『もしもし下北沢』/よしもとばなな

4620107573 もしもし下北沢
よしもと ばなな
毎日新聞社  2010-09-25

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ほんと「さすが」としか言いようがありません。ここしばらく女性作家の恋愛ものを大量に浴びるように読みたいというテンションが続いてて、先週あたりにジュンク堂ヒルトンプラザ店行って目についたものを買い込んだんですが、その時、「最後に『もしもし下北沢』を読む。たぶん、これ一冊読んだらそれで済んじゃうけど、それもなんなので、いろんなのを読んで、それからこれを読む。」と、そういう方針だった。で、実際そうだった。あまりにメジャーであまりに当たり前に良い作品だけ読むことになっちゃって凝り固まるのはいけないんだろうなあと思っていたんだけど、これだけでいいんだからしょうがないじゃないか、読み終えてそう思った。やっぱりよしもとばななの小説はしっくり来る。なのになんで本作を今まで読んでなかったのか?というと、地名の印象で引っ張るっていうのがあんまり好きじゃないから(笑)。「そんな、下北沢なんかに住めりゃそりゃいいじゃん!そんなんで差異をつくんのって、ずるい!」と思う訳です(笑)。でも、いたずらに下北沢という地名のイメージで押してくるような内容では全然なかった。そこも「さすが」でした。

何が違うって、頭に残る映像が違う。映像というかイメージというか。たいていの作品は、「目に見える」景色がイメージとして描写されていたり、目に見えないものを何かの雰囲気や形を借りて描写したりしている訳だけど、読んでるときは作者が表そうとしてるものが喚起できても、読後にそのイメージはほとんど残ってなくて、粗筋だけが残る。でも、自分が好きだと思う作家の小説は決まって「作者が作品の中で言おうとしたこと」が、(それを僕が正しく読み取れたかどうかは別問題として)イメージとして頭の中に胸の中に心の中に残るのだ。よしもとばななは正にそう。どんな粗筋だったかももちろん残るけど、小説の中に宿っているよしもとばななの人生におけるフィロソフィーとか想いとかそういうのが「イメージ」としてくっきり残るんです。それは言葉にはできないけれど、自分の胸の中では「ああ、あれはこういうイメージの小説だったなあ」というのが、引出の中に大切にストックされる。そういうイメージとともにストックされた作品がたくさんあって、今の自分が、今の自分の考え方や哲学や日々生きるための知恵や工夫やスタンスや強さみたいなのが出来てるんだと思う。

最初に書いておくと、ラストの山崎さんとの下りは、中年男性の僕にとっては、ありきたりの展開過ぎて、つまらなかったというか、なんか予想外の展開で驚かせてほしかったというか、そういう不満はあります。「”品行方正”という意味で正しいということが何か、大人として何かはちゃんとわかっております、判っているということを事前にお伝えしておいて、それでもそれを破ってでも僕はこうしたいんです」式の口説き方に、とりわけ若い女性が弱いということは悔しいくらいわかる訳で、(もちろん山崎さんとよっちゃんの間柄はそんなちゃちいもんではないけれど)その筋に乗っかっちゃったのが少々残念なとこではあります。でもそれを差し引いても、この小説が持つ「切迫感」みたいなのは痛切で痛烈で、切迫感を息切れさせないまま、きちんとある方向に誘ってくれる。そこが「さすが」と賛辞したくなる所以。

「お父さんが知らない女性と心中してしまった」という帯の粗筋だけでは、それがどういうことなのかは半分も書けてないけど、とにかくとんでもなく重たい辛い悲しい出来事があって、残された妻・娘がどんなふうに生きていくかが、基本的に娘・よっちゃんの視点で書かれてる。よっちゃんはひどく丁寧に物事を考え、考え抜いて、行ったり戻ったりを繰り返す。そして、何度も何度も「今はそのときではない」というスタンスが出てくる。「今はそのときではない」。このスタンスは、よしもとばななの小説では結構見かける気がするし、よしもとばななの小説以外ではあんまり見かけないような気がする。「今はそのときではない」。この考え方、哲学、はものすごい重要だと思ってる。今までの自分は常に獣のような、「やれるんなら今やろう」的な生き方をしてきたように錯覚してたけど、「今はそのときではない」こう考えて自重できる哲学をとても大事にして生きてきてたんだなと思う。焦らない、焦らない。いずれ時が来る。そのときはそのときちゃんとわかる。それまでちゃんと待つんだ。自分の周りの環境がそれを待ってくれなかったらそれはそれまでのことなんだ。『もしもし下北沢』が改めて僕に提示してくれたのはそういうことだった。とんでもなく重たい辛い悲しい出来事があったとき、よっちゃんのように行きつ戻りつ、かかるだけの時間をかけて立ち戻っていくのが自然なんだよと。

