“忘れられる権利”はネット社会を変えるか? - NHK クローズアップ現代

 先日、『PUBLIC』を読み終えてこんなエントリを書いた。

「パブリック」というのはシェアであり、つまり「公開」することからは決して切り離されないとしたら、パブリックというのは不可逆的であると言っていいと思う。だから、著者は「データ保護の4つの柱」に喰ってかかっている。一旦公開されたものはなかったことにはできない。それは確かにそうだけど、技術的なことを言えば、人々の記憶に残ることと、某かの媒体に残ることとは区別すべき問題だと思う。

 そして今日、『クローズアップ現代』がこのテーマを取り上げて、「この世界は僕を中心に回っている、少なくとも僕の世界は」と思わせた。

人々が知ってしまったことをなかったことにはできないとしても、ログを削除可能であることは、パブリックに取って必要不可欠なことだと思う。10年前の自分は今の自分とは違う、だから生まれたときの自分と今の自分とはもはや同じ自分ではない、だから「私」の同一性は何をもって保証されるのかと問うと、過去の「私」の痕跡がログに存在していることは、現在の「私」のパブリックの必要条件ではない、と言えると思うからだ。

 facebookの哲学というのは、「全部が明らかだったら、そもそも問題は起きない」というものだと理解している、今のところ。今日のクローズアップ現代で取り上げられていた、犯罪に関する情報をどう取り扱うのかも、全部が明らかであれば問題はなさそうに思える。つまり、刑期を終え、罪を償っているという情報まで同時に読み手に伝われば。今現時点でのネットの情報は、量は莫大だが不完全。質的にも、アクセス性においても。

 だから、情報が完全ですべてにおいて明らかでアクセス性も申し分ないネットが完成すれば、「忘れられる権利」など問う必要はなくなるのだろうか?僕はそうは思わない。人の記憶は操作できないとしても、削除可能な情報に関しては、削除を制御する権利はあって然るべきだと思うから。それゆえ、ネットは完成しないと思うから。

『PUBLIC 開かれたネットの価値を最大化せよ』/ジェフ・ジャービス

なんであの人、おおかた出来上がったイベントとか団体とかの尻馬に乗って我が物顔になって嬉しいんだろう?と不思議に思わされる人に、ときどき出くわす。そういう人はちょっと前だとたいてい、「シェア」とか「コミュニティ」とか「パブリック」とかを振りかざしてたような気がする。事ほど左様に、未だに舶来主義なのか。

多分2年くらい前だったと思うけど、今はもう辞めてしまったとあるネットコミュニティで、ひたすらコンテクストについて喚いてた時期があった。なんでコンテクストなのか?というと、自分の勤める会社で、日本語はハイ・コンテクストな文化だが、それはビジネスにとってはデメリットなので、簡潔な表現を心がけてほしい、という「お触れ」みたいなのが出て、それに猛烈に憤ったからだった。ハイ・コンテクストであることを否定する者はコンテキストに泣く。そうこうしてると大好きなLOSTAGEが『CONTEXT』という名のアルバムをリリースしたりしてびっくりしたんだけど、ともあれ僕はハイ・コンテクストであることの力を信じているタイプだ。そして、自分が働いているIT業界というのは、一面で、如何にオリジナルをサマリーするかに力を注いできた業界で、例えばデータウェアハウスというのはサマリーの最たるもの、ローデータをそのまま分析するには実用に耐えるだけの速度を出せないから、ローデータの特徴を失わない範囲とやり方でサマライズしてきた、コンプレスしてきた、それがITの歴史だけど、今、ビッグデータと言ってローデータをローデータのまま実用に耐え得る範囲で分析できる技術が登場し始めた。これはハイ・コンテクストをハイ・コンテクストのまま扱う第一歩と言うことだ。

