独走会 2016/03/13 - 未走

この年齢のこの境遇において、独りで遊ぶということの隠された困難さを思い知る。

1か月ほど前から、家族と相談してこの日長距離走する予定にしていてずっと心待ちにしていて、それに合わせてCondorのウォーターボトルとストレージボトル、そしてPOCのDo Flow Allround Trailを新調して気分を盛り上げたりしていたところ、先週身内の緊急事態緊急入院があり、いつもの日常ではない気の張った日々が続いて、一旦落ち着けたのが昨日の土曜日、いつもの日常と違うとは言え特段体調を崩すこともなく今日を迎えられたのに、そして何とか朝6:00に起きることもできたのに、どうにも気力が出ない。長距離走の計画を立てた日の朝、妙に気後れして走り出せないという経験はこれまでにもあるけれど、今日の気力の出なさは尋常ではなく、眠さも手伝ってうだうだと、結局13時を過ぎてしまう。その間、家族と何ということもなくテレビを観たりおやつを食べたり本を読んだり、そういうのが無性に幸せで、そして走る気力が沸かず、結局ご近所ライドすら諦めてしまう。

実際、自分で思っている程には体調は万全でなかったのだろうと思うところもあり、かつ、やはり気持ちの張り方は最大限のものでなおかつイレギュラーな出張があったりで神経を使わないといけないことも多く、気持ちの面で疲労が重なっていたのは否めない。どんなに十全に計画を立て準備をしたとしても、突発的な事態はあり得るし、突発的な事態はなくとも、自分独りなら中止しても誰にも迷惑が掛からないので、ちょっとした気の迷い面倒さで出立を辞めてしまう。世の人はこういうことを小さいときから心得ていて、グループを作ったり会を組織したりイベントに参加するという形でなるべく行動を中止しないような工夫をしてきたのだなあとこの年齢になって初めて感じ入り、かつ、それだからこそ独走というスタンスはなるべく大事にして、体力的にも気力的にも若かったときのアクティブさを突き動かすことができるようにいようと改めて思った。

独走会 - 2016/01/11 走り初め 春日大社

愉しみは本人にしか判らない。何が苦しいのかが他人には判らないのと同じように。

だから、言わなきゃ判らないという人に限って、言っても判らない。これは僕が村上春樹作品を読み始めた頃から一貫してその作品から受け続けている影響。ロードバイクで20km弱の道のりを1時間弱かけて走っていって、春日大社にお参りしてお札・お守りに加え破魔矢と熊手を頂いて、破魔矢と熊手は手で持ってお帰りくださいということなので帰りは高々20kmの距離を輪行で帰る、なんて、ロードバイクに乗る人から見ても神社仏閣参拝が好きな人から見ても何やってんだろうと見えることだろう。だけど僕にとっては、限られた時間でも愉しもうとしているのだ。人のポイントが判らない人ほど、ストレスを感じさせる人はいない。例え、その人のメンタリティが真直ぐで前向きでポジティブなものであったとしても。それはまやかしに過ぎない。

そして、そして仮にそれが「愉しみ」のように見えたとしても、本人の感じていて「愉しみ」という言葉で表したい「愉しみ」と、周りがそれを「愉しそう」と見えて「愉しみ」という言葉で表したくなる「愉しみ」とは必ずしもぴったり合致する訳ではない。特にこのことが「周り」側に立ったとき理解できない者は、けして言っても判らない。そこに深い絶望があり、その絶望と向き合うためには独りで走るしか道はない。

前に走ったのも春日大社で一か月半ぶり。御朱印は過去の参拝を振り返れるのも良いところ。御朱印を書いてくださる方と一言二言会話ができると不思議と嬉しい。

独走会 - 2015/12/27 伊賀上野 via 163号

年を取ると、昔見た景色の見え方をどうしても確かめたくなる時が来る。それが例え不吉な景色だとしても。

年の瀬慌ただしい最後の日曜、行先に選んだのは伊賀上野というよりも国道163号線。2年前の春の早朝、大河原駅を少し超えたところでトラックのサイドミラーに頭を撥ねられて以来、163号を走ったことがない。津に行ったり伊勢に行ったり蒲郡に行ったりしているけれど、163号を使ったことはあれから一度もない。もちろん、何度か走った道なので、方角が同じでも違う道を走ってみたいという気持ちがいちばん大きいけれど、ロードバイクに乗り始めの頃に走った道なので、辛かった記憶が濃くて敬遠勝ちになるのと、やっぱり事故の記憶からなんとはなしに及び腰になっていたというのは否めないと思う。

