『情況との対話』

「状況との対話」というイベントがあると聞いて。

4334977030 「語る人」吉本隆明の一念
松崎 之貞
光文社 2012-07-19

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吉本隆明は『情況』という雑誌を発行していた時期があり、1997年に休刊されるまで、雑誌『サンサーラ』に「情況との対話」という連載を続けていた。こういう重複を見かけるにつけ思うのは、「俺も気づかぬままに盗用したり、または誰かの気の利いた掛け合わせに気付かなかったりしてるのだろうなあ」ということ。相当に高いセンスや高度な知識が必要だったりするものはともかく、常識的に流通してそうなことについてはやっぱり最低限として知っていたいし、厚顔無恥でいるような事態は避けたい。

なぜ日本は「後戻り」したがるのだろう?-『再帰的近代化 近現代における政治、伝統、美的原理』/ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ

確か中学生の頃、パソコンのプログラミング関連の本で初めて「メタ」と言う概念を知って以来、「メタ」概念の鮮烈さに打たれつつも、何でもキリを無くさせそうなその魔術的な性質に、これはできる限り距離を置いたほうがいいと、一種タブー視してきました。「再帰的近代化」は、ウルリッヒ・ベックによる第1章でその基本的な意味を把握したとき、「メタ」に対するタブー感を思い起こしました。近代化そのものも再帰的に近代化される。行為も行為自身の影響を受け変化する。確かにそれは、資本主義と工業化を推し進めてきた現代社会で起きている状況を説明する論理だと思いましたが、今の僕の理解では、「それは結局、”変わり続けるということだけが不変”と言っているのと同義では?」という疑問を解消するために読み込むことになります。「単純的近代化」が「規則主導」、「再帰的近代化」が「規則改変」という部分を確認したとき以降、頭の中では直近に読んだ『家族のゆくえ』で目撃した課題-

かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっている

しかし、根本的には世界の先進地域や社会、国家におけるハイテク科学産業を歴史的な停滞の役割から歴史的な流れの中に繰り入れる方法を見つける以外に解決は考えられない

この課題を思い起こしながら読むことになりました。この「暗黙の了解と意思の疎通が不可能に近くなっている」事態は、アンソニー・ギデンズが「信頼の喪失」と語る部分に重なります。まだ信頼が損なわれていなかった前近代社会での「伝統」は、再帰的近代化の過程で個々人のレベルに落とし込まれ、個々人によって取捨選択の末に完全にゼロクリアの末作り変えられるのか、それは希望に満ちたことなのか、満ちていようといまいとその先に向かって進んでいくのだ、という風に読み取ったのですが、特に「伝統」という言葉を用いて前近代社会を扱うとき、日本と少なくとも欧米の思想には大きな違いがあるといつも感じます。日本の思想はこういうとき、ほぼ「回帰」を指向するように思います。「そのままでいよう」というような。前に進めることは現状を改悪すること、だから何とかして歩みを留めよう、できることならあの良かった頃に戻ろう、というような。それに対して欧米の思想は不可逆性を見据えた「再帰」-ただ、日本にも、これは不可逆だからどんどん前に進めてしまおう、できることなら循環を実現しようとした大きな実例がある、それは原子力発電と核燃料再利用、それを思うと少し絶望的な気分になります。

スコット・ラッシュの章で、日本の工業体型が取り上げられて驚きつつ、「情報コミュニケーション構造」の概念の登場に、先の課題と連携させながら読みました。ただ、ニーチェ・アドルフが関わる「美的」が以前からうまく理解できておらず、そしてこの「美的」という軸がキーポイントになると感じているので(それはブルデューが引かれることからも感じる)、この辺りを再度入念に考え直してみようと思いました。

4880592366 再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
ウルリッヒ ベック スコット ラッシュ アンソニー ギデンズ Ulrich Beck
而立書房 1997-07

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デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?-『図書館戦争』/有川浩

もちろん娯楽小説であることは大前提の上で、本著の読むべきところは、「専守防衛」を旨とする-つまり自衛隊の理念の再認識と、東京都青少年健全育成条例改正問題等、表現の自由だけに留まらず、「自由とは何か」という普遍的なテーマであることは疑いの余地はない。しかし、僕にとって途中から頭を回り続けたテーマは、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」-では、デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?というものだった。

