何歳でも挑むべき「青春」はある-『横道世之介』/吉田修一

「年甲斐もない」という言葉の意味を、間違えてました。この本は、我々団塊ジュニア世代にこそお勧めです!

オビに「青春小説」と書かれてるんですが、主人公世之介の青春時代は1980年代。つまり、本作が書かれた2008-2009年には世之介は40歳過ぎ。青春時代を世之介と過ごした登場人物達が、現在(2008-2009年)から、当時の世之介を回顧するエピソードが挟み込まれて物語が進行します。団塊ジュニアで今年41歳になる僕に取っては若干世代が上ではあるのですが、自分達の青春時代の舞台を背景にして、現代に書かれた青春小説を読む、という、「青春小説なのに懐かしさを伴う」不思議な読書体験になります。土地転がしとか、大韓航空機爆破事件とか。

例えば世之介が大学入学後、地元で高校生の時付き合ってた彼女と再会し、行きがかり上二人でドライブしているときに言われた言葉、

「世之介とこうやってると楽しいんだけど、何かが終わったんだなって、しみじみ思う」

青春小説の王道のモチーフですが、これが、現代から青春時代を眺めている視線で読むことで、それが子どもから大人になる過程としてのみ経験することではなく、いくつになっても避けられないことなのだということをありありと感じます。世之介は九州から東京に出てきて、同じアパートの住人に世慣れてきたと言われたり、ホームレスに無頓着になったり、何かを失う過程を通過しながら、それでも何かを失わずに生きてきたことが描かれるのですが、それは、けして19歳から40歳の間にのみ起こることではなくて、生きている以上死ぬまでそれは避けてはいけない過程だということを、伝えようとしているように読んでいて感じます。

30歳になり、35歳を過ぎて40歳になり、歳を重ねれば重ねる程、「年甲斐もない」という言葉に捉われてきていたのですが、もちろん成熟しなければいけないところは成熟しつつ、本当に「人生死ぬまで青春」という何かはあって、「悩むことを止めたとき、人は老い始める」という言葉そのままに、挑み続けないといけない面があるのだと感じさせられました。本作は本当に、僕と同じくらいの年代の人にお勧めです。少し前に読んだ『青春の終焉』と、組み合わせて自分なりに解釈したいなと思います。

4167665050 横道世之介 (文春文庫)
吉田 修一
文藝春秋 2012-11-09

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介護の相互作用とは-『驚きの介護民俗学』/六車由美

図書情報館の乾さんに「絶対読め」と勧められ(実際にはこんな口調ではない)て購入。

民俗学者である著者が、デイサービスの介護職に就き、その職場で利用者との「聞き書き」を通じて話を聞く。民俗学は、高齢者の語りからの情報収集が素材として重要なようで、語りを得る方法として「聞き書き」が優れており、かつ、ケアワークの職場は「聞き書き」相手がたくさん居る、そして「聞き書き」を受けることは要介護者にとってもよいフィードバックをもたらす、という、介護と民俗学の出会いが「介護民俗学」。

介護の現場で民俗学を、というのも目から鱗だし、単に民俗学にとって都合のいいフィールドというだけではなく、「聞き書き」が介護にとっても有効で、なおかつ、要介護者にとっても心の安定に有用なものだ、ということが部外者にも理解できるように書かれていて一気に読めます。介護する人と介護される人、というと、そこに序列があることを前提としてしまっている、この「非対称性」を、「聞き書き」の持ち込みによって対称に解放し、それによって要介護者の「生活」も豊かになる。それは、要介護者が何かを「受け取る」からではなく、聞き書きで自らの経験を民俗学者に「与える」ことによって得る生活の豊かさ、というところが素晴らしさだと思う。

著者が聞き出せた語りはどれも印象深いが、最も印象深かったものを二つ挙げると、ひとつは、昭和10年代は、食糧事情が良くない時代であり、農家がサラリーマンを見下す視線があったということ、もうひとつは、叔母が姪を育てるなど、血のつながりのない親子関係というのが、めずらしいものではなかったということ。

