『光』���三浦しをん


三浦 しをん
集英社  2008-11-26

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 津波で全滅した美浜島で生き残った信之・実花・輔の三人の少年少女。その天災の最中の秘密が、二十年後再会した彼らを動かしていく。

 家庭を持つ信之が、家を捨てる覚悟で行動を起こした後の展開の消化不良がいちばん印象に残る。津波という避けようのない災難、父親の暴力という逃れようのない災難、そういったものを纏いながら生きてきた信之と輔が行き着いた後の描写としては物足りない。二週間も家を空けて、捜索願も出して、周囲にも気づかれて、そこまでの騒ぎの後、信之の妻の南海子が帰ってきた信之を受け入れた過程は、この本のテーマとは違うから簡略でよいのかもしれないけれど物足りない。夫の不在時の南海子の動揺は詳細に描かれているのに、不在が解消された後の心の動きが省略されているのは妙だと思う。

 この本の大きなテーマは「理不尽」だと思う。人生にはたくさんの理不尽な出来事があって、それをどう解釈すれば生きていけるのか、というテーマだと思う。津波で島と愛する実花を失った信之が、「究極的には、自分を空腹に追いやったものを探して殺して食って飢えを満たすか、空腹を受け入れて死を待つか、どちらかしかないはずだ。」と語り、行き着くところまで言ってしまう。人は誰でも、極論すればこの信之の言葉の通りだけれどこういうふうに極論してはいけない、ということだけはわかっている。なぜこういうふうに極論してはいけないのか、こういうふうに極論せずに、どういうふうな考えを持つべきなのか、そこを考えるのが重要なのだろうが、『光』ではそこには余り触れられない。行き着くところまでいった信之が、その行き着くところまでいこうと思った「理由」に、うっすらわかってはいたけれど裏切られ、根底を否定されて、家に帰る。そこで何をどう考えたかは触れられない。だから、最初に書いたように、物足りなく感じるのだと思う。

 それと、嫌になるくらいいろんなところで登場して、嫌になるくらいその度書き留めるんだけど、南海子の「夫は本当に、私がなにを求めているのかわからなかったんだ。愛し、頼りにする相手と、ただ話しあいたい。」という台詞に代表されるような女性の感情。こういう感情を女性が持つもんだというのは否定しないけれど、男性は男性で、「だからどうするのか���」という具体性を大事にする生き物だ。「共感」の重要性だけを押し付けるような人は、違う立場の考えを慮れないという意味で、人間的に成長はないと思う。

���������「だけど知らんぷりをする以外に、どんな方法があるだろう。」
���������「何度も言ってるんですけど、なかなか難しいらしくて」
���������「言葉の通じないものが現れると、不安と憤りで息が詰まった。」
������������「会社にいても出世できるわけではない。」
������������「夫は本当に、私がなにを求めているのかわからなかったんだ。愛し、頼りにする相手と、ただ話しあいたい。」
������������「九段下 グランドパレス ������������号室」
������������「複雑で奥深くなかなか正体を現さない心と体を持つ女を抱くのがこわかった。」
������������「おまえの浮気相手だとよ。」
������������「殺して生きる。だれもがやっていることだ。」
������������「究極的には、自分を空腹に追いやったものを探して殺して食って飢えを満たすか、空腹を受け入れて死を待つか、どちらかしかないはずだ。」
������������「かわいげのない子。大人の顔色を卑屈にうかがってばかりいる。」


WEDGE 2009年4月号

官僚たたきはもうやめよう 公務員改革が国を滅ぼす

「官僚」と「公務員」を同列の言葉として使うのがどうも感覚的にあわないんだけど、なんにせよここで言われているのは「政治家を変えるほうが先だ」という話。確かにそうかも知れないが、公務員自身が自己改革できない組織だし、無駄を自ら削減することのできない組織というのは事実なので、政治家のせいにすればいいというほうがよほどおかしい。

『別れのあと』���小手鞠るい

別れのあと
小手鞠 るい
新潮社  2009-01

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 「別れ」がテーマとなった短編集。長編だと思って買ったら、『別れのあと』『静かな湖畔の森の影』『婚約指輪』『この河の向こう岸』『はなむけの言葉』の5編の短編集だった。

