THE BIG ISSUE JAPAN 205号 「スペシャルインタビュー 奈良美智」

再び、「孤独」について。

BIG ISSUEはここで買うと決めているドーチカで「最新号」と言って買ったら奈良美智。不機嫌な子どもと名前ぐらい知ってる、ですが、6年前の大プロジェクト「AtoZ」から震災を経て、今開催中の「君や 僕に ちょっと似ている」までの道のりが描かれていて、わずか3ページのインタビューだけど感動するところがたくさんありました。

人混みに紛れ、共同作業(「AtoZ」を指す)による楽しさと引き換えに忘れてしまったのが、一番のオーディエンスでもある自分自身だった、と奈良さんはいう。

最初に僕の作品に興味をもってくれた人たちは、あの学園祭のような身内の盛り上がり(「AtoZ」を指す)をどう感じたのかなと思ったんです

「共同」という、聞こえの良い、現代では誰も反論することのできないスタンスの内側に、「群れる」という否定的な弱さが忍び込むことを誰もが忘れている。奈良氏は、それを「本能的に人混みに紛れようとした」という言い方をしてる。

集団製作の中で失いかけた孤独な自分自身との対話。

自分は自分自身と向き合わなければいけない。自分自身と向き合っている人こそが、誰かの心にも働きかけることができる。自分自身と向き合っていない人が心を動かされた何かに、間違って心を震わされてしまってはいけない。それは、他の誰かにもまたよくない波を送ってしまうから。

それから、セラミック彫刻を選ぶのかブロンズ彫刻を選ぶのか、というところで、ひとつひとつその特徴とか向き不向きと自分のやりたいことを、丁寧に考えて前に進めてることを読んで、自分もひとつひとつへの思索をもっと徹底してやらないといけないと思いました。

ほんとに「孤独」は不幸なこと、なのか?-『ことり』/小川洋子

 日曜日経朝刊の書評で知って即日買って、一週間で読みました。

 その書評に、「世間ではやけに”つながり””つながり”と言われるが、『ことり』の小父さんの人生を読んで、孤独だった小父さんは不幸だったのだろうか?孤独はそんなに不幸なことなのだろうか?と疑問に思わずにおれない」というようなことが書かれていて、そこが、僕を即日買いに行かせた最も大きなポイントだった。

 ほんとに「孤独」は不幸なことなのだろうか?

 『ことり』の小父さんは、一日のペース、一週間のペース、一年のペースを大切に守りながら、独自の言語しか喋らない、鳥を愛するお兄さんと、そのお兄さんを亡くしてからは独りで暮らしている。小父さんは、心を許せる数少ない人びととの交流の他は、できる限り、人と触れ合うことからも遠ざかり、静かにペースを守るように暮らしている。
 この暮らし方は、現代人から見たら、変化を拒み、社交性もない、だから社会の構成員として何の貢献もない、望ましくない生き方と言われそうだし、人との交流を極力拒んでいる点で、つながりもなく、「孤独」で、不幸な人生のように映りそうだ。

 その小父さんの清純さと頑なさに、胸を締め付けられっぱなしで最後のページを読み終えることになるものの、僕は小父さんの「孤独」を不幸だとは一度も思わなかった。僕たちが住む現代社会は、大切なものを守るために、時に、排他的ではない形での「集い」を試みなければならない、というよりもそれを要請されるような社会になっている。だから、小父さんの生き様は、通俗的にはどんなに淋しそうに見えたとしても、現代社会に住む僕たちは、必ずや「手本」として心に留めておかなければならないひとつのスタイルなのだ。

 そしてもう一つ、"つながり"を価値あるものにするのは、「孤独」を尊べる者だけなのだ。「孤独」の価値を、「孤独」の意義を、「孤独」の理由を知らない人がつながっても、そこで生まれてくるのは欺瞞のエネルギーだけ。何かをやった気になるだけど、誰かに利用されやすいだけの。「孤独」を恐れない人たちの"つながり"こそが、本当の"つながり"なのだ。 

