『クーデタ』/ジョン・アップダイク

4309709575 クーデタ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-5)
ジョン・アップダイク 池澤 夏樹
河出書房新社  2009-07-11

by G-Tools

アップダイクは初めて。村上春樹関連で名前が出てきたので読んでみようと。その名前が出てきた記事では、あんまり評価されてなかったんだけど。

まず読んでいてずっと思ったのは、エルレー大統領の親ソ加減。著されたのは1978年。その当時は、アメリカにも親ソの空気があったってことなんだろうか?日本の北朝鮮への集団移住は1959年。ヒッピーブームは1960年代~1970年代。ヒッピーと共産圏は関係ないようだけど、1972年生まれの僕にはイメージとしてどうしてもつながってしまう。「みんないっしょにしあわせに」という物事の考え方が根底にあるものは、形はなんであれ似通ってしまうんじゃないかと思うのだ。

文体がかなり慣れなかった。超絶技巧な文体で、説明は多く、ディティールも細やかで読んでて面白いのは間違いなんだけど、読み進めている途中で事態がぽつんと語られることが多くて、「え?いつのまにそうなってたの?」と巻戻って読むことが何度か。かなり集中力要します、僕のような頭の悪い人間には。

それと、解説を読んで、この『クーデター』はアップダイクの作品の中ではレアなケースというのを知ってまたびっくり。アップダイクの得意な分野は、エルレーが妻四人愛人一人との間で落ちぶれていく、ああいう様をメインに持ってきた小説らしく、もっと読んでみようと思った。

『ノルウェイの森』/村上春樹

4062748681 ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社  2004-09-15

by G-Tools
406274869X ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社  2004-09-15

by G-Tools

映画を観る前に再読しておこうと思っていて、本屋に入った際それを思い出したので文庫本を買った。『ノルウェイの森』は何かの折に(何か節目になるような出来事があった際や特にそういうことがなくて単に思いついた際)再読しているけど、毎回、「こんな話だったっけ?」という印象を抱いている気がする。それにしても今回は、僕の読書におけるグッドラックを、自分で思い込んでる気に入った言い方でいうとセレンディピティを、一生分とは言わないけれど数年分は注ぎ込んだようなタイミングで読めたんじゃないかと思う。なにしろ、本屋で買って読み始め、端役も端役だけど全然記憶になかったけど「奈良」が登場し、iTSでビートルズがダウンロード可能となる日が訪れ、そして読み終えた。僕個人的にはこれでもう十分。十分、『ノルウェイの森』は僕に生きる力をくれた。実際、会社の人がお土産にくれたラーメンを食べ過ぎ胃を壊した翌日から、微熱が続き何も食べられなくなりみるみるおかしくなって精神的にも完全におかしくなってしまった僕をたった10時間足らずの読書が引っ張り上げてしまったのだ。

「こんな話だったっけ?」という印象以外で、今回抱いた印象で最も大きかったのは、「こんなにわかりやすい小説だったっけ?」というもの。これは、僕が村上春樹の作品を読み続けてきて慣らされてきたからなのか、僕の読書の能力が向上したからなのか、物語を注意深く受け取る感覚が失われ、通り一遍の筋書しか頭に入らなくなったからなのか、その辺は自分自身ではわからない。けれど、自分自身としてはとてもよく理解できる小説に感じられた。例えば「全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。」の部分。そりゃもちろん聞くべきではないよ。今の僕はそう思うし、その理由もパッパッと頭の中にひらめくけれど、若い頃にこれを読んだときは全然違うこを考えていたと思う。できないことの理由を問うことから始まる問答を。「訊くべきではない」というのは、単に「どうして寝なかったのか」という原因を訊くだけが対象じゃない。「寝る」ことに関わる様々な意味が、そう簡単に説明できるようなものではそもそもないから。そんなところに考えを飛ばしていたはずだ。でも今の僕はもうちょっとクリアに「なぜ訊くべきではなかった」のか、思いを巡らすことができる。