本著でも、「パブリックとプライバシーの倫理」で、「コンテクストを考慮せよ」と述べられ、コンテクストの重要性について繰り返し語られる。けれど、これも本著で語られるように、コンテクストは難しい。そもそも、コンテクストは長いのだ。時間がかかるのだ。人々はこの10数年、如何に簡単に結論を手に入れるかに心血を注いできたといって差し支えないと思う。それは今も昔も変わらない、とも言えるが、コンテクストをすっ飛ばして結論を手に入れるということが「倫理的にも」許容されるかのように振る舞われたのはこの10数年くらいからではないかと思う。それはもちろん、テクノロジーの伸長にリンクしている。そして今や、ビッグデータはコンテクストをサマリすらしない。時間のかかるハイ・コンテクストを、ハイ・コンテクストのまま読み取って、ダウ・ジョーンズ工業平均株価の動きを87.6パーセントの確率で読み取るのだ。

それでも、本著がコンテクストの重要性を述べていることは非常に貴重で大切なことだと思う。それがどんなに時間のかかることでも、コンテクストを無視するところにプライバシーもパブリックも存在しないからだ。仮に何らかの事情で答えを早く欲しいとしても、そこにコンテクストがあることを忘れてはいけない。

だからこそ、これだけの厚みのある、これだけの「ハイ・コンテクスト」な一冊を読み通す意味がある。この本を読まずして、パブリックだのシェアだのコミュニティだの言っている人よりも、僕はより深くパブリックとシェアとコミュニティについて考えることができるだろう。あまり関係のないコンテクストからパブリックとシェアとコミュニティに掠るような話をひっぱり出してきて語るようなマネをしなくとも、パブリックとシェアとコミュニティのコンテクストで僕はパブリックとシェアとコミュニティについて会話することが出来る。

コンテクストをすっ飛ばして結論を得るというのは、つまり、自分がいつどうやって死ぬのか分かっている人生を選びたい、というようなものだ。間違うことのない、結論の判っている「成功」の道を進みたいということだ。僕にはそれがあんまりにも詰まらなく見えるので、コンテクストを大事にする。だから、冒頭に述べたような、結論の判っている「成功」に群がる人たちが、つまらなく見えるのだ。

4140815132 パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス 小林 弘人
NHK出版 2011-11-23

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『100の思考実験』/ジュリアン・バジーニ

クラスになんか微妙に話が通じるような通じないような女の子、いわゆる天然、もうちょっと新しい目の言葉で言うと不思議ちゃん-その当時そんな言葉はまだなかったような気がするが-がいて、その「微妙に通じない具合」から、「もしかして、オレが使ってる言葉とオマエの使ってる言葉はすっごいよう似てるけど全然違う言葉で、オレが「おはよう」と言ったその言葉は、オマエの言葉ではたまたま「昨日何食べた?」という意味の言葉で、それに対してオマエが返す「すき焼き」というのが、オレの世界の言葉では「よう!」って言葉なんかも知れんなって思うわ」とか言ってたのは確か高校生の頃だったと思う。

このネタは今でもときどき言うことがあるんだけど、今これを思い出したのは、本著のNo.23「箱の中のカブトムシ」という、ウィトゲンシュタインの言語使用に関する考察を取り上げてる章を呼んでいるときだ。少年二人がそれぞれ箱を持っている。中に何が入っているのかは明かさないが、二人ともその箱の中に入っているのはカブトムシだという。大人はその箱の中身は同じようには思えないのに二人ともカブトムシと言って聞かない。

ウィトゲンシュタインの著書から引用されたこの思考実験は、言葉に意味があるのか?という疑問を掘り起こさせる。例えば二人の人が「痛い」という言葉を発したとしても、その二人に起きていることが全く同じであることはない。ということは、自分の内側で起きているその事象と、「痛い」という言葉には何の関係もない。どういう状況で「痛い」という音の言葉を使うのか、という共通ルールがあるだけだ。それが「痛い」という言葉ではなくて「いかがわしい」という音だった可能性だってあるのだ。内面で起きていることがらが違っても、使うべきシチュエーションの類似性から、二人の大人は同じ「痛い」と言う言葉を使う。

こんな風に哲学というのは「当たり前」と思っていることを徹底的に言葉で言い表し説明し切ろうとする。本著はこういういろんな事例が100も並んでいて、考えを詰めていくためのよいトレーニングになります。

4314010916 100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか
ジュリアン バジーニ 河井美咲
紀伊國屋書店 2012-03-01

