『いま、働くということ』/橘木俊詔 #jbnsgt3k

4623061094 いま、働くということ
橘木 俊詔
ミネルヴァ書房  2011-09-01

by G-Tools

先日、『日本人はどのように仕事をしてきたか』を読んだのですが、あちらが日本人の仕事の歴史を、戦中あたりから、主に経営における人事管理の視線を中心にまとまっていたのに対して、本著は正に「いま」、現代の仕事の捉え方・意義・価値観といったものを、古今東西の哲学、あるいは仕事に対置させうる「余暇」や「無職」の分析によってより深く理解する本です。この2冊を併せて読んだのはちょうど良かったと思います。どちらも非常に簡明な文章で、仕事を考えるための基礎知識を纏めて把握するのに役立ちます。

印象に残ったこと、考える課題となったことを3点:

  • 「仏教的労働観」の「知識」の説明に感動。「知識」は「情報」ではないのだ。ソーシャルとかコラボレーションとかコワークとかなんだかんだいろいろな新しくて手垢のついていない呼び名で、その自分たちの活動の理想性を表して、他の何かと線を引こうと躍起になっている様をしょっちゅう目にするけれど、僕は今後、「知識」という言葉を自分の行動に活用していこうと思う。
  • 日本人はどのように仕事をしてきたか』でも学んだことで、「勤労」の価値観というのは、その時代の経済のカタチ(日本で言えば高度経済成長)に最も効果のある価値観だから、是とされただけで、普遍的根源的な価値がある訳ではない。資本主義の発展のために、キリスト教が有効に作用した歴史を認識する。同じように、今の日本では「やりたいことをやる」のがいちばんという価値観が広がりつつあるが、この価値観はどんな経済のカタチにとって都合がいいから広がっているのかを考えてみる。
  • 僕がフェミニズムをどうにも好きになれないのは、それが問題の原因を常に「外部」に求めるスタンスだからだ。

『これ、いなかからのお裾分けです。』/福田安武

僕は生粋のど田舎育ちなので、「いなか」を持ち上げる言葉とか話とかがどうも好きになれません。「田舎暮らし」とか、一生田舎で暮らすなんて子どもは絶対嫌がるよ。せめてときどき都会に出れる環境だから、田舎暮らしもいいかな、なんて言えるんだよ。自分の子どもの頃の感覚からそう思ってるんだけど、日本には僕が住んでたような、電車で1時間半で都会に出ようと思えば出れるような環境じゃない田舎もたくさんあって、そういう地域の子ども達は、都会に出たいとより強く思うのかそうじゃないのか、もちろん個人によりけりだろうけど、そういうことを思う。
この『これ、いなかからのお裾分けです。』の著者は、生半可な田舎ファンじゃなくて、田舎に生まれ育ち田舎を心から愛している「田舎人」なので、その生き方にただただ感服してしまう。僕は田舎で育ったとは言え、引っ越してきたサラリーマン家庭なので、農業を体験する訳でもなく、著者のようなディープな田舎知識は身についてなくて、同じ田舎で生きてもこうも差のつくものなのかと、引いては日々の過ごし方が大きな差になるんだよなと、当たり前のことを改めて反省したり。そして著者が、漁師に憧れたり、漁師になるために大学を選んだり、そこで漁業の現実を知り将来に迷ったりする姿は、真摯過ぎて圧倒。ここまで筋を通して生きていくことはなかなかできない。田舎暮らしのディティールよりも、その筋の通し方に、誰しも感じるところの多い本だと思います。

田舎で暮らしていくことは、都会で暮らしていくことに較べて、金銭的な豊かさはたいてい劣ることを覚悟しないといけない。「心から喜んでくれる人がいるから、お金儲けにならなくてもいいんだと言うおじいさん」の話が登場するが、これはとても象徴的だと思う、というのは、お金儲けにならなくても暮らしていける要求水準の「おじいさん」ならそういうスタンスで(理想の)生活をやっていけるかも知れないけど、これからいろいろな人生のイベントのある著者が、そういうスタンスで続けていけるのかどうか、そこを指し示すことこそが、現在ではこういう本には必要なことかな、と思う。「はじめてみよう」と誘い出す本はあまた溢れていて、そういうことを言う役割は、もう本では終わったのかな、と。

