「やりたいこと」と「向いていること」

<大阪市>公募校長が着任3カ月で退職

直感的にいろいろ思うことがある。校長先生は辞職の自由はないんだろうか?もちろんある。けれど、校長先生が3カ月で退職するというのには何か受け入れられない感覚がある。それは校長先生だからだろうか?「公募の」校長先生だからだろうか?まず校長先生が3カ月で退職するというのはあまり聞いたことがない。聞いたことがないから、ニュースになっている訳だ。あまり聞いたことがないということは、今までに例のなかった「公募」の校長先生だからできたことということになる。公募の校長先生と、従来の校長先生の違いは何か?従来の校長先生は、たいてい、教職採用試験を受験し合格して先生となって経験を積んで数十年の後に校長先生になる。公募の校長先生は、「校長先生」として採用試験を受け、採用され、校長先生に収まる。

雇用の流動性を高めることが、高度消費社会において就業機会を広げる解のひとつとして、学校の先生も高い流動性の下にあってよいのだろうか?という疑問がある。公募校長の辞職は、雇用の流動性と、適職へのトライ&エラーという、現代社会で半ば「自明の理」扱いされている二つの真理に疑問を投げかける。自分には「教育を変えたい」という熱い想いがある。外資系証券会社という、ハードなビジネス界でのハードな経験がある。ならば「校長」公募に応募し、校長となって理想の教育を邁進しよう。そしてその結果、この現場は「自分の能力を活かせる場所ではなかった」と3カ月で見切って退職する。

向いてないことに時間を費やすことは短い人生で無駄でしかない、という風潮の中で、「石の上にも三年」などと言うこと自体、アナクロニズムに違いないが、ここには根本的な混同がある。彼は、「やりたいこと」をやろうとして校長の公募に応募したはずで、「教育現場が自分に向いている」から公募したのではない。そこまで向いていると思うなら、二十歳自分で教職の道を目指していておかしくないと思う。教職の道は目指さず、(その前にどんな経歴があったのかは存じ上げないが)外資系証券会社というキャリアを歩んでいる中で、「教育を変えたい」という「やりたいこと」を見つけて、校長に挑んだはずだ。ならば向き・不向きは関係ない。向いていないことのほうが多いだろう。「場所」がどうであるかは関係ない。自分の能力を活かせる場は、自分で作りだすのだ。

彼は、大阪市が「英語教育に力を入れる」という方針を掲げたのだから、それを金科玉条にできる環境なはずだ、と思ったのだ。そこに誰も逆らえない大義がある、と。誠に幼稚な考えだというほかない。仮にそれが大義だとしても、大義として実現させていくためには自分で行動していくしかないのだ。おぜん立てがされていて、そこに収まれば、自分の想いに沿った大義が実現していくようなら、その大義はとっくに実現されている大義だろう。

校長を「公募」すればこういうことは起こり得る。組織の長を内部からではなく外部から採用することは企業においては普通のことで、外部から採用された社長が1カ月で退任とかも珍しいことではない。では企業と学校で、分けて考えなければいけないことはあるか。企業も「継続性」が求められるが学校は企業とはけた違いに継続性が求められる場所だ。その主役は学生・生徒で、彼らは自分が所属している学校は少なくとも自分が卒業するまでは「当然そこにあって然るべきもの」という感覚で過ごすことが保証されなければならない。成長に過程にあって、学校は家庭と同じくらいに重要な居場所だ。その環境が、あまりに安易に変更されるべきではない。方針が変えられることこそあれ、個人の「自分の能力を活かせる場所ではない」というような理由で校長が変わるような事態はあってはならない自体だと思う。校長を「公募」すればこういうことは起こり得るのだから、校長を「公募」することを実現した判断それ自体がお粗末だったということになる。