なぜ38歳の僕がこの本を今、それも再読の再読で読んで、精神的に立ち直ることができたのかはよくわからない。普通に仕事はできるものの、仕事に行きたくないとまで思うくらい、ちょっと崖っぷちだった状況から、なんとか戻ってこれたのは、この本の力が多少はあると思ってる。確かに、この本を読んでる最中、自分を覆っている時間の殻のようなもの、どうしてもそこに留まることはできないのに少しの希望の欠片みたいのを見つけては留まれるような気になっている自分の殻のようなものが、二つに割れて自分から剥がれ落ち、残念だけれどそれは剥ぎ取って前に進むしかない、そういう感覚が現れたのだ。そうしてこの間に僕にとって現れた変化というのは、無暗に本を読む速度が上がったということだった。

『真綿荘の住人たち』/島本理生

4163289402 真綿荘の住人たち
島本 理生
文藝春秋  2010-02

by G-Tools

北海道の善良な少年・大和君が大学生になり上京してレトロな下宿・真綿荘に。その真綿荘に暮らす大家と下宿人の一筋縄じゃない恋愛と生活。

ラスト、読み終えて、「なぜ結婚じゃだめだったんだ?」と考え込んだ。ほんと、すぐには理解できなかった。「君には、対等じゃあ、ダメなんだろう」この晴雨の言葉が、結婚ではだめなんだということはわかるものの、なんでその代わりに、養子縁組をしないといけないのか。そんなものなくても、今まで通り内縁でいいじゃないか。まったく理解できないものを突然1ページで見せられて、ぽーんと放り投げられたような気分だった。

じっと考えてみて、ああなるほど、親子か、とようやく分かった。このラストがすぐには飲み込めなかった僕は、ほんとうに幸せで満たされた子供時代を過ごせたんだと思える。千鶴は、水商売を生業とし、男に寄りかかって生きている母親の自分への愛情が、それほど深いものではないということを、生まれたときから知っていたような人生。だから、16歳のとき、何も言わずまったくの自分の責任だけで自分を抱きにかかった晴雨に、それ以来一度も抱こうとはしない晴雨に、捉えられ続けてきたのだ。同じように高校時代に強姦された経験を持ち、直接的にはその強姦ではなく、それ以降の経験から、男と付き合えなくなった椿に、「自分を強姦した相手と何事もないように住み続けるなんて気持ちが悪い」と詰られようと、千鶴が動じない理由がそこにある。千鶴にとっては、晴雨はそういう存在だったのだ。晴雨自身も、自分のすべてを自分のものにしようとした母親の呪縛に悩まされ不能で生きてきて、その母親が病に倒れ晴雨のこともわからない状態を見て、「俺はもう誰の子供でもない」と呪縛から解かれる。この小説は、恋愛の動きそのものよりも、千鶴、晴雨、あと、同じ真綿荘の住人である鯨ちゃんと付き合うことになる同じ大学の荒野、この3人の生い立ち、親との関わりあいの過去を通じて、人が大人になるための、周りの大人の、「親」という存在の重要さを感じれるものだった。

もうひとつ、まったくもってまともな大和君が、振り回されるように恋に落ちる相手、絵麻の恋愛。彼女に言い放つまともな大和君の言葉が、使い古された言葉だけどとても気が利いている。絵麻の相手は言わば高踏だけど、そんな生き方をして「結果」がよくても仕方がないよな、と思った。

『「悪」と戦う」/高橋源一郎

4309019803 「悪」と戦う
高橋 源一郎
河出書房新社  2010-05-17

by G-Tools

なんて可愛くないと言い切られるミアちゃんが登場し、ミアちゃんのお母さんが”私は「悪」と戦っているのです!”と言い、そして大声で”わ!””た!””し!””は!””ミ!””ア!””を!””あ!””い!””し!””て!””る!”と叫ぶところまではわくわくしながら一気に読み進めた。そこから、ランちゃん(男の子)が「悪」と戦う夢とも現実ともつかない複数の戦いの話は、予想の範囲内というかなんというか。「何が”悪”なのか」を申し渡すことは自分以外の誰にもできない。だから自分の頭で考え抜いて生きていくしかない。そういう”説教の結論”じみたカンジは微塵もないけれど、だからと言って大人向けかと言われると違う気もするし、でも「使用済みのコンドームが」とかいう表現があるから、児童向けとはとても言えない。

