『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』/ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール

 はじめて電子書籍をリリースして、実感も伴ったところで。

 基本的に僕は紙の書籍が無くなるとは思ってないし、紙の書籍がいいなあという思いも持ってるけれど、盲目的に「本と言えば紙だ」みたいなことを言う人には少し白けてしまう。電子書籍の利便性というのは間違いなくあるし、そもそも、本と言うものが歴史に登場するまでは知は口承だった訳で、その時代には「本って何だよ本って。口承だろ、口承」と思われていたはずなのだ。ノスタルジーにしがみつく姿勢は好きになれないです。

 本著は言わずと知れたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが、お互いの家を行き来して行われた対談だそう。「もうすぐ絶滅するという」というタイトルは原タイトルに忠実な訳ではないようだけど、「そんなことちっとも思ってないよ」という空気が出てて、本著によくマッチしてると思います。

 印象に残ってるのは、図書館が全焼するという話がしょっちゅう出てくること。書籍が燃えてしまうということのイメージと、それの象徴的な意味と、そんなこと全然厭わないよ、という3つの軸が展開されるところが面白い。書籍と言えば知、というシンボルと、収集対象、という観点とがあって、めまぐるしく入れ替わる。それと、書籍で興味のあるのは、愚説や嘘の類が書かれているものだ、という箇所。美しいものや優れたものを追いかけていては、人間の知的営みのごく一部しか触れられない、という角度にははっとしたけれど、後半になるにつれて、徐々に若干インテリのスノッブな感じが出てきて語るに落ちたかな、という感じでした。

 でも、書籍の何たるかを考えるには好著だと思います。

4484101130 もうすぐ絶滅するという紙の書物について
ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール 工藤 妙子
阪急コミュニケーションズ 2010-12-17

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『カジュアル・ベイカンシー 突然の空席』/J・K・ローリング

現代の現実社会が舞台でありながら、『ハリー・ポッター』よりも娯楽小説な読後感でした。

と言いながら、実は『ハリー・ポッター』シリーズは、本で読んだことないんです

ストーリーとは別に(やはりストーリーテリングが巧みなので、筋を見失うことなく読み続け読み進められますが、起伏が激しい訳ではなく、ラストも静かに幕を引くような印象があります)、非常に興味深かったのが、各章の始めに書かれている、『地方自治体・自治組織の運営』という書籍?からの引用。

Ⅱ:
p355「自発的な団体の弱点 そのような団体の主たる弱点は、設立時の困難に加えて分裂の可能性が少なくないことである」
p379「貧困の救済 生活困窮者の利益になる贈与は・・・慈善行為と解釈される。また生活困窮者への贈与は、たとえ付随的に富裕者の利益になる場合においても、慈善行為と解釈される」 

チャールズ・アーノルド・ベイカーで検索しても『地方自治体・自治組織の運営』で検索してもなーんも出て来ないので、学の無い僕にはこれが実在なのかフィクションなのか区別がつかないんですけど、それにしてもよく書かれた文章だと思います。

「自発的な団体の弱点は、分裂の可能性が少なくないことである」これは、地方議会等を思い描いて堅苦しく考えなくても、身近で作ったサークルとかグループとか、作らなくとも自然発生した集まりなんかでも容易に思い当たる。これを、どうやれば維持していけるか、と考える方向もあれば、以前読んだ『来たるべき蜂起』のように、コミューンは必ず分裂されてしかるべきものだ、と、コミューンの本質を大事にする方向もあれば、僕のように端から単独に重きを置くという方向もある。どれかが何かから逃げている、という訳ではないと思う。

「生活困窮者への贈与は、たとえ付随的に富裕者の利益になる場合においても、慈善行為と解釈される」 これなんかは流石によく考え抜かれているなあとほとほと感心しました。日本だと、行為の結果がどうあれ、それを行うに至った考え方がヨコシマなら許されないとか、「付随的に利益」があるなら「汚い」とか言い募る風景がすぐに思い浮かぶ。全方位的に、抜け穴なく評価する姿勢はとても大事なことだけど、全方位的に評価した結果、総じて「どう」なのか、ということを判断する意識が、日本の民主主義には欠けていると思う。

4062180227 カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 1
J.K.ローリング
講談社  2012-12-01