4862020372 これ、いなかからのお裾分けです。
福田安武
南の風社  2010-07-07

by G-Tools

『日本人はどのように仕事をしてきたか』/海老原嗣生・荻野進介 #jbnsgt3k

1月の3連休に、”「自分の仕事」を考える3日間”に参加して以来、「仕事」「働く」ということが常に頭の中にあった1年。その1年の締めくくりに、”日本における「仕事」の歴史”を学んでおこうと思い、本著を手に取りました。

僕はこと仕事に関する話に限らず、「今、アメリカで起きているのは…」「今、ヨーロッパで主流なのは…」という言説がとても嫌いで、また、「これは日本人特有の…」「これが日本独特の…」という言説も常に疑ってかかる。前者は、もちろん同時代で先進的な国の同行は常に学ばなければならないものの、この言葉が述べられるときのスタンスが多くが盲目的で安易であることと、先行者を追いかけるというやり方はいつまで経っても自らが先行者にはなれないことを認めてしまってるから。後者は、本当に日本独自のことなのかどうなのかという客観的な見極めがないのもあるし、「なぜ、それは日本では成り立つのに、諸外国では成り立たないのか?」ということを考えもしないから。

本著は戦中~戦後から2000年までの約70年の、日本人の仕事の仕方を、雇用・労働・企業人事の観点で整理しています。構成は、「働き方」「企業のマネジメント」に大きな影響を与えた13冊を紹介し、その著者との往復書簡形式になっています。2010年の今、その著作の内容を振り返っている書簡もあり、単なる「言いっぱなし」ではないおもしろさがあります。例えば『新しい労働社会』の濱口桂一郎氏と、「ワーキング・プア問題」における非正規社員の捉え方と解決策について、2009年に著した内容を照らしながら意見交換されています。

自分の理解のために大雑把にKWを整理すると:

■戦中…差別的・大格差の社内階級が存在(この時点で、「家族的経営」が日本の風土から来るものという通説が覆る) 
■戦後動乱期…労使協調→「終身雇用・年功序列」
■高度経済成長期…職務給への対抗→能力主義の誕生・職能制度
■第一次オイルショック後(80年代)…職能の熟練・人本主義
・ブルーカラー中心の産業構造=猛烈な経営効率化・生産拡大が国際競争力に繋がる時代
p97「日本の人件費は先進国の中では圧倒的に安い部類」「もっと人件費の安い途上国といえば、こちらはまだ教育水準・技術力が低いため競争相手にはならず、さらに、社会主義国は冷戦最中で、こちらも国際競争には参加してこられない。」「日本が、まだまだ国際的に優位に立てて当たり前」
■プラザ合意後(85年~)…無策だった時期
■1990年代前半…p152「95年には、50代前半の会社員の年収が20代前半の若年社員の2・88倍」また弥縫策しか手を打たない時代
・終身雇用・年功賃金は高度経済成長期に最適なシステムであっただけ
・集団的・暗黙的な技術・知識より、個人単位の創造的能力
■1990年代後半…下方硬直では経営ができない時代/職能←→コンピテンシー
・就職氷河期
・1971年ハーバード大学マクレランド教授「コンピテンシー」
■2000年以降…「人で給与が決まる」をより透明で客観的に/非対人折衝業務の極端な現象(製造・建設・農業・自営業) 定年破壊、雇用改革

本筋から離れたところで、興味を掻き立てられたポイントが2つ:

p110「世の中の声を聞き、現場の生の資料を集め、公的データと見比べているときに、もう「話の筋」が見えてくるものなのだ」

この後、「筋が見えない人は、高等数学を使って「答え」をなんとか作り出す」と続く。この、「筋」と「高等(数学)」の部分、来年いよいよメインストリームに現れるだろう「ビッグデータ」への懸念に近い。今のところは、解析したい「筋」を持つ人によって、ビッグデータ処理が使われているものの、明確な「筋」を持たずに「なんとなく凄い」ということでビッグデータ処理を手にする人たちが増えだしたとき、かつてのDWHのときのような大混乱が起きるのではないか。そして本当に問題なのは、売る側としては「なんとなくすごい」もののほうが、売れてしまうことである。

p191「西洋人は「情報処理機構としての組織」という組織間を信じて疑わないそうですから。組織で行われるのはもっぱら情報処理にとどまり、知識の創造という考え方がないのです。その伝でいけば、個人はいつでも取り換えの利く、機械の部品に過ぎない」