僕はどうしても「言葉」「言語」に関するところで興味が膨らむので、「悪」と「言葉」がもうちょっと引っ張られてたら、頭の中をかき回されるような快感にもうちょっと長く浸れたのかな?この本を読みながら頭の中で歌っていたのはもちろんイエモンの『JAM』:

”あの偉い発明家も 凶悪な犯罪者も
みんな昔子供だってね”
(『JAM』/THE YELLOW MONKEY)

「あ、これで十分じゃん」なんて言うほど、僕ももう子どもではありません。

p33「キイちゃんにいうみたいに、パパにもいって」
p105「下駄をはかせてもらった」
p111「ヴァルネラビリティ」
p112「じゃあ、みんな、『隙間』に落っこちたって、気づいてないんだ」
p176「シロクマが立っていた」
p199「(ランちゃん、あなたの仕事をするのよ!それが、どんな仕事だとしても。イッツ・ショー・タイム!)」
p279「わすれものって・・・いみわかんない・・・ぱぱ」

『ウェブ人間論』梅田望夫・平野啓一郎

4106101939 ウェブ人間論 (新潮新書)
梅田 望夫 平野 啓一郎
新潮社  2006-12-14

by G-Tools

発言からうかがえる平野啓一郎の感覚が、自分の感覚に近いものなのが何より驚きだった。もう少し、線を引いた考え方をする人という印象を持っていたので、昔気質と言っていい感覚を持ってることに驚いた。
「おわりに」に書かれている、”平野さんは「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人である””私はむしろ「社会変化とは否応もなく巨大であるがゆえ、変化とは不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える”というところと、「そうでない他者との軋轢ある関わりって、確かに自分を成長させる部分があるけど、でも嫌なことでストレスをためてしまうよりは、避けていきたいと思うよ うになりました」との組み合わせが、僕にとってこの本の要諦だった。もちろん、平野啓一郎により共感している。どうしようもないからとそこから一歩退いて、楽に生きられて居心地のいい場所を見つけて、それを「いろんなやり方を身につけられた」と世界を広げたふうに言うのはクレバーではあっても成長はない。そこにある苦難を避けて通るための理由づけは、どんなに聞こえが良くっても言い訳にしかならない。ダメでもやってみるところにしか、幸せはやってこないのだ。

p24「80年代に活躍したいわゆるニューアカ世代の一部の人たちには、今でも、あらゆる情報に網羅的に通暁して、それを処理することが出来るというふうな幻想が垣間見える」
p39「ブログを書くことで、知の創出がなされたこと以上に、自分が人間として成長できたという実感」
p52「ハンナ・アレント」
p53「そういうナイーヴな、一種の功利主義的な人間観は、若い世代の、とりわけエリート層にはますます広まりつつあるんでしょう」
p77「アレントの分析(公的領域)」
p78「私的なことを公の場所に持ち込まないという日本人の古い美徳は、今や単に社会全体の効率的な経済活動から、個人の思いだとか、思想だとかを排除するための、都合の良い理由づけになってしまっている」
p86「スラヴォイ・ジジェクというスロベニアの哲学者が、『存在の耐えられない軽さ』で有名なミラン・クンデラというチェコ出身の作家を批判している」
p145「世代的な感覚でいうと、『スター・ウォーズ』に熱中してるって、ちょっと珍しい気がしますね。」
p163「言葉による自己類型化には、安堵感と窮屈さとの両方がある。」
p170「そうでない他者との軋轢ある関わりって、確かに自分を成長させる部分があるけど、でも嫌なことでストレスをためてしまうよりは、避けていきたいと思うようになりました」
p177「確率的に存在する」
p179「フランスの哲学者のピエール・ブルデュー」

