街の本屋で本を買う - 2013/11/15 ジュンク堂書店 梅田ヒルトンプラザ店

2か月前、「今こそ原子力推進に舵を切れ」と謳った雑誌が、「福島の被災者が見たチェルノブイリ」とは。

B00EQ5H72O WEDGE 2013年9月号 今こそ原子力推進に舵を切れ
岡本隆司 竹本三保 原田 泰
株式会社ウェッジ 2013

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チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』は過去の原発事故の歴史に学ぶという難しい課題を詳細に伝えてくれた本でした。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』と、WEDGEの2013年11月号「福島の被災者が見たチェルノブイリ」とは、どちらもチェルノブイリの現地を取材し、現実に学ぶというスタンスと思われるのに、なぜこうも受ける印象が違うのだろう?『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』が言うことは真摯に受け止め自分なりに考えてみようと思うのに、WEDGEの言うことは最初から反発する気満々になってしまう。

WEDGEを出版しているのが株式会社ウェッジという会社だけど、株式会社ウェッジはJR東海の関連会社で、WEDGEはびっくりするくらい正直にJR東海の意向を反映したような記事を前面に出してくる。その最たるものが2013年9月号の「今こそ原子力推進に舵を切れ」だった。原子力を封印していることで燃料費4兆円という国富が海外に流出しているとか、なかなか言い返しようのない論法で原子力推進を押してくる。WEDGEはグリーン車で無料配布なので、読者ターゲットもアッパーミドル以上、経営者層なので、「一般世間は原子力反対なのでおおっぴらには言いにくいけれど、事業コストを考えれば電力費は安価なほうがいいから早く原発再稼働してもらいたい」と思っている層にうまく取り入る記事を掲載している。

そんなWEDGEだから、これにお金を出して利するというのは、僕一人が買おうが買うまいが態勢に影響はないんだけど、態勢に影響がないからといって自らの行動をいい加減にするのが最もよくないと常日頃言っているので、ここはひとつ、WEDGE2013年11月号が何を言っているかは、買うのではなく立ち読みで調べようとと、ジュンクヒルトンプラザで立ち読みした。

結局、WEDGEのチェルノブイリ特集から感じるうさん臭さというのは、「自分たちに都合のいい結論ありき」で、それを補強するために、あたかも過去の歴史に学ぶ姿勢を持っているとアピールするのにこれ以上ない「チェルノブイリ」を持ち出しているところだと思う。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』は原子力発電をどうするかについては保留して、チェルノブイリの現状から正しい知識を学ぶことと、福島原発を「観光地化」するという案の説明に徹している。開かれたジャーナリズムというのは、決して中間で客観的な意見を伝えるということではないのだとすると、JR東海の意向を如実に反映するWEDGEもひとつの役割を持っていて、努めて客観的な記載にし、原発をどうするかについて明確なスタンスを出していない『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』はジャーナリズムとしては中途半端ということになってしまうのだろうか?

『数字を追うな 統計を読め』/佐藤朋彦

その数字を扱う「意図」も留意されるべきだけど、何のためにその数字を使うのかと言う「目的意識」の吟味も大事だと思います。

特定秘密保護法案の動向に警鐘を鳴らしたとしか思えない節についてはfacebookにもう書いちゃったので、阪神淡路大震災のときに統計が継続されたエピソードを読んだときに思ったことを纏めよう。

1995年の阪神淡路大震災のとき、被災された調査世帯の一部で、家計調査の家計簿を記録し続けていた世帯があったそうです。過酷な被災状況の下で家計簿と日々の暮らしの記録を記帳されていた調査世帯に、著者は「ほんとうに頭の下がる思いでした」と記されています。

さてその家計調査を見ると、消費支出は1-3月期で約10%、4-6月期で約6%前年同月比減なのに、7-9月期は3.2%増になります。これは、震災で多くの、あるいはあらゆる家財を失った被災者の方が生活を立て直していく中で、エアコンや冷蔵庫といったものが最低限どうしても必要になってくる中で支出されたものと考えられます。