その臆病な己に克つというほど大げさな意気込みからじゃなくて、なぜかこの日走れると分かった時から、163号で三重に出たいという衝動が強かった。あの、大河原から島ケ原にかけての波状攻撃の登り。その先に開ける、学生時代を過ごした伊賀盆地。退屈極まりないコースと判っているけれど、ロードバイクを乗り出したあの頃の自分と何かが変わっているのかを確かめられるのか。

自分のイメージでは木津川を並走するあたりからが163号を走っているという感じなんだけど、生駒から伊賀上野だと木津川並走までに全行程の1/3が終わってる感じで、メインイベントは結構終盤ということになる。休憩ポイントの笠置キャンプ場前のコンビニまでは可もなく不可もなくで走って来れたけれど、その先がペースが伸びず、こんなんじゃあもう俺100km走ることなんて一生できないんじゃないかなあという思いが沸いてくる。休憩の笠置28km地点を出たのが走り始めから1時間30分後くらいだったので、この先に登りが3段待ち受けるのに、到着は何時頃になるだろうと重い気分になってくる。けれど、いつか自分に言い聞かせた「この先、万全で走れる日などもうやってこない。だから、走れていることに感謝しろ」という言葉をまた自分に言い聞かせて、走る。

最後の島ケ原の登り、辛い、辛い、と頭の中で繰り返すけれど、心拍は150bpm前後で8%強を登るときのいつもの心拍に較べれば全然緩やかなほう、足も太ももも痛くないし、呼吸も乱れてない、辛いと思っているのは頭の中だけで、ゆっくりでも回し続けることのできるコンディションだとこれも自分に言い聞かせ、何も考えずに丹念に回す。

走っていた時は判らなかったけれど、4年前の自分のデータと較べてみると、平均移動速度で6km違うし、トータルの所要時間もまったく違う。休憩も笠置の一回だけで、あとは少しも止まることもなく走り切った。今の自分にとっては自然なことだけれど、改めて4年前の景色と照らし合わせることで気づけることがあったんだなと、そしてあの恐怖心も克服することができたかなと振り返りながら、帰りは電車を4回も乗り換える輪行で2時間かけて帰宅。上野市駅で30分電車を待ったので、自走しても同じくらいの時間に帰れたかもな、と思いながら。

独走会 2015/09/19 周南ー周防大橋ー新山口 76.0km

もうこの先、万全で走れる日などやって来ない。だから走れていることを有難く思え。

去年もこの時期、まるで夏が戻ってきたかのような超好天と書いていて驚き。そんな絶好のコンディションの下、今年は去年とは反対方向、西に向かって走る。一度、防府まで走ったことはあり、今回はそれよりは先に行きたいというスタンス。

本音は下関までの110km前後を走りたかったのだけれど、戻りの新幹線・在来線の便数を考えると、状況に応じて切り上げるところを考えないといけない。前回の防府も、45kmとは思えないくらい疲れた記憶があり、そういうことを頭に入れながら走る。


防府天満宮。前回は防府に着いただけで、ケータイで検索して見つけたラーメン屋でラーメン食べただけで詣でなかったので、今回はどうしようかとちょっと迷ったけれども北野天満宮詣でたし三大天満宮の二つ目はやはり詣でない手はない、ということで。