4022510226 ことり
小川 洋子
朝日新聞出版 2012-11-07

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『悟浄出立』from『文芸ブルータス』/万城目学

ちょっと芥川っぽいカンジ?『文芸ブルータス』、文芸好きにだけじゃなくて、あまり本を読まない人に対してもいいツカミの仕事してる。

文芸ブルータス』は11人の作家の作品が掲載されているので、一作一作感想書くのはこの本の魅力を伝えてることにならないけど、敢えてということで。

言わずもがなの『鹿男あをによし』の著者、万城目学の作品『悟浄出立』。西遊記の設定を仮借して、どんなに悟空に警告されてものこのこ妖怪に捉えられるという三蔵法師・八戒・悟浄をバカバカしく真面目にコミカルに描きながら、何事にも一歩引いて傍観者的であるのを分別と取り違えているような悟浄が、「出立」するに至る出来事を、漢語を交えながら「さも」それっぽく描く。この「さもそれっぽい」というのが文芸にとって何よりも大事で、SFなんかその極みだと思うけど、「アホらし」と思っててもそのそれっぽさにぐいぐい引き込まれて、その辺の先生に言われたら「アホくさ」と思ってしまうような「人生の訓示」を、「そうだ。そんなふうに生きなきゃならん」と思わされてしまうのが正に文学。正に文芸。

くどいようですが『文芸ブルータス』、お勧めです!

B00A7BI3TW BRUTUS (ブルータス) 2012年 12/15号 [雑誌]
マガジンハウス 2012-12-01

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『文芸ブルータス』/有川浩、木内昇、舞城王太郎、いとうせいこう、朝井リョウ、伊坂幸太郎、西村賢太、鹿島田真希、堀江敏幸、絲山秋子、万城目学

「文芸」をテーマにコラボした雑誌はときどき出るけど、やっぱり売れてほしいのです!

たまたま東京駅ナカの本屋"HINT INDEX BOOK"で見つけて買ったのですが、ちょうど昨日が発売日だったんですね。yom yom、小説新潮、新潮、オール読物、enTAXI、文藝、群像、小説すばるの八誌に掲載され、単行本未刊行の11作家11作品が収録。紙も厚め、段組みも雰囲気で、本の体裁から「文芸」誌です。

掲載された小説だけでなく、対談や作家ガイド、文藝賞ガイドなんかも綺麗に纏まっていておもしろい。あまり本を読まない人がこれ一冊買って、「文芸」のおもしろさに目覚めることはないかも知れないけれど、「文芸」好きの人は是非ともこれを買って、「文芸」を再び盛り上げていく気概を、業界に伝えてほしいなと思いました。仮にこれが、「文芸」という芸術の高尚さを損ない、一般平均化してしまうことだとしても、それは、「文芸」を衰退させたとは言わないけれど「つまらないもの」にしてしまったとは言える権威主義から「文芸」を取り戻す一歩だから。

好きな作家だらけで、新幹線でどれから読もうかな~と迷った末、『阿修羅ガール』以来、破壊力の虜になっている舞城王太郎と、なんか読んでる間ずっと罵声を浴びせられているような辛辣さ加減の虜になっている絲山秋子の2編を読んだんですが、たまらんかったです。舞城の『私はあなたの瞳の林檎』は、中学生の恋愛小説に見せかけた内面と言語表現の齟齬と統一の話、そして絲山の『ニイタカヤマノボレ』は、これまたアスペルガーを持ち出してカムフラージュされた、世の中の本音と建前の狭間に震災をぶつけてきた辛辣なストーリー。文芸好きは、11作全部既読でも、その他の記事だけでも買って損ないです。

『火口のふたり』/白石一文

震災・自然災害、原発、男女の違い、セックス、テーマは括り易く、括り易いと言えど幾重にも折り重なっているのだけど、最も強く迫ってきたのは「この国はいまや東と西で真っ二つに割れてしまったのだ」というものだ。

肌で感じていることだけど、自分達を含めて西日本の人間は、震災被害に関して全くもって鈍感で、被害を実際に受けていないとはいえ、意識は持たないといけないのではないかという僕の問い掛けに、真剣に答えてくれた人はひとりもいなかった。だいたい一様に、「実際に被害を受けていないんだからどっちみちわからない、そんなこと四六時中気に病んで生きていく必要はない」という答えだった。本著で書かれている通り、今や西日本で、スーパーで野菜を買う際に放射能に神経質になる人はいないだろう。何故なら、地元産の、つまり、放射能汚染の心配がほぼない野菜が並んでいるから。東日本にとって、地元産が並ぶと言うことはその正反対のことを意味するのだ。