 『別れのあと』の浜田修司の男っぽい嫉妬深さというのもよく理解できるけれど、この本で最も体に���頭というよりも体に���取り込まれていったのは『婚約指輪』と『この河の向こう岸』だった。『静かな湖畔の森の影』にもその要素はあるのだけれど、途中から方向が微妙に変わってるので、それほど印象に残ってない。それに対して『婚約指輪』と『この河の向こう岸』は、はっきりと印象に残る。誰かに遠慮してはいけないしする必要もないのだということ、わかってもらえないのは自分が悪い訳ではないのだということ、そして何よりも、僕は先を急いだほうがいいのだということを、不意に悟らされるような内容だった。そういう方法があるのだ、と。別れのあとには何も残らないのか���何も残らないのが別れということなのか���そういうことを結論に性急にならず前に進んでいかないといけない。

 小手鞠るいの作品は、登場人物が外国を行き来する話が比較的多い。この短編集もそうだが、これもまた僕に先を急がせる奇妙なセレンディピティだったように思う。わかってもらえなければ、それでいいのだ。

���������「あの頃、私たちの太陽は、いったいどのあたりに在ったのだろう」
���������「アメリカはわたしを解放してくれた。自由にしてくれた。」
������������「わたしはもう二度と、あなたを失うことがない、ということ。」
������������「俺らも同じものを頼むのが礼儀というものやないか。」
������������「そこから先には、不可能な行為というのは、ない。」


『ROCKIN'ON JAPAN 2009年 04月号』

ROCKIN'ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2009年 04月号 [雑誌]
ロッキング・オン  2009-03-19

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 吉井和哉の『VOLT』全曲解説と細美武士ソロ第一声が読みたくて買ったんだけど、フィッシュマンズの『空中キャンプ』のレビューが素晴らしすぎた。あまりに素晴らしいので、ほんとに申し訳ないと思うしまずいことだとも思うんですが、全文引用したい。

●伝説ではなく事実のバンド
 佐藤伸治が亡くなって以降のフィッシュマンズの世の中での扱われ方になんとなくずっと違和感がある。どうもそこには、積極的にフィッシュマンズという伝説の灯を絶やさないようにする、フィッシュマンズ愛好家たちの連帯感のようなものが存在しているような気がしてならない。でもかつて僕が彼らの音楽から受け取っていたメッセージは、どうしてもそういうムードと馴染まないのである。
 僕の中で、フィッシュマンズは最も世の中の理屈を誰よりも毅然と、しかも非戦闘的に拒否したバンド。正確には、96年のアルバム『空中キャンプ』において、時計やカレンダーに区切られた時の流れから完全に「離脱」してそうなった。その前のアルバム『ORANGE』に満ちていた日差しをにらみ返すような刺々しさが消え、「君」の体温だけが感じられる永遠の夜を選び取ったのが『空中キャンプ』以降の彼らだった。今のフィッシュマンズの扱われ方に欠けていると思うのは、その「拒否」の姿勢。この音の中は優しくて暖かい。しかし、そこは集う場所ではなく、この世から消えるまで「君」とだけいる場所なのである。

 このレビューは心底感動した。僕は、そんなにフィッシュマンズに入れ込んだクチではない。どちらかというと遠ざけていたところがある。なぜ遠ざけていたかというと、このレビューで見事に言葉にされている、「拒否」の姿勢にある。僕は、自分の思っている感情を、その感情に一般的に似つかわしい表し方でしか表せない、そうしないと気持ち悪くなるタイプの人間だ。だから、フィッシュマンズのような「拒否」の仕方は、やりたくてもできないし、「ずるい」とさえ感じてしまう。けれど、そのやり方を「否定」しようと思ったことは一度もない。その点で、僕もフィッシュマンズのやり方と共通のものを抱いているに違いないと思う。
 そして、このレビューが、フィッシュマンズを正しく言い表しているかどうかはわからない。けれど、「集う卯場所ではなく、この世から消えるまで「君」とだけいる場所なのである」というこの「君」の概念。この「君」の概念が語られた文章を久し振りに目にして、目頭が熱くなったのだ。  

『CHICAライフ』���島本理生

CHICAライフ
島本 理生
講談社  2008-06-27

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 島本理生が2003-2006年の間、『ViVi』に連載したエッセイを集約し加筆・訂正されたもの。

