『プラハ冗談党レポート:法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』/ヤソスラフ ハシェク

これぞ”維新”!

4798701246 プラハ冗談党レポート: 法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史
ヤロスラフ ハシェク Jaroslav Ha〓sek
トランスビュー 2012-06-05

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第一次大戦前の1911年、ボヘミア王国プラハに、人気作家ヤロスラフ・ハシェクが新党を設立して選挙戦に挑んだ。その名も「法の枠内における穏健なる進歩の党」!

つまりは「冗談党」な訳だけど、実際に立候補して選挙戦を戦って、その活動っぷりの記録を一冊の本にしたのが本作。もうめちゃくちゃに面白いです。帝国という国家権力、その国家権力の維持の仕組と成り下がっている政党政治、それらを、外野ではなく実際に政党を作って立候補して選挙戦を戦って、スキャンダル告発やらなんやら、無茶苦茶にやりこめていく。でもその政党の政治活動と言ったら、プラハの居酒屋に集まって飲んだくれて、これまた滅茶苦茶な弁舌を捲し立てる、という具合。そのビールの金にも事欠くような集団が、体裁は整っているけれど、スタンスは冗談みたいな選挙戦を繰り広げるのです。

居酒屋でビール飲みに集まることが政治活動なのかどうなのか?知識としては持っている、ヨーロッパの「サロン文化」に似たようなことか、と合点してしまうこともできるし、そもそも冗談なんだから酒飲みながらやってんじゃないの、と言う気もする。でも、「広場のないところに政治はない」というように、政治って、政策とか投票とか、実行内容や仕組から考えがちだけど、原点は「人と人がどんな話をするか」というところだと思う、ので、この「口達者」な新党党員たちの八面六臂ぶりが眩しく見えます。

そう、帝国という危なっかしい体制だから、私服刑事とか密告者とか、現代の日本では考えられないような危険な相手が普通にいるというのに、彼らはその口八丁ぶりで、そんな「当局」側の攻撃さえ、逆に返り討ちにしてしまう。その鮮やかさにびっくりするとともに、そんな弁舌を持ちながら、まともに選挙をやる訳ではないところに、不思議よりは面白さを強烈に感じてしまう。

僕らはいつの間にか、「望みがあるなら、直線的に、直接的に、行動して結果を出さなければ、意味がない」と思い込まされていたと思う。確かに、成果の出ない行動は、やってるのかやってないのか分からないことには違いない。でも、何かを変えるために、しゃかりきになって青筋立てて「あいつが悪い」とやるのが果たして正解なんだろうか?そこまでやっても変わらないのだからよりもっと強力に、となってしまうのもわかるし、正面切ってやらずにコネとかなんとかで裏から手を回してネゴして、みたいな日本的なやり方がとんでもない数の弊害を招いてきた歴史も知っているから、どうしても、しゃかりきにならないと正々堂々としていないと思ってしまう。でも、第一次対戦前のボヘミア王国、今の僕らよりももっと閉塞していたに違いない政治状況で、こんな風に打って出たハシェクの行動を粒さに読むと、「維新」のなんたるか、その神髄を教えられた気になったのだ。

日に日に困難な政治状況になっていくような今こそ読むに相応しいと思います。

「主」なき御宣託 または 転向への反抗: 村上春樹氏の領土問題に対するエッセーを読んで

朝日新聞デジタル 村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」

作家の村上春樹さん(63)が、東アジアの領土をめぐる問題について、文化交流に影響を及ぼすことを憂慮するエッセーを朝日新聞に寄せた。村上さんは「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと書いている。

今は会員ログオンしないと読めないけど(「朝日新聞はケチだ」みたいなコメントをときどき見たけれど、当日記事は無料、バックログは会員ログオン必要、というのはニュースサイトでは普通だと思うし、当日ニュースが無料で見れるのが一般的になったこと自体恵まれたことだと思う)、僕は当日、全文を読むことができました。読んだその時は、「同じような主旨でも、言い方と表現でずいぶん説得力が変わるものだなあ。学ばなければ。」と思ったのですが、しばらくして結構大きな違和感が、やっぱり沸々と湧いてきました。