本著が秀逸なのは、このことを、「今や国民の関心はブラジルワールドカップ。原発は気を引くネタではなくなった」と表現するところ。つまり、本著は東日本大震災から三年後、2014年を舞台に描かれている。この「超近未来」な舞台設定は、今の自分の意識を浮き彫りにする。つまり、「如何に自分の中で、震災が風化しているのか」を、2014年にどうなっているかという描写を通じて、たぶん自分もそうなってしまうだろうと思うところから、今の自分もすでにそれに近づいている、ということに気づいてしまう。

2014年の日本は、明らかに危機に近づいている。近くない将来、首都圏に直下型地震が来ると言われているのだ。2012年の僕たちよりも、2014年のほうがそれに近づいている。そして、福島原発がそのままなら、巨大地震が来た時に国は終わると言っていいのだ。つまり終焉に近づいて行っている。そこに疑問の余地はない。映画「ハルマゲドン」の比じゃないのだ。なのに、特に西側の僕たちは、そんなことなかったことのような生活を送ってしまっている。これは、問題を引き延ばして考えれば、国は終わらずとも国は終わる。自分が死んだとき、自分にとっての国は終わる。だからと言って、日々「明日俺は死ぬかもしれない」と本気で思って行動出来ている人はごく稀。それと同じことを起こしているのが、事故を起こした原発を抱えた今の日本なのだ。

終局をついに知ったとき、主人公の「賢ちゃん」は、「どうせ終わりなのだから、好きなことをやって生きて行こう」と開き直る。それに対して直子は、「こんなになっても、まだそんないい加減な生き方をするの?」と突き刺してくる。この対比に、「これまでは積み上げていくのが倫理観だったが、不確実性が増す中で、明日を予測して生きるより、その都度その都度で生きていくのが倫理観になる」という、俄かには受け入れがたいけれども的確な反論をすることのできないテーマが絡んで、余韻が尽きない。これは『スイート・ヒアアフター』を読んだ際にも思ったけど、西日本に住む僕たちは絶対に読むべきで、ひとつだけ確かなことは、原発問題に対処するためには、facebookなんかで声を上げていても効果がないということだ。

4309021425 火口のふたり
白石 一文
河出書房新社 2012-11-09

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アームストロングのタイトル剥奪と永久追放に思う-『ラフ・ライド-アベレージレーサーのツール・ド・フランス』/ポール・キメイジ - justanotherlife

本屋でふと見つけたこの本を読んだのは去年の11月。『ラフ・ライド』というメインタイトルと、サブタイトルにある「アベレージレーサー」という単語から、スーパーヒーローでない選手が遮二無二戦う話かと思ったら、自転車界に蔓延する悪習、ドーピングを正面から扱った話で驚き、一気に読んだ。

まさかあれから一年、自転車界のスーパーヒーロー、ランス・アームストロングがドーピングでツール7連覇のタイトル剥奪と永久追放という事態が起こるなんて。事件はドーピングに手を染めた選手やチーム組織だけでなく、自転車界全体に問題が偏在しているという報道に進んでいるけれど、何にしても、これによって「自転車」に対するイメージが決定的に損なわれてしまうことだけはないように願うばかり。競技ではない、趣味で楽しむホビーライダーにとっては、ドーピングなんて全く無縁のことだから。

ロードバイクとか、そんな高級な自転車でなくっていいんだ。シティサイクルで、ママチャリで、自転車の楽しみは十分味わえる。みんなそれぞれの楽しみ方ができればそれでいいし、そこが自転車のいちばんいいところなんだ。

4915841863 ラフ・ライド―アベレージレーサーのツール・ド・フランス
ポール・キメイジ 大坪 真子
未知谷  1999-05

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今、日本は空前の自転車ブーム。ほぼ連日のようにニュースでは自転車に関するニュース(それはたいていピストの暴走とかのあまりよくないニュース)が取り上げられる。エコな移動手段、健康的、クリーンなイメージと共にある自転車。でも自転車がブームになったのは今が初めてじゃない。1960年代にも大流行したことがあるらしく、当然だけどその歴史は古い。

