ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 斎藤 栄一郎 講談社 2013-05-21 by G-Tools |
ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 斎藤 栄一郎 講談社 2013-05-21 by G-Tools |
よしもとばななを読むときの個人的なテーマがあって、それは「収入を得るということがどう描かれているか」ということ。初めて読んだのが『N・P』で、そこから遡って既刊作を読んで、以来読み続けている中で、僕にとってのばななの転換点だったのが『海のふた』だった。ばななの作中の人物の半ばオカルトチックな魅力は抗いがたいものの、読み続けていてどうしても残るしこりのような不満、それは、「この人たちの生活ベースは浮世離れしすぎてて、一般庶民の僕らの世界の物語ではない」という感覚だった。おじいさんの遺産が転がり込んできたのでつつましく生活すれば一生働かなくてもいいようなおとうさんから生まれてきた娘、みたいな設定の下で奇跡を起こされても、ばななの作品世界ではそれでも心を打たれてしまうものの、やっぱりそれを自分の日常生活に活かすには求められる飛躍が大きくて、どちらかというと「寓話」というか、子ども時代にしつけのために読まれて刷り込まれる昔話的にしか活かせなかった。
それが、『海のふた』は違った。正確には思い出せないけど、かき氷屋を初めて自分で稼ごうとする主人公が登場するのだ。僕はこの作品を、それこそ胸に大事に抱くように読んだ。あらすじすら正確に思い出せないけれど、「自分で稼ごうとする主人公を、よしもとばななが描いた」というその感動は今でも全く色褪せずに胸の中で輝いている。
そして本作なんですが、これはもう『癒しの豆スープ』に尽きる。他の四篇ももちろん素晴らしいですが、『癒しの豆スープ』はとんでもなくよいです。ばなな独特の馴染のある恋愛・家族ストーリーを縦糸に、「生きる」こと「働く」こと、つまり「仕事とは何か」という、ばなな独特の世界をともすれば曇らせてしまいそうなテーマを横糸に、これ以上ないバランスで描き切られている。金儲けに走るスタンスを否定することはなく、お金に拘らないスタンスを奇異に持ち上げることもなく、それぞれの道にはそれぞれの道の意義があり、その意義を全うするためにはそれぞれに辛く苦しいハードルがあり、その意義を全うするために進んでいる限りそれは正しい歩みであり誰に否定されるものでもないということを、全力で描き切ってある。もし、これを読んで、「収入を得る」ということに対する全方位的なスタンスがわからないとしたら、その人にはもう働く資格なんかないと言い切ってもいいかもしれない。それくらい、「それぞれにはそれぞれの道があり、それは深く意義を理解することで判り合えるもの」ということが込められた物語だと思います。
それにしても、吉本隆明を読んで、よしもとばななを読んだら、当面、そこそこの程度の本だと読めないんだよなあ。全然おもしろいと感じなくなる。困ったもんだ。
さきちゃんたちの夜 | |
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激推薦。ただただ読んでほしい。僕にとっては今年度No.1決定です。
僕は大学生のときに『共同幻想論』に出会って以来、吉本隆明思想の大ファンで、難しくて理解できないけれどできるだけ氏の著作には触れるようにしてきました。難しくて理解できなくても、読んでいて「おもしろい」と興奮状態になるのが不思議なのです。
その吉本隆明の「最後の仕事」、雑誌『dancyu』での連載を纏め、更に氏の長女のハルノ宵子がコメントを付けた本が出版されたと聞いて即買いに行きました。
読んでいる最中、何度も涙ぐむ。某調味料メーカーのCMで有名になったと思っていた「白菜ロース鍋」が吉本家で古くから「名物」として食卓に上がっていたこととか、そういう意外でおもしろい話も挟まりながら、確かに「味」をテーマに一章一章書かれているのだけど、日々を行きつ戻りつする自由な味わい、それが本著の最大の魅力だと思います。
読んでいるときは、すっと頭に入ってくるのはハルノ宵子の解説文で、吉本隆明の文章は少し読みづらく、活字と配置もあって頭に入って来ず、字面を眺めているだけになっては数行後戻りして読み直す、ということが何度となくあったのに、頭の中に残る「読んだ」という残像・イメージは圧倒的に吉本隆明の文章のほう。ハルノ宵子のは解説文なんだから、と思えば当たり前なんだけど、読みやすさ=残像ではないことの驚きと、解説文という立ち位置を弁えつつもあんなに読みやすい文章を書ける力量をひたすら尊敬し、憧れます。
父親に対する視線。衰弱して記憶が怪しくなっているのに平然と間違いを書いてのける吉本隆明と、それを読んで「この頃の父はだいぶ記憶が怪しくなっている」と切って捨てるハルノ宵子。ひとつの生が終焉に近づいていく、一定の期間における変遷が克明に読める書物はそんなにないです。それだけでも買って読む値打ちが十二分にあると断言できます。
「味」についてのエッセイなのに、『開店休業』という、全然「食」を前面に出してない、それでいて「店」という言葉の入る、判るような判らないような絶妙なネーミングも、実は深い深い意味が隠されているのですが、さすがにそれは書けません。是非、手に取って読んでほしいです。
開店休業 吉本 隆明 ハルノ宵子 プレジデント社 2013-04-23 by G-Tools |
何と言っても最大の特徴は「短さ」だと思います。
個人的に気になっているのは、「沙羅」が何色なのか?ということ。作中でもきちんと語られる通り、主人公である多崎つくる以外の登場人物は、すべて名前に色が含まれる。親友四人だけでなく、灰田も緑川も。でも、つくるが今現在の時間で向き合っている女性である沙羅は、直接的には色がついていない。敢えてこじつけて沙羅双樹で引っ張ってみれば白色か。または白色と黄色?しかし白と言えばつくるが惹かれていて、五人のバランスを壊す引き金となって、なおかつ殺されてしまったシロと重なってしまう。つくるが、つまりは人が惹かれるのはシロだということなのか?そうすると三日後、沙羅はどんな答えを用意するのだろうか?最後に救いがあるようで、また繰り返されるのだろうか?