御朱印。北野天満宮以上にシンプルではないかと。

防府までは非常に快調で、2時間で45km走れたし(遅いけど)、息も心臓も足も全く疲れなかったんだけど、唯一、頭痛が酷い。いつも肩は多少凝るんだけどいつもの比ではないくらい肩が凝り、それに釣られて頭痛が激しくなるように感じる。防府を出てからも、走るためのフィジカルは全然問題がないけれど頭痛が収まらないので、どこかで切り上げないといけないかなと考え始める。と同時に原因も考え、前から思っていたがどうもキャップがきついのではないかと疑い、休憩タイミングではないタイミングで停止し、キャップを脱ぎ休憩する。休憩すると頭痛は治まるけれど走り出すと程なくまた頭痛がぶり返す。防府天満宮で1時間も費やしてしまったこともあり、当初通過ポイントの一つと考えていた周防大橋を越えたら帰路に着くことに。


周防大橋。眺めは抜群でした。

その抜群の眺めに目を奪われている際、不意に「この頭痛は、ビブが原因だ!あれで肩が凝ってるんだ!」と急にはっきり気づいたのでした。

周防大橋を渡った後、マップを見てみたら、10km前後で新山口駅だと判ったのでナビをセット。強がりではなく、時間さえ気にしなければまず間違いなく下関にはたどり着けたくらい走りの調子は良く、練習の頻度は疎らでも、五年も続けているとそれなりにその時々の状況に合わせて楽しむことができるようになるもんだとしみじみ。以下恒例の箇条書き:

  • そうは言ってもキャップはきつい。買い替えたほうがよい。
  • 初めて実戦投入したビブは、お腹周りのストレスが全くなく、走る上ではこの上なく快適だったけれど、ビブが原因で肩こり→頭痛が一因として間違いないと思う。積極的に使って慣れるべきか。
  • 長い休憩を取ってしまうとペースが落ちる。前から分かってはいるんだけど、特に参拝など行うとどうしてもそれなりに時間がかかる。
  • 補給タイミングはこれまで反省を活かし、こまめに行うことを実践できた。
  • ダンシングすると大腿四頭筋が攣る。踏み過ぎか。伸ばせていないのか。ポジションか。
  • パッカブルシューズは輪講ではやはり有効。カメラが一番持っていくかどうか悩む。時間がシビアな工程だと使う時間がない。

独走会 2015/08/23 夏の終わり

ただ、一さいは過ぎて行きます。

年を取るというのはこの年になると本当に辛いもので、時間はただ流れていくだけ、というような意味の有名な文章があったよな、と思いだしてみたこの一文が、太宰の一節というのを即座に思いだせませんでした。引用するには不適切な気もするけれど、本当にただ淡々とした気分を表すのにこれ以上の一文もないのです。

来週の土日は予定が埋まっているので、今日のライドが夏の終わり。1時間、走りっぱなしで帰ってこれるルートということで、富雄から阪奈に乗り、尼ヶ辻橋西詰のも一つ向こうで南に折れて少しだけ自転車道を走ってすぐ西向いて308号で引き返し、富雄川沿いに北進して生駒に帰る、という全くいつものルート。どこに行くにもこの道を使わないといけない、普段使いのルート。この普段使いのルートを、時にハイケイデンスで、時にシティサイクル並みで、気持ちよく走ります。長い距離でなくても、長い時間でなくても、見知らぬ土地でなくても、そのときはそのときにしかないもので、一さいは過ぎていき二度とは帰ってこないのですから。We're dancing in the stimulation. そのときの体験は常に新しく、それを粗末に扱わないことが人生を有難いものにしてくれる。

行きつけのカフェ、mother beansによってお気に入りのキャロブケーキを買って、「自転車ですか?」と一通りの会話で店を出て、5分もしない自宅に着いたらなんとヘルメットを脱ごうとして初めて忘れてきたことに気づき、慌ててもう一度mother beansに引き返すなんて、たった1時間のライドでヘルメット脱いだことが分からないくらい疲れるようになっちゃったのかな、なんてただ思った夏の終わり。

独走会 2015/07/19 東寺

実を取る。美しさは固より。

三連休の中日、まとまった時間があってどこに走るか。できるだけ長い距離長い時間走りたいのだけど、100kmオーバーの片道ライドは、どこに行っても帰りの電車を考えると予定時間をオーバーしてしまう。目まぐるしく変わった天気予報は最終的にこの日曜だけ雨マークだし、それなら往復ライドで距離を走ることにしようと、京都に向かうことに。