僕は、尖閣諸島は日本固有の領土だと思っています。その前提で考えているということをまず書いておきます。

村上春樹氏のエッセーは、「これはやはり、日本人固有の”お上精神”の発想だな」と、つくづくと思ったのです。

尖閣諸島は日本の領土で疑いはないと思っているところに、様々な理由をつけて中国の領土だと言い募られている。そして、日本企業がもはやテロの域に達した暴動で、膨大な損害を被っている。中国では日本製品や日本の文化物が店頭から消えていっている。そんな中でも、日本は、特に、文化的な報復をするべきではない、これまでの先達が累々と築いてきた努力を無駄にしてはならない、という趣旨のことがエッセーでは述べられる。

これはこれで確かに至極全うで、恐らく国際的にも認められる振る舞いだとは思うけれど、そういう褒められた立ち居振る舞いだけで問題が解決しないのがまた国際社会で、だから我々日本人は大きな苦しみを感じているのだと思う。北方領土、竹島、尖閣、こういう領土問題は、我々日本人が二度と侵略戦争を起こさないように過去から未来に受け継がれるシンボルとしての「問題」だという考え方を取ることもできるけれど(実際、未来に渡って我々日本人がそういう過ちをもう繰り返さないという保証はどこにもない、今この現代でさえ、何とならばやりかねない思想が見え隠れするくらいだから)、それはまた別の問題、別の文脈なのでここでは置いておきたい。

尊敬に値するような振る舞いを続けて耐え忍ぶことで、いつかそれが報われる日が来る。村上春樹氏のエッセーを、「問題解決」の観点で読むならばこういうことになる。繰り返しになるけれど、国際社会というのは、正しいことを正しいと言い続けるだけでその正論が通るような世界ではない。国際社会どころか、日本の、日常の社会だってそうじゃないか。だから、「問題解決」するためには、何らかのやり方が必要になるのだ。我々の考え方を判ってもらうための、何らかの「やり方」が必要になる。その「やり方」が褒められたものではないからとこちら側は控えていたとしても、相手側はその「やり方」を行使し、それが十分効果的で、そちらのほうが優勢になり、「正しい」ことになることも、充分あり得るのだ。

そんな中でも「正しい振る舞いを取りなさい。そして、時が来るのを待ちなさい」というのは、「お上がすべて見てくれていて、いつか正しい裁きを下してくれる」という、日本人の「お上思想」独特だと思う。同じように「神」を信じている文化圏でも、その対象が(人ではなく)「神」である国の人びとは、現実社会では相互理解のために「相手」に対して必死で言葉を、「やり方」を繰り出す。

だから、我々日本人の「やり方」のためには、ほんとは、その耐えている一般国民の姿に応える、問題を解決する「お上」がいてこそ成り立つものなのだ。相手は、「問題解決」するために、詭弁も使えば「デモ」も使う、ありとあらゆる「やり方」を使ってくる、でも我々は「正しい振る舞い」を強いられる、その我々の苦労に報いてくれる「お上」は政府なのか何なのかは判らないけれど、とにかくそういう存在があって初めて「問題解決」に繋がる「やり方」なのだ。

そして、村上春樹氏のような「大きな声」を持っている人は、その声を、こういうエッセーのような内容を、国内に向けるのではなく、国外に向けて使うべきで、つまり、「お上」にならなければならない立場の人だと思う。僕はまだ調べていないので、村上春樹氏が中国や国際社会に対して、どのようなメッセージを発しているのかは判らない。もし、氏が、我々の「お上」になるようなメッセージを発していないとしたら、それは、「大きな声」を持つ者としての自覚に欠ける、と思う。

そう、戦後の日本というのは、ある意味で、「大きな声」を持つ者が、その「大きな声」を持つ者の自覚を持たず、あるいは敢えて気付かない振る舞いで、そうすることで利得を得続けてきた歴史だったと思う。村上春樹氏のエッセーも、自著は多く東南アジア各国の言語に翻訳され、かつては海賊版が横行したこれらの地域も近年では市場が確立し、緊密な文化交流圏が成立している、と語っているが、自らが「お上」になることなく、我々に忍耐を強いるというのは、自分の経済的基盤の保護を優先していると思うことさえできる。