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『青春の終焉』/三浦雅士

この、圧倒的に打ちのめされる感じが、評論の醍醐味。

「青春の終焉」というタイトルだけで、もうビッと来た。何が書いてあるかはすぐわかったし、読んでみたいと思った。この本を書店で見つける数日前に、別の書店で買った『反哲学入門』の帯で見た名前が著者だというのも、この本は読まなければいけないというサインだと思った。そして、期待通りの面白さだった。最初の1ページから最後の1ページまで、ずっとおもしろいおもしろいと思いながら読み続けられた評論は久し振り。原本は2001年刊行、なんで見つけられなかったんだろうと思うくらい。「青春の終焉」というテーマについて、「そもそも青春とはあったのか?あったとすれば、それはいつからあったのか?」という問いの設定からおもしろくて、1972年生まれの僕にとって物心ついた頃からずっと胡散臭かった「青春」について、余すところなく徹底的に解剖してくれる。

僕にとって「青春の終焉」以上に大きなインパクトだったのは、「連歌」の話。連歌は15世紀に宗祇が完成させた知的遊戯だが、僕は連歌のことを単なる「知的遊戯」だと思っていた。その当時の知的階級=特権階級が、どれだけの知識量を持っているかを背景に戦う知的遊戯。事細かに規則が決められ、その規則を知らないことが野暮扱いされ、元は「おもしろさ」を保つためだった規則に雁字搦めになって芸術性を保てなくなる詩歌の類同様に下火になったというような理解をしていた。

しかし、連歌を考えるときに大切なのは、「座」だった。連歌というのは複数でその場に集って句を読み合うので、必然的に「その場所に集まれる」人達とのつながりが大切になる。というか、その地理的なつながりがないとできない遊びだ。そうして、連歌は前の人の句を受けて読む訳だから、どうしても何か共通の「おもしろい」と思える感覚が必要になる。それは土地に根付いたものなのかどうなのか、かくしてその「おもしろさ」のための規則が生まれたりしたようだけど、僕にとっては、この、「座」という場所は、当たり前のように「共通の言語」を持たなければならないという事実に、改めてインパクトを受けたのだった。

僕はコミュニティが特権意識を持つことがとても嫌いで、コミュニティが特権意識を持つために「共通言語」が必ず生まれると思っていた。言語だけではなくて知識もそうだけど、先にコミュニティに入っている人は後から入る人よりも当然たくさんのコミュニティ内で必要な言葉や知識を持っていて、それをオープンにするかクローズにするか、というようなところで嫌悪感をよく抱いていた。しかし「座」にとってはそれは当たり前のことで、さらに重要だったのは、それを「座」だけのものにしておこう、という姿勢もあった、ということだ。それを「座」だけのものにしておくことで、徒に句としての高尚さを競ったり、難渋な解釈を覚えたりすることを避けることが出来、「座」の一同は、いつも楽しくおもしろく連歌を愉しむことができる。それを担保しているのは、共通言語であり共通知識なのだ、と。

その分岐点となるのが、口語か文語か。「座」というその場限りの口語で留めておくのか、後に残すために「文語」を選ぶのか。「文語」を選んだ途端、「おもしろさ」を犠牲にせざるを得ない。なぜなら、「文語」は「座」の存在する土地を離れてしまうから。何が「共通」するかわからない地点に飛んで行ってしまうから。「文語」を選んだ途端に、「笑い」を失っていく文学。

何かが一斉に流行することは昔からあったけど、これだけ「個性」「個性」と言われるなかで、あれは「森ガール」が端緒だったのか「沼ガール」が端緒だったのか、「ある程度」の固まりが出来るような流行がときどき発生し続けているのは、個人社会になって細分化された社会のなかで、やっぱり「座」が欲しいと叫んでいる証左なのかも知れないと思った。流行歌のない時代は寂しい、というようなことを登場人物が言ったのは重松清作品だったと思うけど、やっぱり人は「座」が欲しいのだ。

4062921049 青春の終焉 (講談社学術文庫)
三浦 雅士
講談社 2012-04-11

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時折街で耳にとまる そう流行歌さえ
愛の詩と気づかすような
熱い熱い想い胸をこがす様な日々が
消えちまっちゃ終わりネ  