その人の言葉の、どこに真実があって、どこかに嘘があるのか?誰の言ってる親切が、優しさが、本当の気持ちなのか?欲の裏返しではないのか?自分の弱さが、その裏返しに絡め取られてすり減らしてしまっていないか?間違えたりはしない。

読書について

最近、大学の友人と続けて11年目を迎えたサイトを纏めようと、過去のエントリを読み直してて、ついでにいろんなところに書いてる日記やエントリを振り返り読んでたら、なぜ自分は読書をするのか?という、こんなエントリが出てきた。

  • けして理解できないものの存在を認めるため。 
  • まだ知らない物や事や感情がたくさんあるということを知るため。 
  • 自分がいかに「知らない」かを確かめるため。 
  • 僕じゃないのに僕の感情を理解することのできる、つまり、ある人の立場になってその人の感情を書き表すことのできる、そういう能力があることに恐れ戦くため。 

もちろん今でもこういう想いをもって読書をするのは変わらない。だけど、これだけじゃない何かが知らない間に生まれてきていたなあ、と少ししみじみしたり。「未知」を求める姿勢は今でも変わらないけれど、何を「未知」と思えるかという視点や角度が、やっぱり圧倒的に増えてるなと自分でも思う。同じ「未知」でも、真裏からとか下からとか見ることもできるし、知ってることでも未知のように扱えたり。でもそれはそんなに大事なことじゃないなと思う。自分が「知っている」と傲慢にもならず卑屈にもならず、ただ淡々と「知っている」と認めることができるようになったことや、それ以外にも「読書について」大事なことが生まれているなと、それこそ淡々と認識できた。

今、少しずつ行先も歩み方も枠を形作りつつあるなか、そのために自分に足りているところ足りていないところを考えてみた:

足りてないこと:

  • 度胸
  • 正確性、微細性、厳密性
  • 失敗の数

足りてること:

  • 包容力
  • 想像力
  • 求心力
揚げ足は、どんな鉄壁の正論からでも取ることができるもの。そうそう、そもそもおつきあいしてはいけないものだった。

THE BIG ISSUE 158号 x 浦河べてるの家

仕事始めの1/4に買ったTHE BIG ISSUE、読んでなかったの思い出して読んでみた。
ドーチカのあのおっさん、そろそろオレの顔覚えてくれてもええような気ぃすんねんけどなー。
全然、覚えてるような雰囲気あらへん。今度買うときはちょっとゆってみよ。「覚えてるかー?」とか。

 「浦河べてるの家」は、先日参加した”「自分の仕事」を考える3日間”の、昨年開催分のゲストのインタビューを掲載した『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』に掲載されていた。向谷地さんのことは、今年の参加者からもよく口にするのを聞いて印象に残ってます。『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』を読んだ時も、最も鮮烈に印象に残ってたのは僕も向谷地さん。

本誌には、べてるで暮らしている「当事者」の方4名のインタビューが掲載されてる。「当事者研究」の精神が、より具体的にリアルに読めるのでお勧めです。

『妻の超然』/絲山秋子

4104669040 妻の超然
絲山 秋子
新潮社  2010-09

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文麿は他の女のところに出かけていっているようである。理津子は確認はしていないがそれを事実としていて、だからと言って事を動かそうとは思わない。曰く、「超然としている」。

理津子は文麿の行動そのものに対して直接的に文麿に何かを言ったりはしない。それを持って理津子は自分を「超然」としていた訳だけど、それは「見て見ぬ振り」とそう変わらないものだった。それに、「行動」に対しては目を向けていたけれど、文麿の「考え」には全然目を向けていなかった。彼が何を考えているのか、考えたことがあるのか。あるとき理津子はそう自問する。そして、自分がやっていたことは「超然」ではなく「怠慢」だと気づくのだ。

この話は二つの読み方をほとんどオートマチックにしてしまっていて、ひとつは文麿の立場、ひとつは理津子の立場。文麿の立場というのは、「誰かの許しに甘えて生きている自分」、理津子の立場というのは、「怠慢な自分」だ。どちらの自分もいることは認めざるを得ないと思う。もちろん、そういう自分を出さないように日々努力はしているつもりだけど、どうしても文麿だったり理津子だったりしてしまう、それもどうしようもなくてそうなってしまう毎日が続くときも、言い訳ではなくて実際にある。そんなとき、理津子が忘年会から酔っぱらって帰ってきて、眠れているのに眠れないといって傍で寝れば眠れるということを知ってて寝かせてあげて「文麿がしあわせで嬉しかった」と感じる、その心ひとつに救われるし救えるのだ。それこそが「超然」なんじゃないだろうか。そういう「超然」を身につけることができたり、救われたりすることが、僕にもあるだろうか?