中国マーケットを無視することは、経済的にはできない。それは重々承知している。けれども、経済的な「痛み」を避けて通ってきたことで、数々の「筋」を滅茶苦茶にしてきてしまったことを、少なくとも僕たち団塊ジュニア世代は知っている。自分たちの親たちが、転向に転向を重ねて「経済」のみの価値観を築き上げてきたことによって。そして僕たちはオウム事件と小泉政権を通過して、大切なもののためには必ず「痛み」が付きまとう、という言説に潜む危険性にも十分自覚的になっている。その上で、僕たちは「正しく」振る舞わなければならないのだ。

居続ければ尊敬に値するというものでもない - 『ラジオ深夜便 隠居大学 第一集』/NHKサービスセンター

そうか、嫌なことはわざわざ考え続けなければいいんだ、と気づいた朝。

図書情報館乾さんに勧めて頂いた一冊。最近、「お年寄に敬意を払わない世の中になった、と嘆く声をよく聞いてきたけれど、そりゃきっと昔はお年寄は少なかったから貴重で経緯を払われたのであって、これだけどこにでもいる存在になってしまったら、個々人おのおの何かひとつ光るものを持ってないと、お年寄というだけでは経緯払ってもらえなくなって当然じゃないの?」と思ってたところにこの本。

「隠居は一日にして成らず」と表紙にある通り、「隠居」って絶対、年季のいることなのだ。してみると、65歳定年だの、生涯現役だの、やっぱり現代(のご老人?)は、そう容易く年季が入らないんだな~と妙に納得。

ひとつだけ、聞き手の天野祐吉氏も、ほとんどの登場「ご隠居」も、物事に対する「遊び」のスタンスというのを大切にしていらっしゃるけれど、彼らの「遊び」のスタンスは、今では若干『逃走論』的な響きを感じる。『自由からの逃走』的な。それも大切なメソッドだけど、重さからの責任逃れだけは、あんまりあっちゃいけないことだというのは、だんだんとそういう合意が出来つつある世の中だと思う。玉砕する必要はないが、対峙することを避けて通るのは論外、なのだ。その、「軽やかにおちょくるやり口で、上手に対峙している」のと、外野から適当なこと言っているだけなのとの紙一重さ加減は、言葉で切り分けるのはあまりにも難しいけれど。

  • 小沢昭一「わかんなきゃしょうがない、お前が知らないから面白くねえだけだよっていう、居直ったような芸」
  • 富士眞奈美「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」
  • 山田太一「世の中に個人で抵抗する」
  • 森英恵「きっとそういう時代なんですよ。だから、いまに変わるでしょうね。時代が変わって、もっと大きな波が来ると思います」
  • 小山内美江子「きっと「最初から61センチと言ってください」なんて言うんでしょうね」
4871081117 ステラMOOK ラジオ深夜便 隠居大学 第一集
NHKサービスセンター
NHKサービスセンター 2012-07-18

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負け犬根性 - 『シゴトとヒトの間を考える シゴトヒトフォーラム2012』/中村健太・友廣裕一

仏生山温泉の岡さんの章が、最大級にしっくりきました。

僕はいつも本は付箋をつけながら読むのですが、本著は付箋の準備をせず、パーーーッと読みました。意図的に。それは、自分にとってはこの本はおそらく、ゆっくり腰を入れて読むよりも、パーーーッとスピード感持って読むほうが引っかかるものがあると直感してのことでした。フォーラムとして開催されたものの収録ということも、そう思わせた理由の一つかも知れません。

内容的には「場をつくる人」が圧倒的に面白かった。特に、まち塾@まちライブラリーの磯井さんと、仏生山温泉の岡さん。中でも仏生山温泉の岡さんの、

  • ボランティアではなく、利益を出して継続できるようにやるべき。
  • 補助金や助成金は使いたくない。補助金や助成金を使うと単発になるし、おのお金側の意図に自分の意図を歩み寄らせてしまうことになる。

 

この2つが、常々自分が考えていることと完全にリンクして気持ちがよかった。自分と同じ考え方の摂取は読書ではあんまり求めないようにしてるのですが、最近、あまりにもこの自分の考え方に理解をもらえない状況が多くてイライラしていたのだと思います。磯井さんの発言のほうは、過去必死で働いてきたからだとは言え、その過去の貯金で企業内にのさばる人が社会問題を産んでいることを考えると疑問をさしはさむ余地があるのですが(磯井さんのやっていることは、もちろん会社にとっても利益に繋がるものだとは思いますが)、岡さんのスタンスは完全同意でした。