『存在の耐えられない軽さ』/ミラン・クンデラ

4087603512 存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン・クンデラ 千野 栄一
集英社  1998-11-20

by G-Tools

もちろん本著の名前は知っていたし、著者が「プラハの春」以降、全著作を発禁されたというようなことも知っていた。でも本著のことは、結構なエロ小説であり、「存在の耐えられない」というのは、要は正式に付き合っていないので相手の心には存在しているのかどうかわからない、程度の意味合いに受け止め、しかも本著は傑作と呼ばれていることも予備知識としてあったので、その恋愛の心理描写が相当詳細で綿密なんだろうな、という具合な印象を持って、読んではいなかった。そこに来て、3年前に読んだ『放浪の天才数学者エルデシュ』以来の東欧への興味が重なって、文庫本で見つけたので買って読んでみた。

もう全然認識違いで情けなかったし恥ずかしかった。ただひたすらおもしろいという感想しか出てこない。恋愛の軸と社会情勢の軸、そして哲学の軸。読んでいて頭が刺激されるし、その底辺に流れる考え方みたいなものは頷けるけどひとつひとつの表現-タイトルの「存在の耐えられない軽さ」とか-を、自分なりに噛み砕いて話せない。言葉にできるところまで理解できない。これはあと2回くらい読まないとダメな小説。

そんな中、頭に浮かんだテーマをメモ:

  • 第Ⅵ部「大行進」で語られる「俗悪=キッチュなるもの」の概念と説明の言葉。自分が常日頃抱いている感情にぴったりとあてはまる。しかしそこから押し広げて気づいたのは、例えば「平和」をうたい文句にした野外フェスに、その理念に賛同したと言って参加する人々。これはイコールなのか?イコールではないと、言い切れるか?また逆に、そのうたい文句は一切無視して、単にその「呼び寄せ」をアテに参加する、この姿勢もまたイコールではないと、言い切れるか?
  • 難解で、興味深くて、思考の好材料になる様々な対立が挙げられるけど、それらはみな二項対立。二択の提示は、時代の現れか。

『虐殺器官』/伊藤計劃

4150309841 虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
伊藤 計劃
早川書房  2010-02-10

by G-Tools

巷で評判の『虐殺器官』の文庫本が並んでたので購入。僕はSFはどうも苦手と言うか、空想の凄さや思いつかなさに驚嘆しながらページを捲れるタイプの読書家ではないので、突飛な感じのSFは遠慮してたんだけど、『虐殺器官』はどうやらそういう手合いではなくて、背後に社会的な背骨が通ってる雰囲気があったので思い切って手に取ってみた。文庫本の装丁はシンプルで”ソリッド”でとてもカッコいいと思うのだけど、僕はブックカバーをしないので、通勤電車でこの背表紙を見た人々にはやっぱり気味悪がられたのかな。

本当に偶然と言うのかセレンディピティと言うのか世間がそういうふうに回っているのか、マイケル・サンデルを読んで、『ドーン』を読んで、そしてこの『虐殺器官』と来た。改めて、9・11というのが以下に現代の人類に、社会に、政治に、衝撃と困難な課題をつきつけたのかを実感。『虐殺器官』は、アメリカ情報軍特殊検索群i分遺隊という、「暗殺」を請け負う唯一の部隊に所属するクラヴィス・シェパードが、後進諸国で続々と発生する内乱や大量虐殺の陰に必ず存在すると言われるジョン・ポールという男を追う物語だが、テロとの戦いにおける管理体制と国家関係を縦軸、自分の母親の生命維持装置を停止させたことと自分が遂行している暗殺との違い(あるいは同一性)にうち苦しむシェパードの姿を横軸に展開する。