「本を焼く国ではいずれ人を焼く」の言が18世紀のハイネの言であることを考えれば、ここで言う「本」を「紙の書籍」としていいと思う。メディアはどうあれ、本には人々の思いや考え方、大袈裟に言えば「思想」が表され誰かに伝えようとされていて、それを「焼く」ということは、誰かに伝えられては不都合な考え方がある誰かが存在するということで、そんなことが許される国は、必ず「思想」を焼くために、「思想」が表された「本」ではなく、それを表した「人」を直接焼く愚挙に出るだろう、ということだけど、ではデジタルを焼く国も、同じように人を焼くのだと言って、誰もが賛成するだろうか?

当然だろ、と僕は思うんだけど、一方で、誰もが賛成するかと考えるとちょっと待てよ、と思う自分もいる。「本を焼く国ではいずれ人を焼く」と真面目に語る人を想像すると、先に「メディアはどうあれ」と断ったものの、その人たちは「本」を物理的に紙でてきた「書籍」を想定しているように思う、それは、電子書籍を全面的には受け入れないような、「メディア」そのものに固執するような人たちが想定できてしまう。いわば紙の書籍を「神格化」しているように映る人たちだ。

そういう人たちは、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と語るだろうか?デジタルであっても、そこに人々の「思想」が現れることは変わらず、世界ではデジタルの強烈な伝播性によって革命すら起こるくらい、「思想」を伝えることができるというのに。なぜか僕は、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人のほうが、同じく「思想」を伝えるはずのデジタルを差別する図が目に浮かぶ。違法ダウンロード禁止法は、利用者側に対する処罰を規定したという点で、デジタル利用への委縮を想定していると思って不思議はないが、何の為に、誰を利益を守るためにそんな法律を作る必要があったのかと言えば、いわゆる「著作権者・管理団体」の利益を守るため、ということになっている。著作権者は自由に「思想」を表現している訳だけど、その権利を守るための方策が、引いてはデジタル利用を委縮させる方向の、ややもすると「別件逮捕」運用のような、正に「本を焼く」ような危惧をしなければならないような方向の法律が成立するに至っている。これでも、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人々は、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と、自信を持って警鐘を鳴らせるだろうか?

4043898053 図書館戦争 図書館戦争シリーズ(1) (角川文庫)
有川 浩 徒花 スクモ
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-04-23

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哲子の部屋

もちろん観ました「哲子の部屋」! やっぱり「暇と退屈の経済学」が欲しいな、と思ったのでした。

哲子の部屋
30分という限られた時間で選ばれたテーマは、「浪費と消費」でした。納得。

「浪費」と「消費」について、凄く判りやすく構成されてました。「浪費」するためには、「モノ」とどう対峙するかが大切。「消費」はイメージ-いわゆる「記号」-が対象なので、無尽蔵になり、その結果、いつまでも満足が得られない。だから、「浪費」しよう。「浪費」は限度のあるものだ。終わりが来るものだ。なぜか。対象が「モノ」だから。

これはすごくすんなり頭に収まるんだけど、「でもなあ」という声が頭に登る理由は、やはり「消費なくして生産なし、生産なくして稼ぎなし」という、資本主義社会に生きる切実なルールに抗えないからだと思う。消費は、番組でも言っていたように、「魔法の仕組み」なのだ。もともとは「万人が必要なモノを、安価に大量に提供する」ことが目的だったかも知れない大量生産のシステムの中で生きていけている僕達は、「消費」が何かを狂わせていることは判っていても、それをどう乗り越えてどんなシステムを描き実現すればいいのか、うまく想像できないでいる。そう、番組中で紹介された、『ファイル・クラブ』のダーデンのように。

消費は終わりがない、けれども無限に続くということではない。消費が魔法なのは、「消費」という一つの概念の中に、破壊と再生の両方を含めることが出来たからだ。消費は、破壊と再生を無限に繰り返して終わりがないのであって、消費ということをいつまでも続けられるということではない。もちろんイメージの消費は消費を無限に続けられるけれど、ここで問題になっているのはイメージ=記号に掻き立てられた、モノの消費だと思う。