もうひとつ、「そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」。それが何故起こったのかと言えば、「我々が暮らしている社会がどの程度不幸であるのか、あるいは不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ」。なぜ、僕たちは「自分達でそれぞれに」判断できないのだろう。誰かの判断を奉ってしまうのだろう。ナントカ系とかいうレッテルを、好き好んで自分に張り付けて、誰かの判断を受け入れてしまうのだろう。そうして、自分の判断を誰かに押し付けてしまうのだろう。自分がどんな色であるか、誰かがどんな色であるかは、それぞれ自分自身で決めればいいことだ。同じ色同士で集まるところには、「一九九五年の春に東京で実際に起こった」悪夢に通じる何かが潜んでいることに、もっと鋭敏にならないといけない。繋がりを重んじる前に、それが「繋がらない」を生み出していることや、まずは己が自分を判断できないのならそれだけで害悪であることに自覚的にならなければいけない。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上 春樹 文藝春秋 2013-04-12by G-Tools |
ネットを巡回していて、以下の記事が目に留まった。
たった1記事で8万人に読まれる文章を書けるようになるライティング術
全然アクセスのないこんなブログを書いているので(笑)、そのタイトルはもちろん興味深いです。
一読してみて、キモになるのはここだと思いました:
「文章」と「コピーライティング」の最大の違い
この違いを理解するためには、まず、雑誌や書籍など文章力が必要とされる「紙のメディア」と、ブログやサイトなどコピーライティングが必要とされるWEBメディアの違いを抑えておく必要がある。
単刀直入に言うと、両者の違いは以下の通りだ。
- 紙媒体を読むきっかけ:お金を払って読んでいる
- WEB媒体を読むきっかけ:たまたま目にとまった
そして、この記事を読んですぐに頭に浮かんだのは、「8万人に読まれるブログが書ける」ではなく、「だから『本』を読まなければならない」と言える根拠がここにある、ということでした。
つまり、Webというのは、「いかにフックするか」に血眼になっている文章の集積体。中身がないとはもちろん思わないけれど、「なぜその文章を読みたいと思ったか」と言うと、自分の内面からの関心に触れたというよりも、向こう側から「読めよ、読めよ」と言われて読んだ、というケースが圧倒的だと思います。
つまり、「読み」がほとんど受動的。
一方、本を読むのは、どの本を読むか、というところから、受動的では要られない状況になっています。もちろん流行りものや話題先行の本もあるけれど、そういった本ではなく、自分の関心に沿う本を読むためには、自分から「選択」しないといけない。
この、「向こうから与えられる選択」か、「自分から取りに行く選択」かが、「読み」に与える影響は果てしなく大きいと思うのです。
だから僕は「本」を読み続けます。
ところが日本人の社会って依然として情緒だけで動いちゃうね
鮎川信夫氏のこの一言だけで十分なのかも。
この一言は、日本での言論というのは、言論を通じてどこかにたどり着こう、相手から発せられた意見や反論なども取り込んでさらに先に行こう、という態度ではなくて、あくまで自分の立場からしか物を言わない、自分の立場に固執し、自分の立場を守る目的での言葉しか言わない、だから情緒だけで物を言ったり動いたりしかできないよね、という文脈で述べられたもので、ほんとうにその通りだなあを、わが身を振り返る訳です。
『「反核」異論』については、「反核」そのものに対して否定を投げかけるのではなく、「反核」に至る過程-つまり、当時のソ連がポーランド「連帯」弾圧を覆い隠すために作為的に巻き起こしたものだということを見抜けずその作為に乗っかってしまうことへの批判と、「反核」を謳うのであればアメリカだけでなくソ連も断じなければ筋が通らないではないかという批判、この二つが主軸。ここで思うのは、『「反核」異論』という見出しだけで、「けしからん」というリアクションを返すような、言論的に薄っぺらく弱弱しい状況に現在もなっているんじゃないか、ということ。自分と異なる意見を述べそうな人が出てきたときに、「なぜ、そういうことを言うのか?」という想像力と、その立場を取り込んでいこうとする足腰が、どんどん弱ってきている気がする。
あと、本筋とはちょっとそれますが、
大部分の労働者は、労働者としてのじぶんというものよりも、消費社会の中で背広をきて遊びに行くときのじぶんを、じぶんと思いたい率のほうが多くなってきているのではないか