僕は、前々からいつもいつも何かの折に書くんですが、パトロンありきの仕事は仕事じゃないと思う訳です。芸術だったらまだそれもありかなと思うんですが、自分の衣食住をパトロンに依存している状態でやっていることは、仕事と言ってはいけないと思う訳です。例えば、主婦が空き時間で自分の好きなことをやる。それが売上を立てていても、そりゃ仕事ではないと思うのです。自分の衣食住はダンナの金で賄って、自分のやりたいことを存分にやる。そういう考え方を根っこに持っている人というのは、僕は絶対に信用できない訳です。こういうことを言うと、「主婦がやっていることだって無償ではない」というような反論を必ず食らうんですが、僕は何もそういうことを言ってなくて、その家庭で収入を完全に折半しているならそれはどちらも仕事だと思うんです。主婦が空き時間でやっていることの収入も、すべて家計に入れてやっているなら。でも、どういう訳か、その収入はすべて自分のものとして回っているのが当たり前みたいになっていると思う。そういうのは仕事とは言わないのです。これ言うと、いつも「セコい男だ」みたいな嫌味が聞こえるんですが、そういう嫌味が成り立つ時点で、それは、男性社会を肯定化しているということが、未だに一般常識化しないところが根が深いと思います。

結局、今の企業社会がおかしい、とっくに破綻している、と言って個人で何かを起こし、行動する、それ自体は勇気のあることだし、それを伝えることで実際にいろんな人に波及していく訳だけど、実際に「できている」ことの大きさは、企業には叶わない。実現したことこそがすべてだ、としたら、個人で腕を振り回したところで、それは自己満足の域を出ていないと言ってもいいと思う。それを弁えている人と弁えられていない人とでは、説得力が大きく違うなと思ったのでした。

『ワーク・シフト』/リンダ・グラットン

要は、「今後、最も潰しが聞かなくなる職種は営業です」ということ。

Social Book Reading With Chikirin」で取り上げられていることもあって、ジュンク堂本店で目にして直感的に読まねばと思い東京出張時に丸善本店で買って帰りの新幹線で読んだのですが、正直言って、読まなくてもよかったかな…という内容でした。「未来の働き方」を考えるなら、こないだ奈良で買ってきた『チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし』のほうがよほどプラクティカルでためになります。もちろん、本著のように、学究的なアプローチも知り学び理解しなければいけないのですが、「生きていく」という意味での「食っていく」ためには、何より重要なのは実際的であることです。「「やる」ことは「考える」ことより大切だと思われがちだが、私はそんなことは信じていない」それはそうだし大切なことだけど、考えるだけでは食っていけない人間にとっては、「やる」ための実際的なことが優先されるのです。

そう、本著は、言うなれば「「考える」なら、「考える」の一流になれ」と説く訳です。ITが一層進展し、グローバル化が一層進展する未来の世界では、専門性に磨きに磨きをかけなければ、生き残っていけません、都市部に住んでても貧困層に落っこち、孤独な老後を迎えます、縮めていうとそういうことを言われます。それに関しては何の異存もない。けれどそれは、1990年と比べて、革命というほど大転換したことなのかな?そういうと、「変化のゆっくりさに、変化に気づけない凡庸な一般人」みたいなレッテルを貼られるけれど、1995年に社会に出たIT業界人として、例えば旅費精算一つでも昔はどうやって運賃申請してた?と思いだせないくらい、IT化が進行していることは分かっている訳です。それで、「専門性を磨け。世界と対峙せよ。」と言われて、「おおそうだ。世界と対峙だ。やるやる。」という人間が、どれだけいるのか?と思う訳です。

ましてや、専門性を磨けない今の勤務形態では、あなたは近い将来、ダメになります、と言われても、更に、専門性を磨いて事を起こすためには、今の職は残したまま、ちょっとずつお試ししてみろと言われても、「そりゃそうしたほうがいいって判ってるけどさ~」って誰もが言うと思います。なんかそれだけの中身の本、と纏めてしまいたくなります。それはもちろん、僕が昨年来、いろんな「働き方」の考えに関する書籍を読んできているからであって、今まであまり考えたことのない人にとっては、有用な内容だとは思います。