だとしたら、「浪費」を大切にする仕組み、すなわち「モノ」を存分に大切にする仕組みというのが、いわゆる「ロングライフ」のような取り組みではないことは明らかだ。なぜなら、「ロングライフ」ということ自体が消費そのものになってしまっているからだ。「ロングライフ」という考え方自体は色褪せないように見えるかもしれないが、それによって実現できていることというのは他ならぬ「消費」だ。何かとってもいいモノがあったとして、それをどこまで扱えばそれは大切にしたことになるのか、十分な線などないのだ。僕たちはまだ見ぬ形で、「浪費」を実現しなければいけないのか、それとも、それすらも「消費」して行きながら、変転する経済社会の中で次々と「浪費」に値する仕組みを見つける不断の努力を強いられるのだろうか?

http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=12n8020120828#

『太陽の南、国境の西』/村上春樹

生まれて初めて、村上春樹の作品を、著者の言わんとしているところに沿わずに読もうとした小説だと思う、たぶん。

高校生時代から20年ちょっと、村上春樹の作品を読んできているので、村上春樹の作品の、少なくとも「オモテ面」の著者の意図は、掴み取りながら読めていると思う。あくまで「意図」で、作品の「意味」ではないけれど、ある程度、オモテ面の意図なら間違わずに読み取れると思う。もちろん、本著も、いつも通りならきちんと「意図」を探し、「意図」に沿って読み、「意図」を掴みとれたと思うけれど、僕はそれとは全く違う風に本著を読んだ。僕にとっての主題は「八百万」だった。

物語の後半、主人公の妻・有紀子の父が、「確実に儲かる」と言って、株を買わせようとする下り。主人公は建築業を営む有紀子の父から資金を提供され、ジャズバーを二軒うまく経営していた。主人公が途中語る「引け目」のようなもの、近しい誰かからたまたまうまく資金を得られたからうまくやって来れているという自責に、僕は主人公のように裕福ではないけれども、たとえば「たまたま」日本に生まれたことで他の貧困国と比較するとうまくやって来れている、という自責が生まれることはある、そして主人公はその「確実に儲かる」話の下りで、とうとうその自責を爆発させてしまう。

その自責の爆発は、純粋に経済的な、生活的な、働き的な理由だけで起きたものではないことは自明のように思う。主人公は、島本さんとの事態で抜き差しならなくなっていたのだ。だから、今の自分の、敢えて何かを取りたてようとしても取り立てるところもないくらいの満ちた生活に、違和感を覚えざるを得なかったからだ。そんな状況が、自責の爆発の背中を押していたと思う。でもそれでも、村上春樹が1995年の10月にこの下りを描いていたことに、驚きを禁じ得ない。そしてその下りを、ほとんどの村上春樹の作品は刊行されると同時に読んできたのに、どういう訳かこの『国境の南、太陽の西』だけは手にも取らずにここまでやってきて、そして今、自分の道に迷いのあるこの状況で読むことになるなんて。

主人公のこの懊悩は、あくまでその経済的な生活基盤が揺るぎないものだからこそのもので、ほんとうにその経済的基盤を失うような状況に差し掛かっても、「少しずつ自分が空っぽになっていくような気がするんだ」なんて呑気なことを言ってられるものかどうか。たぶん、それが言えるような人こそが経済的基盤を得ることが出来るのだろう。

そしてそれを言えないような人は、実は日々空っぽになっていることに気付かないまま、別な不安や不満にばかり付きまとわれてその一生を終えるのだ。本当に恐れるべきはその「空っぽになっていく」ことなのに。

主人公は、起こったことが起こってなかったことのようになっている真空地帯で呆然とする。起こってなかったかのようだからといって、起こっていないということにはならない。そして、時間が経つというのは取り返しのつかないこと。一度は起きたことが、通り過ぎてしまったとき、起こっていないこととして生きていくことは、容易いことなのか、許されることなのか。この真空地帯にいてるときの気分、何をどう考えればいいのかさえ浮かばないような脱力した空気、とてもよく判ってしまう。