本著が取り上げているのはそれよりはまだ新しく、1980年代後半のツール・ド・フランスを中心に語られる。1980年代と言えば日本は高度成長期からバブルに向かおうとする、正に現代に通じる発展を遂げてきた時代で、世界ももちろんそう変わらない。にも関わらず、登場するエピソードはいったいいつの時代の話なんですか?と繰り返し聞きたくなるくらいに泥臭く闇の世界的なある行為が語られる。ドーピングだ。

自転車競技は1980年代、薬物に汚染される道をひた走っていたらしい。ドーピング自体は禁止行為だったが、バレなければ構わない。というよりも、バレずに済むことが判っていれば使用する者が当然のように現れ、使用しない者は使用する者にどうやっても勝てないとすれば、これも当然のように誰も彼も使用するようになる。正に悪化は良貨を駆逐する。そこまでして勝たなければいけない最大の理由はスポンサーだ。つまり、1980年代のロードレース界は、金によって薬にズブズブと使ってしまっていたのだ。

著者のポール・キメイジは本著のサブタイトルに「アベレージレーサー」とある通り、華々しい戦績を挙げた選手ではない。であるが故に、ドーピングの告発を込めたこの本も、その発言も、「ぱっとしない選手がああいうことよく言うんですよね」式に片づけられそうになったらしい。ルールを破ることが成功するための唯一の道で、その中でルールを守ることを貫き通す勇気を、この本から学ぶことには意味がある。どんな世界でも、常にルールと倫理を厳しく守り通して競い合うとは限らない。むしろ逆で、ルールの抜け道を探し出すことが勝利に大きく貢献したりする。それでも、自分はそのようなことはしないというスタンスを貫く勇気と、そういうルールを補正し続けて行こうという持続力の大切さを知ることのできる良書。

 

『プラハ冗談党レポート:法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』/ヤソスラフ ハシェク

これぞ”維新”!

4798701246 プラハ冗談党レポート: 法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史
ヤロスラフ ハシェク Jaroslav Ha〓sek
トランスビュー 2012-06-05

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第一次大戦前の1911年、ボヘミア王国プラハに、人気作家ヤロスラフ・ハシェクが新党を設立して選挙戦に挑んだ。その名も「法の枠内における穏健なる進歩の党」!

つまりは「冗談党」な訳だけど、実際に立候補して選挙戦を戦って、その活動っぷりの記録を一冊の本にしたのが本作。もうめちゃくちゃに面白いです。帝国という国家権力、その国家権力の維持の仕組と成り下がっている政党政治、それらを、外野ではなく実際に政党を作って立候補して選挙戦を戦って、スキャンダル告発やらなんやら、無茶苦茶にやりこめていく。でもその政党の政治活動と言ったら、プラハの居酒屋に集まって飲んだくれて、これまた滅茶苦茶な弁舌を捲し立てる、という具合。そのビールの金にも事欠くような集団が、体裁は整っているけれど、スタンスは冗談みたいな選挙戦を繰り広げるのです。

居酒屋でビール飲みに集まることが政治活動なのかどうなのか?知識としては持っている、ヨーロッパの「サロン文化」に似たようなことか、と合点してしまうこともできるし、そもそも冗談なんだから酒飲みながらやってんじゃないの、と言う気もする。でも、「広場のないところに政治はない」というように、政治って、政策とか投票とか、実行内容や仕組から考えがちだけど、原点は「人と人がどんな話をするか」というところだと思う、ので、この「口達者」な新党党員たちの八面六臂ぶりが眩しく見えます。

そう、帝国という危なっかしい体制だから、私服刑事とか密告者とか、現代の日本では考えられないような危険な相手が普通にいるというのに、彼らはその口八丁ぶりで、そんな「当局」側の攻撃さえ、逆に返り討ちにしてしまう。その鮮やかさにびっくりするとともに、そんな弁舌を持ちながら、まともに選挙をやる訳ではないところに、不思議よりは面白さを強烈に感じてしまう。