前者は、貨幣経済の浸透過渡期において、「食糧」のウェイトの大きさ、ひいては「生」の実在感を感じることができる。逆に、「これからは貨幣経済が終わりに向かう」という意見を時折見かけるけれど、それは、こういう「食糧」が重要視される世の中に戻っていくということなんだろうか?と考えた。

後者は、現代社会は「家族」「親子関係」の複雑さによる家庭問題が多発していると言われるけれども、少なくとも血のつながりの有無は、急に出てきた問題ではないということが判る。家庭問題の多発というのは、血のつながりの多様化ではなく、主に経済社会の変質に依存するのではないか、と思う。

4260015494 驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)
六車 由実
医学書院 2012-03-07

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ネット書店には一覧性がないのです

amazonとどっちを使うことになるかな?

amazonとの比較はともかく、hontoのネットストアが「3,000円以上購入で500ポイント進呈」という12/24までのキャンペーンをやってたので、折角なので買ってみようと思いました。ちょうど、『言語にとって美とはなにか』を買おうとしてたこともあるので。

『言語にとって美とはなにか』は1巻が¥780、2巻が¥740で¥1,520。あと¥1,480分何を買おう?さすがにジャスト¥3,000は狙わないけれど、¥500はみ出したら500ポイントのために何やってるのか分からなくなるので、ちょうどいいぐらいの金額の本を見繕うんだけど、これがなかなかうまくいかない。

「なんか欲しい本あったっけな?」と思い返しても数冊しか出て来ないので、勢いamazonのwishlistを見ることに。これが実店舗だとそれこそ山と本があるので偶然の出会いもあるんだろうけど、ネットだとせいぜい売れ筋と新刊で眺めるくらいしかやりようがない。

おまけに意外と¥1,500前後の本がない!どういう訳か¥1,470の本ばかりなのだ。10円足りない!(笑)そうかと思えば¥2,000を超える本ばかりで、おまけに中古で買えば500円以上安くなるので二の足を踏む。

結局、今回はキャンペーンが適用されるように買うのは止め。でもそうなると、hontoネットストアで買う意味ってあんまりない。だからと言ってamazonに拘る理由もないんだけど。実店舗でもネットでも買えてポイント貯められるhontoに片寄せしたほうがいい?ちょっと思案どころ。

美意識の到来

来年のテーマは「美」。もう決めた。

4041501067 定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
吉本 隆明
角川書店 2001-09

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思えば僕は造詣のない芸術の中でもとりわけ美術は全然解せなくて、素晴らしい絵画を見て「これは凄い」と感動するなど、そのくらいのことは出来るけれど、著名な作者とか歴史とかその作風や背景や意図や、といったことに全く疎いと言っていい。なぜ疎いかというと細やかな違いが判らないからで、大雑把に見てはっきり特徴のあるようなものは認識できるけれど、そうでないものは識別できなくて鑑賞できない。

そんな僕なので、デジカメもケータイのカメラ機能で十分とずっと思ってきた。ロードバイクで遠出する際、写真を撮りやすいようにとデジタル一眼を買ったけれど、それもどちらかというと「すぐ撮れる」という点を重視した買い物だった。

ところが、そんな僕が、ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真の違いに気づき始めた。奈良に住んでいるのでサイクリングの行先も神社仏閣が勢い多いんだけど、神社は取り分け違いがはっきり判る。社に漂う気配の映り具合が違うのだ。

このことに気付き始めたときに読んだのが、『プラスチックの木で何が悪いのか』だった。本物の木と見分けが全くつかない精巧なプラスチックの木があったとしたら、街路樹をプラスチックの木で代用して何が悪いのか。直感的には悪いと言うけれども言葉にするのが難しい命題。ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真も、解像度の差としてその命題が現れる。つまり、いくらデジタル一眼は社に漂う気配が映し出せているといっても、あくまで千数百万画素のレベルでの話であって、一億画素があればそちらにはより克明に映し出され、それでも肉眼に映る気配とは似て非なるもの。では画素数を問わない絵画なら話はどうなるのか。