教育の場というのは、学生・生徒が「やりたいことをやる」ための場であって、関わる教師や教育委員会や大人たちが「やりたいことをやる」ための場ではない。

痛恨事

こういうノリの話は(ウチの)会社の人間にはしてはいけないと肝に銘じてたのに、うっかり勢いで話してしまった。こないだ、東京から上司が来阪したので飲みに行き、その場で話の流れで蒲郡行きの話をしてしまったのだ。蒲郡に、10年後の自分に手紙を出せる時手紙というのがあって、そこまで自転車で行ったという話を。

この話をしてしまったのはほんとに痛恨だった。こういうことを「おもしろい」と思う感受性は、誰しも持っている訳じゃない。持っていても「おもしろい」と人前で言うかどうかも別問題だし、そういうのを持っているのは「若い間」だと決めてかかっている老年は、この話を聞いて話者の僕を「青臭い」と見做すようになる。ナイーブ扱いされてしまう。

何をおもしろいと思い、どんな情熱を胸に抱くかは個人の自由だけど、その「個人の自由」-つまり「他人の自由」を尊重できない人はただくたびれてしまっただけの枯れた人間と言い切って差支えないだろう。成熟も円熟も人生に必要なことに違いないけれど、それらすべては「たくさんの視点」を自分の中につくれるからこそ必要なことなのであって、わからないこと・できないことを増やすためのものではない。僕は視点を増やしまりいわば王道で、人間性はもちろんビジネスでも成長を続ける。


表出ストラップ

非常に微妙な話題ではあるけれど、できる限り丁寧に書いてみようと思う。

先日来、auのLTEの通信障害が断続的に起きている。もちろん、通信というのは24時間いつでも使えますというのがサービスレベルだと思うので、頻繁に障害が発生している状態というのは良いことではないけれど、どんなサービスでも障害が発生することはあると思うので、障害発生そのものについて何か書こうとは思いません。

先日の東京出張で信号待ちをしていたら、目の前の人が社員証をストラップで下げていて、そのストラップに書かれているのが「au KDDI」。それを見てちょっとした違和感を感じた。「僕ならストラップしたまま、社屋外には出れないな」という違和感。僕が勤めている会社も世間ではいろいろニュースで取り上げられるし、過去に大きな障害が発生したこともある。今は取り立ててはないけれど、今でも僕はお昼を食べに出たりするときに社員証を提げたまま出るというマネはできない。auは今、あれだけ連日、通信障害を報じられているのに、その会社の社員と判るようなサインをつけて人前に出るのは気が引けはしないんだろうか?(ストラップは実は「ノベルティ」的なことが多いけど、この人のストラップは書かれている標語やその場所的にたぶん社員さんだと思う)

そういう意味で、「社章」を着けているというのは、会社の「看板」と自分の「顔」を重ね合わせて世間に向けているということだと思う。社章をつけて街中で大騒ぎするなんてとても考えにくいように、社名入りのストラップ(もしくは社員証)をぶら下げて街中でぞんざいな言葉使い横柄な態度で3,4人で連れ立って歩くというのも、僕には傍から見たら見苦しいと思えて考えにくい。世間の人は今、自分の会社をどう思っているのだろうと考えると。

東京は人も多いし会社も多いし、いちいち個人と会社を結び付けない土壌なのかなと思う。実際、会社勤めの僕たちにとっては、会社の不始末の印象をまるまる社員に持ってこられるのは勘弁してほしいというようなところもある。そこまで責任を感じれない社員という立場の人も多いと思う。会社が大きくなればなるほど分業は強まるし、自分の「仕事」が、その不始末と全然繋がらないことも少なくない。ましてや、あの福知山線の脱線事故の責任が、社長にさえ無いと判決される社会なのだから、「法人」と「個人」はきちんと分離してその責を考えるのが、現代社会における正しい考え方のようにも思う。