というところ、こう書かれた文章を読むと「当たり前でしょ」と思うけれど、「当たり前でしょ」と思うくらい、適格に書けているところが凄いなあと。そして、それが消費なのか、消費ではなくとも「労働」に費やしているのではない時間帯なのかの違いはあると思うけれども、とにかくそういうときのじぶんを「じぶん」と思いたい率は本著か書かれた時代よりも現代の方が更に高まっていると思われるのに、近年とかく「仕事、仕事」と言われるのは、高度消費社会においてはそれはやはり「退行」なのではないか、と本著を読んでおもった。これは『暇と退屈の倫理学』を読んだ時にも思って整理仕切れなかった。高度消費社会はグラフの頂点で、ここから緩やかに生産社会に戻っていって、その結果、「じぶん」らしい「仕事」をする社会に、復帰していくのだろうか?それは「退行」ではないのだろうか?
「反核」異論 (1983年) 吉本 隆明 深夜叢書社 1983-02by G-Tools |
はじめて電子書籍をリリースして、実感も伴ったところで。
基本的に僕は紙の書籍が無くなるとは思ってないし、紙の書籍がいいなあという思いも持ってるけれど、盲目的に「本と言えば紙だ」みたいなことを言う人には少し白けてしまう。電子書籍の利便性というのは間違いなくあるし、そもそも、本と言うものが歴史に登場するまでは知は口承だった訳で、その時代には「本って何だよ本って。口承だろ、口承」と思われていたはずなのだ。ノスタルジーにしがみつく姿勢は好きになれないです。
本著は言わずと知れたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが、お互いの家を行き来して行われた対談だそう。「もうすぐ絶滅するという」というタイトルは原タイトルに忠実な訳ではないようだけど、「そんなことちっとも思ってないよ」という空気が出てて、本著によくマッチしてると思います。
印象に残ってるのは、図書館が全焼するという話がしょっちゅう出てくること。書籍が燃えてしまうということのイメージと、それの象徴的な意味と、そんなこと全然厭わないよ、という3つの軸が展開されるところが面白い。書籍と言えば知、というシンボルと、収集対象、という観点とがあって、めまぐるしく入れ替わる。それと、書籍で興味のあるのは、愚説や嘘の類が書かれているものだ、という箇所。美しいものや優れたものを追いかけていては、人間の知的営みのごく一部しか触れられない、という角度にははっとしたけれど、後半になるにつれて、徐々に若干インテリのスノッブな感じが出てきて語るに落ちたかな、という感じでした。
でも、書籍の何たるかを考えるには好著だと思います。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール 工藤 妙子 阪急コミュニケーションズ 2010-12-17by G-Tools |
現代の現実社会が舞台でありながら、『ハリー・ポッター』よりも娯楽小説な読後感でした。
と言いながら、実は『ハリー・ポッター』シリーズは、本で読んだことないんです。
ストーリーとは別に(やはりストーリーテリングが巧みなので、筋を見失うことなく読み続け読み進められますが、起伏が激しい訳ではなく、ラストも静かに幕を引くような印象があります)、非常に興味深かったのが、各章の始めに書かれている、『地方自治体・自治組織の運営』という書籍?からの引用。
Ⅱ:
p355「自発的な団体の弱点 そのような団体の主たる弱点は、設立時の困難に加えて分裂の可能性が少なくないことである」
p379「貧困の救済 生活困窮者の利益になる贈与は・・・慈善行為と解釈される。また生活困窮者への贈与は、たとえ付随的に富裕者の利益になる場合においても、慈善行為と解釈される」
チャールズ・アーノルド・ベイカーで検索しても『地方自治体・自治組織の運営』で検索してもなーんも出て来ないので、学の無い僕にはこれが実在なのかフィクションなのか区別がつかないんですけど、それにしてもよく書かれた文章だと思います。
「自発的な団体の弱点は、分裂の可能性が少なくないことである」これは、地方議会等を思い描いて堅苦しく考えなくても、身近で作ったサークルとかグループとか、作らなくとも自然発生した集まりなんかでも容易に思い当たる。これを、どうやれば維持していけるか、と考える方向もあれば、以前読んだ『来たるべき蜂起』のように、コミューンは必ず分裂されてしかるべきものだ、と、コミューンの本質を大事にする方向もあれば、僕のように端から単独に重きを置くという方向もある。どれかが何かから逃げている、という訳ではないと思う。