何不自由なく与えられた経済的基盤に嫌気を感じ捨てようとし、取り返しのつかないことを自分だけのことのように振る舞い、真空地帯で宙ぶらりんに悩むときでさえ-資格という言葉をもち出してきてさえ-自分が中心で相手に問うことを知らなかった主人公にシンクロすると、やり直してもやり直しても結局何も変わらないのではないかという絶望の感しか抱かせないようだ。だが、少しだけ、もしかしたら何かは変わるのかもしれないという微かだが大きな希望を感じるのは、有紀子が「死のうと思ったけど死ななかった」と主人公に語るシーン。有紀子は若い頃、一度自殺を試みている。一度自殺を試みたことがあり、死の淵を彷徨ったことがあるから、その経験が、今回は踏みとどまらせただけだ、とは思わせない何かを感じられるからだ。

4062630869 国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社 1995-10-04

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『風の歌を聞け』

8/26の日経夕刊。ちょうど村上春樹読んでるときに!

作品ゆかりの地に集まって朗読会をする。なんて素敵なんだ。
春樹の作品で、北海道なら、集まる気持ちもわかるしサマになる。

花巻でやってみたいなあ。 

偶然

このポスト(『暇と退屈の経済学』)を取り上げてもらったことに行き着いて、これはほんとに魂消た。

このポストイットのおかげです、デザインの威力を、身を以て実感したほとんど初めての強烈な出来事でした。

ヘルシンキから帰ってきて、「さすがに書けることたくさんあるな~。FRED PERRYのWiggins Modelも買ってきたし~、変なラーメンも食べてきたし~、あ、そもそもヘルシンキに行く前のことで書けてないこともあるなー、PCの調子があまりにも悪くって」と思いながら数ポスト書いて、「最近、ぜんぜんアクセスしてもらえないし、ここはひとつちゃんとアクセスログを見てみますか」とひさしぶりに見てみたら、一日だけ、異常に(あくまで僕のしがないブログ的には)アクセス数の跳ねている日が。

「どうした!?何があったこの日!?なんかまずいこと書いたっけ!?」

と強烈な不安に襲われながらアクセスアナリシスを操ること十数分(今回、この件で初めてアクセスアナリシスの使い方を相当覚えた。やはり必要に迫られないと人は真剣にならんもの)。

なるほど!

と、先のツイートに行き着いた訳です。

今、この自分の状況で、このポストを読み返せたこの偶然にほんと感謝です。今これからの僕が、このポストの内容を自分自身で反芻した上で、どういうふうな考えを広げ、どういうふうな道を選びながらいくのか。これにだけは嫌気をさしたくない。

 

『暇と退屈の経済学』/國分功一郎

できたら、「暇と退屈の経済学」が欲しかったな。

 

 

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とにかくおもしろかった。掛け値なしに。これは誰にでも読んでほしいけど、とりわけビジネスマンに読んでほしい。それも、「社会とはこういうもんだ」「会社とはこういうもんだ」というような、定番のセリフを口にする、「諦めてる」ビジネスマンに。それにしても、年初にこんなことを書いてすぐにこういう本に巡り合えてしまう自分の引きの強さに感服(笑)。

 

新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

僕は、歴史は終わらないと思う。それは、一日中暇になるような世界は、経済が許さないから。本著も、マルクスが語ったのは「労働日の短縮」であって「無くすことではない」と言っているけれど、経済は、今までのやり方をより短時間で、より簡単に、より効率的にできるようにして「余暇」を産み出す方向に動きながら、その一方で、その動きは新しい「余暇の削減」を生み出している。本著に沿って言うと、より短時間で、より簡単に、より効率的に、という動きは「習慣」の獲得で、新しい「余暇の削減」という動きは、「退屈の第三形態と第一形態のセット」ということになると思う。より具体的な例で言うと、情報通信技術は正にそれだと思う。情報通信技術の発達で、生産も、ニュースの伝達も、医療も、ありとあらゆるものが、より「習慣」化されていっているけれど、人々は「携帯」により時間を注ぎ込んでしまい、「余暇」は削減されていっている。本来なら、モノを考えるべき「余暇」は、ソーシャルと言われる、双六よりもあっけない携帯ゲームの中に「消費」されてしまう。