革新的で創造的なITは、多くが西洋から今のところやってくる。それは位相の違う問題だととりあえず納得しておいて、ソーシャルメディアの流行に併せて日本世間に増えつつある、情報を交換を増やすことで、某かの成果があがるような、コラボレーションやソーシャルやコワークと言われるものがどの程度のものであるのか、よく考えてみたい。そもそも、特にアメリカでソーシャルメディアが勃興したのには社会的な理由がある。「ネットワーク」という考え方も、心の満足度ということを考えたとき、今のままでいいのか。編集の思想、エクリチュール、そういうこともひっくるめてよく考えてみる必要がある。

412150402X 日本人はどのように仕事をしてきたか (中公新書ラクレ)
海老原 嗣生/荻野 進介 
中央公論新社  2011-11-09

by G-Tools

『レインツリーの国』/有川浩

この物語は、もちろん、聴覚障害者の苦しみと、若い頃の父親の喪失という苦しみについて、読み取る物語ではない。その苦しみの「理解できなさ」を読み取る物語でもない。人にはそれぞれ苦しみがあって、その苦しみは聴覚障害や父親の喪失のような特別・特殊なものでなくともその人にとっては苦しみであり、人には理解されることがないのが苦しみなのだ、と読み解くべき物語。教科書的には。それはわかるんだけど、僕は敢えて「聴覚障害者」の部分を、一般化せずにそのまま読みを深めようと思わされた。
聾と中途失聴の違いは、第一言語が手話か日本語かという違いになる。そして、中途失聴者は、第一言語は日本語で、自分からの伝達は第一言語で行えるのに、自分が受け取る伝達が第一言語だと困難を伴う。この「言語」の分離は、手話のみとなる聾者よりも困難と言える側面があると思う。
自分と相手は同じ言語を使っているはずなのに、相手の考えていることが完全には理解できない。これは、中途失聴者だけの苦しみではないかもしれない。もし、「相手の考えていることが完全には理解できない」という状況があったとすれば、それは、中途失聴者の状況と同じ状況に置かれていることになる。「同じ言語を使っているのに、相手の考えていることが完全には理解できない」という状況は、中途失聴者のケースを持ちだすことによって理解しやすくなるが、これは、僕たち誰にでも起こりうること、起こっていることだと思う。そして、その苦しみを誰にもわかってもらえないとぼやきがちになるが、それが中途失聴者に限らない以上、主客を入れ替えれば、僕が第一言語である日本語を使って行っている伝達行為が、相手にとってみれば、僕の考えていることが完全には理解できない、という状況に陥っている可能性だってもちろんある。つまり、「誰にもわかってもらえない」苦しみなんかじゃないのだ。この物語は、同じ言語を用いているのに違う発話になる、つまり、ラングとパロールの物語だったのだ。

4101276315 レインツリーの国 (新潮文庫)
有川 浩
新潮社  2009-06-27

by G-Tools

『どうでも良くないどうでもいいこと』/フラン・レボウィッツ

4794959788 どうでも良くないどうでもいいこと
フラン・レボウィッツ 小沢 瑞穂
晶文社  1983-03

by G-Tools

例えて言うならマツコ・デラックスとかそういうこと?著者は皮肉多目のユーモアで人気を博したそうです。それにこのタイトルに期待大で読み始めてみたのですが、ちょっと日本人の我々が感じる「どうでも良くないどうでもいいこと」というのとずれてはいます。英語の原文で読めたら「ほほう」とニヤッとできるところが、もっと多いんだろうなあ~と思うのですが、残念ながら’10年代の日本に暮らしている僕は、’80年代のアメリカの、若干アイロニカルなノリは半分以下しかわかってないと思います。

