「梶を使える上司がいない。逆に梶が上司に合わせればよいのだが、それをやらない。やらないというよりやれないのだ。尻尾が振れない。正確に言えば尻尾がないのだ。」
���������「私は弁護士の複眼的観察力に驚いて」
���������「SNAのように行き詰まり」
���������「米国の政治スキームは非常に未成熟なんです。市民革命の試練を経ていない」
���������「米国の政治家がいう「自由とか価値観」は、欧州から見れば幼稚なものだ。政治を動かしている原動力は、人為的な愛国心と実質的なビジネスである。」
���������「この劣等意識が後年、数字管理中心の経営体質を生む遠因となる。」
���������「企業は安定成長すると必ず不健全な増殖をする。まず「人のためにポストを作り、組織を作る」、その次は「組織のために仕事を作る」、その結果、企業の崩壊が始まる。」
������������「19世紀、米国はコピー天国と言われ、欧州から軽蔑の目で見られていた。」
������������「著作権法の欠陥は、無方式主義、長期間の独占権、無表示の三点」
������������「全ての弊害は������������年のベルヌ条約にある」
������������「その後、������������年に万国著作権条約が結ばれる」
������������「CONTU報告書」
������������「その年���������������年���の十月のプラザ合意で、日本は米国に膝を屈した。円高誘導と低金利という妙な組み合わせ」
������������「そもそも日本人が先端技術に手を出すことが間違いだ。日本人にコンピュータを開発する能力なんてないんだ」
������������「「広告は世相を反映するものだ」・・・「この国は駄目になる」������������年の正月のことである。」
������������「SPLの使用を中止させます」
������������「IBMから離れられない顧客の不安を見る思いがした」
������������「前川レポート」「第二次中曽根内閣の産物」
������������「マイクロソフトのOSを基本版として、独自の拡張版を作り出したのだ。富士通がIBMに挑んだスーパーセット作戦と同じだ。この強引な投げ技は、結果的にパソコンのマーケットには通じなかった。」
������������「全て自由で自己責任が原則だと思っています」
������������「ビジネスプランが尊重された。・・・ROIが企業経営の軸になった」
������������「伊集院さん、IBM扮装は終わった。富士通はもう貴方を必要としていない」


『四畳半神話大系』���森見登美彦

四畳半神話大系 (角川文庫)
森見 登美彦
角川書店  2008-03-25

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 殻を破れない引っ込み思案系の大学���回生の「私」が展開する、���つの並行世界での学生青春ストーリー。

 『夜は短し歩けよ乙女』が面白かったので、森見登美彦を読んでみようということで、まず文庫になっていたコレを買ってみた。初版は2004年で『夜は短し���������』の2年前で、なんだか納得してしまった。『夜は短し…』のほうが、こなれてる。『四畳半神話体系』は、「私」の大学���回生が、「あのときこうしていたら���������」形式で���話語られる物語で、���話目の印象を持って���話目、���話目、と読み進めていくと、「結局コレは出てくるのか���」「これはこっちの世界ではこうでてくるか���」という面白さはあるんだけど、「並行世界」という印象を強く残すためなのか、全く同じ文章が出てくる箇所があり、そこが、ちょっとスピード感を欠くときがある。森見作品独特の、時代錯誤近代文学的言い回し台詞回しも、同じフレーズが反復して出てくるので、小気味よさがちょっと足りなくて、読み進めるスピードがちょっともたつくのが残念。

 それでも『夜は短し…』とちょっと違うのは、最終話『八十日間四畳半一周』が、���話の中で最も荒唐無稽で有得ないシチュエーションなのに、少し胸震わせるものがあるのだ。この登場人物この話で胸震わされるのも情けないといえば情けないのだけど、日常少し忘れているような感覚をくっきり浮かび上がらせるのに、こういう荒唐無稽な仕掛けってやっぱり有効なんだなあと再認識した。

���������「自分に言い聞かせながらも、私は挫けかけていた。」
������������「向上心を持つのは悪くないことだが、目指す方向をあやまると大変なことになる。」
������������「ドッと体の力が抜けるように思われたが、師匠が涙を拭いながら感激しているので、こちらも二万哩にも及ぶ壮大な旅が終わったことに感激しかけた。」
������������「柔軟な社交性を身につけようにも、そもそも会話の輪に入れない。」
������������「ここまで閉鎖的な愛の迷路に迷いこんだら、帰り道が分からなくなるのは必定である。」
������������「もしここに小津がいれば、完膚なきまでに馬鹿にしてくれたことであろう。」


