『WIRED』とお上と『踊る大捜査線』

日本人の僕には胸の奥底に間違いなく「お上信仰」が宿っている。少しでも気を緩めると襲い掛かってくる。

そして僕が最も嫌うのは、権力に楯突くフリをする癖に、自分に有利になると判ったら権力のある人や有名人著名人やインフルーエンサーと言われる人に近づける機会があれば簡単に擦り寄りお近づきになろうとする心性だ。その節操のなさはどこから来るのか。だからと言って「権力大好き」と開き直っているのも好きにはなれないが、「誰かが得をするのは許せないけれど、自分だけが得をするのは全然オッケー」というのは軽蔑以外の何物でもない。

そしてそれを自分に課するのは本当に苦しい。なぜなら、そういうふうに振る舞う同じ種類の人がそんなにはいないからだ。疎外感。何の「得」もない疎外感。それでも、自立を掲げる人間は必要なのだ。それが小さい自分にとっての唯一の矜持な気がする。自立を掲げられない人間が組んだ徒党など社会にとって百害あって一利もない。

『WIRED』の若林恵編集長のこのEDITOR'S LETTER、素晴らしいとしか言いようがない。お上とサムライ。いつからこんなものを奉るようになったんだ。もう片方の手で自由を求めるようなフリをしながら、もう片方の手でお上の庇護を渇望している。そんなバカな振る舞いないだろう。西欧にだって「神」はいて、神が見ているから善を行え、それと同じように日本ではお上が見てくれているから耐え忍べ、本気でそう思っているならそう振る舞えばいい。それでいて同時に自由を欲しがるなんて勝手すぎるだろう。お上が何もしてくれないから。国の補助が。助成が。バカバカしい。

先日、「地上波初登場」と謳ってた『踊る大捜査線 THE FINAL』を観て、踊る~を観るといつも感じる違和感を今回も同じように感じてた。なぞるべきストーリーはおもしろいんだけど、ストーリーを通して作者が言いたいこと、みたいなテーマがいつも頷けない。『THE FINAL』では、青島が「正義なんてのは、胸に秘めてるぐらいがいいんだよ」と言う。多数の人々が協力してことを成し遂げる組織では、組織のルールと体系に沿うことが必要なんだ、と説く。この組織は「社会」と言い換えてもいい。そして悪いことをしてた人は、「お上」=人事官が捌いてくれる。現場は、ルールを逸脱して告発のような行動を起こすのはご法度。『THE MOVIE 2』か『3』かで、ネットを使って連携をする、誰かがリーダーではないヨコのつながりで活動する犯人グループに対して、自分たちには素晴らしいリーダーがいる、と青島が叫ぶシーンがあったと思う。あれも、ある種のお上信仰だ。立派な君主が登場して立派な君主による「独裁」のほうが、組織=世間はうまく行く、と言っているかのようだった。時代はフラットな組織の有効性をうたいだしていた中で、それに反論するかのような「テーマ」を訝しんだ。『THE FINAL』に戻るけれど、確かに鳥飼たちのやり方は違法なだけに許されないものの、アクションを起こしたということを否定するような筋書きは評価できない。

自分のことは自分でやる。お上をあてにしない。そこにしか未来はないと思う。それは、政府がバカでもなんでもいいということではない。自分のことを自分でやろうと思わない人が多いから、まともな選挙結果にならない、ということだと思う。

『スナックちどり』/よしもとばなな

「私」が離婚した「彼」は、明確に「バブル時代」の擬人。みよりをすべてなくした「私」のいとこの「ちどり」は、バブル崩壊後の現代の擬人。「私」と「ちどり」は40歳で、好景気に沸く80年代~90年代前半を目の当りにしながら、その後を今まで生きてきた世代。「ちどり」は、自分の人生でいいことはもうすべて起こっていて、この後はそうそういいこともないまま過ぎていくのだと観念している。この話は、バブル崩壊後、だんだんと老い先が見えてくる頃合いを、どうやって生きていけばいいのかということを、時代を擬人化して語ってくれているのだと思う。

「彼」は、人を楽しそうにするのが大好きな人だったが、それだけの人でもあった。本当に楽しくしているのではなく、あくまで「楽しそう」にするだけ。彼の中には中心がない。人が喜ぶ顔だけを求めて振る舞っている。それがいかに空しいことか判っていながら、少し思い返すとどうしようもなくそんな「彼」のムードに引っ張られてしまう「私」。正に、バブルなんてろくなもんじゃないと頭で判っていながら、その魅力に抗いきれない現代を象徴しているよう。