生駒から168号で交野へ、交野から府道736号で松井山手へ、第二京阪の側道で久御山まで出て西に折れて1号で京都まで、というお気に入りのルートで京都へ。いつもは通りすがるだけだった東寺へ今日はお参り。世間は高野山が開山1,200年で盛り上がっていて、奈良もこのお蔭で都道府県別宿泊客数万年最下位から脱出したそうですが、東寺も空海に下賜されたゆかりのお寺。近鉄で京都に行く際に必ず五重塔を目にするのもあってか何故か親近感を覚えるお寺。あの周辺は何かフレンドリーな空気が漂っているなあといつも思っていたのだけど、帰りに見た「煩悩なければ菩提なし」というお言葉でなるほどなあと妙に納得。

世にあるものは須らくあるものであって、それにどう対峙するかがその人の生き方になる。今日のライドは後半完全に足を失ってしまって、家まであと1,2kmというところで休憩してしまったくらいだけど、やり遂げたことを振り返りつつ、次に繋げよう。

と言う訳で久し振りの箇条書き:

  • 交野-松井山手間の第二京阪側道はやっぱり最悪で、絶対選択すべきでない。行きも帰りも同じルートは飽きるなあと魔が差して走ってしまったけれど、バイクよけはしょっちゅう出てくるし、意味もなくアップダウンさせられるし、ペースあがらないのでいいことが何もない。1号線本線の路肩を走るべき。
  • 移動時間3:20で75kmはたぶん現状コンスタントに出せる実力じゃないかと思う。これで行くと5時間で100kmなので、やっぱり今のところ100km走ろうと思うと6時間見ておかないといけない。
  • どれだけ快調でも1時間に5分は休憩を取る。補給食は早めに取る。後半、確実に足が削れる。
  • どこに行っても生駒は最後登りになるので、ボロボロになって帰ってきている姿をご近所さんに見られるのは結構恥ずかしい。

独走会 2015/06/28 岩船寺

例えどんなに些細で容易くてどちらでもよいようなことでも、やると決めたことをやり遂げることの重大さ。

40歳を迎えて1年、2年、3年と過ごして思うのは、なんであれやろうと決めたことを「やり遂げる」ということが、非常に尊くて大事になっているということ。30代の頃は、やり遂げる中身が重要で、着手したものの当初決めた壮大な到達点に達する見込みがなくなった時点で、達成見込みのないプロセスに時間をかけるのは無駄で、新たな「やり遂げる中身」のためにその時間を使ったほうがいい、という考え方で行動していたように思う。

しかし、40代になると、それがどんな些細なことであれ、例えば毎日朝10分ラジオ英会話を聴くとか、新書一冊読み切るとか、仕事帰りにお店に立ち寄って服を一着買って帰るとか、「こうしよう」と決めたことをやり遂げることが年々難しくなっていく。それは体力的なものもあれば、精神的なものもあれば、物理的なものもある。けれど、「やろう」と決めたことを「やる」力というのは、そこをいい加減にしていくと癖になり、ずるずるとやり遂げられない体質になっていくように感じる。

今日は大体4時間あれば散策も含めて往復するのに十分余裕の距離、片道25kmくらいでよさげな行き先を探してみたら、あじさい寺で調べてみた岩船寺がちょうどよい距離。焦らず飛ばさずじっくり走る。般若寺を過ぎたあたりのセブンイレブンで一息ついて、東を向いて約7kmの強弱のある登り。岩船寺は思いの外の人出で賑わっていてすっかり観光気分。

意外にも7kmの登りが堪えたけれども、初志貫徹で決めた時間内で自走で帰宅。約4時間で50km弱、拝観とパン屋寄り道して十分愉しめてやり遂げたこと、これの積み重ねが40代を形作っていくと思う。

僕は往復同じルートで帰りましたが、般若寺の近くには浄瑠璃寺があるので、行きは308号メイン、帰りは163号メインでぐるっと一周というのも楽しいコースになると思います。オススメの行き先です。