途中、理津子のストーカーの話が出てくる。親友ののーちゃんに相談すると、「この手紙をそのストーカーに渡せ」と封された封筒を渡される。理津子は言われる通り、ストーカーにその手紙を手渡すと、それきりストーカーは現れなくなる。中身がどんなものだったのかは最後まで明かされなくて、僕はその内容をうまく想像することができない。のーちゃんは「人間扱いしてやっただけ」と言っていて、これはたぶん、「見て見ぬ振り」をしていた理津子の文麿に対する態度と遂になっているのだとは思う。

『聖☆おにいさん(6)』/中村光

4063729621 聖☆おにいさん(6) (モーニングKC)
中村 光
講談社  2010-12-24

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楽しみにしてた新刊!さっそくジュンクで買ってきて読みました。
相変わらずおもしろいけど、読み終えた直後の感想は「ちょっとパワー不足かな~」。

なんでかな?ともっかいパラパラめくってみたら、全部で7話なんだけど、そのうち、「アスリート達の蹉跌」というよくわからない天部独特のスポーツ(ハリポタのアレみたいな)の話、「コミックスで大わらわ」という漫画界の話という、日常的じゃない話が2つ入ってるからかな。聖☆おにいさんのおもろいのって、立川っていうなんかふつうっぽいとこでふつうじゃない二人がふつうのことしてるってとこなんで、特殊な舞台に行かれると、特殊に追いつくのに頭がいっぱいになっちゃう。漫画界の話は漫画好きの人にとってはふつうのことなんだろうけどね。

「いたいけビーチボーイズ」の愛子ちゃんのぶっちぎりっぷりがいちばんおもしろい!

『BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号』

B004ETEOGO BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]
マガジンハウス  2010-12-15

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今、僕は完全に自分の生き方に迷っている。悩んでいる。狭くは勤めている会社でのロールについて、いったいどこまで研鑽するべきなんだろうかという問題点から、広くはこの先この職業のままでいいのだろうか?大丈夫なんだろうか?という問題点。身につけた価値観は容易に消し去ることができず、他人と比べては見劣りするとか馬鹿にされていそうだとかいう感情の周りをぐるぐる回っている。金を稼がなければならない、出世しなければならない、ステータスを身につけなければならない。そんなの大切なことじゃないという人も、少し気を緩めると、身につけている時計や乗っている車でこちらのことを判断しようとしたりする。それらの物差しを全く気にすることなく、自分が心血を注ぎたいということにピントを絞ることなんて、できるのだろうか?

直前に読んだ『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』でBRUTUSの記事をさんざん馬鹿にした文章があり、BRUTUSそのものを「底の浅い雑誌」と決めつけそうになったけど、これは買ってよかったし読んでよかった。とりあえず読んだのは「正義と個人」「お金と幸福」「現代と仏教」「マネジメント」「今読む哲学」「つながり」だけど、どの章にも現れてくるのが、「短時間で得ようとすることの否定的な面」だ。お金を儲けるにしても、どれだけ効率的かということしか考慮されない。儲ける行為自体には何の価値判断もおかれない。その状況に対して「それは当然おかしいだろう」と声を出せるようになったことが、これまでと劇的に違うところだと思う。ほんのすこし前まで、それらはすべて「本人のやる気の問題」に還元されていた。

あれほど「余計なことはしすぎるほうがいい」と思っていても、結局僕も効率化の波に巻き込まれていた。自分の今の苦境は、効率性至上主義に自分を合わせ過ぎた当然の帰結だと思う。じゃあ非効率であれやりたいと思ったことをどうやってやればいいのか?その問題を考える前に、「とにかく効率性至上主義ではダメだ」とはっきり声を出す人が増えたこと。それがいちばん大きなことだと思う。

『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』/西野佳哲

4335551428 みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?
西村佳哲
弘文堂  2010-12-01

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2010/1/9-11の3日間、奈良県立図書情報館で行われた「自分の仕事を考える3日間Ⅱ」にゲストとして登場した8人の方へのインタビュー。