そんな、どうにも遣る瀬無い状況からなかなか立ち直れない私たちに、「私」は「少し先の楽しいこと」を見出して今日を生きていくことが力になるよと言っている。イギリスを旅する二人は、明日あそこに行こう、という楽しいこと、来年またここに来よう、という楽しいこと、そういうのを見つけて日々を暮らすことが変なスパイラルを断ち切れるやり方だよと。

変なスパイラルを断ち切るために二人がイギリスで少しの間共に暮らしたように、少しの間、その現実から距離を置いてみるのも間違いではないと語ってくれる。いつものよしもとばななの小説のように、得体の知れない生命力が言葉のそこかしこから放たれてくる雰囲気ではなくて、本当に希望を失って、明日のことも未来の夢もよく判らなくなったような、どん底の世代に対して、立ち直り方をひとつそっと差し出してくれる、稀有な小説と思う。

416382510X スナックちどり
よしもと ばなな
文藝春秋 2013-09-27

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感情の展示 - チェルノブイリから「フクシマ」へ-開沼博/『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

この写真のように、チェルノブイリの第一中央制御室は2013年の現在も現役で、作業員が働いている。諸外国が福島を大雑把に捉えるのに憤りを感じていても、自分もチェルノブイリはチェルノブイリという都市ごと荒廃していて、発電所など既に機能していないと思い込んでいた。

「日本の戦争関連の博物館やドイツのアイシュヴィッツなどでは、しばしば責任の所在が裏テーマになっている。それは、日本の軍国主義や帝国主義であったり、ドイツのナチスだったりするしかし、ここではそのような責任の所在、絶対的な悪の存在が感じられない。責任の所在はどこにあるのか」
彼女の答えは明快だった。
「全員だ」

「フクシマ」をめぐる二年間の議論においては、「わかりやすい議論」「カタルシスを得やすい結論」をメディアが描き、あるいはそれを少なからぬ人々が求めていた状況の中で、「敵」を探す形での描写が行われてきたのではないか。

チェルノブイリ博物館は、抽象的でアーティスティックで、感情や主観に訴えかける展示がなされているとのこと。日本の博物館は、物や数字をドキュメンタリー的に客観的事実として提示して、その受け取り方は観る側に委ねる形が大多数で、それが正であると思われている。

どうして、(少なくとも)日本では、客観的な展示の仕方が「正」なんだろう?展示に感情を交えることに対して確かに拒絶感はある。その拒絶感を手繰っていくと、「ウェットな日本人のメンタリティ」という否定的な言葉に辿り着いた。どうして「ウェット」であることに、否定的なニュアンスを含めるのだろう?それは、「同質性の強要」を感じさせるからだと思う。ウェットであるというのは「あなたとわたしは同じ」という感覚。展示に感情が混じっていると、その発信者側は、その感情に対して異論を挟むことを拒んでいるように感じる。この「同質性の強要」が、当たり前だけど人それぞれの受け取り方を許さない発信方法を日本では助長しているのだと思う。

責任の所在をまず探し求めるというのも、同じところが出発点ではないかと思う。「責任は全員にある」という考え方は、特に、フクシマについて語っている外国人のブログ等で時々見かけるけれど、自分も含めて日本ではあまり見かけない。日本では「責任は全員にある」ということを、本来責任を取らなければいけない立場にある者が平然と使ってしまうところがある。それを封じるためには、「責任は全員にある」という考え方をタブーにするしかなかったのかも知れない。けれども、「責任は全員にある」という認識から出発する思考を少しでも多くの人が持つように広げていかない限り、福島原発事故を歴史の中に位置づけることができないと思う。

4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う-「当事者性」の問題 『チェルノブイリで考える』/津田大介ー『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。という当たり前のことをいつもくどくどと言ってしまうのですが、そういう当たり前のことをつい言ってしまう気持ちの理由というのを、改めて深く考えてしまいました。

 過度な当事者主義の横行も、異常な放射線忌避による風評被害も、震災遺構をめぐる問題も、すべてに通底しているのは問題の「腫れ物」化だ。紛糾を恐れ、デリケートな問題の議論を先延ばしにしてきたことが我々から「当事者意識」を奪ってしまったのではないか。