『反哲学入門』/木田元

僕にとって哲学は、自分の考え方を壊すためにある。

「反哲学」とは、「従来の哲学にアンチを突きつける」という意味で、ニーチェ以降の「哲学」は「反哲学」なのだと解説されていて、今まで漠然としか判っていなかったこの点を明快にしてくれる。

存在するものを見るとき、それを自分の問題に引き付けて考えることができるかどうかを最重要視してきた自分にとって、「存在者の全体を生きて生成するものと見るか、それを認識や製作のための死せる対象や材料として見るか」という、哲学と反哲学の系譜は大切なものだ。「それはなんであるか」と問うスタンスは、自分はその問題から十分距離を取れた安全地帯から、特権的位置からモノを言っているに過ぎないのだ。自分をその問題に引き寄せようとせず、外野からヤジを飛ばすがごとく物言いがどれほど不愉快なものか。そのスタンスが生み出されてきた歴史というものを、哲学史で深く理解することができる。

そしてハイデガーが行きついた「破壊(デストルクツイオン)」。それも、壊滅するということではない、二重の意味を含まされた「破壊」。自由を得たとき、その自由で何を成すのか。自由であるということは、モノを言える資格のある状態なのか。

心がけで、世の中を変えることなどできない。心がけで変えることができるのは、自分自身だけだ。それを知っている人だけが、心がけで変えることのできた自分自身で、世の中を変えることができるのだ。「ひとりひとりの思いで、世の中を変えられる」と、ひとりひとりに心がけを求める言説を、簡単に口にしたりいいね!といったりシェアしたりする人は、自分を問題の中に入れず、存在者を存在者全体として見ず、自分を特権的位置においてモノを言ってるだけなのだ。

4101320810 反哲学入門 (新潮文庫)
木田 元
新潮社 2010-05-28

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『サウスポイント』/よしもとばなな

どんなことにせよ、あまりに思い入れが強いとうまく行かないもんだという経験則があって、僕の目にはよしもとばななは凄くハワイが好きだと映っていて、その思い入れの強さがそのまま表れてるなあ、滲み出るというよりも隠すことなくそのまま出てるなあと、読みながらずっと感じてた。なので、他のばなな作品より、ストーリーよりも「ハワイの空気」みたいなところに心を寄せられるような小説だった。

よしもとばななの小説は、いつも「登場人物は正直に話す」その言葉の丁寧さにほとほと感心し、そして「時期が来るまで待つ」という、忍耐強い姿勢の大切さを再認識する。物事には、常に然るべきタイミングというのがあると思う。そのタイミングを逃してしまうのも自分の責任、だとは思うけれど、そう言い切るには現代経済の動きはあまりに苛烈すぎるようにも思う。その苛烈すぎる流れのなかで、自分はどういうタイミングで生きていくのか、いつもより少しだけ真剣に考えさせられた。

4122054621 サウスポイント (中公文庫)
よしもと ばなな
中央公論新社 2011-04-23

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リッチの文脈

奈良公園に遊びに行ったついでにふらっとビブレの中の啓林堂へ。

久し振りにビジネス雑誌コーナーに足を向けてみたら、プレジデントの表紙に「仕事リッチが読む本 バカを創る本」とあって、「プレジデントはここ最近、年収で階層化して属性分析するのが大好きだな~」と思いながら立ち読み。

そこで目に止まったのが、成毛眞氏の言葉。「年収500万層は、隅から隅まで読む貧乏性読み」というようなサイド見出しのページに、

リッチ層は、おいしいところだけ読むんです。自分に必要なところだけ、「つまみ読み」する。これは、ハワイに初めて旅行する人と、よく旅行している人の違いのようなものです。初めての人は、ハワイ島もアラモアナセンターも・・・と全部詰め込んで楽しもうとする。よく旅行している人は、行きたいところだけゆっくり行く。リッチ層は、隅から隅まで読もうなんてしない。自分に必要なところだけ読むんですよ。