 この本については、失礼を承知で本音を書きたくてしょうがないので、書いてみる。島本理生は『ナラタージュ』でハマッて以来大好きな作家で、 結構読んでる。作家のエッセイにはあんまり興味のないほうというか、手を出さないようにしてたほうなんだけど、島本理生はエッセイも読んでみたいと思ったくらい、好きな作家なのです。それを前提で書くと、僕の中では島本理生って、若くして『ナラタージュ』のような、重層的な恋愛小説を書ける力量を持った凄い作家と認識してて、そういう作家というのは、天才というか、とんでもない文学的才能を持ち合わせて生まれてきて、とんでもなくアタマも良くて、高学歴で仕方がないんだろうなあというイメージがあった。僕は自分のことそんなにめちゃめちゃアタマが悪いとまでは思わないんだけど記憶力は悪いし論理的思考にも欠けるので���ってことはやっぱり悪いのか…���、なんだかんだ言ってやっぱりレベルの高い大学にいってる人の能力というのは高くて叶わないもんだ、と思ってる。そして、島本理生もそうだと信じて疑ってなかった。そんななかでも文学を志す人というのは、とても高尚に色気も纏まっていて早熟な恋愛に身を染めているか、文学オタクではないけれど、あんまり実恋愛と縁のない生活なのかどちらか、と思ってた。

 ところが、だ。『CHICAライフ』を読んで、ひっくり返った。ムチャクチャなのだ。母親が名を成している舞踏家・鍼灸師ということで、一般庶民と違う親交や情報の入り方の素地というのが子ども時代からあったと思われるけれど、それでも僕の中の「文学を志す人」の特殊なイメージとはかけ離れた一般人加減。高校時代の思い出の記述は、30代後半の僕の目線で、自分の高校生時代のことを思い出しながら読めば、君はヤンキーか���と思わずにはおれないむちゃくちゃ加減だし、なんとすれば一体どれだけのサイクルでつきあってるんだ���と疑問に思うくらいつきあってるし、すぐ同棲してるし、もう少し遡って中学生の頃は活字耳年間だったなんていってるし、おまけに大学に関して言えば、もちろんレベルの高い大学ではあるけれどもどちらかというと一般的な範疇に入る大学で、その上中退してる���更に言うと、もう結婚もしてた���

 とにかく、今まで、物事を決めつけで見てはいけない、と常々心がけながら生きてきたつもりだけど、こういう角度の「偏見」というのも存在するものなんだ、と気づかせてくれた一冊に違いない。島本理生は文学エリートではなくて、現代の無頼派だった。どんなやり方であれ、経験値はやっぱり多いに越したことはないのだ。その教訓を生かそうとしても、僕の年ではもう、あまりに無茶なことをやってはただの非常識になってしまうので、無茶なことのやり方も考えなくてはいけないけれど、なるだけやってみようと思う。

���������「突然ふられて現実を受け止められないときって本当にこんな感じだなあ���������としんみりしてしまう」
���������「オルセー美術館はルノワールやゴッホなど、日本人にはなじみの深い画家の絵が多くてオススメである」
���������「もう地球がまわってるのに、なんで私まで回転しなくちゃならないのよ」
���������「その後も仕事を優先したために、四年で卒業できる見込みがなくなったので、大学は中退した」
���������「それを考えると、まだ自分で選ぶよりは占いに選んでもらったほうが」
������������「その後、頂いた一本が、モエ・エ・シャンドンだった」
������������「仕事以外で赤の他人とコミュニケーションを取ることを極端に嫌う」
������������「相手の気持ちが知りたいけど怖いから、などと言い続ける彼女に私が業を煮やして」
������������「電池一本でも惜しい」
������������「ややこしい自意識が発動してしまう」


『切羽へ』���井上荒野

切羽へ
井上 荒野
新潮社  2008-05

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 離島の小学校の養護教諭をしているセイと、夫で島の幼なじみである陽介。セイの勤める小学校に、東京からイサワという不愛想な男が赴任してくるー。

 セイと、同僚の月江は完全に対称で、結婚して地に足をつけているセイに対し、月江はいかにもコケティッシュであり”本土”に住むから皆に”本土さん”と呼び習わされている男性の愛人である。”本土さん”は自営業で、月江に会うために月に一週間ほど渡ってくる。月江はそれを隠そうとせず、だから島の人間みな知っており大らかなものだ。
 それにしても苛立つのは女の心の揺れ様で、既婚ながら石和に興味を持つセイにしても、既婚者と関係を続ける月江にしても同じことで、その恋愛感情自体は有り得べきものだと思うし苛立ちもしないが、自分が完全に安全な場所に身を置いた上で揺れるのがたまらなく腹立たしい。安全な場所に身を置いていながら、さも安全ではないかのように思っている、それに苛立つのだ。