僕らはいつの間にか、「望みがあるなら、直線的に、直接的に、行動して結果を出さなければ、意味がない」と思い込まされていたと思う。確かに、成果の出ない行動は、やってるのかやってないのか分からないことには違いない。でも、何かを変えるために、しゃかりきになって青筋立てて「あいつが悪い」とやるのが果たして正解なんだろうか?そこまでやっても変わらないのだからよりもっと強力に、となってしまうのもわかるし、正面切ってやらずにコネとかなんとかで裏から手を回してネゴして、みたいな日本的なやり方がとんでもない数の弊害を招いてきた歴史も知っているから、どうしても、しゃかりきにならないと正々堂々としていないと思ってしまう。でも、第一次対戦前のボヘミア王国、今の僕らよりももっと閉塞していたに違いない政治状況で、こんな風に打って出たハシェクの行動を粒さに読むと、「維新」のなんたるか、その神髄を教えられた気になったのだ。

日に日に困難な政治状況になっていくような今こそ読むに相応しいと思います。

「主」なき御宣託 または 転向への反抗: 村上春樹氏の領土問題に対するエッセーを読んで

朝日新聞デジタル 村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」

作家の村上春樹さん(63)が、東アジアの領土をめぐる問題について、文化交流に影響を及ぼすことを憂慮するエッセーを朝日新聞に寄せた。村上さんは「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと書いている。

今は会員ログオンしないと読めないけど(「朝日新聞はケチだ」みたいなコメントをときどき見たけれど、当日記事は無料、バックログは会員ログオン必要、というのはニュースサイトでは普通だと思うし、当日ニュースが無料で見れるのが一般的になったこと自体恵まれたことだと思う)、僕は当日、全文を読むことができました。読んだその時は、「同じような主旨でも、言い方と表現でずいぶん説得力が変わるものだなあ。学ばなければ。」と思ったのですが、しばらくして結構大きな違和感が、やっぱり沸々と湧いてきました。

僕は、尖閣諸島は日本固有の領土だと思っています。その前提で考えているということをまず書いておきます。

村上春樹氏のエッセーは、「これはやはり、日本人固有の”お上精神”の発想だな」と、つくづくと思ったのです。

尖閣諸島は日本の領土で疑いはないと思っているところに、様々な理由をつけて中国の領土だと言い募られている。そして、日本企業がもはやテロの域に達した暴動で、膨大な損害を被っている。中国では日本製品や日本の文化物が店頭から消えていっている。そんな中でも、日本は、特に、文化的な報復をするべきではない、これまでの先達が累々と築いてきた努力を無駄にしてはならない、という趣旨のことがエッセーでは述べられる。

これはこれで確かに至極全うで、恐らく国際的にも認められる振る舞いだとは思うけれど、そういう褒められた立ち居振る舞いだけで問題が解決しないのがまた国際社会で、だから我々日本人は大きな苦しみを感じているのだと思う。北方領土、竹島、尖閣、こういう領土問題は、我々日本人が二度と侵略戦争を起こさないように過去から未来に受け継がれるシンボルとしての「問題」だという考え方を取ることもできるけれど(実際、未来に渡って我々日本人がそういう過ちをもう繰り返さないという保証はどこにもない、今この現代でさえ、何とならばやりかねない思想が見え隠れするくらいだから)、それはまた別の問題、別の文脈なのでここでは置いておきたい。

尊敬に値するような振る舞いを続けて耐え忍ぶことで、いつかそれが報われる日が来る。村上春樹氏のエッセーを、「問題解決」の観点で読むならばこういうことになる。繰り返しになるけれど、国際社会というのは、正しいことを正しいと言い続けるだけでその正論が通るような世界ではない。国際社会どころか、日本の、日常の社会だってそうじゃないか。だから、「問題解決」するためには、何らかのやり方が必要になるのだ。我々の考え方を判ってもらうための、何らかの「やり方」が必要になる。その「やり方」が褒められたものではないからとこちら側は控えていたとしても、相手側はその「やり方」を行使し、それが十分効果的で、そちらのほうが優勢になり、「正しい」ことになることも、充分あり得るのだ。