テロとの戦いの部分は、ジョン・ポールと二度目の遭遇をした時点で、たぶん概ね筋が理解できてしまうと思う。悪人と思われる人にもそれなりの事情があって…という、ヒトラーの物語を借景したような筋書と、「必要悪」を是認せざるを得ないと主張しがちな国家の事情をミックスさせながら、「虐殺の器官」の正体を知ったシェパードが選択するラスト。このあたりは、ストーリーを楽しむところではなくて、それぞれが「自分の立場」でモノを考えるときに、正しく進めないと陥ってしまう悲劇の1パターンとして肝に銘じながら、自分の考えを練り上げる材料にすればいいのかな、と読みながら思った。政治の過程をよりリアルに描いていた『ドーン』のほうが、より実際的に考える材料になるし、『虐殺器官』はそういう意味では戒めというか、昔話のような効果を持つかなと思う。

どちらかと言うと、僕は「意識がなくなればそれは死か?」という、母親の生命維持装置を停止させる下りが印象に残っている。SFという力を借りて、現在における脳死状態等から更に一歩進めて、「脳の何が残っていればそれを意識と言えるか答えが出せない」という医者の見解を、脳の一部を操作すれば、「痛み」を受けたことは分かるけれども「痛み」は感じない、という芸当ができるほど技術が進んだ時代でも、意識に関してはそうなんだと語らせることが深みに感じられる。意識とは何なのか?それは、「何だから自分なのか?」というところに行き着く問い。

言葉についての軸は、読んでるときは面白いと思ってたけはずだけど、感想を書くときには全然意識に上らなかった。書くべきことを忘れてないか、付箋のつけたところをパラパラと捲ってみて、ああそういうテーマもあったな、と思い出したくらい。

『ドーン』/平野啓一郎

4062155109 ドーン (100周年書き下ろし)
平野 啓一郎
講談社  2009-07-10

by G-Tools

人類初の有人火星探査のクルーの一員となった佐野明日人とその妻・今日子、東京大震災で亡くなった二人の子供である太陽を取り巻く物語と、有人火星探査で起きた事件とアメリカ大統領選での「テロ」に対する在り方を問う選挙戦の物語が絡み合いながら進行していく近未来小説。

民主党候補ネイラーと共和党候補キッチンズの選挙戦は、小説の後半に大きな盛り上がりを見せる。ここで戦わされる「対テロ」をメインにした議論を読む前に、マイケル・サンデルを読んでおいてよかったなと思う。キッチンズの議論の攻め方は、非常にキャッチーで触れているその部分には否定できるところがなく、ある種の強制力を持って聞き手に踏み込んでくる論法だけど、単にひとつひとつを詳細にして覆していく手法では、良くてイーブン、普通はあと一歩のところまでしか追い込めず、ひっくり返すには至らない。ひっくり返すには従来通りではない「正義」の骨格が必要で、マイケル・サンデルを読んでいたことでここの部分の理解を進めることができたと思う。うまく連鎖してくれた。

もうひとつ、物語を通して出てくるのが「ディビジュアル」という概念。これは、それぞれの個人(インデビジュアル)は、対面する相手によって人格的なものを使い分けている、そのそれぞれの場面での「自分」を指す言葉(ディビジュアル=分人)というような意味だと理解して読んだ。確かに、現代社会に暮らす人々は、それぞれの場面でそれぞれにふさわしい振る舞いを当然ながらに求められるし、必ずしもそれがどこでも首尾一貫してる必要もない。ちょっと窮屈だな、と感じる社会の根っこはディビジュアルを認めないような厳格さにあるような気もするし、逆にそれぞれの場面に求められる振る舞い-マナーとかもそうだろう-を身につけられない、身につけることを拒否するようなスタンス、そういうのが自分たちに結局跳ね返ってきて社会を窮屈にしてる気もする。

平野啓一郎は『決壊』に続いて読んだんだけど、細部まで神経が行き届いているしテーマの膨らみも読んでて面白いし何も文句はないんだけど、どうも登場人物がみな「頭が良すぎる」ところだけがちょっとなあと思う。なんか、物語自体が全体的に「浮世離れ」しちゃってるように感じる。せっかく誰にも考えてほしいテーマを書いてくれてるのに、なんか違う上流世界向けの小説というか、自分の頭の良さを感じさせないでは済ませられないかのようなところがあって、そこはちょっと損してると思う。