「生活困窮者への贈与は、たとえ付随的に富裕者の利益になる場合においても、慈善行為と解釈される」 これなんかは流石によく考え抜かれているなあとほとほと感心しました。日本だと、行為の結果がどうあれ、それを行うに至った考え方がヨコシマなら許されないとか、「付随的に利益」があるなら「汚い」とか言い募る風景がすぐに思い浮かぶ。全方位的に、抜け穴なく評価する姿勢はとても大事なことだけど、全方位的に評価した結果、総じて「どう」なのか、ということを判断する意識が、日本の民主主義には欠けていると思う。
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カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 2 J.K.ローリング 講談社 2012-12-01by G-Tools |
[速習!]ハーバード流インテリジェンス仕事術 問題解決力を高める情報分析のノウハウ 北岡元 PHP研究所 2011-01-31by G-Tools |
kindleストアの日本版がオープンしたので、何か1冊買ってみようと思い、選んだのがこれ。よく言われるように、日本のkindleストアは紙書籍に比べて大きく安価な訳でもないし、新刊が多くある訳でもないので、「kindleでなければ」という本を選ぶのは結構難しかった。敢えて「kindleで読む」ということを想定すると、僕の場合、kindleで読むのは概ね通勤時間が最適と言える。なぜかというと、特に行きの通勤時間は混んでいるので、鞄から本の出し入れをするのが大変だから。そして、30分弱の時間は、長めの小説を読むのには不適と経験上判っているので、ビジネス本等が向いている。そこで、少し古めで、1,000円前後のビジネス本を買うのがよかろう、という結論に。
ところが盲点がひとつあった。僕の持っているkindle 3は、日本のkindleストアで買った書籍をダウンロードできない。日本のアカウントに、kindle 3を紐付できないのだ。アカウント結合したら解決なのかも知れないけど、洋書は洋書で入手できる道を残しておきたいので、androidにkindleアプリを入れてそちらで読むことにした。
結果を言うと、「ビジネス本」をケータイkindleで通勤時に読む、というのは悪くない。ビジネス本は基本的にはノウハウを吸収するものなので、机に向かうような状況じゃないところで読むほうが頭に残ったりする。読み直したいときに、片手ですぐ読み直せる。小説は、小さい画面でページあたりの文字数が少ない状態で読むとストレスがあるが、ビジネス本はフィットすると思う。
ところで本の内容自体についてですが、意思決定に関するノウハウの基本が非常にコンパクトにまとまっています。しかもそれらがすべて、「エピソード」という例を元に解説されるので、理解が早いです。個人的には「盲点分析」が知っているようで知らないということが判り、使いこなせるよう読み込みました。
「ビッグデータ」と「松岡正剛」と並んでると、読まない訳にはいきません!
Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2013年 02月号 [雑誌] ダイヤモンド社 2013-01-10by G-Tools |
松岡氏は「ビッグデータがどれだけあっても、それを”編集的”に捉えられる視点がなければ有効に活用できない」として、編集工学の手法を要約して説明されている。これは、「データ・サイエンティスト」が注目されるのと同じ文脈で、それ自体は至極全うな意見だと思うけれど、「ビッグデータ」の文脈そのものを、少し捉え損なわれているように感じた。
(主に)企業が、「ビッグデータ」に期待しているのは、正に「編集的な能力がなくても、自動的に”物語”を抽出してくれる技術」のように見えているからだ。ビッグデータそのものが、イコール物語だとはさすがに思っていない。ただ、ビッグデータから物語を抽出するのに、いちいち「仮説」を考えないといけないようだと、(商用)ITとしての「ビッグデータ」には価値がない。少なくとも、ほとんど売れない。
そして、完璧な"物語"の抽出など求めている人も、たぶんほとんどいないと思う。今までのDWHよりは物語的な物語を、自動で抽出してくれる装置として、ビッグデータに注目している。それは完璧でなくても構わない、Web2.0以降の「ベータ社会」よろしく、自動抽出された半完成の物語、「物語ベータ」で以て一旦企業活動を回してみる。それをフィードバックする。そういうことを意図している。いわば、編集を不要化したいのだ。なぜなら、ITを頼むというのは、本来的に自動化することであり、「誰でも出来る」ようにするのがその本質だから。物語の抽出さえ、経営者は「個人のスキル」に依拠したくないのだ。
この「IT(ビジネス)の本質」に届いていなかった分、松岡氏の稿は期待外れでした。