けれど、僕個人としてはやはり、自分が所属している会社の責任の一端というのは、自分も背負っているという意識は持っていたいと思う。僕の会社にも、会社の方針を自分と完全に切り離して批判したり攻撃したりする人がいる。僕はそれを良しとしない。なぜなら所属している組織から受けているメリットというのが確実にあるから。その人は会社の「看板」がなくても今と同じ収入を得られるのかもしれないが、およそ僕はそんなことは出来ないと思う。会社の「看板」の恩恵を受けて、かつ、会社の「資産」を活用しながら、仕事をやっている。そうである以上、ストラップをぶら下げて、「私はここの会社の社員です」という判別のつく格好をしているなら、そのように世間の目を意識して振る舞うのは当然のことのように思う。だからと言ってストラップ提げてなければ会社とは関係ないよって顔をしていいのかという疑問もあるけれど、常に個人が所属している法人を背負わなければいけない理由はない。ただ、自分がそういう立ち居振る舞いをしているのなら、それに自覚的になるのが当然だと思う。

独立して働いている方々にとっては、これが当たり前のこと。日常の自分の振る舞いがすべて、自分の仕事に跳ね返ってくる厳しい環境。我々、会社勤めの人間は、分業でやっているが故に、ある程度、働いている顔と、それ以外の顔を分けることができる。だからこそ、「働いている顔」の格好をしているときに自覚的になれてない人というのは、その働きにも何か物足りないものがあるに違いないと思う。

ちなみに僕は、社会人になってこの方、企業ロゴや社名入りのストラップを(たとえ自社であれ)使ったことがありません。

地元で遊ぶということ

”絶望感の暗闇を 何度も抜け出したはずだ”

(the pillows/トライアル)

地元で遊ぶのが楽しくて堪らなくてどうしよう。金曜の夜、五味さんがソロライブするというので藝育カフェSankakuに出向き、そこでそのソロライブがオープニングパーティだった個展のアーティストのカワかわワイわいさんと知り合いになったりSankakuの山本さんに僕のことを思い出してもらったり、夜、興福寺界隈を無意味に少し散歩したり、通りすがりにSILM STYLE GARAGEの安川さんに会ってジッタリンのライブを実現させたい!と盛り上がったりTRANSITの大将の向井さんと修理中のロードバイクをあーだこーだ言ったり、仮退院したその愛車で春日大社行ったり唐招提寺行ったり、pechakuchaで通ってたcafe WAKAKUSAで初めてマスターのクレープを食べたり。地元で遊びまわるのが楽しくて仕方ない。

でも、地元で遊び回っているだけでは、生きていくことはできない。

奇しくも五味さんがMCで「外からはアクセスできない、悪い言い方をしてしまえば自分の身の程を知らない、そういう人たちが地域で何かを初めていて、僕はそれがおもしろいなあと思ってやっている」と言ったように、確かに感度の高い人たちが集まって、おもしろいことが生まれる素地は現代の日本なら多くの郊外都市でもそのチャンスがあり、我らが奈良もそんなチャンスがある街で、ここ数年実際にそうなってきていると肌で感じてる。そういう感度の高い人たちのネットワークが広がり、強くなって、「外からはアクセスできない」一種の経済圏が出来て、その中で、それぞれがそれぞれの得意技を仕事にしながら、持ちつ持たれつでやっていく。

それは夢のような日々だけど、それを実現するには奈良は規模が小さい、小さすぎると思う。

僕には、先に挙げた人びとのような、手に職もなく、アーティスティックな能力もない、ほんとに唯の会社員に過ぎない。だから、「外からはアクセスできない」一種の経済圏の仲間入りをするのは気持ち的にも若干ハードルがあったりする。でも、そういう「おもしろい」ことが、この地元奈良でこれからも続いていくような、そんな土地になるためには、その「経済圏」の外側にいる、僕らのような一般市民が、その「おもしろい」ことに「お金を払」わないと、そういう土壌ができないと、実現しないと思う。息切れすると思う。

だからこれは僻み根性かも知れないけれど、「おもしろい」と思ってお金を払って参加する側の人間も、おもしろいことをやっている側と対等だと認識してほしいのです。自分達のネットワークだけで閉じてしまうのでなく。もちろん、徹底的にハードルを下げて、誰でも彼でもとは言わないです、でも、一般市民でも、それほど詳しくなくても、共鳴する、お金を払ってくれる人は少なくないはずです。そういうところを大事にしようと思ってほしい。