そんな中でも「正しい振る舞いを取りなさい。そして、時が来るのを待ちなさい」というのは、「お上がすべて見てくれていて、いつか正しい裁きを下してくれる」という、日本人の「お上思想」独特だと思う。同じように「神」を信じている文化圏でも、その対象が(人ではなく)「神」である国の人びとは、現実社会では相互理解のために「相手」に対して必死で言葉を、「やり方」を繰り出す。

だから、我々日本人の「やり方」のためには、ほんとは、その耐えている一般国民の姿に応える、問題を解決する「お上」がいてこそ成り立つものなのだ。相手は、「問題解決」するために、詭弁も使えば「デモ」も使う、ありとあらゆる「やり方」を使ってくる、でも我々は「正しい振る舞い」を強いられる、その我々の苦労に報いてくれる「お上」は政府なのか何なのかは判らないけれど、とにかくそういう存在があって初めて「問題解決」に繋がる「やり方」なのだ。

そして、村上春樹氏のような「大きな声」を持っている人は、その声を、こういうエッセーのような内容を、国内に向けるのではなく、国外に向けて使うべきで、つまり、「お上」にならなければならない立場の人だと思う。僕はまだ調べていないので、村上春樹氏が中国や国際社会に対して、どのようなメッセージを発しているのかは判らない。もし、氏が、我々の「お上」になるようなメッセージを発していないとしたら、それは、「大きな声」を持つ者としての自覚に欠ける、と思う。

そう、戦後の日本というのは、ある意味で、「大きな声」を持つ者が、その「大きな声」を持つ者の自覚を持たず、あるいは敢えて気付かない振る舞いで、そうすることで利得を得続けてきた歴史だったと思う。村上春樹氏のエッセーも、自著は多く東南アジア各国の言語に翻訳され、かつては海賊版が横行したこれらの地域も近年では市場が確立し、緊密な文化交流圏が成立している、と語っているが、自らが「お上」になることなく、我々に忍耐を強いるというのは、自分の経済的基盤の保護を優先していると思うことさえできる。

中国マーケットを無視することは、経済的にはできない。それは重々承知している。けれども、経済的な「痛み」を避けて通ってきたことで、数々の「筋」を滅茶苦茶にしてきてしまったことを、少なくとも僕たち団塊ジュニア世代は知っている。自分たちの親たちが、転向に転向を重ねて「経済」のみの価値観を築き上げてきたことによって。そして僕たちはオウム事件と小泉政権を通過して、大切なもののためには必ず「痛み」が付きまとう、という言説に潜む危険性にも十分自覚的になっている。その上で、僕たちは「正しく」振る舞わなければならないのだ。

居続ければ尊敬に値するというものでもない - 『ラジオ深夜便 隠居大学 第一集』/NHKサービスセンター

そうか、嫌なことはわざわざ考え続けなければいいんだ、と気づいた朝。

図書情報館乾さんに勧めて頂いた一冊。最近、「お年寄に敬意を払わない世の中になった、と嘆く声をよく聞いてきたけれど、そりゃきっと昔はお年寄は少なかったから貴重で経緯を払われたのであって、これだけどこにでもいる存在になってしまったら、個々人おのおの何かひとつ光るものを持ってないと、お年寄というだけでは経緯払ってもらえなくなって当然じゃないの?」と思ってたところにこの本。

「隠居は一日にして成らず」と表紙にある通り、「隠居」って絶対、年季のいることなのだ。してみると、65歳定年だの、生涯現役だの、やっぱり現代(のご老人?)は、そう容易く年季が入らないんだな~と妙に納得。

ひとつだけ、聞き手の天野祐吉氏も、ほとんどの登場「ご隠居」も、物事に対する「遊び」のスタンスというのを大切にしていらっしゃるけれど、彼らの「遊び」のスタンスは、今では若干『逃走論』的な響きを感じる。『自由からの逃走』的な。それも大切なメソッドだけど、重さからの責任逃れだけは、あんまりあっちゃいけないことだというのは、だんだんとそういう合意が出来つつある世の中だと思う。玉砕する必要はないが、対峙することを避けて通るのは論外、なのだ。その、「軽やかにおちょくるやり口で、上手に対峙している」のと、外野から適当なこと言っているだけなのとの紙一重さ加減は、言葉で切り分けるのはあまりにも難しいけれど。