『ノーと私』���デルフィーヌ・ドゥ・ヴィガン

ノーと私
Delphine De Vigan 加藤 かおり
日本放送出版協会  2008-11

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 発表テーマに路上生活者を選んだ、飛び級で高校に通う13歳の「私」、ルーは同じ年くらいに見える路上生活者、ノーに声をかけた。

 まず僕は恥ずかしいことにフランスでホームレス問題がこんなに一般的なことだということを知らなかった。ヨーロッパの高失業率や若者の求職デモのニュースを見たことはあるものの、そしてホームレスの定義が野宿生活者だけではないという違いもあるものの、若い女性のホームレスがどうも珍しいことではない、という雰囲気が物語から読み取れ、驚くばかりだった。ホームレスの問題自体は、日本と類似しているところも多く、例えば「住所がなければ仕事もない」。戸籍制度の独自性などで、定住を社会的信用のひとつと見なすのは日本の特徴と勘違いしていたが、住所がなければ仕事もないのは欧州も同じのようだ。最近、BIG ISSUEを定期的に購入したりして、ホームレスという問題を知ってみようと努力していたところだけに���どちらかというと僕は少し前まで、ホームレスを努力不足の問題としか見れていなかった���、とてもいいタイミングでこの本に出会えた。

 でもこの本は、社会派小説などではない。ルーの「冒険譚」と言っていい、と思う。現代のハックルベリー・フィン。ルーは、ノーを家に連れて帰りたいと思い、両親を説得する。これが、フランスでなら有得ることなのかどうかは分からないけれど、日本ではおよそ考えられない。およそ考えられないところが、日本の問題の根深さでもある気がする。ルーは、自分の信念に従って行動する。夢を追い求める。そして、夢が現実に負けてしまう悲しみも経験する。フランスにおけるホームレス問題、という地域性とテーマを軸にしながら、少女が冒険の末に成長していく物語は、日本の物語でもおなじみの形式だ。

 ただ、物語の最後が大きく違う。一緒に家を出よう、一緒に船でアイルランドに行こう、と駅まで一緒に来たのに、ノーはルーを置き去りにする。その、���予感はしていた���悲しい別れのあと、独り家まで歩いて帰るルーは、俯かずこう思う。「私は成長していた。怖くはなかった」。そして、頑固で守旧的な教師の典型のように見えていたマラン先生は、ルーにこういうのだ。

 「あきらめるんじゃないぞ」

 最近の日本の物語は、何もかも「あるがまま」「自然がいい」と言わんばかりに、悲しい運命をただ情緒的に受け止めるばかりに流れていやしないだろうか���叙情は確かに素晴らしい日本の感性だけど、現実はもはやそれだけでは未来の情緒を失うところまで来てしまっている。「あるがまま」が「なすすべなく」とイコールになったとき、その先にあるのは退廃だろう。成長がなければ意味がないとは言わない。けれど、困難に流されるだけでなく乗り越えようとすることには意味があり、人間性の最も大事な何かであることは間違いないと思う。


 

 


���������「いざ口にする段になると、言葉は混乱し、あちこちに散らばってしまう。だから私は、人前で語ったり、スピーチしたりすることを避けてきた」
���������「「���������とか」や、「���������なんか」のような言葉は、面倒だから、時間がないから、あるいは言いあらわせられないから、といった理由であえて口には出さない、さまざまなことがらを示すためにあるということを、」
���������「インターネットで情報を補い、」
���������「人間は、・・・そして、路上で人を死なせることもできる。」
������������「そして百三十七億後年が可視宇宙の半径だ。」
������������「ノーは仕事を探した。・・・住所がなければ仕事もない。」
������������「正・反・合」
������������「私はそれを、ぜったいに克服できない重大な病気、大きな障害のように受け止めた。」
������������「自分が信頼されているかどうか絶えず気にする人こそ、あなたを裏切る最初の人になるでしょう。」
������������「職場で二十五人の部下を率いているのもうなずける」
������������「つねに現実が勝利して、夢は知らないうちに消えていく。」
������������「ノーはもう、モモの世界の人じゃない。私たちの世界の人でもない。」
������������「なにも言えなかった。先生には、ちゃんとわかったのだ。私の不器用さとか、私が世の中の流れに逆らおうとしていることとかが。」
������������「レアとアクセルを前にしたリュカの、自信満々のリラックスした態度がいやになる。」
������������「不満を目に見える形であらわすためだけだ。ずるずる長引く前に、きっぱりやめなければならない」
������������「この先ずっと、ノーと外で暮らすんだ、と。」
������������「あきらめるんじゃないぞ」