 まず目を引いたのはその島の大らかさで、これは”離島”という、狭く閉じたコミュニティに特有のものか、それともモデルとなったと思われる長崎・崎戸町に特有のものか。もしかしたら、世間というのは実はどこでもこれくらい鷹揚なもので、僕が異常に神経質なだけなのか。この小説のポイントがここにないのは明らかなのだけど、月江を巡る男性の諍いと、セイに何も「起こらない」ことの対比に、島の人々の鷹揚さがグラデーションをつけているように思える。

 セイは、あまり内面を出そうとしない頑なな男・石和���イサワ���に引っかかりを持って、小学校で仕事を共にしたりするうちに惹かれいく。しかしながら、いつも寸でのところで決定的な一歩を踏み出さずに済む。物語の終盤、夫である陽介を置いて、石和と丘の上の病院の残骸を目指すのは、限りなく決定的に近いが、結局何も起こらない。戻ってきたセイを、陽介はそのまま受け止める。陽介は、自分の”妻”という人であっても、窺い知れない内面があることを認めていて、それをもまるごと引き受けているのだろうか。それとも単に鈍感なだけなのだろうか。そして、外面的には結局何も起こらなかったからと言って、それで「何も起こらなかった」と片付けられるものなのだろうか。単にサイコロがそちらに転がったというだけで、自分の意思でない以上、起きたのと同じことではないのだろうか���

 物語は、そういうことを考えさせたいという表情は全く見せない。ただただ、セイを取り巻く三月から翌四月の出来事と心情をつぶさに描いてみせるだけだ。だからこそ逆に気になる。病院の残骸のある丘からトンネルを見ながらセイが持ち出した話、「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」という言葉が気になって仕方がない。セイの母は、切羽まで歩いて宝物となるような十字架を見つけてセイの父に送った。我々も、自分の人生は掘り続けているしかなく、掘り続けている間はいつも切羽に立て、宝物を見つけられるのではないか、と。そう考えても矛盾する、セイや月江の日々がフラッシュバックする。それこそがまた、人生なのか、と。 

���������「島の人間は、自分が島の人間であることへの誇りとともにある屈託みたいなものを抱えていて、それをちょうど裏返しにした気分」
���������「そうして、その日帰るときまでに帽子に触れることはなかったが、帽子がそこにあることは、ずっと心の中にあった。」
���������「うちへいらっしゃいますか」
���������「じゃあ、僕もどこかへ行こうかな」
������������「あたしはそれが頭に来るのよ。あんたは奥さんを捨てられないって言う、それはいいわ。でもせめて、彼女に引き止めさせるくらいいいじゃないの」
������������「石和先生は、どこかに行きたいんですか」「行きたいですね」
������������「どんなにかいいものなんでしょうね。だって、あなたも、あの東京から飛んできたバカ女も、妻でいることがすごく大事そうだもの。しがみついているもの。あたしはかねがねあなたのそういうところがきらいだったんだけど、考えを変えて、自分で試してみることにしたのよー石和と」
������������「ご亭主をほかしたらいけんよ」


『GOOD ROCKS! Vol.08』

GOOD ROCKS!(グッド・ロックス) Vol.8 (シンコー・ミュージックMOOK)
シンコーミュージック・エンタテイメント  2009-03-13

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しかし絵になる男だ、吉井和哉。40歳だぜ、40歳。



5th Album『VOLT』発売とツアーを控えて、プロモーション全開のおかげで、吉井和哉特集の本がどんどん出てくる。インタビューも、だいたい似たようなこと言うだろうな���と思うのに買ってしまうのはこの人の愛嬌のせい。それに絵姿がやっぱカッコいい���『Talking Rock!』も部屋に飾ってるし、この『GOOD ROCKS!』も部屋に飾ること間違いなし。表紙がカッコいいんだよ。読みやすいように、表紙をきっちり折り返すなんて、できません。