大きなポイントは、専門性を磨く=高額な金銭的報酬に繋がる、とはどこにも書かれていないこと。専門性を磨くのは、自分の充足感を高めるためだ、という、「第3のシフト」を謳っています。理想論とか空論とか言われてきたけれど、これは実際にこうならないとこの先世の中がほんとうに行き詰ってしまうと思うし、そうなっていく気配は確かに少しずつ感じられる。でも大事なのは、やはりそこには金銭という交換価値は必要で、かつ、金銭的成功を収めたいという人が、倫理観や道徳観に反することなくそれをなし遂げようとするならそれを批判したり嫉妬したりしてはならず、かつ、そうやって富が集中することに対して、富を集積した人が、社会的な活動をする人に「寄付」をすることが至極当然という社会を作っていかなければ、これはうまく回らないと思う、この考えは本著を読む前にすでに自分の中では組み上がっていたことで、本著ではこういうことには触れられていないので、やっぱり自分にとってはそれほど大事ではなかったと言ってよさそうです。

4833420163 ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
リンダ・グラットン 池村 千秋
プレジデント社 2012-07-28

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『チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし』/チャルカ

ならまちの『カウリ』で立ち読みして即決。

僕がハンガリーに旅したのはおととし。『放浪の天才数学者エルデシュ』を読んで以来、ハンガリーへの興味がずっと尾を引いていたから。インテルの創業者も、ルービックキューブの発明者も、そしてハンガリーの重い歴史。その旅行の際の切符とか、残しておいた品々を引っ張り出して写真撮ってみたけど、インスタントラーメンの袋とか、なんでオレこんなんなんだろうと情けなくなったりして。

カウリ』はならまち散策にとって絶妙にいい場所にあるのでつい立ち寄るんですが、映画祭ついでに立ち寄ったら、たまたま『チャルカの東欧雑貨市』というのをやってました。で、手に取った『チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし』、開いたページにお店の運営のことが書かれていたので、即決。買いました。

いちばん印象的だったのは、買い付け方。というか、「お気に入り箱」があって、商品として買い付けたのに売り出してないものがあるということとか、なるほど、買い付けというのはもちろん自分のアンテナで買うんだけど、完全に吟味するのではなく、可能性を信じてごっそり買い付けるんだな、というところ。

  • 創業のお二人は、当初は別にお仕事をお持ちだったこと。これはメソッドとして揺らがない鉄則。
  • やりたいことをやり続けるために、何を手ばなし、何に特化するか、その判断と実行。
  • 「本を出す」というメソッド。
  • 東欧を選ぶ、というのは、もちろんフィーリングに合致し、好きだということが大前提で、なおかつ、ビジネス上の戦略性も感じられる。
  • ウェブ上の蚤の市の発想。これは目から鱗。ロングテールなんか目じゃないと思う。

僕自身、自分の仕事のこれからに悩むところもあり、いろんな仕事のディティールを見聞しようとしてるんですが、この本は、お店を始めたいという人にも役に立つし、僕みたいな動機でも有用ないい本だと思います。

店舗、行ったことないのでさっそく行ってみたいと思います。

チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし
チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし チャルカ

産業編集センター 2009-09
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『情況との対話』

「状況との対話」というイベントがあると聞いて。

4334977030 「語る人」吉本隆明の一念
松崎 之貞
光文社 2012-07-19

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吉本隆明は『情況』という雑誌を発行していた時期があり、1997年に休刊されるまで、雑誌『サンサーラ』に「情況との対話」という連載を続けていた。こういう重複を見かけるにつけ思うのは、「俺も気づかぬままに盗用したり、または誰かの気の利いた掛け合わせに気付かなかったりしてるのだろうなあ」ということ。相当に高いセンスや高度な知識が必要だったりするものはともかく、常識的に流通してそうなことについてはやっぱり最低限として知っていたいし、厚顔無恥でいるような事態は避けたい。