だから、歴史は終わらない。世界は終わらない。最適な「余暇」の比率なんて、誰にもわからない。

僕が「できたら”暇と退屈の経済学”が欲しかった」と思ったのは、本著はカバー裏表紙にも書かれているように、ウィリアム・モリスを引合いに出し、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」という問題意識で貫かれているんだけど、現在の世間の不安感というのは、「パンだけを求めねばならない世界に、戻ってしまうんじゃないの?」という不安感のウェートが高まってきてるんじゃないかと思うから。

「生きることはバラで飾られねばならない」という姿勢は、「革命が起こってしまったらその後どうしよう」とウィリアム・モリスが考えたのと同じように、「ある程度、パンには困らない世界が出来上がっていて、なおかつ、そのパンを得るために四六時中、仕事をしなくてもよい」世界に住んでいるから、考える意味のある命題だと思う。実際、現代日本で起きていた空虚感とか、素人目には病理としか思えないような精神的な出来事の数々は、高度経済成長期を経て、「余暇」を持てるようになった日本社会が、「暇と退屈」について考え抜くことをしてこなかった結果だと僕は思ってる。「余暇」が出来たのに、そこにも更に「働け、働け」とやっていけば破綻するのは目に見えているし、「余暇」を「退屈の第二形式」で過ごすことの意味を捉えようとしていなかったからだと思う。でも、今の経済状況は、「後戻りするのかも知れない」という不安が中心にあると思う。「今は、そこそこパンには困らないけれど、明日、急にリストラにあって、退屈の第三形式を経ずに、退屈の第一形式に叩き落されてしまうかもしれない」という不安。そういう不安が広がる中では、この『暇と退屈の倫理学』は、少し上滑りに感じてしまう。「やっぱり、思想では食えないよね」というような。

もちろん、そういう循環の構造もまた、『暇と退屈の倫理学』では考慮されているし、かつ、そこにウェートを置くのは本筋ではないというのは判ってます。でも、どうしても、本著の進み方というのは、「右方上がりの経済」的な、「経済は進化する」前提で成り立っているようで、そこが、現在起きている不安を少し取りこみきれないのかな、と思う。

なので、結論章で、「本著を通読することで、読者であるあなたが何を考えたか大事なのだ」という訴えには何も反論するところがなく、現代が「安易に結論を手に入れたがる」社会であるのは、「考える」という重労働、つまり「不法侵入」に耐えかねてすぐに「習慣」に逃げ込もうとするからだ、ということになるんだけど、それでも少し食い足りない気持ちは残った。余暇が生まれることで、考えることができる、考えてばかりではなく、「退屈の第一形式→第三形式」と「退屈の第二形式」が入り混じり、考えつくされたことについては「習慣」となり、考えることだらけになる訳ではないのが「生」、なんだけど、その「考える」ための時間である「暇」は、現在がもしかしたら最大で、縮小していくのかも知れない。

もう一点、「贅沢」に関して、「浪費」と「消費」の違いを説明する際、「物を受け取る」と、「物」という単語を使っているところが、若干、判りにくかったかな。僕は、ここでいうのは、明らかに、実体を伴う「物質」ではないと思っているんだけど、実は、実体を伴う「物質」を受け取れることだけが「浪費」だと、著者は言ってるんだろうか?

425500613X

暇と退屈の倫理学
國分 功一郎
朝日出版社 2011-10-18

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『独立国家のつくりかた』/坂口恭平

4062881551 独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口 恭平
講談社  2012-05-18

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ヘルシンキ行きの前後に渡り読了したんですが、その間に読んだ『家族のゆくえ』と恐ろしいほどシンクロするところがあって、痛烈なインパクトで頭に残りました。それは「考える」ということに関して。吉本隆明氏も坂口恭平氏も「考える」ことの重要性を強調されている。それも、ただ「考える」という枠に収まっているのではなく、「考える=生きる」というところまで持ちあげて語られている。効率化すること、自動化することは考えずに済むことを増やすこと。それにどうやれば対抗して生きていけるのかを、真剣に考えるだけでなく、長く深く考え続けないといけないと思いました。