地元で遊ぶために、お金を稼ぐために働く。それは僕の人生のごく一部かも知れないけれど、大切な考えの一つでもあると思う。

ダイバーシティについて

IT業界に勤めていてよかったなと思うのは、思想とか哲学とかの新しい概念のコトバが結構ITの現場から流用されていくので、早い段階でその要諦を「なんとなく」知れていることがあります。例えば最近だとアジリティとかヒューリスティックとかオートノミックとか(最近じゃないか)、あるいはIT業界はコンサルと近く、就労形態についても先端を行くところがあるので、メンターとかコーチングとかもかなり早くから馴染んでました。

そんな中、昨日書いたエントリでダイバーシティが出てきて、昨日は議論について考えたのですが、今日はダイバーシティについて、職業上触れてきて自分の課題となっている点について、書きます。

それは、「果たしてダイバーシティは金科玉条か?」ということです。

「みんなちがって、みんないい」の金子 みすゞに始まり、基本的に世の中みんな「多様性」礼賛です。これには、種を意地していくためには遺伝子レベルの多様性が有用である、つまり、いろんなバリエーションがあるほうが、いろんな危機に対して対応できる個体が存在する可能性が高まるので、種の絶滅を回避することができるから多様性万歳、という補強もされていると思います。

これに近い文脈で、システムの世界には「レジリエンス」という概念があります。回復力、といった意味合いです。システムがダメージを受け破損した際に、どれだけ柔軟に回復することができるか、という能力を指します。

Hiroshi Maruyama's Blogのこのエントリで書かれているように、ソニーCSL北野さんが頑健性には多重性・多様性・モジュール性の3要素があるとしているが、その中で「多様性」については果たしてどうだろう?という見方が最近あると思います。

例えば東日本大震災の被災地である東北地方が、日本の現在状況よりはるかに進んだ移民受入地となっていて、異なる言語を使用し異なる文化を持つ人々が同等割合で分布するような「多様な」地だったとしたら、あれほどまでに迅速で自発的な回復を遂げる行動が取れたでしょうか?あの回復は、それほど多様ではない、もっと言えば一様だったからこその迅速性がそこにはあったと思います。

ITの世界でも、ちょっと正確ではないですが、例えばオフィス環境を全部Windowsにしておくとウィルスとかに一遍にやられるからMacとかLinuxとかも配置しておきましょう、というのが多様性ですが、多様にすることによって複雑になり柔軟でなくなり迅速でなくなるデメリットはあります。そこで「オープン」が金科玉条だったIT業界でも、「垂直統合」と言われる、ぜんぜんオープンじゃないけど、上から下まで1ベンダーで固めてしまってるから安定しているし全体最適されてますよ、という言い方が登場してきました。

ITの世界の潮流は、多くは、世間の様々なところの思想としても広がっていくことが多いと思っています。レジリエンスと「多様性」についてのこの視点と、垂直統合の思想が、どういうふうに世間に広がっていくのか(あるいはいかないのか)、私は興味津々なのです。

議論について

数日前、ウェブ上で、有名ブロガーchikirinさんのブログ「chikirinの日記 for DU」の「「話し合って決める」という幻想」というエントリが物凄く取り上げられていて、興味を惹かれて読みました。私はchikirinさんの存在はさすがにもちろん知ってますが今まで読んだことがなかったですし、この「chikirinの日記 for DU」はマジメに読んでいいものなのかあるいは幾分扇動の入ったものなのか、そういうノリなのかどうなのかも判らないのですが、読んで思ったことがありました。

約めて言うと、このエントリで言われているのは、「議論するということに意味を見いだせない」ということで、「議論して、誰かの意見を放棄させることなんて言語道断で、各々、思っている通りに生きればいい」ということだと思うのですが、この、「議論して誰かの意見を放棄させる」というところに、違和感を感じた訳です。