 「当事者」というのはとても困難な問題です。「当事者」の要望は、「当事者」が表明するだけでは叶えられないことがある。だから、「当事者」ではない人間がそれを拾い上げるという行動が起きますが、この「拾い上げ」が、「当事者」の意に沿っている場合といない場合があり、更に、純粋に意を汲み損ねている場合と意図的に沿っていない場合があります。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という、一見反論しようのない言い方で意見を通そうとする人々は、非常に危険であり、意見を表明する立ち位置としてこれは絶対的に間違っているということを明確にしたほうがいいように思います。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という言い回しを使う心性には、「どこまで行っても相手方の気持ちを100%正確に理解することなどできない(かもしれない)」という想像力が働いていないことが明白だからです。我々は、「当事者」の代理で発言することは、本来ほぼ100%不可能なことだという謙虚な姿勢がどうしても必要になると思うのです。

 一方で、「当事者」が「当事者」として発言するときにも、同じことが言えると思います。このことを言うのは非常に骨が折れるのですが、それでも言わなくてはならないと思いますが、「当事者」は、「当事者」としてだけ発言すればいいのかというと、決してそうではないと思います。「当事者」は、「当事者」以外の人々が存在する「社会」を見据えた上で、要望を発言するべきだと思います。震災遺構の保存に関する保存派と解体派の対立と遷移は、時間経緯だけで考えるのではなくて、「当事者」と「非当事者」の双方向の意見交流の望ましいスタンスからも考えたほうがよいと思います。

 その上で日本社会のよくない点というのは、「当事者」に対して「社会」を見据えさせる強度がもともと強すぎること、つまり「忍耐」を強いすぎることだと思います。そして、特に震災に関してなぜ「当事者」に「忍耐」を強いさせるかと言えば、私たち「非被災者」が「非当事者」として振る舞っているから、「当事者」という自覚がないからに他ならないと思います。それは日本で起きたことでありながら、自分たちの問題ではなく、いつの間にか「先送り」に加担してしまっている。

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。当事者の代わりに、当事者の「わたし」を使うことは許されない。けれども、「わたし」を非当事者として配置するのは更に許されない。この当たり前のことを、「私たち日本人」的な思想でぼやかしてしまっているのにどうも苦々しく思います。わたしはあなたを、あたなはわたしを、双方思いながら物を言う。それを理想論だというところから、第三者が仲介に入るという形式を選ぶか、双方思うことなく「わたし」の主張をひたすらぶつけ合って着地点を探る形式を選ぶか、というような選択論が出てくるのだと思います。後者は短絡的にはアメリカ的な印象を持ち、こういう「声の大きさ」で勝負を決めるようなやり方はよい進歩を導かないと思ってきましたが、今現在の状況を鑑みると、お為ごかしが横行して「当事者」が救われないことの多い状況よりも、そちらのほうが幾分ましなのではないかと考えてしまいます。
4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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街の本屋で本を買う - 2013/08/17 ジャパンブックス生駒南店 『文藝春秋 九月特別号』-『爪と目』/藤野可織

 データ・サイエンティスト関連のムック本、もしかしたら売ってるかな、と思ってちょっと行ってみたけれどやっぱり無くて、折角行ったので芥川賞受賞作を読もうと『文藝春秋』を買って帰りました。

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

の書き出しが有名になったように、この小説は「あなた」を主人公にした二人称小説で、この「あなた」と「わたし」の倒錯のややこしさと面白さが肝だと思うのですが、私にはどうしてもこの「あなた」を、読んでいる私に作品が向けているように取ってしまって仕方ありませんでした。

 本作には、三歳の女の子の「わたし」と、その父親、ベランダで変死した母親、そして父親の愛人で母親の変死後同居することになる「あなた」が登場しますが、「あなた」は生にとても執着の薄い人間として描かれます。子どもの頃、ハムスターを飼いたいと両親にせがんで買ったものの四か月で死んだ後は特段それを悲しむことも新しい生き物を飼いたいとも思わなかったというペットに関する挿話を、「わたし」と同居することになる際に思い出してわくわくする話として引き合いに出されるくらい、情の薄い人間(相手の男の連れ子と住むのを、ペットを飼うのと横並べにするような)。