独走会 2015/06/07 宝山寺

時間は誰に対しても平等に流れない。であるが故に必ず有効に使える訳ではない。

少しの時間が出来たので、玄関出て1分でスタート地点の宝山寺クライムへ。距離にして2km弱、獲得標高約150m、つまり平均斜度約7.5%というなかなかでほどほどのクライムコース。20分あれば行って帰ってこれるこのコースでも、20分が生まれたときに即出発できる準備が整ってないとその時間を有効に使うことはできない。時間がないないというのであれば、時間が生まれたときに即座にその時間を有効活用するだけの迅速さがないといけない。時間が出来たときに限って、何をするでもなく時間をやり過ごしてしまうのも人の性根という感じはする。だから有効活用するためにスケジュールを立て調整を図るという慣習が生まれるけれど、それを人は誰しも心がける訳ではない。不確定要因に逆らおうとしない人間もいるのである。時間は自分の努力だけで、必ずしも有効に使える訳ではない。そう思い知るからこそ、わずかな時間でも有難いと思い、より活きた時間にしようと心から思うものである。だから、わずかなその20分を、心拍数を限界に上げる辛い時間にしてまで坂を登るのである。


独走会 2015/05/30 馬見丘陵公園

独走というのは、決して、他人を受け付けないということではありません。むしろ、その逆なのです。

富雄のスーパーかっこいい自転車屋さんTRANSITのマスコットキャラクター・ヨシダさんから「明日走りませんか?」というメッセージ。ちょうど時間が取れていたので走るつもりだったのでお受けしまして8:30にTRANSIT前に集合、サコウさんと3人で富雄から馬見丘陵公園の往復約46km走りました。家を出てからフロントのブレーキシューが削れ切ってることに気が付いた整備不良の私を、なんでも出てくる四次元カバンを持ってるサコウさんがシューを出して救ってくれました。

何のために独走を掲げるのか?それは、究極的には「誰とでも走れるようであるために」なのです。生きるのは独りでは生きられない、というけれど、独りでやれることは独りでやろうとする人間の集まりでなければ、助け合って生きていくこともできないはず。それほど熱心に練習できる訳でももともと体力自慢な訳でもない自分は、こういうお誘いを在り難く頂いたときに出来る限り足手まといにならず楽しく走れるように、そのために日頃独走を心がけるという次第なのです。

富雄から馬見丘陵公園のルートはとても気持ちいいです。馬見丘陵公園は美しく整備された公園で、ツーリングの目的地に向いてます。


独走会 - 2015/02/15 北野天満宮

道を知っている、ということは例えそれがどんな些細な点だとしても、大きな差となって現れる。

年末に園城寺ライドで走ったところでもあるし、部分部分はこれまで何度か走ったことのある道で、分岐や本線・側道の合流等、何一つ迷うことなく走り続けられるのは本当に気持ちいい。京都に着くまでは天気もよく風もなく、ほとんど直進のルートで、北野天満宮までの43kmを休みなし1時間40分。移動速度26km。ロードバイク的にはまだまだだとよくよくわかっているのですが十分満足できるペースでした。ド平坦なルートならこのペースでずっと走れる自信がつきました。

どんなことでも、先人の知恵を全く借りずにやれることもやっていることも絶対にないのだから、「道」を誰かから教わってそれに沿って活動するのが、少しでも多くの「道」を教わって活動するのが、絶対的にうまくやれるってわかりきったことです。先人の知恵を全く借りずにおれることなどこの世にないのだから、自分の力で道を切り拓くなんてことは傲慢と妄想の産物に他ならないのですが、果たしてそうやって端折って端折って先に進んで成功することだけで人生の意義を見出せるのかという思いと、人生の残り時間が少ない中で、端折って端折ってやれることを増やすのが当然ではないのかという思いとが交錯。

如何に時間をかけるか。如何に失敗するか。成功するためにではなく、如何に純粋な失敗を重ねられるか。グーグルの知らない検索ワードを探すアクションと同様に、如何にプライベートな失敗を数多く経験できるか。ここに差別化の未来がある。もはや、個性は失敗にしか宿らない。


御朱印。文字通り「印」でちょっと珍しいな。