来月1月の「自分の仕事を考える3日間Ⅲ」に参加するので、予習と思って購入。

予想以上に凄まじい影響力を持ってる本でした。今、というかここしばらく、僕は自分の仕事やキャリアや人生に逡巡していて、ただ漫然と過ごしているだけではダメだし、だからといって何を目指して何をすればいいのか決めきれないという優柔不断の中で、何かのヒントを貰いたくて「自分の仕事を考える3日間Ⅲ」に申し込んだんだけど、この本自体も強烈なインパクトを持って自分の旨に迫ってくる。だいたい、仕事で一方ならぬ実績を上げている人のインタビューというのは、「こんな大変な苦労しました」というものか、「特別凄い能力を持ってる訳ではありません、日々こつこつ努力するのが大事です」というものかなんだけど、この本のゲスト8名はみな一様に、「自分の存在が許される理由ってなんなのか」を徹底的に考えた経験があると述べている。やっぱりそこを徹底的に考えることから逃れられないんだな、と腹を括る。それぞれのゲストの言葉も、「仕事から生きるエネルギーを貰わない」とか、一見、「働いて生きてゆく」という問いにあわないような言葉もあり、ぐいぐいひきつけられて一気に読んでしまう。

僕はどうしても仕事を経済軸で考えてしまうところがある。自分の充実感で、仕事を計れないところがある。それは、言い訳というか、経済軸でも成功を収める、一定以上の稼ぎを得ることが他人から認められることであって、それを抜きにして自分の充実感も何もないと考えているところがある。でも、この考え方からは早く脱皮しないといけない。この考え方は、長いものに巻かれて生きようとする、青二才の現実主義の考え方だ。若いうちはそれもアリかもしれないし、経済力で自分の虚栄心を満たすこともできるかもしれない。でもまず、自分の見栄を捨て去ることが必要だ。それがない限り、年齢相応の成長を遂げることもできないと思う。

友廣裕一
p16  お金ってけっこう関係性を切るんじゃないかって
→正解かどうかは問題でない 視点の問題
三島邦弘
p53 「そのままの自分でいい」なんて思わない
馬場正尊
p67 状況が必要としているものを考えて、その中で自分にできることを素直にやればいいんだ
土屋春代
p95 自分を好きでいたい。嫌いになりたくない。
→これは僕には一生無理だと思う
p96 「”いつか”はいつまでも来ないんだ」
向谷地生良
p113 困難な状況を変革してゆくのは、他でもない当事者
p118 精神障害というのは~
p121 「弱さ」を公開しあうことを、大切にしています
p128 この時に大事なのは、その仕事自体からエネルギーをもらわないこと
p132 自分が自立していく足場を持っているのは必要なことなんじゃないかな
江弘毅
p169 「しゃあない」という言葉は、あきらめとかそういうことではないです。一つの価値軸では判断しきれない時に、仲間と一緒に考え抜こうかっていう。折り合いの付け方のテクニカルタームやと思う」
p170 責任っていうのは、取るもんではなくて、全うするもんです
p175 高度情報化社会っていうのは、・・・容易に記号化したり、数値化できるものばかりを集めた社会のことだと思う
p178 結果さえ手に入れば、プロセスは要らなくなる
p181 BRUTUS特別編集2006
松木正
p200 自分の感情にあまり意識を向けていなかった
枝國栄一
p225 そこはもう、耐えましたよね
p226 一度でも妥協したらそこで気持ちが折れてしまう
p232 最悪なスタートやったけど、だから真似しかできなかっ

『傭兵代理店』/渡辺裕之

4396333595 傭兵代理店 (祥伝社文庫)
渡辺 裕之
祥伝社  2007-06

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昔から推理モノやサスペンスモノやSFモノは手を出さないので、読んでみたらと貸してくれる人がいるのはありがたいです。傭兵代理店というモノが日本に存在してるという突飛さ加減が目新しくて面白かったです。アクションものの映画を観ているよう。「傭兵」とはどういう存在なのかの知識を知れたのもよかった。
海外モノだと、こういった突飛な話の中にも、核となるテーマは国際問題だったりするけど、日本モノだと、道具立てとしては出てくるけどどっちかっていうと主人公の心情に焦点があたることが多いとはよく言われている通りかな。

p199「恐怖を克服できると思うのは、間違いだ。それができると思う奴は早死する」
p254「疑惑というものは一旦意識すると、まるで意志を持っているかのように成長し、所有者を底知れぬ苦悩の渦に埋もれさせる」
p396「おまえたちは、ベトナム、アフガニスタン、イラクと介入を続け、世界中に紛争を蔓延させた。」
p454「ここで焦って動いた方が先に死ぬ」

『クーデタ』/ジョン・アップダイク

4309709575 クーデタ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-5)
ジョン・アップダイク 池澤 夏樹
河出書房新社  2009-07-11