 この、「目の前に流れていくことをうまくやり過ごしていくだけ」の「あなた」を、徹底的に冷徹に見つめていた「わたし」という存在も、一点を除いて「あなた」と「だいたい、おなじ」と言ってしまうんだけど、読んでいる最中、情が薄くて流れに任せるだけで「(不都合なものは)見ないようにすればいい」で生きているこの義母のことを「あなた」という、その「あなた」は読んでいる自分だ、と取ってしまいながらどうしても読んでしまいました。どうせオマエは、自分の身の回りで起きている面倒なことをすべて「見ないようにしている」んだろう、と非難され続けているようでした。

 そう非難し続けている「わたし」も「あなた」と「だいたい、おなじ」と言うところ、人間の精神活動の両義性みたいなものを感じて唸るのですが、「だいたい」じゃないところがどこかというのと、「見ないようにすればいい」という、作中登場する本の一節から引用された文章を「わたし」が「あなた」に言って聞かせたのが、「わたし」が三歳のこの時点ではなく「さらにあと」と表現される、「わたし」が恐らくはこの時点での「あなた」くらいの年齢に追いついた段であること、この二つを思うと、人間は所詮、という少し暗い気持ちにもなります。

 何を見ないといけないのか?という問いを突き詰めたくなる物語なのですが、なぜか、この「あなた」の突きつけられ方に強く引き付けられて読み終えたのでした。

原爆の日に-『チェルノブイリ ダークツーリズムガイド』/東浩紀

原爆の日の今日、この本を紹介します。ひとりでも多くの人に読んでほしいから、印象に最も残る日だと思うから。

「チェルノブイリ」と「ツーリズム」が、「原発事故跡地」に「観光地化」が結びつくその様は、最初は強烈な違和感を持つかも知れません。不謹慎、という言葉が出てくるかもしれません。しかし、アウシュビッツや広島が観光地化していることを思い返すと、チェルノブイリが観光地化していることはけして不謹慎なものではないと理解できるようになります。それは、チェルノブイリ周辺に暮らす人々の収入源を生み出すという実利的な理由だけでなく、「歴史」を実在のものとしてこの地球上に残存維持していくことの意義を理解できるからです。そういった、歴史の悲劇の面・負の面を見れる場所への観光を、「ダークツーリズム」と呼ぶのだそうです。

本書の「はじめに」でこう語られます。

福島第一原子力発電所の事故は、けっして例外的なものではありません。その二十五年前にはチェルノブイリがありました。そしてまた、二十年後、三十年後には(あってはならないことですが)、アジアかアフリカか世界のどこかで同規模の事故が生じるかもしれません。わたしたちは、福島を、そのようなグローバルな事故の連鎖のなかに位置づける必要があります。

原爆ドームがあってさえ、今このような状況に進もうとしている現代です。もし、福島を「歴史」として残存維持する努力を怠ったならば、我々には「進歩」はないということになるでしょう。

チェルノブイリの、福島の記憶は未来に受け継ぐために、「忘れてはならない」とお題目を唱える以外になにができるのか。それが本書を貫く問題意識です。わたしたちは、そのひとつの回答を探るためにチェルノブイリまで行ってきました。

じっとしているだけならそれも大きな罪。一般庶民の私にとって、「お題目を唱える以外に」チェルノブイリまで行くことはできないから、例えばこの本を隅々まで読み、チェルノブイリの今を知ることが、「歴史」の残存維持のために私にできることのひとつであり、やらなければならないことのひとつであると思います。

4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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本著はゲンロンが年一回刊行されている思想地図βの2013年度版で、今年は2冊刊行されるそうで、その第一弾がこの『チェルノブイリダークツーリズムガイド』、そして第二弾が『福島第一原発観光地化計画』で、8月中に刊行予定だそうです。

仮説の終焉 - 『ビッグデータの正体』/ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ、斎藤栄一郎

因果関係よりも相関関係。「ナントカ系」とか「ナントカ女子」とか、すぐ十把一絡げにされたがる日本人にとってはありがたいシステムでは。
ビッグデータの要諦として私が本著から得たのは、「データをサマリしない。n=全部」と、「因果関係を解き明かす必要はない。相関関係がわかれば十分」の二つ。「n=全部」はこれまで「編集」を考える中で念頭においてきたことなので取りあえず脇に置くとして、「相関関係がわかればよい」と言う説明は、ビッグデータに関する視点をクリアにしてくれた。ビッグデータは、発想のパラダイムシフトを促している。ただ、相関関係が判ればいいというのはどうにも釈然としない感覚が残るのも事実。しかし、相関関係というのはある意味で「傾向」分析なのだとしたら、似たような趣味や性向で一括りにされたがる日本人にとって、ビッグデータは相性がいいのかもしれない。