全体を通じての感想は、経済に関する論点と、精神に関する論点の二つに対しての感想に大きく分かれるのですが、経済に関する論点、態度経済について、ホームレスの方の生き方を述べる部分では、一点、大きく欠落している点があると思っていて、それは、「都市には確かになんでもゼロ円で手に入るくらいものが溢れているかもしれないが、それは誰かが資本主義経済の下で”余剰”的に生産する人がいるから成り立つもの」だということ。ある経済システムがその経済システムだけで自立して成り立つためには、その経済システムの中に「生産性」がないといけない。必要なものをタダで拾ってくる経済システムは、自立していないのでこれを手ばなしで称賛する訳にはいかないと思う。
そこを拡張しているのがゼロ円特区ということになると思うけど、ゼロ円特区も「贈与」で成り立つ訳なので、けして自立していないし、そもそも「パトロンを持つ」ということを推奨しているし、「パトロン」という概念を金銭以外に拡張してはいるけれど、結局のところ資本主義経済からの流入に依存しているのであって、これ自体が資本主義経済に対するカウンターとなるシステムとは言えないと思います。

なので、「態度経済」というのは成立しない、と思うわけではありません。「資本主義経済」でも「態度経済」でも、どちらも安直に否定してはいけないし、選びたい人がそれを選ぶことを尊重するような、そういう精神性を持たなければな、と思うのです。「態度経済」を実現するためには、パトロンと成り得るような人が存在してくれないといけないし、パトロンと成り得るような才能を持った人には、「資本主義経済」のほうで頑張ってもらわないといけない。そこで稼ぎ出されたお金というのは、稼いだ人だけが独り占めして当然というような価値観、いわゆる「競争原理主義」的価値観ではなくて、パトロンとなって当たり前、というような価値観でやっていけるような社会を目指す、そういうのが「態度経済」が目指すところの神髄かなと思いました。

精神に関する論点は、鬱状態のときの視線、「絶望眼」の捉え方は共感しました。僕は鬱ではないけれどひどく塞ぐことはあり、そのときは感性は冴えるのでひどくいろいろなものの捉え方ができるものの、生産的ではないのであまり有用な状態ではないと自分を責めていたが、この捉え方を改める契機になりそう。そして、この状態は、芸術のような領域には役に立つのかもしれないが、自分のようなふつうの社会人には必要のないものと決め込んでいたけれど、芸術と生活を切り離そうとするそのスタンスこそが問題で、芸術と生活は同一線上にあるという認識を保ち続けないといけない。「芸術」をそのように捉えることは坂口氏も本著で書いているし、『楽園への道』でも学んだことだった。

“忘れられる権利”はネット社会を変えるか? - NHK クローズアップ現代

 先日、『PUBLIC』を読み終えてこんなエントリを書いた。

「パブリック」というのはシェアであり、つまり「公開」することからは決して切り離されないとしたら、パブリックというのは不可逆的であると言っていいと思う。だから、著者は「データ保護の4つの柱」に喰ってかかっている。一旦公開されたものはなかったことにはできない。それは確かにそうだけど、技術的なことを言えば、人々の記憶に残ることと、某かの媒体に残ることとは区別すべき問題だと思う。

 そして今日、『クローズアップ現代』がこのテーマを取り上げて、「この世界は僕を中心に回っている、少なくとも僕の世界は」と思わせた。

人々が知ってしまったことをなかったことにはできないとしても、ログを削除可能であることは、パブリックに取って必要不可欠なことだと思う。10年前の自分は今の自分とは違う、だから生まれたときの自分と今の自分とはもはや同じ自分ではない、だから「私」の同一性は何をもって保証されるのかと問うと、過去の「私」の痕跡がログに存在していることは、現在の「私」のパブリックの必要条件ではない、と言えると思うからだ。

 facebookの哲学というのは、「全部が明らかだったら、そもそも問題は起きない」というものだと理解している、今のところ。今日のクローズアップ現代で取り上げられていた、犯罪に関する情報をどう取り扱うのかも、全部が明らかであれば問題はなさそうに思える。つまり、刑期を終え、罪を償っているという情報まで同時に読み手に伝われば。今現時点でのネットの情報は、量は莫大だが不完全。質的にも、アクセス性においても。

 だから、情報が完全ですべてにおいて明らかでアクセス性も申し分ないネットが完成すれば、「忘れられる権利」など問う必要はなくなるのだろうか?僕はそうは思わない。人の記憶は操作できないとしても、削除可能な情報に関しては、削除を制御する権利はあって然るべきだと思うから。それゆえ、ネットは完成しないと思うから。