インタビューは、後半でかなり吉井和哉の関西滞在状況が引き出されてて釘付け。堀江って������行きます行きます。琵琶湖ホール前後はもうあらゆるところでアンテナたてまくります���笑���。でも、吉井和哉って、ここまで具体的に書いても、ファンが群がって危険でしょうがなくなるってカンジがあまりしない。もちろんイエモンのときのような状況ではないけれど、今でも吉井ファンというのはかなりディープなもので、だから吉井和哉が特集された雑誌は結構売れる訳だし、だけど、琵琶湖に吉井和哉がいるかも、となっても、大混乱になったりはしない。ファンが大人だとか言いたい訳じゃなくて、このインタビューで吉井が語ってる、「������代になった時にやっぱり今まで日本に無かったタイプの���������中年アーティスト���みたいなのになりたいな思っていて。」という、それが実現できる状況になってるなあと。吉井は、ソロになってから、いろいろ紆余曲折を作り乗り越え七転八倒してここに辿り着いた、ということに思いを巡らせられるインタビューでした。飄々としていてかつ真摯である、まさにロックスター。  



『GOOD ROCKS!』をamazonで検索してたら、同じシンコーミュージックムックで『ROCKS OFF』なんてのがあってそれも表紙が吉井和哉じゃないか���また買うものがひとつ増えた���笑���。



『雲の果てに 秘録富士通・IBM訴訟』���伊集院丈

雲の果てに―秘録 富士通・IBM訴訟
伊集院 丈
日本経済新聞出版社  2008-12

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 どんなことにも、どんなものにも、歴史があるのだと教えてくれる一冊。

 まず、IT業界にいながら、何もわかっていなかった自分が恥ずかしい。OSは自明のものだと思っていた。違うのだ。OSは最初から存在したものではない。ハードウェアと、ソフトウェアしかない時代があったのだ。互換機ビジネスとスーパーセット戦略はそういう歴史の中から生まれたもので、単純にメインフレームの後続だった訳ではないのだ。そんなことすら知らなかった。そして、その中で知的財産と著作権が最大の焦点になったのだということも知らなかった。知的財産と著作権は、自明のものだと思っていた。最初にそれを作った人間が、それを独占的に使用する権利を持つ。それはソフトウェアについても当然そうだろう、という「感覚」を持って育ってきた。そこには争点があり、歴史がある。そういう認識に欠けたまま、来てしまったのだ。

 IT業界だけではない。今でこそ米国は著作権を当然のように振りかざす存在だが、かつてはコピー天国と言われ欧州に軽蔑されていたのだ。その米国が、歴史の中で、自分たちの権益を守るための方便として、著作権に目をつけ、それを振りかざすようになっていく。そんな、欧州から「幼稚だ」と言われる米国を日本は追い続け、その米国に屈し、果てに「この国は駄目になる」と言われる。そんな米国流の資本の論理が席巻した数年前、買収される側の日本企業の抵抗を、精神論でしかないと切ってすてるような論法が持てはやされたが、果たして米国でも������������年時点では、アムダールという会社は富士通に対して、金と技術の提供は受けるが経営に口出しされたくない、という署名活動を起こしているのだ。おまけに、僕は「日本は器用で技術力の高い国で、日本製品は高品質だ」と子供の頃から思い込んで生きてきたが、������������年代でも日本人は「そもそも日本人が先端技術に手を出すことが間違いだ。日本人にコンピュータを開発する能力なんてないんだ」などと言われるような存在だったのだ。

 すべて目から鱗だった。簡潔に纏めてしまえば、声のでかいものが勝つ、ということと、先を走ったものが勝つ、という、単純な結論しか出てこない。けれど、本書の終わりのも書かれている通り、米国流の金融資本主義は瓦解し、繰り返す歴史と新しい歴史が混沌としている時代に来ている。まさに多く歴史を学ばなければいけない時代であり、全てにおいて自分の目で先を見通し生きていかなければならない。この本に教えられるところは多い。