私にとっての議論というのは、基本的に「自分の意見を変える」ために行うものだったからです。

もちろん、「なんでオレの言うことが判らないんだ!!」と頭に血が上ることも少なくないですが、少なくとも相手がなぜそう考えるかは、相手の話を聞かないと判らない。「話を聞く」ことと「議論」は違う、訳ですが、「話を聞」いて、その先で「議論」したときに何をしているかと言うと、私の場合は、「自分の考え方で変えられるところはあるか」というのを探っている作業になる訳です。

私は以前から、「あなたの”あなた”と私の”あなた”は違う」と言い続けているんですが、誰かとの意見交換(話を聞くのと議論とを明確に分けなければいけないのなら、敢えてこういう言い方をする)において、心がけているのは「主客をできるだけ入れ替える」ことで、自分が説得したいと思うなら相手もこちらを説得したいと思っていて不思議はない、という主客転倒と、止揚じゃないけど、ある考え方とある考え方が交わり否定しあうところでしか、新たな考えが出て来ない、ということです。

自分の意見を「言う」ということは、誰かにとっては私の意見を「聞く」ということです。ということは、誰かが意見を「言う」ときは、私は誰かの意見を「聞」かなければなりません。それぞれが独立して一方通行でそれでもいいのかも知れませんが、その一方通行の束を一つの行為をしてみたとき、そこに新しい考えの生まれるチャネルを見ることが出来ると思います。

スピード

言わずもがなのスピード時代で、どれだけノスタルジーに訴えたりスローフードやスローライフをカンファタブルだと訴えたりしても、スピード感がなければ叶えられないのである。自分一人が「僕はスローフードを実践するのであります」と宣言してスローフード生活を送る分にはスピードも何もないけれど、何かひとつ自分の信じるものが社会にとってよりよいことだと声に出すとき、それは叶える意思がなければただの言いっ放しで、ただの言いっ放しを是としないのであれば少しでも形にするアクティビティが要る訳で、少しでも形にするためには今の世の中スピード感は必須。なぜなら、スピード感がなければ、他の主義主張に瞬く間に追い越されるからだ。

僕が勤めているIT業界は輪をかけて言わずもがなのスピード業界な訳ですが、「どうやってスピードを出すか」というところには実は小さいようでとても大きな差があり、その差に気付いていない人は、仕事人として有用な成長を遂げていないと思う。金を稼ぐという意味でのビジネススキル、それこそ「いかに手早く金を稼ぐか」というビジネススキルには長けていて、変化の激しい昨今、これはとても有用なスキルだけれど、その表層的なディールとコミュニケーションの世界に身を置きたくはないなと僕は思ってしまう。

 で、小さいようで大きな差というのは何かと言うと、スピードの出し方について、「より早くできるようになってスピードを出す」のか、「適当に端折ることでスピードを出す」のかの違い。

 例えば大きな話で言うと、買収なんかは「金で時間を買う」訳で、ある意味では端折ってる。でも、事業というスケールだと一から全部やってたら間に合わないケースはままある。なので金で解決する。けれど、個人単位でのアクティビティのディティールのコミュニケーションにおいて、その間を端折って端折って、「こっちのほうが話の通りがいいので」みたいなことをやっていると、その歪は取り返しのつかないことになったりする。何より、それは全然、スピードを出せている訳ではない。

 コンテキストをどれだけ豊富に、どれだけ大量に理解することができるかが勝負の分かれ目だと思う。なのに、とにかくコンテキストを端折ろうとするのは正確な業務遂行が徐々にできなくなってしまうことになる。ややこしい話を、いかにややこしいまま聞けるか、いかにややこしいまま話せるか。それは徒に時間をかけるということではなく、うまく編集してうまくそのまま伝えることができるか、聞くことができるか、ということで、けしてどう「省略」するか、ということではない。この意識とスキルは、ビジネススキルとしてよく取り上げられる「エレベーターピッチ」のような、サマライズの方法と似ているようで実は違っていて、どちらかというとアートの領域に近いことのような気がしている。でも、これがうまくできる人たちが多い集団のほうが、より優れたビジネスのアウトプットを残しているように思える。だから、このあたりが、教えることのできないビジネスの「才能」みたいなものなのかな、と思う。