なぜ日本は「後戻り」したがるのだろう?-『再帰的近代化 近現代における政治、伝統、美的原理』/ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ

確か中学生の頃、パソコンのプログラミング関連の本で初めて「メタ」と言う概念を知って以来、「メタ」概念の鮮烈さに打たれつつも、何でもキリを無くさせそうなその魔術的な性質に、これはできる限り距離を置いたほうがいいと、一種タブー視してきました。「再帰的近代化」は、ウルリッヒ・ベックによる第1章でその基本的な意味を把握したとき、「メタ」に対するタブー感を思い起こしました。近代化そのものも再帰的に近代化される。行為も行為自身の影響を受け変化する。確かにそれは、資本主義と工業化を推し進めてきた現代社会で起きている状況を説明する論理だと思いましたが、今の僕の理解では、「それは結局、”変わり続けるということだけが不変”と言っているのと同義では?」という疑問を解消するために読み込むことになります。「単純的近代化」が「規則主導」、「再帰的近代化」が「規則改変」という部分を確認したとき以降、頭の中では直近に読んだ『家族のゆくえ』で目撃した課題-

かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっている

しかし、根本的には世界の先進地域や社会、国家におけるハイテク科学産業を歴史的な停滞の役割から歴史的な流れの中に繰り入れる方法を見つける以外に解決は考えられない

この課題を思い起こしながら読むことになりました。この「暗黙の了解と意思の疎通が不可能に近くなっている」事態は、アンソニー・ギデンズが「信頼の喪失」と語る部分に重なります。まだ信頼が損なわれていなかった前近代社会での「伝統」は、再帰的近代化の過程で個々人のレベルに落とし込まれ、個々人によって取捨選択の末に完全にゼロクリアの末作り変えられるのか、それは希望に満ちたことなのか、満ちていようといまいとその先に向かって進んでいくのだ、という風に読み取ったのですが、特に「伝統」という言葉を用いて前近代社会を扱うとき、日本と少なくとも欧米の思想には大きな違いがあるといつも感じます。日本の思想はこういうとき、ほぼ「回帰」を指向するように思います。「そのままでいよう」というような。前に進めることは現状を改悪すること、だから何とかして歩みを留めよう、できることならあの良かった頃に戻ろう、というような。それに対して欧米の思想は不可逆性を見据えた「再帰」-ただ、日本にも、これは不可逆だからどんどん前に進めてしまおう、できることなら循環を実現しようとした大きな実例がある、それは原子力発電と核燃料再利用、それを思うと少し絶望的な気分になります。

スコット・ラッシュの章で、日本の工業体型が取り上げられて驚きつつ、「情報コミュニケーション構造」の概念の登場に、先の課題と連携させながら読みました。ただ、ニーチェ・アドルフが関わる「美的」が以前からうまく理解できておらず、そしてこの「美的」という軸がキーポイントになると感じているので(それはブルデューが引かれることからも感じる)、この辺りを再度入念に考え直してみようと思いました。

4880592366 再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
ウルリッヒ ベック スコット ラッシュ アンソニー ギデンズ Ulrich Beck
而立書房 1997-07

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デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?-『図書館戦争』/有川浩

もちろん娯楽小説であることは大前提の上で、本著の読むべきところは、「専守防衛」を旨とする-つまり自衛隊の理念の再認識と、東京都青少年健全育成条例改正問題等、表現の自由だけに留まらず、「自由とは何か」という普遍的なテーマであることは疑いの余地はない。しかし、僕にとって途中から頭を回り続けたテーマは、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」-では、デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?というものだった。

「本を焼く国ではいずれ人を焼く」の言が18世紀のハイネの言であることを考えれば、ここで言う「本」を「紙の書籍」としていいと思う。メディアはどうあれ、本には人々の思いや考え方、大袈裟に言えば「思想」が表され誰かに伝えようとされていて、それを「焼く」ということは、誰かに伝えられては不都合な考え方がある誰かが存在するということで、そんなことが許される国は、必ず「思想」を焼くために、「思想」が表された「本」ではなく、それを表した「人」を直接焼く愚挙に出るだろう、ということだけど、ではデジタルを焼く国も、同じように人を焼くのだと言って、誰もが賛成するだろうか?