そんな中で胸に飛び込んでくる文章というのは、物凄い破壊力です。壮絶な破壊力だったポイントが3点あります。この3点に抉られた人には間違いなく「買い」の本です。

  1. p112「愛読書は「ザ・ホール・アース・カタログ」とかいうもので、着るものはこれを見て注文する」
  2. p183「近代社会の特徴として、一般市民は便利なシステムに頼りたがり、地道で苦しい労力の結果もたらされる喜びや価値を忘れる傾向がある」
  3. p200「貧乏人に税金を課すのだ。それも重税を。金持ちのテーブルからのおこぼれを与える考え方が間違っている」

1.は「世界市民」とか「地球人(アースマン)」とかを自称する胡散臭さに唾棄してる章の一節で、この文章の前は、「地球人(アースマン)は友情のしるしと称する青い葉のある野菜を食することで知られる。熱心に食べるのみで食物連鎖についてあまり考えず、再生説を信じる。」とある。僕は何にせよ、「センスがある」と自他共に認められているそうな人達の、自他共に認められていることのためのシンボル、アイコン、免罪符、あるいはバイブルとしての存在が何かにつけて嫌いで、『ザ・ホール・アース・カタログ』はよくは知らないものの、初めて耳にしたときから嫌いの最右翼だった。それを口にする人たちの、その盲目的な感じが何につけ怖いのだ。なぜ、みんな怖くないのかが分からなくて、怖いのだ。

2.は、’80年代のアメリカで、こういうことが書かれていたことにちょっと感動。「地道で苦しい労力の結果もたらされる喜びや価値」って何だ?この30年間、「それってなんだかんだ言って結局カネで表さないと意味ないだろう?」というところで諦めて手を打って突き進んできたんだと思う。確かに、生活するに不足のないカネを得られなければ、その地道で苦しい労力を続けることはできないし、単に「喜びや価値」で食っていけはしない。その最低限の循環をどうやって作るか?を考え始めているところ。蛇足だけれど、こういうことを言っている著者も、結局のところは「企業初期にひたすら低コストで蓄財し、損益分岐点を越えるところで大きく越えることで一気に安定軌道に乗せる」という、古典的な資本主義の作法に則って成功したところが食い足りない。

3.は超難問。基本的に僕は、この字面通りの意味には賛成だ。消費税を増税して、低所得者層には還付するとか、根本的に間違っていると思う。還付するためのコストを考えてみたら、還付しなくてもいい程度の税率にするほうがよっぽどマシだ。
それに、ここからがもしかしたら著者が言おうとしていることと重なるかも知れないけれど、これはあくまで「相対性」の問題だと思う。お金が足りないのは、結局、低所得者も高所得者も同じ。高所得者が、「税金で50%も持って行かれると思うと、やる気をなくす」と言ってるのは、そのまま低所得者にも当てはまるのではないか。なんかこの辺にヒントがあるような気がする。

『わたしのはたらき 自分の仕事を考える3日間Ⅲ』/西村佳哲with奈良県立図書情報館 #jbnsgt3k

すべての「はたらく」人々にお勧めしたい、と言いたいところだけど、正直、あのフォーラムに参加していない方がこれを読んでも、この本の力の半分も受け取れないんじゃないか。そう思う。2011年の「Ⅲ」に初めて参加した僕が、事前に2009年・2011年の「Ⅰ」「Ⅱ」を収めた本を読んで、わかった気になっていたことを思い出すと余計にそう思う。

それでも、読んでみてほしい。すべての人に。

一読して最も強く思いに残っているのは「健康」。健康とはたらきとの関係。

僕は子どもの頃相当に体が弱く、しょっちゅう病院のお世話になっていた。母親も虚弱体質で、父親に至ってはいわゆる「不治の病」で、一家揃って不健康。だから、健康であることが当たり前だと思っているような人とはどうしても打ち解けられないし、健康について気を使えない人を信用することもできない。