例えばこういう統計を見て、「大災害が発生した際、被災世帯に対して纏まった金銭的な支援が必要になるのは約半年後なので、災害発生時に発生から半年後くらいで機動的に運用できる支援準備を考える」というふうな目的意識で読むのか、「半年くらい経ったころに家財を買い揃え始めるからこのくらいの時期にセールを売ったり出張販売したりすれば稼げる」というふうな目的意識で読むのか。もちろんこの二つの読み方に優劣善悪をつけること自体が危険なことであると認識していますが、こういう判断から逃げないところにしか、いわゆる「品」を獲得していくことはできないのではないかと思います。

エストニアのデジタル行政と「ゼロ・スタート」

数年前エストニアを訪れた際、ヘルシンキからタリンに向かう船上でもフリーのwi-fiが使え、タリンの旧市街でもフリーのwi-fiが使え、「IT先進国と聞いていたけど凄いなあ」と感動した記憶があります。

今思えばフリーのwi-fiが整備されているくらいでIT先進国と思うのが浅かったなあと。『WIRED』の「e-Estonia」を読んでつくづくそう思った。エストニアでは国民の95%がオンラインの税金申告システムを使っている。2005年にはネット選挙が施行されている。わずか18分でネットで会社登記ができる。日本人で、どれだけ「ネットをもっと有効活用すべきだ」と言っている人でも「会社登記が18分でできる」と聞くと「そんなに簡単に会社が作れてしまっては信用やセキュリティに問題が出てくるのではないのか」と後ろ向きなことを言うのがほとんどじゃないかなと思う。

もちろんエストニアの電子登記の仕組みは本人確認や認証などの技術的課題をクリアして運用に乗せている訳だけど、こういった「デジタル行政」の実現を日本で阻んでいるのは、先に書いたような極端にリスクを嫌う保守的なスタンスだけでなく、「革命的」な施策を実行できる環境にあったかどうかが結構重要なのかなと思いました。エストニアは1991年8月、ソ連から独立。銀行や通信といった基本的なインフラが何もない状態から国家を伸長していくためには、ITを徹底的に活用しなければならないというコンセンサスが取れていたということだと思います。

既得権益や過去の遺産に捉われず、「せーの」で一から作り上げていける状態は自ら作り出せる状態じゃないのでどうしようもないことだけど、日本もそういう状態だったことはある。第二次大戦の終戦直後から。概ね世間では、そのとき焼け野原ですべてを失った日本国民は、その後一致団結して国を復興し、世界有数の経済大国に発展を遂げた。けれど、同様に国家的危機と思われた東北大震災とそれが引き起こした福島原発事故後の現在の状態は、国民が一致団結するような状態ではないということらしくて悲しくなる。電力の問題も復興の問題も、被災地と非被災地で、東と西で、分離してしまっているように思える。

B00EI7KTN4 WIRED VOL.9 (GQ JAPAN.2013年10月号増刊)
コンデナスト・ジャパン 2013-09-10

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『恋しくて』/村上春樹

アリス・マンロー、一作読んでみなきゃなあ、と思いながらページを捲った先に現れたのがアリス・マンローの『ジャック・ランダ・ホテル』だったという衝撃。

『恋しくて』は短編集なので、一日一作という感じでそろそろと読み進めていて、そう言えば今年のノーベル文学賞だったアリス・マンローも入門的な作品を調べて読まないと、と思い起こしたところでページを捲ったらアリス・マンローの文字。

しかも、読み終えて、著者あとがきを読んでいたら、恋愛小説の短編集を編むに作品数が足りなくて、「なにかいい恋愛小説ない?」と柴田元幸氏に聞いてみたところ紹介されたのが本作『ジャック・ランダ・ホテル』だった、という逸話まで読める。

最近よく思うんだけど、こういう連鎖は記憶に残すようにしておくのが、いろいろと好循環を呼んでくれているんじゃないかと。

『恋しくて』は春樹氏が一作一作短い解説をつけてくれていますが、『ジャック・ランダ・ホテル』の解説は自分では全然判らなかった点を解説してくれていて、その解説の部分がアリス・マンローに対する興味を一層強くしてくれました。

4120045358 恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES
村上 春樹
中央公論新社 2013-09-07