『世界は単純なものに違いない』���有吉玉青

世界は単純なものに違いない
有吉 玉青
平凡社  2006-11-11

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新聞・雑誌に掲載されたエッセイを集めた一冊。  

書かれている内容は、ほとんどが「うんうん、そうだそうだ」と納得できる内容で、もっと言うと、今まで自分が世間の矛盾とかおかしいと思うこととかに対して自分なりに筋道たてて理解しようとした結果が、そこに書かれている感じ。再確認・再認識できる。こう書くとすごく傲慢になっちゃうけど、そうではなくて、何か自分の考えを言ってみると取り合えずの同調よりもすぐ反論を食らう僕としては、頭の中に立ち上った感覚や考えを、納得させることのできる言葉に落とせる力は凄いことだと思うのだ。そして、文章を書くということは、突飛なことを思いつく能力よりも、正しく言葉に落とし込む力があれば道が開けるのだということも。

もっとも印象に残るのは、表題にもなっている『世界は単純なものに違いない』。このエッセイは、『浮き雲』という映画にまつわる話なんだけど、著者は、いいことがおきても悪いことがおきても無表情に見える主人公から、世界はいいことか悪いことしか起こらない単純なおのだから、絶望する必要はない、という結論を得る。けれど、この映画の舞台はフィンランドで、フィンランド人は喜怒哀楽をあまり表に出さないということを知っている僕は、ちょっとその結論に疑問を持った。そしたら、���追記���という記載があり、「この映画のラストシーンの二人の表情は、希望にみちあふれていると見るのが正しいのだそうだ」と書かれていた。でも、著者は「映画の見方に正しいも正しくないもない」と続ける。まったくその通りだと思う。予備知識が多いことで、より深かったり正しかったりする読取ができるかも知れないが、決してそれがすべてではない。

���������「子供の頃は、体育ができないというのは、屈辱以外の何ものでもないのだ」
���������「問題には解決のつかないものがあるということを知らず、」
���������「かくして問題は自己の内側に求められることになる。モラトリアムと言われる世代が誕生した」
���������「わけもなく、あんなに何かに一生懸命になれたのは、あの頃までだったと今になって思う」
���������「人は、なぜか別れてしまう」
���������「パイロットの妻」
���������「浮き雲」
������������「どうも最近、リバイバルやアーカイヴが多いような気がするけれど、それは必ずしも昔はよかったという懐古趣味なのではなく、たくわえられたものの表出でもあるだろう」
������������「そして、これが「不惑」ということなのでしょうか」
������������「また、自分のことと親のこと、どちらが大切なのかというのは問いの立て方が間違っている」
������������「娘としては、母には友達のおかあさんのように家にいて料理や選択をし、体操着の袋に可愛い刺繍をしてほしかったのだ」
������������「ハイダの人は、こうであるに違いない。あるいは、こうあってほしいと彼らの日常に自分にとっての非日常なものを求めていたから、私はウォッチマン・キャビンの内部があまりにもモダンであることに、少なからず落胆したのだ」


『環境ビジネス』2009年2月1日

環境ビジネス 2009年 02月号 [雑誌]
日本ビジネス出版  2008-12-26

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p.43 CO2排出量��� 電力1kWhにつき0.555kg-CO2
p.43 シンクライアントシステムの効果を検証する

p.35 スクリーンセーバー起動5分設定���������89W
p.35 モニタ電源切る10分設定・・・56W
p.35 システムスタンバイ20分設定・・・37W

p.33 2006年 総発電量9400億kWh / IT 470億kWh (5%)
p33 2025年 総発電量1兆2000億kWh / IT 2400億kWh (20%)

『AERA』2009年2月16日

p27「同じ客が何度も来店する。価格交渉に費やされる時間が増えた。かといって、値下げをしても効果が薄いー。来店者数は増えているのに、売り上げは伸びなくなっているのだ。」

全く同じことが起きている。肌で感じていて、意識するに至った事柄が、週刊誌の記事となっていた。
不況下では、お客様は当然、購買を吟味する。吟味するためには、検討の回数を増やす、検討案の数を増やす、等のアクションが取られる。売上ノルマの設定は、多数顧客がアサインされていることによって高額になっている場合、顧客単価は小額なため、いかに多数の顧客に広くリーチするかが戦略だったが、現在の環境では広くリーチすればするほど一件当たり時間が伸び、おのずと成約率が下がり、達成率も下がる。だからといって、お客様と接する時間を削減すれば、当然勝率は下がる。お客様は、自身の購買により時間をかけたがっているからだ。
そこから導く結論は、①営業する顧客を、見込み案件の見込み売上の高い順に絞り込む②コンタクト時間ではなく、提案案数を重視するお客様を優先する③営業する顧客の見極めを、提案活動を行わない人間が行う の3つ。特に②は、コンタクト時間は増やすことができないが、提案数は工夫次第で同じ時間でも増やすことができる。