今は子どもの頃に較べれば随分丈夫になったものの、何かに取り組もうとして一生懸命になると覿面に体調を崩すところがある。なにか勉強を始めようと睡眠時間を削り始めたらひどいヘルペスに冒されるとか、ロードバイクも半年くらい続けていよいよというときに他の要因も重なったけどひどい扁桃腺炎になってしまうとか。
その度に僕は「頑張ろうとすれば必ず体に足を引っ張られる」と恨めしく思ってきた。軌道に乗りそうになる度に体が音を上げ、一週間二週間とブランクを置かざるを得なくなり、結果、それまでやってきたことがゼロにクリアされる。
と思ってきたんだけど、ここ最近、そんなことないなと思えるようになってきた。ゼロに戻っているようで、ゼロには戻っていない。三歩進んで二歩下がるでいいんだ、と。

そういうことを思い起こさせる内容が、「わたしのはたらき」にはいくつも出てきた。

とりわけ、川口有美子さんのALS-TLSの記述は堪らない。僕の父親はALSでもTLSでもないが、働くには相当辛い病を患っている。それにも関わらず、発症してからも家族の為に働き続けて僕と妹を独立させ、その後も働き続け、患って27年、定年まで勤め上げた。これをはたらくということのすべてだと思いはしないけれど、はたらくということの非常に大切なことがここにはあると確認している。

「仕事」でも「働く」でもいいけれど、それは「感謝する」ためにあることだ。間違えたくない。仕事や働きは、誰かに「感謝してもらう」ためにするものではなくて、仕事や働きをすることは、それによって誰かに「感謝する」ことなのだ。「感謝させて頂く」と言ったほうが判りやすいかもしれない。それを自分が仕事や働きとして選び取っている以上、それをやり切るのは「当たり前」のことで、感謝してもらえないからやる気にならないというのは筋が違うと僕は思っている。そして、仕事や働きをやればやるほど、いろんな人たちの力が重なって自分の生活が営めているということが判るし、そういうのではない、うまく言葉にできないところで、仕事や働きというのは「感謝する」ことなのだと思う。

坂口さんの「啓蒙」に関する熱い語り口とか、僕は「啓蒙」は大嫌いな概念なのでちょっと鼻白んだこととか、そういう思いも普通なら書きたいんだけど、この『「自分の仕事」を考える三日間』とそれを収めたこの本については、そんなことどうでもいいくらい満ちてくる思いというのがある。図書情報館の乾さんを直撃して、お話を聞かせて頂き、今も交流を持たせて頂いているのもそのエネルギーがくれたものだと思う。あれから約一年、チェックポイントを設けたい。

4335551509 わたしのはたらき
西村 佳哲 nakaban 
弘文堂  2011-11-30

by G-Tools

『スウィート・ヒアアフター』/よしもとばなな

これは、関西に住んでいる僕のような、東日本大震災で直接的な被害に遭っていない人こそ読むべき物語だと思います。絶対に読むべきです。

帯に「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。」とあって、「そうなんだ」と思って読んで、読み終えて「そうかなあ?」と思って、今これを書き始めて「その通りだ」と思ったのです。

この物語の中には、大震災は出てきません。そこまで直接的な物語ではなく、帯に「小夜子は鉄の棒がお腹にささり、一度死んで、生き返った。」と書いているほど、オカルティックな物語でもありません。確かに鉄の棒がお腹にささるんだけど、「一度死んだ」はどちらかと言うと、比喩的です。
でもこの物語は、確かに大震災を経験した人々に向けて書かれているということは、読めば実感できると思います。「とてもとてもわかりにくいとは思いますが」と書かれてますがけしてそんなことはなくて、恋人を喪失し、自身も生死の淵を彷徨い、そこから回復していく様は、変わらぬばなな節であり、大震災を経験した人々への祈りであることもストレートに読み取れると思います。