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『WIRED』とお上と『踊る大捜査線』

日本人の僕には胸の奥底に間違いなく「お上信仰」が宿っている。少しでも気を緩めると襲い掛かってくる。

そして僕が最も嫌うのは、権力に楯突くフリをする癖に、自分に有利になると判ったら権力のある人や有名人著名人やインフルーエンサーと言われる人に近づける機会があれば簡単に擦り寄りお近づきになろうとする心性だ。その節操のなさはどこから来るのか。だからと言って「権力大好き」と開き直っているのも好きにはなれないが、「誰かが得をするのは許せないけれど、自分だけが得をするのは全然オッケー」というのは軽蔑以外の何物でもない。

そしてそれを自分に課するのは本当に苦しい。なぜなら、そういうふうに振る舞う同じ種類の人がそんなにはいないからだ。疎外感。何の「得」もない疎外感。それでも、自立を掲げる人間は必要なのだ。それが小さい自分にとっての唯一の矜持な気がする。自立を掲げられない人間が組んだ徒党など社会にとって百害あって一利もない。

『WIRED』の若林恵編集長のこのEDITOR'S LETTER、素晴らしいとしか言いようがない。お上とサムライ。いつからこんなものを奉るようになったんだ。もう片方の手で自由を求めるようなフリをしながら、もう片方の手でお上の庇護を渇望している。そんなバカな振る舞いないだろう。西欧にだって「神」はいて、神が見ているから善を行え、それと同じように日本ではお上が見てくれているから耐え忍べ、本気でそう思っているならそう振る舞えばいい。それでいて同時に自由を欲しがるなんて勝手すぎるだろう。お上が何もしてくれないから。国の補助が。助成が。バカバカしい。

先日、「地上波初登場」と謳ってた『踊る大捜査線 THE FINAL』を観て、踊る~を観るといつも感じる違和感を今回も同じように感じてた。なぞるべきストーリーはおもしろいんだけど、ストーリーを通して作者が言いたいこと、みたいなテーマがいつも頷けない。『THE FINAL』では、青島が「正義なんてのは、胸に秘めてるぐらいがいいんだよ」と言う。多数の人々が協力してことを成し遂げる組織では、組織のルールと体系に沿うことが必要なんだ、と説く。この組織は「社会」と言い換えてもいい。そして悪いことをしてた人は、「お上」=人事官が捌いてくれる。現場は、ルールを逸脱して告発のような行動を起こすのはご法度。『THE MOVIE 2』か『3』かで、ネットを使って連携をする、誰かがリーダーではないヨコのつながりで活動する犯人グループに対して、自分たちには素晴らしいリーダーがいる、と青島が叫ぶシーンがあったと思う。あれも、ある種のお上信仰だ。立派な君主が登場して立派な君主による「独裁」のほうが、組織=世間はうまく行く、と言っているかのようだった。時代はフラットな組織の有効性をうたいだしていた中で、それに反論するかのような「テーマ」を訝しんだ。『THE FINAL』に戻るけれど、確かに鳥飼たちのやり方は違法なだけに許されないものの、アクションを起こしたということを否定するような筋書きは評価できない。

自分のことは自分でやる。お上をあてにしない。そこにしか未来はないと思う。それは、政府がバカでもなんでもいいということではない。自分のことを自分でやろうと思わない人が多いから、まともな選挙結果にならない、ということだと思う。

『スナックちどり』/よしもとばなな

「私」が離婚した「彼」は、明確に「バブル時代」の擬人。みよりをすべてなくした「私」のいとこの「ちどり」は、バブル崩壊後の現代の擬人。「私」と「ちどり」は40歳で、好景気に沸く80年代~90年代前半を目の当りにしながら、その後を今まで生きてきた世代。「ちどり」は、自分の人生でいいことはもうすべて起こっていて、この後はそうそういいこともないまま過ぎていくのだと観念している。この話は、バブル崩壊後、だんだんと老い先が見えてくる頃合いを、どうやって生きていけばいいのかということを、時代を擬人化して語ってくれているのだと思う。