『PUBLIC 開かれたネットの価値を最大化せよ』/ジェフ・ジャービス

なんであの人、おおかた出来上がったイベントとか団体とかの尻馬に乗って我が物顔になって嬉しいんだろう?と不思議に思わされる人に、ときどき出くわす。そういう人はちょっと前だとたいてい、「シェア」とか「コミュニティ」とか「パブリック」とかを振りかざしてたような気がする。事ほど左様に、未だに舶来主義なのか。

多分2年くらい前だったと思うけど、今はもう辞めてしまったとあるネットコミュニティで、ひたすらコンテクストについて喚いてた時期があった。なんでコンテクストなのか?というと、自分の勤める会社で、日本語はハイ・コンテクストな文化だが、それはビジネスにとってはデメリットなので、簡潔な表現を心がけてほしい、という「お触れ」みたいなのが出て、それに猛烈に憤ったからだった。ハイ・コンテクストであることを否定する者はコンテキストに泣く。そうこうしてると大好きなLOSTAGEが『CONTEXT』という名のアルバムをリリースしたりしてびっくりしたんだけど、ともあれ僕はハイ・コンテクストであることの力を信じているタイプだ。そして、自分が働いているIT業界というのは、一面で、如何にオリジナルをサマリーするかに力を注いできた業界で、例えばデータウェアハウスというのはサマリーの最たるもの、ローデータをそのまま分析するには実用に耐えるだけの速度を出せないから、ローデータの特徴を失わない範囲とやり方でサマライズしてきた、コンプレスしてきた、それがITの歴史だけど、今、ビッグデータと言ってローデータをローデータのまま実用に耐え得る範囲で分析できる技術が登場し始めた。これはハイ・コンテクストをハイ・コンテクストのまま扱う第一歩と言うことだ。

本著でも、「パブリックとプライバシーの倫理」で、「コンテクストを考慮せよ」と述べられ、コンテクストの重要性について繰り返し語られる。けれど、これも本著で語られるように、コンテクストは難しい。そもそも、コンテクストは長いのだ。時間がかかるのだ。人々はこの10数年、如何に簡単に結論を手に入れるかに心血を注いできたといって差し支えないと思う。それは今も昔も変わらない、とも言えるが、コンテクストをすっ飛ばして結論を手に入れるということが「倫理的にも」許容されるかのように振る舞われたのはこの10数年くらいからではないかと思う。それはもちろん、テクノロジーの伸長にリンクしている。そして今や、ビッグデータはコンテクストをサマリすらしない。時間のかかるハイ・コンテクストを、ハイ・コンテクストのまま読み取って、ダウ・ジョーンズ工業平均株価の動きを87.6パーセントの確率で読み取るのだ。

それでも、本著がコンテクストの重要性を述べていることは非常に貴重で大切なことだと思う。それがどんなに時間のかかることでも、コンテクストを無視するところにプライバシーもパブリックも存在しないからだ。仮に何らかの事情で答えを早く欲しいとしても、そこにコンテクストがあることを忘れてはいけない。

だからこそ、これだけの厚みのある、これだけの「ハイ・コンテクスト」な一冊を読み通す意味がある。この本を読まずして、パブリックだのシェアだのコミュニティだの言っている人よりも、僕はより深くパブリックとシェアとコミュニティについて考えることができるだろう。あまり関係のないコンテクストからパブリックとシェアとコミュニティに掠るような話をひっぱり出してきて語るようなマネをしなくとも、パブリックとシェアとコミュニティのコンテクストで僕はパブリックとシェアとコミュニティについて会話することが出来る。

コンテクストをすっ飛ばして結論を得るというのは、つまり、自分がいつどうやって死ぬのか分かっている人生を選びたい、というようなものだ。間違うことのない、結論の判っている「成功」の道を進みたいということだ。僕にはそれがあんまりにも詰まらなく見えるので、コンテクストを大事にする。だから、冒頭に述べたような、結論の判っている「成功」に群がる人たちが、つまらなく見えるのだ。

4140815132 パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス 小林 弘人
NHK出版 2011-11-23

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