ニーチェが最後にたどり着いた<価値基準>は「美」だという。僕は何かが美しくて何かが美しくない、という判断にはあまり興味が湧かなかったのだけど、ここにきて「美」に対する興味が大きくなっている。何が美しくて何が美しくない、という話は、相対的で主観的なものとして、相互認証的に「放置」しておくのが最もよい、という消極的な考え方だったところが、「何が「美」なのか」ということと、「「美」とは何か」ということを、突き詰めて考えてみたくなった。この、「美」をうまく言えないところに何かがある。だから、『言語にとって美とはなにか』の再読から始めようと思う。

来年は、僕にとって「美」を深く考えることで、そういう「絶対的な」価値基準から自由に物事を考えられるようになっている自分の思考を、一歩深めることができると思う。

THE BIG ISSUE JAPAN 205号 「スペシャルインタビュー 奈良美智」

再び、「孤独」について。

BIG ISSUEはここで買うと決めているドーチカで「最新号」と言って買ったら奈良美智。不機嫌な子どもと名前ぐらい知ってる、ですが、6年前の大プロジェクト「AtoZ」から震災を経て、今開催中の「君や 僕に ちょっと似ている」までの道のりが描かれていて、わずか3ページのインタビューだけど感動するところがたくさんありました。

人混みに紛れ、共同作業(「AtoZ」を指す)による楽しさと引き換えに忘れてしまったのが、一番のオーディエンスでもある自分自身だった、と奈良さんはいう。

最初に僕の作品に興味をもってくれた人たちは、あの学園祭のような身内の盛り上がり(「AtoZ」を指す)をどう感じたのかなと思ったんです

「共同」という、聞こえの良い、現代では誰も反論することのできないスタンスの内側に、「群れる」という否定的な弱さが忍び込むことを誰もが忘れている。奈良氏は、それを「本能的に人混みに紛れようとした」という言い方をしてる。

集団製作の中で失いかけた孤独な自分自身との対話。

自分は自分自身と向き合わなければいけない。自分自身と向き合っている人こそが、誰かの心にも働きかけることができる。自分自身と向き合っていない人が心を動かされた何かに、間違って心を震わされてしまってはいけない。それは、他の誰かにもまたよくない波を送ってしまうから。

それから、セラミック彫刻を選ぶのかブロンズ彫刻を選ぶのか、というところで、ひとつひとつその特徴とか向き不向きと自分のやりたいことを、丁寧に考えて前に進めてることを読んで、自分もひとつひとつへの思索をもっと徹底してやらないといけないと思いました。

ほんとに「孤独」は不幸なこと、なのか?-『ことり』/小川洋子

 日曜日経朝刊の書評で知って即日買って、一週間で読みました。

 その書評に、「世間ではやけに”つながり””つながり”と言われるが、『ことり』の小父さんの人生を読んで、孤独だった小父さんは不幸だったのだろうか?孤独はそんなに不幸なことなのだろうか?と疑問に思わずにおれない」というようなことが書かれていて、そこが、僕を即日買いに行かせた最も大きなポイントだった。

 ほんとに「孤独」は不幸なことなのだろうか?