「彼」は、人を楽しそうにするのが大好きな人だったが、それだけの人でもあった。本当に楽しくしているのではなく、あくまで「楽しそう」にするだけ。彼の中には中心がない。人が喜ぶ顔だけを求めて振る舞っている。それがいかに空しいことか判っていながら、少し思い返すとどうしようもなくそんな「彼」のムードに引っ張られてしまう「私」。正に、バブルなんてろくなもんじゃないと頭で判っていながら、その魅力に抗いきれない現代を象徴しているよう。

そんな、どうにも遣る瀬無い状況からなかなか立ち直れない私たちに、「私」は「少し先の楽しいこと」を見出して今日を生きていくことが力になるよと言っている。イギリスを旅する二人は、明日あそこに行こう、という楽しいこと、来年またここに来よう、という楽しいこと、そういうのを見つけて日々を暮らすことが変なスパイラルを断ち切れるやり方だよと。

変なスパイラルを断ち切るために二人がイギリスで少しの間共に暮らしたように、少しの間、その現実から距離を置いてみるのも間違いではないと語ってくれる。いつものよしもとばななの小説のように、得体の知れない生命力が言葉のそこかしこから放たれてくる雰囲気ではなくて、本当に希望を失って、明日のことも未来の夢もよく判らなくなったような、どん底の世代に対して、立ち直り方をひとつそっと差し出してくれる、稀有な小説と思う。

416382510X スナックちどり
よしもと ばなな
文藝春秋 2013-09-27

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感情の展示 - チェルノブイリから「フクシマ」へ-開沼博/『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

この写真のように、チェルノブイリの第一中央制御室は2013年の現在も現役で、作業員が働いている。諸外国が福島を大雑把に捉えるのに憤りを感じていても、自分もチェルノブイリはチェルノブイリという都市ごと荒廃していて、発電所など既に機能していないと思い込んでいた。

「日本の戦争関連の博物館やドイツのアイシュヴィッツなどでは、しばしば責任の所在が裏テーマになっている。それは、日本の軍国主義や帝国主義であったり、ドイツのナチスだったりするしかし、ここではそのような責任の所在、絶対的な悪の存在が感じられない。責任の所在はどこにあるのか」
彼女の答えは明快だった。
「全員だ」

「フクシマ」をめぐる二年間の議論においては、「わかりやすい議論」「カタルシスを得やすい結論」をメディアが描き、あるいはそれを少なからぬ人々が求めていた状況の中で、「敵」を探す形での描写が行われてきたのではないか。

チェルノブイリ博物館は、抽象的でアーティスティックで、感情や主観に訴えかける展示がなされているとのこと。日本の博物館は、物や数字をドキュメンタリー的に客観的事実として提示して、その受け取り方は観る側に委ねる形が大多数で、それが正であると思われている。

どうして、(少なくとも)日本では、客観的な展示の仕方が「正」なんだろう?展示に感情を交えることに対して確かに拒絶感はある。その拒絶感を手繰っていくと、「ウェットな日本人のメンタリティ」という否定的な言葉に辿り着いた。どうして「ウェット」であることに、否定的なニュアンスを含めるのだろう?それは、「同質性の強要」を感じさせるからだと思う。ウェットであるというのは「あなたとわたしは同じ」という感覚。展示に感情が混じっていると、その発信者側は、その感情に対して異論を挟むことを拒んでいるように感じる。この「同質性の強要」が、当たり前だけど人それぞれの受け取り方を許さない発信方法を日本では助長しているのだと思う。

責任の所在をまず探し求めるというのも、同じところが出発点ではないかと思う。「責任は全員にある」という考え方は、特に、フクシマについて語っている外国人のブログ等で時々見かけるけれど、自分も含めて日本ではあまり見かけない。日本では「責任は全員にある」ということを、本来責任を取らなければいけない立場にある者が平然と使ってしまうところがある。それを封じるためには、「責任は全員にある」という考え方をタブーにするしかなかったのかも知れない。けれども、「責任は全員にある」という認識から出発する思考を少しでも多くの人が持つように広げていかない限り、福島原発事故を歴史の中に位置づけることができないと思う。

4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う-「当事者性」の問題 『チェルノブイリで考える』/津田大介ー『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。という当たり前のことをいつもくどくどと言ってしまうのですが、そういう当たり前のことをつい言ってしまう気持ちの理由というのを、改めて深く考えてしまいました。