でも、僕は読中も読後も、いくつも胸に迫るシーンがあったりしつつも、何か読み足りない気持ちが残りました。うーん…と思ったのですが、あとがきを読んでわかりました。

もしもこれがなぜかぴったり来て、やっと少しのあいだ息ができたよ、そういう人がひとりでもいたら、私はいいのです。

この物語の「重さ」は、やはり、あの大震災の被災者の方にきっちりと伝わるのだと思います。あとがきでばなな自身が「どんなに書いても軽く思えて、一時期は、とにかく重さを出すために、被災地にこの足でボランティアに行こうかとさえ思いました。しかし考えれば考えるほど、ここにとどまり、この不安な日々の中で書くべきだ、と思いました。」と書いている通り、被災を真剣に受け止めている人に伝わる「重さ」なんです。そして、その「重さ」を、頭でわかっても心には感じ切れなかった僕は、やはり、大震災を自分のこととして捉えていないのだと思います。
だからこそ、東日本大震災で直接的な被害にあっていない、西日本の人々に読んでほしい、如何に自分が東日本大震災を自分のこととして捉えていないかがきっとわかるから。だから、冒頭で引用したように、「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたもの」という言葉に深く納得したのです。あらゆる場所。

4344020936 スウィート・ヒアアフター
よしもと ばなな
幻冬舎  2011-11-23

by G-Tools

『ラフ・ライド-アベレージレーサーのツール・ド・フランス』/ポール・キメイジ

4915841863 ラフ・ライド―アベレージレーサーのツール・ド・フランス
ポール・キメイジ 大坪 真子
未知谷  1999-05

by G-Tools

今、日本は空前の自転車ブーム。ほぼ連日のようにニュースでは自転車に関するニュース(それはたいていピストの暴走とかのあまりよくないニュース)が取り上げられる。エコな移動手段、健康的、クリーンなイメージと共にある自転車。でも自転車がブームになったのは今が初めてじゃない。1960年代にも大流行したことがあるらしく、当然だけどその歴史は古い。

本著が取り上げているのはそれよりはまだ新しく、1980年代後半のツール・ド・フランスを中心に語られる。1980年代と言えば日本は高度成長期からバブルに向かおうとする、正に現代に通じる発展を遂げてきた時代で、世界ももちろんそう変わらない。にも関わらず、登場するエピソードはいったいいつの時代の話なんですか?と繰り返し聞きたくなるくらいに泥臭く闇の世界的なある行為が語られる。ドーピングだ。
自転車競技は1980年代、薬物に汚染される道をひた走っていたらしい。ドーピング自体は禁止行為だったが、バレなければ構わない。というよりも、バレずに済むことが判っていれば使用する者が当然のように現れ、使用しない者は使用する者にどうやっても勝てないとすれば、これも当然のように誰も彼も使用するようになる。正に悪化は良貨を駆逐する。そこまでして勝たなければいけない最大の理由はスポンサーだ。つまり、1980年代のロードレース界は、金によって薬にズブズブと使ってしまっていたのだ。

著者のポール・キメイジは本著のサブタイトルに「アベレージレーサー」とある通り、華々しい戦績を挙げた選手ではない。であるが故に、ドーピングの告発を込めたこの本も、その発言も、「ぱっとしない選手がああいうことよく言うんですよね」式に片づけられそうになったらしい。ルールを破ることが成功するための唯一の道で、その中でルールを守ることを貫き通す勇気を、この本から学ぶことには意味がある。どんな世界でも、常にルールと倫理を厳しく守り通して競い合うとは限らない。むしろ逆で、ルールの抜け道を探し出すことが勝利に大きく貢献したりする。それでも、自分はそのようなことはしないというスタンスを貫く勇気と、そういうルールを補正し続けて行こうという持続力の大切さを知ることのできる良書。

デザインが教育を殺す - 『震災のためにデザインは何が可能か』

4757142196 震災のためにデザインは何が可能か
hakuhodo+design studio-L
エヌティティ出版 2009-05-29

by G-Tools

全体を通してまず印象に残っているのは、山崎亮氏の章:「デザインが社会のためにできること」。この章の冒頭、山崎氏は”スタルクの「あの発言」をどう捉えるか”と題して、

商業的なデザインとは、極言すれば「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」です。

次のデザインを手に入れたくなるのが心情ですが、新しいデザインが登場するたびに商品を買い換え続けるわけにもいきません。結局、幸せは期間限定でしかなかったということになります。