 『ことり』の小父さんは、一日のペース、一週間のペース、一年のペースを大切に守りながら、独自の言語しか喋らない、鳥を愛するお兄さんと、そのお兄さんを亡くしてからは独りで暮らしている。小父さんは、心を許せる数少ない人びととの交流の他は、できる限り、人と触れ合うことからも遠ざかり、静かにペースを守るように暮らしている。
 この暮らし方は、現代人から見たら、変化を拒み、社交性もない、だから社会の構成員として何の貢献もない、望ましくない生き方と言われそうだし、人との交流を極力拒んでいる点で、つながりもなく、「孤独」で、不幸な人生のように映りそうだ。

 その小父さんの清純さと頑なさに、胸を締め付けられっぱなしで最後のページを読み終えることになるものの、僕は小父さんの「孤独」を不幸だとは一度も思わなかった。僕たちが住む現代社会は、大切なものを守るために、時に、排他的ではない形での「集い」を試みなければならない、というよりもそれを要請されるような社会になっている。だから、小父さんの生き様は、通俗的にはどんなに淋しそうに見えたとしても、現代社会に住む僕たちは、必ずや「手本」として心に留めておかなければならないひとつのスタイルなのだ。

 そしてもう一つ、"つながり"を価値あるものにするのは、「孤独」を尊べる者だけなのだ。「孤独」の価値を、「孤独」の意義を、「孤独」の理由を知らない人がつながっても、そこで生まれてくるのは欺瞞のエネルギーだけ。何かをやった気になるだけど、誰かに利用されやすいだけの。「孤独」を恐れない人たちの"つながり"こそが、本当の"つながり"なのだ。 

4022510226 ことり
小川 洋子
朝日新聞出版 2012-11-07

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『悟浄出立』from『文芸ブルータス』/万城目学

ちょっと芥川っぽいカンジ?『文芸ブルータス』、文芸好きにだけじゃなくて、あまり本を読まない人に対してもいいツカミの仕事してる。

文芸ブルータス』は11人の作家の作品が掲載されているので、一作一作感想書くのはこの本の魅力を伝えてることにならないけど、敢えてということで。

言わずもがなの『鹿男あをによし』の著者、万城目学の作品『悟浄出立』。西遊記の設定を仮借して、どんなに悟空に警告されてものこのこ妖怪に捉えられるという三蔵法師・八戒・悟浄をバカバカしく真面目にコミカルに描きながら、何事にも一歩引いて傍観者的であるのを分別と取り違えているような悟浄が、「出立」するに至る出来事を、漢語を交えながら「さも」それっぽく描く。この「さもそれっぽい」というのが文芸にとって何よりも大事で、SFなんかその極みだと思うけど、「アホらし」と思っててもそのそれっぽさにぐいぐい引き込まれて、その辺の先生に言われたら「アホくさ」と思ってしまうような「人生の訓示」を、「そうだ。そんなふうに生きなきゃならん」と思わされてしまうのが正に文学。正に文芸。

くどいようですが『文芸ブルータス』、お勧めです!

B00A7BI3TW BRUTUS (ブルータス) 2012年 12/15号 [雑誌]
マガジンハウス 2012-12-01

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『文芸ブルータス』/有川浩、木内昇、舞城王太郎、いとうせいこう、朝井リョウ、伊坂幸太郎、西村賢太、鹿島田真希、堀江敏幸、絲山秋子、万城目学

「文芸」をテーマにコラボした雑誌はときどき出るけど、やっぱり売れてほしいのです!

たまたま東京駅ナカの本屋"HINT INDEX BOOK"で見つけて買ったのですが、ちょうど昨日が発売日だったんですね。yom yom、小説新潮、新潮、オール読物、enTAXI、文藝、群像、小説すばるの八誌に掲載され、単行本未刊行の11作家11作品が収録。紙も厚め、段組みも雰囲気で、本の体裁から「文芸」誌です。

掲載された小説だけでなく、対談や作家ガイド、文藝賞ガイドなんかも綺麗に纏まっていておもしろい。あまり本を読まない人がこれ一冊買って、「文芸」のおもしろさに目覚めることはないかも知れないけれど、「文芸」好きの人は是非ともこれを買って、「文芸」を再び盛り上げていく気概を、業界に伝えてほしいなと思いました。仮にこれが、「文芸」という芸術の高尚さを損ない、一般平均化してしまうことだとしても、それは、「文芸」を衰退させたとは言わないけれど「つまらないもの」にしてしまったとは言える権威主義から「文芸」を取り戻す一歩だから。