当然だろ、と僕は思うんだけど、一方で、誰もが賛成するかと考えるとちょっと待てよ、と思う自分もいる。「本を焼く国ではいずれ人を焼く」と真面目に語る人を想像すると、先に「メディアはどうあれ」と断ったものの、その人たちは「本」を物理的に紙でてきた「書籍」を想定しているように思う、それは、電子書籍を全面的には受け入れないような、「メディア」そのものに固執するような人たちが想定できてしまう。いわば紙の書籍を「神格化」しているように映る人たちだ。

そういう人たちは、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と語るだろうか?デジタルであっても、そこに人々の「思想」が現れることは変わらず、世界ではデジタルの強烈な伝播性によって革命すら起こるくらい、「思想」を伝えることができるというのに。なぜか僕は、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人のほうが、同じく「思想」を伝えるはずのデジタルを差別する図が目に浮かぶ。違法ダウンロード禁止法は、利用者側に対する処罰を規定したという点で、デジタル利用への委縮を想定していると思って不思議はないが、何の為に、誰を利益を守るためにそんな法律を作る必要があったのかと言えば、いわゆる「著作権者・管理団体」の利益を守るため、ということになっている。著作権者は自由に「思想」を表現している訳だけど、その権利を守るための方策が、引いてはデジタル利用を委縮させる方向の、ややもすると「別件逮捕」運用のような、正に「本を焼く」ような危惧をしなければならないような方向の法律が成立するに至っている。これでも、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人々は、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と、自信を持って警鐘を鳴らせるだろうか?

4043898053 図書館戦争 図書館戦争シリーズ(1) (角川文庫)
有川 浩 徒花 スクモ
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-04-23

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哲子の部屋

もちろん観ました「哲子の部屋」! やっぱり「暇と退屈の経済学」が欲しいな、と思ったのでした。

哲子の部屋
30分という限られた時間で選ばれたテーマは、「浪費と消費」でした。納得。

「浪費」と「消費」について、凄く判りやすく構成されてました。「浪費」するためには、「モノ」とどう対峙するかが大切。「消費」はイメージ-いわゆる「記号」-が対象なので、無尽蔵になり、その結果、いつまでも満足が得られない。だから、「浪費」しよう。「浪費」は限度のあるものだ。終わりが来るものだ。なぜか。対象が「モノ」だから。

これはすごくすんなり頭に収まるんだけど、「でもなあ」という声が頭に登る理由は、やはり「消費なくして生産なし、生産なくして稼ぎなし」という、資本主義社会に生きる切実なルールに抗えないからだと思う。消費は、番組でも言っていたように、「魔法の仕組み」なのだ。もともとは「万人が必要なモノを、安価に大量に提供する」ことが目的だったかも知れない大量生産のシステムの中で生きていけている僕達は、「消費」が何かを狂わせていることは判っていても、それをどう乗り越えてどんなシステムを描き実現すればいいのか、うまく想像できないでいる。そう、番組中で紹介された、『ファイル・クラブ』のダーデンのように。

消費は終わりがない、けれども無限に続くということではない。消費が魔法なのは、「消費」という一つの概念の中に、破壊と再生の両方を含めることが出来たからだ。消費は、破壊と再生を無限に繰り返して終わりがないのであって、消費ということをいつまでも続けられるということではない。もちろんイメージの消費は消費を無限に続けられるけれど、ここで問題になっているのはイメージ=記号に掻き立てられた、モノの消費だと思う。

だとしたら、「浪費」を大切にする仕組み、すなわち「モノ」を存分に大切にする仕組みというのが、いわゆる「ロングライフ」のような取り組みではないことは明らかだ。なぜなら、「ロングライフ」ということ自体が消費そのものになってしまっているからだ。「ロングライフ」という考え方自体は色褪せないように見えるかもしれないが、それによって実現できていることというのは他ならぬ「消費」だ。何かとってもいいモノがあったとして、それをどこまで扱えばそれは大切にしたことになるのか、十分な線などないのだ。僕たちはまだ見ぬ形で、「浪費」を実現しなければいけないのか、それとも、それすらも「消費」して行きながら、変転する経済社会の中で次々と「浪費」に値する仕組みを見つける不断の努力を強いられるのだろうか?

http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=12n8020120828#