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4062180235 カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 2
J.K.ローリング
講談社  2012-12-01

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kindleストア日本版をどう活用するか試行錯誤中-『[速習!]ハーバード流インテリジェンス仕事術 問題解決力を高める情報分析のノウハウ』/北岡元

B0079A3GX2 [速習!]ハーバード流インテリジェンス仕事術 問題解決力を高める情報分析のノウハウ
北岡元
PHP研究所  2011-01-31

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 kindleストアの日本版がオープンしたので、何か1冊買ってみようと思い、選んだのがこれ。よく言われるように、日本のkindleストアは紙書籍に比べて大きく安価な訳でもないし、新刊が多くある訳でもないので、「kindleでなければ」という本を選ぶのは結構難しかった。敢えて「kindleで読む」ということを想定すると、僕の場合、kindleで読むのは概ね通勤時間が最適と言える。なぜかというと、特に行きの通勤時間は混んでいるので、鞄から本の出し入れをするのが大変だから。そして、30分弱の時間は、長めの小説を読むのには不適と経験上判っているので、ビジネス本等が向いている。そこで、少し古めで、1,000円前後のビジネス本を買うのがよかろう、という結論に。
 ところが盲点がひとつあった。僕の持っているkindle 3は、日本のkindleストアで買った書籍をダウンロードできない。日本のアカウントに、kindle 3を紐付できないのだ。アカウント結合したら解決なのかも知れないけど、洋書は洋書で入手できる道を残しておきたいので、androidにkindleアプリを入れてそちらで読むことにした。

 結果を言うと、「ビジネス本」をケータイkindleで通勤時に読む、というのは悪くない。ビジネス本は基本的にはノウハウを吸収するものなので、机に向かうような状況じゃないところで読むほうが頭に残ったりする。読み直したいときに、片手ですぐ読み直せる。小説は、小さい画面でページあたりの文字数が少ない状態で読むとストレスがあるが、ビジネス本はフィットすると思う。

 ところで本の内容自体についてですが、意思決定に関するノウハウの基本が非常にコンパクトにまとまっています。しかもそれらがすべて、「エピソード」という例を元に解説されるので、理解が早いです。個人的には「盲点分析」が知っているようで知らないということが判り、使いこなせるよう読み込みました。

「ビッグデータ」x「松岡正剛」で立ち上るはずのない”物語”-『Harvard Business Review ビッグデータ競争元年』

 「ビッグデータ」と「松岡正剛」と並んでると、読まない訳にはいきません!

B00AN570UK Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2013年 02月号 [雑誌]
ダイヤモンド社 2013-01-10

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 松岡氏は「ビッグデータがどれだけあっても、それを”編集的”に捉えられる視点がなければ有効に活用できない」として、編集工学の手法を要約して説明されている。これは、「データ・サイエンティスト」が注目されるのと同じ文脈で、それ自体は至極全うな意見だと思うけれど、「ビッグデータ」の文脈そのものを、少し捉え損なわれているように感じた。

 (主に)企業が、「ビッグデータ」に期待しているのは、正に「編集的な能力がなくても、自動的に”物語”を抽出してくれる技術」のように見えているからだ。ビッグデータそのものが、イコール物語だとはさすがに思っていない。ただ、ビッグデータから物語を抽出するのに、いちいち「仮説」を考えないといけないようだと、(商用)ITとしての「ビッグデータ」には価値がない。少なくとも、ほとんど売れない。
 そして、完璧な"物語"の抽出など求めている人も、たぶんほとんどいないと思う。今までのDWHよりは物語的な物語を、自動で抽出してくれる装置として、ビッグデータに注目している。それは完璧でなくても構わない、Web2.0以降の「ベータ社会」よろしく、自動抽出された半完成の物語、「物語ベータ」で以て一旦企業活動を回してみる。それをフィードバックする。そういうことを意図している。いわば、編集を不要化したいのだ。なぜなら、ITを頼むというのは、本来的に自動化することであり、「誰でも出来る」ようにするのがその本質だから。物語の抽出さえ、経営者は「個人のスキル」に依拠したくないのだ。

 この「IT(ビジネス)の本質」に届いていなかった分、松岡氏の稿は期待外れでした。 

何歳でも挑むべき「青春」はある-『横道世之介』/吉田修一

「年甲斐もない」という言葉の意味を、間違えてました。この本は、我々団塊ジュニア世代にこそお勧めです!