好きな作家だらけで、新幹線でどれから読もうかな~と迷った末、『阿修羅ガール』以来、破壊力の虜になっている舞城王太郎と、なんか読んでる間ずっと罵声を浴びせられているような辛辣さ加減の虜になっている絲山秋子の2編を読んだんですが、たまらんかったです。舞城の『私はあなたの瞳の林檎』は、中学生の恋愛小説に見せかけた内面と言語表現の齟齬と統一の話、そして絲山の『ニイタカヤマノボレ』は、これまたアスペルガーを持ち出してカムフラージュされた、世の中の本音と建前の狭間に震災をぶつけてきた辛辣なストーリー。文芸好きは、11作全部既読でも、その他の記事だけでも買って損ないです。

『火口のふたり』/白石一文

震災・自然災害、原発、男女の違い、セックス、テーマは括り易く、括り易いと言えど幾重にも折り重なっているのだけど、最も強く迫ってきたのは「この国はいまや東と西で真っ二つに割れてしまったのだ」というものだ。

肌で感じていることだけど、自分達を含めて西日本の人間は、震災被害に関して全くもって鈍感で、被害を実際に受けていないとはいえ、意識は持たないといけないのではないかという僕の問い掛けに、真剣に答えてくれた人はひとりもいなかった。だいたい一様に、「実際に被害を受けていないんだからどっちみちわからない、そんなこと四六時中気に病んで生きていく必要はない」という答えだった。本著で書かれている通り、今や西日本で、スーパーで野菜を買う際に放射能に神経質になる人はいないだろう。何故なら、地元産の、つまり、放射能汚染の心配がほぼない野菜が並んでいるから。東日本にとって、地元産が並ぶと言うことはその正反対のことを意味するのだ。

本著が秀逸なのは、このことを、「今や国民の関心はブラジルワールドカップ。原発は気を引くネタではなくなった」と表現するところ。つまり、本著は東日本大震災から三年後、2014年を舞台に描かれている。この「超近未来」な舞台設定は、今の自分の意識を浮き彫りにする。つまり、「如何に自分の中で、震災が風化しているのか」を、2014年にどうなっているかという描写を通じて、たぶん自分もそうなってしまうだろうと思うところから、今の自分もすでにそれに近づいている、ということに気づいてしまう。

2014年の日本は、明らかに危機に近づいている。近くない将来、首都圏に直下型地震が来ると言われているのだ。2012年の僕たちよりも、2014年のほうがそれに近づいている。そして、福島原発がそのままなら、巨大地震が来た時に国は終わると言っていいのだ。つまり終焉に近づいて行っている。そこに疑問の余地はない。映画「ハルマゲドン」の比じゃないのだ。なのに、特に西側の僕たちは、そんなことなかったことのような生活を送ってしまっている。これは、問題を引き延ばして考えれば、国は終わらずとも国は終わる。自分が死んだとき、自分にとっての国は終わる。だからと言って、日々「明日俺は死ぬかもしれない」と本気で思って行動出来ている人はごく稀。それと同じことを起こしているのが、事故を起こした原発を抱えた今の日本なのだ。

終局をついに知ったとき、主人公の「賢ちゃん」は、「どうせ終わりなのだから、好きなことをやって生きて行こう」と開き直る。それに対して直子は、「こんなになっても、まだそんないい加減な生き方をするの?」と突き刺してくる。この対比に、「これまでは積み上げていくのが倫理観だったが、不確実性が増す中で、明日を予測して生きるより、その都度その都度で生きていくのが倫理観になる」という、俄かには受け入れがたいけれども的確な反論をすることのできないテーマが絡んで、余韻が尽きない。これは『スイート・ヒアアフター』を読んだ際にも思ったけど、西日本に住む僕たちは絶対に読むべきで、ひとつだけ確かなことは、原発問題に対処するためには、facebookなんかで声を上げていても効果がないということだ。