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アップダイクは初めて。村上春樹関連で名前が出てきたので読んでみようと。その名前が出てきた記事では、あんまり評価されてなかったんだけど。

まず読んでいてずっと思ったのは、エルレー大統領の親ソ加減。著されたのは1978年。その当時は、アメリカにも親ソの空気があったってことなんだろうか?日本の北朝鮮への集団移住は1959年。ヒッピーブームは1960年代~1970年代。ヒッピーと共産圏は関係ないようだけど、1972年生まれの僕にはイメージとしてどうしてもつながってしまう。「みんないっしょにしあわせに」という物事の考え方が根底にあるものは、形はなんであれ似通ってしまうんじゃないかと思うのだ。

文体がかなり慣れなかった。超絶技巧な文体で、説明は多く、ディティールも細やかで読んでて面白いのは間違いなんだけど、読み進めている途中で事態がぽつんと語られることが多くて、「え?いつのまにそうなってたの?」と巻戻って読むことが何度か。かなり集中力要します、僕のような頭の悪い人間には。

それと、解説を読んで、この『クーデター』はアップダイクの作品の中ではレアなケースというのを知ってまたびっくり。アップダイクの得意な分野は、エルレーが妻四人愛人一人との間で落ちぶれていく、ああいう様をメインに持ってきた小説らしく、もっと読んでみようと思った。

『ノルウェイの森』/村上春樹

4062748681 ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社  2004-09-15

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406274869X ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社  2004-09-15

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映画を観る前に再読しておこうと思っていて、本屋に入った際それを思い出したので文庫本を買った。『ノルウェイの森』は何かの折に(何か節目になるような出来事があった際や特にそういうことがなくて単に思いついた際)再読しているけど、毎回、「こんな話だったっけ?」という印象を抱いている気がする。それにしても今回は、僕の読書におけるグッドラックを、自分で思い込んでる気に入った言い方でいうとセレンディピティを、一生分とは言わないけれど数年分は注ぎ込んだようなタイミングで読めたんじゃないかと思う。なにしろ、本屋で買って読み始め、端役も端役だけど全然記憶になかったけど「奈良」が登場し、iTSでビートルズがダウンロード可能となる日が訪れ、そして読み終えた。僕個人的にはこれでもう十分。十分、『ノルウェイの森』は僕に生きる力をくれた。実際、会社の人がお土産にくれたラーメンを食べ過ぎ胃を壊した翌日から、微熱が続き何も食べられなくなりみるみるおかしくなって精神的にも完全におかしくなってしまった僕をたった10時間足らずの読書が引っ張り上げてしまったのだ。

「こんな話だったっけ?」という印象以外で、今回抱いた印象で最も大きかったのは、「こんなにわかりやすい小説だったっけ?」というもの。これは、僕が村上春樹の作品を読み続けてきて慣らされてきたからなのか、僕の読書の能力が向上したからなのか、物語を注意深く受け取る感覚が失われ、通り一遍の筋書しか頭に入らなくなったからなのか、その辺は自分自身ではわからない。けれど、自分自身としてはとてもよく理解できる小説に感じられた。例えば「全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。」の部分。そりゃもちろん聞くべきではないよ。今の僕はそう思うし、その理由もパッパッと頭の中にひらめくけれど、若い頃にこれを読んだときは全然違うこを考えていたと思う。できないことの理由を問うことから始まる問答を。「訊くべきではない」というのは、単に「どうして寝なかったのか」という原因を訊くだけが対象じゃない。「寝る」ことに関わる様々な意味が、そう簡単に説明できるようなものではそもそもないから。そんなところに考えを飛ばしていたはずだ。でも今の僕はもうちょっとクリアに「なぜ訊くべきではなかった」のか、思いを巡らすことができる。

なぜ38歳の僕がこの本を今、それも再読の再読で読んで、精神的に立ち直ることができたのかはよくわからない。普通に仕事はできるものの、仕事に行きたくないとまで思うくらい、ちょっと崖っぷちだった状況から、なんとか戻ってこれたのは、この本の力が多少はあると思ってる。確かに、この本を読んでる最中、自分を覆っている時間の殻のようなもの、どうしてもそこに留まることはできないのに少しの希望の欠片みたいのを見つけては留まれるような気になっている自分の殻のようなものが、二つに割れて自分から剥がれ落ち、残念だけれどそれは剥ぎ取って前に進むしかない、そういう感覚が現れたのだ。そうしてこの間に僕にとって現れた変化というのは、無暗に本を読む速度が上がったということだった。