言ってることは凄くよくわかる。確かに、「どこに自分にとって有用なものがあるかも知れない」と思って隅々読むよりも、とりあえず自分に必要だと思えるところだけ読むというのを続けるほうが、確率論的にも自分に必要なものが多く入ってくることになると思うし、その結果、その時点では自分に必要だとは思えなかったことが読めている可能性も高まる。こういう読み方をすることで、「自分に必要なもの」を見抜く眼力も高まる。

ビジネスの世界は、どれだけ少ないリソースでどれだけ大きなリターンを得るか、という世界だから、自ずとこうなる。効率を追求しない行動はない。そしてそれが結局のところ、より大きなよりたくさんのものを手に入れる最善の方法だ。

でも、なぜ効率を追求することが、おもしろそうには思えないのだろう?それは負け惜しみだろうか?

先におもしろいことがあって、それをはたらきにしたときは、それのために効率を追及するのがおもしろいということは知っている。そして、効率を追求しないことでおもしろいはたらきをしている人がいることも知っている。ここにはコンテキストの問題がある。コンテキストを愉しめる人生を望むか、否か。

B007O01OFO PRESIDENT (プレジデント) 2012年 4/30号 [雑誌]
プレジデント社 2012-04-09

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些細なこと

4344417275 Q人生って? (幻冬舎文庫)
よしもと ばなな
幻冬舎 2011-08-04

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散歩の途中に立ち寄った近所の本屋で、たまたま捲ってみたページに現れた言葉。

社会に出るというのは、自己実現(をする)ということではありません。

そう思っていると、いつのまにか周りから人がいなくなります。

細かい言い回しが正確ではないけど、こんなことが書いてあった。

いろんな人の力があって、今の自分は生きていられる。
だから、自分も何かで誰かの役に立たないといけない。
それが、社会に生きるということ。
ソーシャルということは、つながっているというだけの意味では、けしてない。
ぼうっとしてたら見過ごしているいろんな人の力に驚嘆することはできても、
それを自分も何かで誰かの役に立たないといけないと思うことができているかは
別次元の話だった。 

言い聞かせよう、自分に。これはとても大切なことだ。

『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』/イーヴァル・エクランド

異常なまでに徹底的に「アベレージ」というものを毛嫌いする人を知っている。本著の第3章「予想」で『雇用、利子および貨幣の一般理論』の引用に出くわしたとき、一見結びつかないそのことを思い出し、連想が暴れ始めた。

われわれが到達する第3段階とは、これが平均的意見だろうと考えるものを予想しようと努めることである。

「アベレージ」を毛嫌いする心理は、直感的に判る。「標準」なんてものはまずもってつまらないし、誰が「標準」なんて決めるのかという問題もある。だが、おもしろかろうがおもしろくなかろうが、実際にそんなものがあろうがあるまいが、どこかに「基準」がなければ、自分の「独創性」というものも表しきれない。何も何もすべての「個」はそれだけで独創的であると言えば聞こえはいいが、現実にはそんなことは、「標準」の存在を厭う人間の手にかかってもあり得ない。そういう人であっても、駄作を見ては「特に代わり映えのない」と評価するのだ。これはあくまで、凡庸としての「標準」という話だが。

引用した一文の一節で、ケインズは株価というのは「自分が美しいと思う顔を選ぶのではなく、この問題を同じ観点から眺めている他の応募者たちの気に入りそうな顔を選ばなければならない」と述べ、株価形成がもはや個人の主観ではなく、平均的意見の予測によって平均的意見が形成されていくことを述べている。そのことの是非を言うつもりではなく、情報の非対称性的な話題は本著でも後の章で取り上げられるんだけど、ここで連想を飛びたてられた契機は、「株価を決めるのは市場(マーケット)」と、”マーケット”という言葉が出てきたことだ。株価は、主観ではなく、平均的意見の予測によって決まる。そして決まるものはというと、平均的意見である。そして、平均的意見を決める機構は、”マーケット”と呼ばれるものである!