���������「見栄とか、プライドだろう。そういう奴が俺は一番嫌いなんだ。知っていて喋らないということは辛いんだ���知らないほうがはるかに楽なんだ���」
���������「Fear Uncertainty & Doubt」
���������「アムダール博士が���������金と技術の支援は受けても、経営には干渉されたくない。」
���������「持ち株比率が下がっても売上げさえ増えればいいという意見が多数を占めていた。」
���������「梶を使える上司がいない。逆に梶が上司に合わせればよいのだが、それをやらない。やらないというよりやれないのだ。尻尾が振れない。正確に言えば尻尾がないのだ。」
���������「私は弁護士の複眼的観察力に驚いて」
���������「SNAのように行き詰まり」
���������「米国の政治スキームは非常に未成熟なんです。市民革命の試練を経ていない」
���������「米国の政治家がいう「自由とか価値観」は、欧州から見れば幼稚なものだ。政治を動かしている原動力は、人為的な愛国心と実質的なビジネスである。」
���������「この劣等意識が後年、数字管理中心の経営体質を生む遠因となる。」
���������「企業は安定成長すると必ず不健全な増殖をする。まず「人のためにポストを作り、組織を作る」、その次は「組織のために仕事を作る」、その結果、企業の崩壊が始まる。」
������������「19世紀、米国はコピー天国と言われ、欧州から軽蔑の目で見られていた。」
������������「著作権法の欠陥は、無方式主義、長期間の独占権、無表示の三点」
������������「全ての弊害は������������年のベルヌ条約にある」
������������「その後、������������年に万国著作権条約が結ばれる」
������������「CONTU報告書」
������������「その年���������������年���の十月のプラザ合意で、日本は米国に膝を屈した。円高誘導と低金利という妙な組み合わせ」
������������「そもそも日本人が先端技術に手を出すことが間違いだ。日本人にコンピュータを開発する能力なんてないんだ」
������������「「広告は世相を反映するものだ」・・・「この国は駄目になる」������������年の正月のことである。」
������������「SPLの使用を中止させます」
������������「IBMから離れられない顧客の不安を見る思いがした」
������������「前川レポート」「第二次中曽根内閣の産物」
������������「マイクロソフトのOSを基本版として、独自の拡張版を作り出したのだ。富士通がIBMに挑んだスーパーセット作戦と同じだ。この強引な投げ技は、結果的にパソコンのマーケットには通じなかった。」
������������「全て自由で自己責任が原則だと思っています」
������������「ビジネスプランが尊重された。・・・ROIが企業経営の軸になった」
������������「伊集院さん、IBM扮装は終わった。富士通はもう貴方を必要としていない」


『四畳半神話大系』���森見登美彦

四畳半神話大系 (角川文庫)
森見 登美彦
角川書店  2008-03-25

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 殻を破れない引っ込み思案系の大学���回生の「私」が展開する、���つの並行世界での学生青春ストーリー。

 『夜は短し歩けよ乙女』が面白かったので、森見登美彦を読んでみようということで、まず文庫になっていたコレを買ってみた。初版は2004年で『夜は短し���������』の2年前で、なんだか納得してしまった。『夜は短し…』のほうが、こなれてる。『四畳半神話体系』は、「私」の大学���回生が、「あのときこうしていたら���������」形式で���話語られる物語で、���話目の印象を持って���話目、���話目、と読み進めていくと、「結局コレは出てくるのか���」「これはこっちの世界ではこうでてくるか���」という面白さはあるんだけど、「並行世界」という印象を強く残すためなのか、全く同じ文章が出てくる箇所があり、そこが、ちょっとスピード感を欠くときがある。森見作品独特の、時代錯誤近代文学的言い回し台詞回しも、同じフレーズが反復して出てくるので、小気味よさがちょっと足りなくて、読み進めるスピードがちょっともたつくのが残念。

 それでも『夜は短し…』とちょっと違うのは、最終話『八十日間四畳半一周』が、���話の中で最も荒唐無稽で有得ないシチュエーションなのに、少し胸震わせるものがあるのだ。この登場人物この話で胸震わされるのも情けないといえば情けないのだけど、日常少し忘れているような感覚をくっきり浮かび上がらせるのに、こういう荒唐無稽な仕掛けってやっぱり有効なんだなあと再認識した。

���������「自分に言い聞かせながらも、私は挫けかけていた。」
������������「向上心を持つのは悪くないことだが、目指す方向をあやまると大変なことになる。」
������������「ドッと体の力が抜けるように思われたが、師匠が涙を拭いながら感激しているので、こちらも二万哩にも及ぶ壮大な旅が終わったことに感激しかけた。」
������������「柔軟な社交性を身につけようにも、そもそも会話の輪に入れない。」
������������「ここまで閉鎖的な愛の迷路に迷いこんだら、帰り道が分からなくなるのは必定である。」
������������「もしここに小津がいれば、完膚なきまでに馬鹿にしてくれたことであろう。」