 過度な当事者主義の横行も、異常な放射線忌避による風評被害も、震災遺構をめぐる問題も、すべてに通底しているのは問題の「腫れ物」化だ。紛糾を恐れ、デリケートな問題の議論を先延ばしにしてきたことが我々から「当事者意識」を奪ってしまったのではないか。

 「当事者」というのはとても困難な問題です。「当事者」の要望は、「当事者」が表明するだけでは叶えられないことがある。だから、「当事者」ではない人間がそれを拾い上げるという行動が起きますが、この「拾い上げ」が、「当事者」の意に沿っている場合といない場合があり、更に、純粋に意を汲み損ねている場合と意図的に沿っていない場合があります。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という、一見反論しようのない言い方で意見を通そうとする人々は、非常に危険であり、意見を表明する立ち位置としてこれは絶対的に間違っているということを明確にしたほうがいいように思います。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という言い回しを使う心性には、「どこまで行っても相手方の気持ちを100%正確に理解することなどできない(かもしれない)」という想像力が働いていないことが明白だからです。我々は、「当事者」の代理で発言することは、本来ほぼ100%不可能なことだという謙虚な姿勢がどうしても必要になると思うのです。

 一方で、「当事者」が「当事者」として発言するときにも、同じことが言えると思います。このことを言うのは非常に骨が折れるのですが、それでも言わなくてはならないと思いますが、「当事者」は、「当事者」としてだけ発言すればいいのかというと、決してそうではないと思います。「当事者」は、「当事者」以外の人々が存在する「社会」を見据えた上で、要望を発言するべきだと思います。震災遺構の保存に関する保存派と解体派の対立と遷移は、時間経緯だけで考えるのではなくて、「当事者」と「非当事者」の双方向の意見交流の望ましいスタンスからも考えたほうがよいと思います。

 その上で日本社会のよくない点というのは、「当事者」に対して「社会」を見据えさせる強度がもともと強すぎること、つまり「忍耐」を強いすぎることだと思います。そして、特に震災に関してなぜ「当事者」に「忍耐」を強いさせるかと言えば、私たち「非被災者」が「非当事者」として振る舞っているから、「当事者」という自覚がないからに他ならないと思います。それは日本で起きたことでありながら、自分たちの問題ではなく、いつの間にか「先送り」に加担してしまっている。

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。当事者の代わりに、当事者の「わたし」を使うことは許されない。けれども、「わたし」を非当事者として配置するのは更に許されない。この当たり前のことを、「私たち日本人」的な思想でぼやかしてしまっているのにどうも苦々しく思います。わたしはあなたを、あたなはわたしを、双方思いながら物を言う。それを理想論だというところから、第三者が仲介に入るという形式を選ぶか、双方思うことなく「わたし」の主張をひたすらぶつけ合って着地点を探る形式を選ぶか、というような選択論が出てくるのだと思います。後者は短絡的にはアメリカ的な印象を持ち、こういう「声の大きさ」で勝負を決めるようなやり方はよい進歩を導かないと思ってきましたが、今現在の状況を鑑みると、お為ごかしが横行して「当事者」が救われないことの多い状況よりも、そちらのほうが幾分ましなのではないかと考えてしまいます。
4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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街の本屋で本を買う - 2013/08/17 ジャパンブックス生駒南店 『文藝春秋 九月特別号』-『爪と目』/藤野可織

 データ・サイエンティスト関連のムック本、もしかしたら売ってるかな、と思ってちょっと行ってみたけれどやっぱり無くて、折角行ったので芥川賞受賞作を読もうと『文藝春秋』を買って帰りました。

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

の書き出しが有名になったように、この小説は「あなた」を主人公にした二人称小説で、この「あなた」と「わたし」の倒錯のややこしさと面白さが肝だと思うのですが、私にはどうしてもこの「あなた」を、読んでいる私に作品が向けているように取ってしまって仕方ありませんでした。