オビに「青春小説」と書かれてるんですが、主人公世之介の青春時代は1980年代。つまり、本作が書かれた2008-2009年には世之介は40歳過ぎ。青春時代を世之介と過ごした登場人物達が、現在(2008-2009年)から、当時の世之介を回顧するエピソードが挟み込まれて物語が進行します。団塊ジュニアで今年41歳になる僕に取っては若干世代が上ではあるのですが、自分達の青春時代の舞台を背景にして、現代に書かれた青春小説を読む、という、「青春小説なのに懐かしさを伴う」不思議な読書体験になります。土地転がしとか、大韓航空機爆破事件とか。

例えば世之介が大学入学後、地元で高校生の時付き合ってた彼女と再会し、行きがかり上二人でドライブしているときに言われた言葉、

「世之介とこうやってると楽しいんだけど、何かが終わったんだなって、しみじみ思う」

青春小説の王道のモチーフですが、これが、現代から青春時代を眺めている視線で読むことで、それが子どもから大人になる過程としてのみ経験することではなく、いくつになっても避けられないことなのだということをありありと感じます。世之介は九州から東京に出てきて、同じアパートの住人に世慣れてきたと言われたり、ホームレスに無頓着になったり、何かを失う過程を通過しながら、それでも何かを失わずに生きてきたことが描かれるのですが、それは、けして19歳から40歳の間にのみ起こることではなくて、生きている以上死ぬまでそれは避けてはいけない過程だということを、伝えようとしているように読んでいて感じます。

30歳になり、35歳を過ぎて40歳になり、歳を重ねれば重ねる程、「年甲斐もない」という言葉に捉われてきていたのですが、もちろん成熟しなければいけないところは成熟しつつ、本当に「人生死ぬまで青春」という何かはあって、「悩むことを止めたとき、人は老い始める」という言葉そのままに、挑み続けないといけない面があるのだと感じさせられました。本作は本当に、僕と同じくらいの年代の人にお勧めです。少し前に読んだ『青春の終焉』と、組み合わせて自分なりに解釈したいなと思います。

4167665050 横道世之介 (文春文庫)
吉田 修一
文藝春秋 2012-11-09

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介護の相互作用とは-『驚きの介護民俗学』/六車由美

図書情報館の乾さんに「絶対読め」と勧められ(実際にはこんな口調ではない)て購入。

民俗学者である著者が、デイサービスの介護職に就き、その職場で利用者との「聞き書き」を通じて話を聞く。民俗学は、高齢者の語りからの情報収集が素材として重要なようで、語りを得る方法として「聞き書き」が優れており、かつ、ケアワークの職場は「聞き書き」相手がたくさん居る、そして「聞き書き」を受けることは要介護者にとってもよいフィードバックをもたらす、という、介護と民俗学の出会いが「介護民俗学」。

介護の現場で民俗学を、というのも目から鱗だし、単に民俗学にとって都合のいいフィールドというだけではなく、「聞き書き」が介護にとっても有効で、なおかつ、要介護者にとっても心の安定に有用なものだ、ということが部外者にも理解できるように書かれていて一気に読めます。介護する人と介護される人、というと、そこに序列があることを前提としてしまっている、この「非対称性」を、「聞き書き」の持ち込みによって対称に解放し、それによって要介護者の「生活」も豊かになる。それは、要介護者が何かを「受け取る」からではなく、聞き書きで自らの経験を民俗学者に「与える」ことによって得る生活の豊かさ、というところが素晴らしさだと思う。

著者が聞き出せた語りはどれも印象深いが、最も印象深かったものを二つ挙げると、ひとつは、昭和10年代は、食糧事情が良くない時代であり、農家がサラリーマンを見下す視線があったということ、もうひとつは、叔母が姪を育てるなど、血のつながりのない親子関係というのが、めずらしいものではなかったということ。

前者は、貨幣経済の浸透過渡期において、「食糧」のウェイトの大きさ、ひいては「生」の実在感を感じることができる。逆に、「これからは貨幣経済が終わりに向かう」という意見を時折見かけるけれど、それは、こういう「食糧」が重要視される世の中に戻っていくということなんだろうか?と考えた。