『アメリカの鱒釣り』/リチャード・ブローティガン

4102147020 アメリカの鱒釣り (新潮文庫)
リチャード ブローティガン Richard Brautigan
新潮社  2005-07

by G-Tools

『考える人』の村上春樹ロングインタビューで出てきたので、とりあえず読んでみようと買ってみた。予備知識として「不思議な小説」ということは知っていたので、それは頭に置いて読んでみたんだけど、そういうのは慣れてるつもりだったんだけど、最初の10篇くらいは正直言って全然ついていけなかった。「これ、このまま読んでて面白くなるのか?」とほんとに訝った。もちろん、いろんな人が面白いと言ってるし、傑作だ傑作だと言われてるんだから面白いには違いないんだろうけど、どうしても糸口がつかめない、スイッチがはいらない…。

その「スイッチ」は、どの章もこの章も「アメリカの鱒釣り」(という言葉)を芯に据えて展開してるんだ、というとこに気がついてするする解消されていったけれど、読み終えての感想は、「意味を完全になくすなんてできっこないよね」というもんだった。意味なんてどうでもいいみたいに言われるけど、「アメリカの鱒釣り」は、当たり前だけど意味を完全に消せてないし、何か予備知識がないと面白さがわからないところがいっぱいある。

なんかこういうノリは確かに現代作品、とくにマンガとかアニメとかでたくさん見たことがある気がする。そのくだらなさの中に死や終焉を忍ばせる感受性、ということなのかもしれないけど、僕は生真面目に立ち向かうほうがやっぱり人生においてはサマになると思う。

『考える人 2010年8月号』/新潮社

B003T0LLEW 考える人 2010年 08月号 [雑誌]
新潮社  2010-07-03

by G-Tools

箱根二泊三日のロングインタビュー。聞き手:松家仁之。「ロングインタビュー」と表紙に書かれていたのでどんなもんだろう?と手に取ってみたら、ほんとに長くて、読み終えるのに4,5時間かかったと思う。『1Q84』に関する話題をメインにしながら、「作家」という仕事をどうやって生きているのか、そういうことも語られていてどこも何も読み飛ばすことができないインタビュー。

読み終えてみて、自分の中に残った印象や、これからものを考えるのにテーマとして記憶しておくべきと思ったことが5つ:

・仕事の仕方
・女性の描かれ方
・自我と自己
・善悪の基準と神話
・自由とは物語を自分のこととして捉えることができる能力

「仕事の仕方」は、このインタビューを読んで誰しも印象深く感じるところだと思うんだけど、「ペースを守る」というよりは、「自分の仕事を最善の形でやり遂げるためには、どういうやり方がよいのかをよく考え、それを継続的に実行する」というふうに捉えるべきだろうと思う。これはサラリーマンである僕にとっては、「やればできる」と言われても、心理的負担は大きいしそう簡単なことではないんだけど、これまでも常に意識してやってきたことだし、これからもそうやっていけばいいと再確認できた。

「女性の描かれ方」-これは、『1Q84』の感想や書評をいろんなところで読んでいると、特に一般の人で女性と思われる人のブログなんかに、「村上春樹もようやく女性がわかってきたんじゃない?」と書かれているのをよく目にして、どうしてそういうことを思うのかいまひとつピンと来なかったんだけど、このインタビューで少し分かった気がした。僕は、男性がどういうふうに描かれていようが女性がどういうふうに描かれていようが、それが勝手な「決めつけ」でなければ、大切なのは小説という「物語」全体を表すことなので、登場人物がどんな扱われようであってもそれはそういう役割だ、と思ってたんだけど、女性自身の立ち位置の変化が確かにあるんだな、と思った。「こうなりたい」と思うところに、潮流として少しずつでも近づいているから、描かれ方も受け取られ方も変わってくるんだなと少し納得。