 本作には、三歳の女の子の「わたし」と、その父親、ベランダで変死した母親、そして父親の愛人で母親の変死後同居することになる「あなた」が登場しますが、「あなた」は生にとても執着の薄い人間として描かれます。子どもの頃、ハムスターを飼いたいと両親にせがんで買ったものの四か月で死んだ後は特段それを悲しむことも新しい生き物を飼いたいとも思わなかったというペットに関する挿話を、「わたし」と同居することになる際に思い出してわくわくする話として引き合いに出されるくらい、情の薄い人間(相手の男の連れ子と住むのを、ペットを飼うのと横並べにするような)。

 この、「目の前に流れていくことをうまくやり過ごしていくだけ」の「あなた」を、徹底的に冷徹に見つめていた「わたし」という存在も、一点を除いて「あなた」と「だいたい、おなじ」と言ってしまうんだけど、読んでいる最中、情が薄くて流れに任せるだけで「(不都合なものは)見ないようにすればいい」で生きているこの義母のことを「あなた」という、その「あなた」は読んでいる自分だ、と取ってしまいながらどうしても読んでしまいました。どうせオマエは、自分の身の回りで起きている面倒なことをすべて「見ないようにしている」んだろう、と非難され続けているようでした。

 そう非難し続けている「わたし」も「あなた」と「だいたい、おなじ」と言うところ、人間の精神活動の両義性みたいなものを感じて唸るのですが、「だいたい」じゃないところがどこかというのと、「見ないようにすればいい」という、作中登場する本の一節から引用された文章を「わたし」が「あなた」に言って聞かせたのが、「わたし」が三歳のこの時点ではなく「さらにあと」と表現される、「わたし」が恐らくはこの時点での「あなた」くらいの年齢に追いついた段であること、この二つを思うと、人間は所詮、という少し暗い気持ちにもなります。

 何を見ないといけないのか?という問いを突き詰めたくなる物語なのですが、なぜか、この「あなた」の突きつけられ方に強く引き付けられて読み終えたのでした。

原爆の日に-『チェルノブイリ ダークツーリズムガイド』/東浩紀

原爆の日の今日、この本を紹介します。ひとりでも多くの人に読んでほしいから、印象に最も残る日だと思うから。

「チェルノブイリ」と「ツーリズム」が、「原発事故跡地」に「観光地化」が結びつくその様は、最初は強烈な違和感を持つかも知れません。不謹慎、という言葉が出てくるかもしれません。しかし、アウシュビッツや広島が観光地化していることを思い返すと、チェルノブイリが観光地化していることはけして不謹慎なものではないと理解できるようになります。それは、チェルノブイリ周辺に暮らす人々の収入源を生み出すという実利的な理由だけでなく、「歴史」を実在のものとしてこの地球上に残存維持していくことの意義を理解できるからです。そういった、歴史の悲劇の面・負の面を見れる場所への観光を、「ダークツーリズム」と呼ぶのだそうです。

本書の「はじめに」でこう語られます。

福島第一原子力発電所の事故は、けっして例外的なものではありません。その二十五年前にはチェルノブイリがありました。そしてまた、二十年後、三十年後には(あってはならないことですが)、アジアかアフリカか世界のどこかで同規模の事故が生じるかもしれません。わたしたちは、福島を、そのようなグローバルな事故の連鎖のなかに位置づける必要があります。

原爆ドームがあってさえ、今このような状況に進もうとしている現代です。もし、福島を「歴史」として残存維持する努力を怠ったならば、我々には「進歩」はないということになるでしょう。

チェルノブイリの、福島の記憶は未来に受け継ぐために、「忘れてはならない」とお題目を唱える以外になにができるのか。それが本書を貫く問題意識です。わたしたちは、そのひとつの回答を探るためにチェルノブイリまで行ってきました。

じっとしているだけならそれも大きな罪。一般庶民の私にとって、「お題目を唱える以外に」チェルノブイリまで行くことはできないから、例えばこの本を隅々まで読み、チェルノブイリの今を知ることが、「歴史」の残存維持のために私にできることのひとつであり、やらなければならないことのひとつであると思います。

4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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本著はゲンロンが年一回刊行されている思想地図βの2013年度版で、今年は2冊刊行されるそうで、その第一弾がこの『チェルノブイリダークツーリズムガイド』、そして第二弾が『福島第一原発観光地化計画』で、8月中に刊行予定だそうです。