ことここに至って、「アベレージ」を毛嫌いする道理がひとつ露わになった気がした。「アベレージ」という考え方は、マーケットそのものだったのだ。典型的な需給曲線による価格決定然り、株価形成然り。「何が標準なのか」ということを考えることが「標準」を産む、その人為的作為的な経済機構を毛嫌いしていたのだ。「アベレージ」を毛嫌いする心性というのは、個人対個人の向き合い方を尊重する、主観重視の心性だったのだ。僕個人も、「アベレージ」を好む訳では全くないが、その存在意義は認めざるを得ないと思っていたので、そこまで否定はしていなかったけれど、本著で連想の幅が広がったことで、より「アベレージ」を毛嫌いする裏付けを語れるようになった気がする。

と、これは本著の非常に一面的な紹介で、本著は「偶然とは何か」という問いに対して、サブタイトル通り北欧神話を引き合いに出しながら、永遠を思う際に漂う儚さを哲学と共に織り交ぜたテイストで、現代数学を解説してくれます。数か所、突然フルエンジンになって数学的についていけなくなるとこがありましたが、数学的な知識はほとんどなくて楽しめます。決定論的と確率論的。この違いがちゃんと頭に入ってきたあたりから俄然面白くなりました。

4422400193 偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章
イーヴァル エクランド Ivar Ekeland
創元社 2006-02

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『バートルビー/ベニト・セレノ』/ハーマン・メルヴィル

『バートルビー』を読もうと思ったのは、「偶然」というテーマに少し興味が向いていたところに「バートルビー 偶然性について」という書籍が出版されたことを知ったから。以前に、エンリケ・ビラ=マタスの『ポータブル文学小史』を読んだ際、同じ著者の作品で『バートルビーと仲間たち』という小説があるのを知っていたり、モーリス・ブランショの『災厄のエクリチュール』で取り上げられているとかで、まずは『バートルビー』を読んでおかなければいけないと思って読みました。

I would prefer not to. この呪術的な言葉。代書人として雇われたバートルビーは、代書以外の仕事を、悉く「I would prefer not to.」と言って拒否する。それも穏やかに。そして、そのうち代書すら拒否する。雇い主である「わたし」はバートルビーを追い出したいが、なぜかバートルビーに面と向かうと強く出れない。困り果ててバートルビーを残して引越しするという手段に出るが、その後もバートルビーは建物に留まり、新しい入居者たちからなんとかしろと迫られる。「わたし」は何もいい手を打てないが、建物の管理人は、バートルビーを刑務所送りにする。刑務所でバートルビーは、モノを食べることすら拒み、餓死してしまう。後に、代書人だったバートルビーの前の職業が、「配達不能郵便物係」だったことを噂に知る。

言葉の埋葬人のような職業から、言葉をあっちからこっちにコピーする職業へ。そしてそれさえも拒んでしまう。言葉というものの限界を悟るようなその生涯。そして、I would prefer not to. 「せずにすめばそれにこしたことはない」というようなこのスタンス、モーリス・ブランショだけでなく、いろいろな解読がなされていてそれを眺めるだけでもおもしろいのだけど、僕は、「なんでもやれるけど、どれもあんまりやる気にならない」という、「飽食」の一歩進んだ姿のように見えた。制限があるとき、やりたいことがやれないとき、そういう状況は、人を夢中にさせる。それは、「できない」という状況があるからで、「できない」ことを「できる」ようにするモチベーションは、本能的に、自然に、湧いてくる。

いっぽう、「なんでもやろうと思えばやれる」状況というのは、夢中にさせてくれない。「明日でいいか」と、こうなる。だから、「I would prefer not to.」こんな言葉も出てくる。その結果、バートルビーは死んでしまう。「I'm not particular.」なんてことも言いながら。これは、「なんでもやれるようになるというのは、結局、なんにもやらないのと同じこと」という含意なんだろうか?それはなんとなく、なんとなくでしかわからないけれど違う気がする。I would prefer not to.というのは、もはや何か言葉を発することさえ捨ててしまうような態度だけど、言葉を捨てるということが何か新しい可能性に繋がっているような気配がある。このあたりの課題を携えて、「バートルビー 偶然性について」にあたることにしよう。

4990481127 バートルビー/ベニト・セレノ
ハーマン・メルヴィル 留守晴夫
圭書房 2011-01-10

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