後者は、現代社会は「家族」「親子関係」の複雑さによる家庭問題が多発していると言われるけれども、少なくとも血のつながりの有無は、急に出てきた問題ではないということが判る。家庭問題の多発というのは、血のつながりの多様化ではなく、主に経済社会の変質に依存するのではないか、と思う。

4260015494 驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)
六車 由実
医学書院 2012-03-07

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ネット書店には一覧性がないのです

amazonとどっちを使うことになるかな?

amazonとの比較はともかく、hontoのネットストアが「3,000円以上購入で500ポイント進呈」という12/24までのキャンペーンをやってたので、折角なので買ってみようと思いました。ちょうど、『言語にとって美とはなにか』を買おうとしてたこともあるので。

『言語にとって美とはなにか』は1巻が¥780、2巻が¥740で¥1,520。あと¥1,480分何を買おう?さすがにジャスト¥3,000は狙わないけれど、¥500はみ出したら500ポイントのために何やってるのか分からなくなるので、ちょうどいいぐらいの金額の本を見繕うんだけど、これがなかなかうまくいかない。

「なんか欲しい本あったっけな?」と思い返しても数冊しか出て来ないので、勢いamazonのwishlistを見ることに。これが実店舗だとそれこそ山と本があるので偶然の出会いもあるんだろうけど、ネットだとせいぜい売れ筋と新刊で眺めるくらいしかやりようがない。

おまけに意外と¥1,500前後の本がない!どういう訳か¥1,470の本ばかりなのだ。10円足りない!(笑)そうかと思えば¥2,000を超える本ばかりで、おまけに中古で買えば500円以上安くなるので二の足を踏む。

結局、今回はキャンペーンが適用されるように買うのは止め。でもそうなると、hontoネットストアで買う意味ってあんまりない。だからと言ってamazonに拘る理由もないんだけど。実店舗でもネットでも買えてポイント貯められるhontoに片寄せしたほうがいい?ちょっと思案どころ。

美意識の到来

来年のテーマは「美」。もう決めた。

4041501067 定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
吉本 隆明
角川書店 2001-09

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思えば僕は造詣のない芸術の中でもとりわけ美術は全然解せなくて、素晴らしい絵画を見て「これは凄い」と感動するなど、そのくらいのことは出来るけれど、著名な作者とか歴史とかその作風や背景や意図や、といったことに全く疎いと言っていい。なぜ疎いかというと細やかな違いが判らないからで、大雑把に見てはっきり特徴のあるようなものは認識できるけれど、そうでないものは識別できなくて鑑賞できない。

そんな僕なので、デジカメもケータイのカメラ機能で十分とずっと思ってきた。ロードバイクで遠出する際、写真を撮りやすいようにとデジタル一眼を買ったけれど、それもどちらかというと「すぐ撮れる」という点を重視した買い物だった。

ところが、そんな僕が、ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真の違いに気づき始めた。奈良に住んでいるのでサイクリングの行先も神社仏閣が勢い多いんだけど、神社は取り分け違いがはっきり判る。社に漂う気配の映り具合が違うのだ。

このことに気付き始めたときに読んだのが、『プラスチックの木で何が悪いのか』だった。本物の木と見分けが全くつかない精巧なプラスチックの木があったとしたら、街路樹をプラスチックの木で代用して何が悪いのか。直感的には悪いと言うけれども言葉にするのが難しい命題。ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真も、解像度の差としてその命題が現れる。つまり、いくらデジタル一眼は社に漂う気配が映し出せているといっても、あくまで千数百万画素のレベルでの話であって、一億画素があればそちらにはより克明に映し出され、それでも肉眼に映る気配とは似て非なるもの。では画素数を問わない絵画なら話はどうなるのか。

ニーチェが最後にたどり着いた<価値基準>は「美」だという。僕は何かが美しくて何かが美しくない、という判断にはあまり興味が湧かなかったのだけど、ここにきて「美」に対する興味が大きくなっている。何が美しくて何が美しくない、という話は、相対的で主観的なものとして、相互認証的に「放置」しておくのが最もよい、という消極的な考え方だったところが、「何が「美」なのか」ということと、「「美」とは何か」ということを、突き詰めて考えてみたくなった。この、「美」をうまく言えないところに何かがある。だから、『言語にとって美とはなにか』の再読から始めようと思う。