因果関係の追求を放棄するというのは、これまでの因果関係の手法を放棄するということで、「仮説思考」を否定するのに近いと思う。「n=一部」の時代は、集まったデータから某かの知見を得るためには、予め得られる結果の「予想」を立て、その予想とのズレを見てまた予想を立て直し分析する、というのが常套だと思うけど、ビッグデータは仮説を必要としない。入手された「n=全部」を隅々見回して、相関関係を洗い出す。つまり、人間の頭で事前に結果を予想するというプロセスが不要になる。これは、なんでもかんでも理由を問い但し責任者を突き止めなければ気が済まない現代(人)に対する、時代が生んだアンチテーゼという気もするし、予想を捨てるというのは思考の退行のようにも思う。予想の代わりにデータ分析力がインテリジェンスになるのだと言われたら、頷きつつも深く考え込んでしまう。

 
4062180618 ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える
ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 斎藤 栄一郎
講談社 2013-05-21

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『さきちゃんたちの夜』/よしもとばなな

 よしもとばななを読むときの個人的なテーマがあって、それは「収入を得るということがどう描かれているか」ということ。初めて読んだのが『N・P』で、そこから遡って既刊作を読んで、以来読み続けている中で、僕にとってのばななの転換点だったのが『海のふた』だった。ばななの作中の人物の半ばオカルトチックな魅力は抗いがたいものの、読み続けていてどうしても残るしこりのような不満、それは、「この人たちの生活ベースは浮世離れしすぎてて、一般庶民の僕らの世界の物語ではない」という感覚だった。おじいさんの遺産が転がり込んできたのでつつましく生活すれば一生働かなくてもいいようなおとうさんから生まれてきた娘、みたいな設定の下で奇跡を起こされても、ばななの作品世界ではそれでも心を打たれてしまうものの、やっぱりそれを自分の日常生活に活かすには求められる飛躍が大きくて、どちらかというと「寓話」というか、子ども時代にしつけのために読まれて刷り込まれる昔話的にしか活かせなかった。

 それが、『海のふた』は違った。正確には思い出せないけど、かき氷屋を初めて自分で稼ごうとする主人公が登場するのだ。僕はこの作品を、それこそ胸に大事に抱くように読んだ。あらすじすら正確に思い出せないけれど、「自分で稼ごうとする主人公を、よしもとばななが描いた」というその感動は今でも全く色褪せずに胸の中で輝いている。

 そして本作なんですが、これはもう『癒しの豆スープ』に尽きる。他の四篇ももちろん素晴らしいですが、『癒しの豆スープ』はとんでもなくよいです。ばなな独特の馴染のある恋愛・家族ストーリーを縦糸に、「生きる」こと「働く」こと、つまり「仕事とは何か」という、ばなな独特の世界をともすれば曇らせてしまいそうなテーマを横糸に、これ以上ないバランスで描き切られている。金儲けに走るスタンスを否定することはなく、お金に拘らないスタンスを奇異に持ち上げることもなく、それぞれの道にはそれぞれの道の意義があり、その意義を全うするためにはそれぞれに辛く苦しいハードルがあり、その意義を全うするために進んでいる限りそれは正しい歩みであり誰に否定されるものでもないということを、全力で描き切ってある。もし、これを読んで、「収入を得る」ということに対する全方位的なスタンスがわからないとしたら、その人にはもう働く資格なんかないと言い切ってもいいかもしれない。それくらい、「それぞれにはそれぞれの道があり、それは深く意義を理解することで判り合えるもの」ということが込められた物語だと思います。

 それにしても、吉本隆明を読んで、よしもとばななを読んだら、当面、そこそこの程度の本だと読めないんだよなあ。全然おもしろいと感じなくなる。困ったもんだ。

さきちゃんたちの夜
よしもと ばなな

新潮社 2013-03-29
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超オススメ - 『開店休業』/吉本隆明・ハルノ宵子

激推薦。ただただ読んでほしい。僕にとっては今年度No.1決定です。

僕は大学生のときに『共同幻想論』に出会って以来、吉本隆明思想の大ファンで、難しくて理解できないけれどできるだけ氏の著作には触れるようにしてきました。難しくて理解できなくても、読んでいて「おもしろい」と興奮状態になるのが不思議なのです。