  • 小沢昭一「わかんなきゃしょうがない、お前が知らないから面白くねえだけだよっていう、居直ったような芸」
  • 富士眞奈美「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」
  • 山田太一「世の中に個人で抵抗する」
  • 森英恵「きっとそういう時代なんですよ。だから、いまに変わるでしょうね。時代が変わって、もっと大きな波が来ると思います」
  • 小山内美江子「きっと「最初から61センチと言ってください」なんて言うんでしょうね」
4871081117 ステラMOOK ラジオ深夜便 隠居大学 第一集
NHKサービスセンター
NHKサービスセンター 2012-07-18

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負け犬根性 - 『シゴトとヒトの間を考える シゴトヒトフォーラム2012』/中村健太・友廣裕一

仏生山温泉の岡さんの章が、最大級にしっくりきました。

僕はいつも本は付箋をつけながら読むのですが、本著は付箋の準備をせず、パーーーッと読みました。意図的に。それは、自分にとってはこの本はおそらく、ゆっくり腰を入れて読むよりも、パーーーッとスピード感持って読むほうが引っかかるものがあると直感してのことでした。フォーラムとして開催されたものの収録ということも、そう思わせた理由の一つかも知れません。

内容的には「場をつくる人」が圧倒的に面白かった。特に、まち塾@まちライブラリーの磯井さんと、仏生山温泉の岡さん。中でも仏生山温泉の岡さんの、

  • ボランティアではなく、利益を出して継続できるようにやるべき。
  • 補助金や助成金は使いたくない。補助金や助成金を使うと単発になるし、おのお金側の意図に自分の意図を歩み寄らせてしまうことになる。

 

この2つが、常々自分が考えていることと完全にリンクして気持ちがよかった。自分と同じ考え方の摂取は読書ではあんまり求めないようにしてるのですが、最近、あまりにもこの自分の考え方に理解をもらえない状況が多くてイライラしていたのだと思います。磯井さんの発言のほうは、過去必死で働いてきたからだとは言え、その過去の貯金で企業内にのさばる人が社会問題を産んでいることを考えると疑問をさしはさむ余地があるのですが(磯井さんのやっていることは、もちろん会社にとっても利益に繋がるものだとは思いますが)、岡さんのスタンスは完全同意でした。

僕は、前々からいつもいつも何かの折に書くんですが、パトロンありきの仕事は仕事じゃないと思う訳です。芸術だったらまだそれもありかなと思うんですが、自分の衣食住をパトロンに依存している状態でやっていることは、仕事と言ってはいけないと思う訳です。例えば、主婦が空き時間で自分の好きなことをやる。それが売上を立てていても、そりゃ仕事ではないと思うのです。自分の衣食住はダンナの金で賄って、自分のやりたいことを存分にやる。そういう考え方を根っこに持っている人というのは、僕は絶対に信用できない訳です。こういうことを言うと、「主婦がやっていることだって無償ではない」というような反論を必ず食らうんですが、僕は何もそういうことを言ってなくて、その家庭で収入を完全に折半しているならそれはどちらも仕事だと思うんです。主婦が空き時間でやっていることの収入も、すべて家計に入れてやっているなら。でも、どういう訳か、その収入はすべて自分のものとして回っているのが当たり前みたいになっていると思う。そういうのは仕事とは言わないのです。これ言うと、いつも「セコい男だ」みたいな嫌味が聞こえるんですが、そういう嫌味が成り立つ時点で、それは、男性社会を肯定化しているということが、未だに一般常識化しないところが根が深いと思います。

結局、今の企業社会がおかしい、とっくに破綻している、と言って個人で何かを起こし、行動する、それ自体は勇気のあることだし、それを伝えることで実際にいろんな人に波及していく訳だけど、実際に「できている」ことの大きさは、企業には叶わない。実現したことこそがすべてだ、としたら、個人で腕を振り回したところで、それは自己満足の域を出ていないと言ってもいいと思う。それを弁えている人と弁えられていない人とでは、説得力が大きく違うなと思ったのでした。