来年は、僕にとって「美」を深く考えることで、そういう「絶対的な」価値基準から自由に物事を考えられるようになっている自分の思考を、一歩深めることができると思う。

THE BIG ISSUE JAPAN 205号 「スペシャルインタビュー 奈良美智」

再び、「孤独」について。

BIG ISSUEはここで買うと決めているドーチカで「最新号」と言って買ったら奈良美智。不機嫌な子どもと名前ぐらい知ってる、ですが、6年前の大プロジェクト「AtoZ」から震災を経て、今開催中の「君や 僕に ちょっと似ている」までの道のりが描かれていて、わずか3ページのインタビューだけど感動するところがたくさんありました。

人混みに紛れ、共同作業(「AtoZ」を指す)による楽しさと引き換えに忘れてしまったのが、一番のオーディエンスでもある自分自身だった、と奈良さんはいう。

最初に僕の作品に興味をもってくれた人たちは、あの学園祭のような身内の盛り上がり(「AtoZ」を指す)をどう感じたのかなと思ったんです

「共同」という、聞こえの良い、現代では誰も反論することのできないスタンスの内側に、「群れる」という否定的な弱さが忍び込むことを誰もが忘れている。奈良氏は、それを「本能的に人混みに紛れようとした」という言い方をしてる。

集団製作の中で失いかけた孤独な自分自身との対話。

自分は自分自身と向き合わなければいけない。自分自身と向き合っている人こそが、誰かの心にも働きかけることができる。自分自身と向き合っていない人が心を動かされた何かに、間違って心を震わされてしまってはいけない。それは、他の誰かにもまたよくない波を送ってしまうから。

それから、セラミック彫刻を選ぶのかブロンズ彫刻を選ぶのか、というところで、ひとつひとつその特徴とか向き不向きと自分のやりたいことを、丁寧に考えて前に進めてることを読んで、自分もひとつひとつへの思索をもっと徹底してやらないといけないと思いました。

ほんとに「孤独」は不幸なこと、なのか?-『ことり』/小川洋子

 日曜日経朝刊の書評で知って即日買って、一週間で読みました。

 その書評に、「世間ではやけに”つながり””つながり”と言われるが、『ことり』の小父さんの人生を読んで、孤独だった小父さんは不幸だったのだろうか?孤独はそんなに不幸なことなのだろうか?と疑問に思わずにおれない」というようなことが書かれていて、そこが、僕を即日買いに行かせた最も大きなポイントだった。

 ほんとに「孤独」は不幸なことなのだろうか?

 『ことり』の小父さんは、一日のペース、一週間のペース、一年のペースを大切に守りながら、独自の言語しか喋らない、鳥を愛するお兄さんと、そのお兄さんを亡くしてからは独りで暮らしている。小父さんは、心を許せる数少ない人びととの交流の他は、できる限り、人と触れ合うことからも遠ざかり、静かにペースを守るように暮らしている。
 この暮らし方は、現代人から見たら、変化を拒み、社交性もない、だから社会の構成員として何の貢献もない、望ましくない生き方と言われそうだし、人との交流を極力拒んでいる点で、つながりもなく、「孤独」で、不幸な人生のように映りそうだ。

 その小父さんの清純さと頑なさに、胸を締め付けられっぱなしで最後のページを読み終えることになるものの、僕は小父さんの「孤独」を不幸だとは一度も思わなかった。僕たちが住む現代社会は、大切なものを守るために、時に、排他的ではない形での「集い」を試みなければならない、というよりもそれを要請されるような社会になっている。だから、小父さんの生き様は、通俗的にはどんなに淋しそうに見えたとしても、現代社会に住む僕たちは、必ずや「手本」として心に留めておかなければならないひとつのスタイルなのだ。

 そしてもう一つ、"つながり"を価値あるものにするのは、「孤独」を尊べる者だけなのだ。「孤独」の価値を、「孤独」の意義を、「孤独」の理由を知らない人がつながっても、そこで生まれてくるのは欺瞞のエネルギーだけ。何かをやった気になるだけど、誰かに利用されやすいだけの。「孤独」を恐れない人たちの"つながり"こそが、本当の"つながり"なのだ。 

4022510226 ことり
小川 洋子
朝日新聞出版 2012-11-07

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