その吉本隆明の「最後の仕事」、雑誌『dancyu』での連載を纏め、更に氏の長女のハルノ宵子がコメントを付けた本が出版されたと聞いて即買いに行きました。

読んでいる最中、何度も涙ぐむ。某調味料メーカーのCMで有名になったと思っていた「白菜ロース鍋」が吉本家で古くから「名物」として食卓に上がっていたこととか、そういう意外でおもしろい話も挟まりながら、確かに「味」をテーマに一章一章書かれているのだけど、日々を行きつ戻りつする自由な味わい、それが本著の最大の魅力だと思います。

読んでいるときは、すっと頭に入ってくるのはハルノ宵子の解説文で、吉本隆明の文章は少し読みづらく、活字と配置もあって頭に入って来ず、字面を眺めているだけになっては数行後戻りして読み直す、ということが何度となくあったのに、頭の中に残る「読んだ」という残像・イメージは圧倒的に吉本隆明の文章のほう。ハルノ宵子のは解説文なんだから、と思えば当たり前なんだけど、読みやすさ=残像ではないことの驚きと、解説文という立ち位置を弁えつつもあんなに読みやすい文章を書ける力量をひたすら尊敬し、憧れます。

父親に対する視線。衰弱して記憶が怪しくなっているのに平然と間違いを書いてのける吉本隆明と、それを読んで「この頃の父はだいぶ記憶が怪しくなっている」と切って捨てるハルノ宵子。ひとつの生が終焉に近づいていく、一定の期間における変遷が克明に読める書物はそんなにないです。それだけでも買って読む値打ちが十二分にあると断言できます。

「味」についてのエッセイなのに、『開店休業』という、全然「食」を前面に出してない、それでいて「店」という言葉の入る、判るような判らないような絶妙なネーミングも、実は深い深い意味が隠されているのですが、さすがにそれは書けません。是非、手に取って読んでほしいです。

4833420422 開店休業
吉本 隆明 ハルノ宵子
プレジデント社 2013-04-23

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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』/村上春樹

何と言っても最大の特徴は「短さ」だと思います。

最近、海外文学の翻訳を読んでいてつくづく思うのは、「長い」ということ。長い小説が嫌いな訳ではないけれど、時間が掛かるのです。電子書籍のいちばん有難いのは「可搬性」で、持ち物の多い通勤時、重くてかさばる本を持ち歩かなくても、電子書籍ならいつでも読めるというのがいいんだけど、それはさておき、「一定の塊の時間でもって物語を通読する」ことが難しい現代の現状をきちんと把握してなのか、本作はとにかく短いです。そして、読み進めるにあたっての勘所を丁寧に解説しながら物語を展開してくれます。基本的な線では読み間違えようがないくらい、丁寧に展開してくれます。

個人的に気になっているのは、「沙羅」が何色なのか?ということ。作中でもきちんと語られる通り、主人公である多崎つくる以外の登場人物は、すべて名前に色が含まれる。親友四人だけでなく、灰田も緑川も。でも、つくるが今現在の時間で向き合っている女性である沙羅は、直接的には色がついていない。敢えてこじつけて沙羅双樹で引っ張ってみれば白色か。または白色と黄色?しかし白と言えばつくるが惹かれていて、五人のバランスを壊す引き金となって、なおかつ殺されてしまったシロと重なってしまう。つくるが、つまりは人が惹かれるのはシロだということなのか?そうすると三日後、沙羅はどんな答えを用意するのだろうか?最後に救いがあるようで、また繰り返されるのだろうか?

もうひとつ、「そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」。それが何故起こったのかと言えば、「我々が暮らしている社会がどの程度不幸であるのか、あるいは不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ」。なぜ、僕たちは「自分達でそれぞれに」判断できないのだろう。誰かの判断を奉ってしまうのだろう。ナントカ系とかいうレッテルを、好き好んで自分に張り付けて、誰かの判断を受け入れてしまうのだろう。そうして、自分の判断を誰かに押し付けてしまうのだろう。自分がどんな色であるか、誰かがどんな色であるかは、それぞれ自分自身で決めればいいことだ。同じ色同士で集まるところには、「一九九五年の春に東京で実際に起こった」悪夢に通じる何かが潜んでいることに、もっと鋭敏にならないといけない。繋がりを重んじる前に、それが「繋がらない」を生み出していることや、まずは己が自分を判断できないのならそれだけで害悪であることに自覚的にならなければいけない。

4163821104 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋 2013-04-12

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