4309021425 火口のふたり
白石 一文
河出書房新社 2012-11-09

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アームストロングのタイトル剥奪と永久追放に思う-『ラフ・ライド-アベレージレーサーのツール・ド・フランス』/ポール・キメイジ - justanotherlife

本屋でふと見つけたこの本を読んだのは去年の11月。『ラフ・ライド』というメインタイトルと、サブタイトルにある「アベレージレーサー」という単語から、スーパーヒーローでない選手が遮二無二戦う話かと思ったら、自転車界に蔓延する悪習、ドーピングを正面から扱った話で驚き、一気に読んだ。

まさかあれから一年、自転車界のスーパーヒーロー、ランス・アームストロングがドーピングでツール7連覇のタイトル剥奪と永久追放という事態が起こるなんて。事件はドーピングに手を染めた選手やチーム組織だけでなく、自転車界全体に問題が偏在しているという報道に進んでいるけれど、何にしても、これによって「自転車」に対するイメージが決定的に損なわれてしまうことだけはないように願うばかり。競技ではない、趣味で楽しむホビーライダーにとっては、ドーピングなんて全く無縁のことだから。

ロードバイクとか、そんな高級な自転車でなくっていいんだ。シティサイクルで、ママチャリで、自転車の楽しみは十分味わえる。みんなそれぞれの楽しみ方ができればそれでいいし、そこが自転車のいちばんいいところなんだ。

4915841863 ラフ・ライド―アベレージレーサーのツール・ド・フランス
ポール・キメイジ 大坪 真子
未知谷  1999-05

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今、日本は空前の自転車ブーム。ほぼ連日のようにニュースでは自転車に関するニュース(それはたいていピストの暴走とかのあまりよくないニュース)が取り上げられる。エコな移動手段、健康的、クリーンなイメージと共にある自転車。でも自転車がブームになったのは今が初めてじゃない。1960年代にも大流行したことがあるらしく、当然だけどその歴史は古い。

本著が取り上げているのはそれよりはまだ新しく、1980年代後半のツール・ド・フランスを中心に語られる。1980年代と言えば日本は高度成長期からバブルに向かおうとする、正に現代に通じる発展を遂げてきた時代で、世界ももちろんそう変わらない。にも関わらず、登場するエピソードはいったいいつの時代の話なんですか?と繰り返し聞きたくなるくらいに泥臭く闇の世界的なある行為が語られる。ドーピングだ。

自転車競技は1980年代、薬物に汚染される道をひた走っていたらしい。ドーピング自体は禁止行為だったが、バレなければ構わない。というよりも、バレずに済むことが判っていれば使用する者が当然のように現れ、使用しない者は使用する者にどうやっても勝てないとすれば、これも当然のように誰も彼も使用するようになる。正に悪化は良貨を駆逐する。そこまでして勝たなければいけない最大の理由はスポンサーだ。つまり、1980年代のロードレース界は、金によって薬にズブズブと使ってしまっていたのだ。

著者のポール・キメイジは本著のサブタイトルに「アベレージレーサー」とある通り、華々しい戦績を挙げた選手ではない。であるが故に、ドーピングの告発を込めたこの本も、その発言も、「ぱっとしない選手がああいうことよく言うんですよね」式に片づけられそうになったらしい。ルールを破ることが成功するための唯一の道で、その中でルールを守ることを貫き通す勇気を、この本から学ぶことには意味がある。どんな世界でも、常にルールと倫理を厳しく守り通して競い合うとは限らない。むしろ逆で、ルールの抜け道を探し出すことが勝利に大きく貢献したりする。それでも、自分はそのようなことはしないというスタンスを貫く勇気と、そういうルールを補正し続けて行こうという持続力の大切さを知ることのできる良書。