と書いているにも関わらず、それを受ける次節以降は、その「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」という問題に対する解は何も書かれない。書かれずに、「デザイナー」の生き方についての指南が書かれるだけ。この本の大きなコンテキストは、デザイナーの生き方ではないはず。『震災のためにデザインは何が可能か』であって、デザイナーは社会的デザインという生き方があるよ、ということを伝える本ではないはずだ。それに、もしそれを伝えるのなら、社会的デザインに携わっても、「今日新しいものを、明日古くするための」商業的なデザインを携わるのと同じような「商業的な」成功ができる道を示すなり作るなりするべきではないかなと思う。商業的な成功を我慢して社会的デザインに携わりなさいというのでは、道を拓いたことにならないのではないか。

 ついでに繰り返して言うと、僕は、仮にそれが「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」から脱却していて、「新しい古いから解き放たれた永遠のデザイン」だとしても、その分の金額が上積みされるようであれば意味がないと思っている。どちらにしても、この現代で永遠に使い続けることなどあり得ないのだ。なのに、一生モノを一生モノの価格で販売するほうが、思想洗脳した詐欺行為に近いと思っている。

もう一つは、山崎氏の章にも

そのとき、デザインの力が有効に働きます。デザインが持つ「正しさ」や「楽しさ」や「美しさ」が、課題の共有に役立ちます。多くの人たちが共感できるデザインであることが、社会の課題を解決する力を醸成し始めるのです。

と言った文章で表現されるように、デザインが社会の課題を解決する力になることが繰り返し語られていて、これは本著の性格上当然ではあるけれど、ともすれば「デザインがなければ社会の課題を解決する力が生まれない」とまで言っているように聞こえてしまう。

本来、社会の課題を解決しようという意志は、社会に生きる中で感じ取れるものだし、感じ取れなければならないもので、それを感じ取る能力というのは、自律的で能動的で、家庭と教育によって個人に醸成されていくものだと思う。そういう「個人」が多数の社会が前提で、デザインがそれを手助けする、という思想には、どうしても聞こえないような感じがする。それは、もはや「デザインがなければ、現代人は社会の課題を解決しようという気にすらならない」と言っているようで、少し高慢な感じがするし、その姿勢というのは、教育の重要性というのを根本的に忘れてはいないか、と思ってしまう。
自分たちは十分に教育を受け、もしくは独学で学び、十分に知的でソフィスティケートされている、そういう自分達が、デザインというものを使って、やる気のない現代人にやる気を起こさせるような仕掛けをいっちょ作ってやろう、言い方は悪いが、そういう、あの僕たちが忌み嫌う「啓蒙主義」に通底するところがあるように少し感じた。 

『ユリイカ-特集=宮沢賢治、東北、大地と祈り』

4791702255 ユリイカ2011年7月号 特集=宮沢賢治 東北、大地と祈り
吉本 隆明 池内 紀 奈良 美智 大庭 賢哉 桑島 法子 天沢 退二郎
青土社  2011-06-27

by G-Tools

宮沢賢治と吉本隆明は、僕の読書体質に大きな影響をくれた二大文筆家なので、もちろん読まないわけにはいきません。

東日本大震災に遭って、吉本隆明が宮沢賢治ならどう考えただろうか、という推測が語られます。ひとつは、宮沢賢治は両眼的かつ包括的な物の見方をする。だから、津波に関しても、一面的な分析はしなかっただろう、ということ。もうひとつは、東日本大震災で日本の気候の何かが変わってしまったのではなく、ここ十数年の間にじわじわと気候変化が起きていて、その結果のひとつとして東日本大震災が発生したのだと捉え、今後はこのような気候であることを前提として、社会の仕組や建築建造などを考えていったほうがよい、という話で、このふたつが印象に残っています。

より変化に強い、というよりも突発的な破壊に強い、そういう社会や建築建造を志向するのは、最近、目にする度に収集している「メタボリズム」の思想に関連したり、ここ1、2年の間、聞こえることが増えてきているような気がする「”所有”に対する疑問」にも通じるようでおもしろい。