いちばんよく理解できていないのが「自我と自己」。僕は今まで、「自我」という言葉を深く考えたことがなかったように思う。本好きを自認してるなら「近代的自我」とかよく理解していないといけないはずなのに、なんとなくで済ませてしまっていた。ほんとうになんとなく、自分は自我が肥大した人間だと、それこそ思春期から悩んでいて、そしてそれはよろしくないことなので自我は極力抑えられるように鍛錬していこう、とそんなふうに考えて二十年以上生きてきたけれど、じゃあ「自我」ってなんなの?ということを深くは考えてこなかった。
人の言ってることや書いてるものでその人となりを想像するとき、どうも毛嫌いしてしまうのはこの「自我」の肥大した人なんだろうなあという漠然とした感覚はあったものの、「自我」がなんなのかちゃんとわかってないから、それが正しいのかもどうかもわからない。僕にとって当面の読書の課題はここにしてみようかと思った。幸い、このインタビューで、自我(の描写・無描写)を考えるにあたってのたくさんの「入口」となる作家が提示されているし。

「善悪の基準と神話」は、まさに『1Q84』を読みながら考えていたことで、何が善で何が悪なのか、何が正しくて何が間違いなのかは、自分自身で考えない訳にはいかない。価値観の変化とかいうことではなくて、「誰かが何が善で何が悪かを取り決めている」という感覚から抜け出すことが現代には特に大事だと思う。もちろん、それは、個々人が好き勝手に好きなことをやってればいいんだということにはつながらない。この辺は、『これからの正義の話をしよう』を読んだタイミングでちょうどよかった。あと、少し話が離れるように見えるかも知れないけど、最近自分がロードバイクを始めたのは、この辺の話を突き詰めたときに出てくる課題を、感覚的に無意識に気づいて始めたような気がする。

最後に、このインタビューを読んで、自分の村上春樹作品への向き合い方というか、どういうふうに読んできたかというのが、それほど間違ってないんだということを、インタビューの端々の言葉や文から感じることがあって、よかったと思うしそれ自体誤解かもしれないなとも思うんだけど、「自分のこととして捉えて読まないと意味がない」ということを言ってる部分は、これは間違いなく僕が常々思ってることとぴったり一致してると思う。これは大変嬉しかった。自分の今までの読書が、より強固なものになったように感じる。

p26「ノモンハンの暴力の風さえ、その壁を抜けてこちらに吹き込んでくるということ」
p30「これは言うなればインターネット世界のあり方です。ものごとの善悪よりは、情報の精度が優先順位の尺度になっている」→マイケル・サンデルの正義論につなげられる
p35「その二人が、『1Q84』という世界をそれぞれにどのように生き抜いていくか。システムの中で個人を貫くという、孤独きわまりない厳しい作業に耐えながら、どのようにして心の連帯をいま一度手に入れるか、『1Q84』は、結局はそういう流れの話だと思うんです。」
p37「ノウハウを引き渡すということは、ある意味でサーキットを閉鎖していくことなんです」
p41「『昔話と日本人の心』河合 四位一体説」
p42「『真景累ヶ淵』
p43「はっきりとした意思を持ち、自律的に動く女性」
p54「おれの言うことが聞こえたのか」「聞こえたよ」というのではとまってしまう。「おれの言うことが聞こえたのか」ときたら「つんぼじゃねえや」と返すのが会話です(ゴーリキーの『どん底』)
p58「だいじなのは、そのころの二十代の青少年は基本的に未来を信じていた」
p66「リチャード・ブローティガン」「カート・ヴォネガット」
p67「当時の日本は今よりもはるかに、そういうセキュリティ(大きな会社に勤めていたり、家庭を持っていたり)に対する信頼が強かった」
p69「本質的な要因以外のところで、本が売れる理由を見出そうとする人が、とくにメディア関係に多いような気がします」
p69「でもいちばん大事なのはおそらく、信頼関係ですね」
p75「とにかく自我とはあまり関係がないものです」
p77「「神話の再創成」みたいなことがあるいはキーワードになるんじゃないかと」→これもマイケル・サンデルにつなげられる
p89「マルケスの小説って、考えてみればほとんど自我を描いていない」
p97「大きい声で言う人が勝つという感じが強まっているような気がします。言うだけ言って、その責任をとらない。