いつか僕らも大人になり老けてゆく

もたもたしなかったご褒美は、ライド中は雨が降らなかったこと。

僕は今、若さを喪失する怖さと戦っている。自分自身で選ぼうとしている、この先の自分自身の人生の歩き方と、自分自身の人間としての成熟のために、心がけている鍛錬は、ある意味で若さからの卒業を求めてくる。若さを忘れないままで成熟することももちろんできると思う、けれど若さを卒業するほうが成熟への近道であることは否めないと思う。

若さ。微かにでも心を動かされた現実に、ずっと心を動かされ続けるようなこと。むしろ、微かに動いた心のその動揺が、ずっと続くような心性が、若さだと思う。諦めの悪さ。ナイーブさ。憤りやすさ。燃えやすさ。意地。どうでもいいことにえんえん拘り続けられること。刹那的。そういうものから卒業すること。腰を据えること。

そういうものが無くなることそのものは実は怖くない、というかそれには既に麻痺するくらい老けているかもしれない、ただ、それを怖いと感じる自分がいなくなることが怖い。この怖さだけは保ち続けたままで老けたい。だから、その怖さとは戦い続けないといけない。戦い続けている限り、この怖さは消えない。戦いをやめたとき、怖さを感じる自分を無くしてしまう。

負けるのは恐くない
ちょっと逃げ腰になる日が来ることに怯えているけど 

ビッグ・データがこの先いちばん不要にするのは実は「経営者」?

なるほどなあ。まさに目から鱗。そこまで思考が及びませんでした。

ビッグ・データの活用によって、これまでのITでは発見できなかった知見を得ることができると言われていて、今ビッグ・データが最も売り込まれている先はたぶんマーケティング関連だと思います。確かに、コンビニの、売上高はあまり高くないとあるプライベート商品が、実は来店頻度の高い「得意客」がよく購入し、しかもリピート率が高い商品なので、売れてないという理由でこの商品の生産を中止すると、この商品を楽しみに来店していた「得意客」を失ってしまう、というような分析は、従来のPOS情報では難しかったと思います。

しかし、この3月15日付の日経朝刊の見出しはほんとに目から鱗で、いつもは朝刊は通勤時に読んで会社の新聞捨てに捨ててくるのに、大事に持って帰ってきたくらい僕には有益でした。

「勝算は不明だが、社長が言うからやるしかない」「しばらく様子をみて結論は次の会議で」-。そんな情緒的で、悠長な意思決定は通用しなくなるかもしれない。

SAPジャパンの村田聡一郎氏は、「企業経営は3K(勘、経験、慣習)ではなく、データを土台にしたものに変わる」という。

確かに、なぜ3Kで経営するかというと、あらゆるデータを網羅的に必要十分な速度で分析することができなかったから。それが、ビッグ・データ技術の進歩で、本当に大量データをリアルタイムに分析できるようになれば、3Kで経営する必要はなくなる。小刻みにトライ・アンド・エラーを、PDCAを回すことができる。

粗っぽいけれど、「ビッグ・データ技術が経営判断を下してくれる」という未来を想像したとき、思ったことは二つあります:

  • 今「ビッグ・データ」と言ったときに想定されるほどのデータ量を集積できる企業活動を行っている企業はいわゆる「大企業」に限られると思う。その「大企業」では経営層の維持コストが高額になっているとすれば、ビッグ・データ技術が経営判断を代替することで、「経営のコストダウン」を図ることが出来る。これは「経営のリストラクチャリング」に繋がることだと思う。そして、特に製造系の業種において、大規模企業でなければ製造できなかったけれども、企業全体の維持コストが高すぎるために製造の自由が生産者の手から離れてしまった状況を改善できるのかも知れない。
  • 逆に、個人事業主にとっては、直接ビッグ・データを集積して経営に活かせないかも知れないけれど、大企業での知見が活かせるような状況になるかも知れない。そうなると、『MAKERS』が謳うような、生産主権の奪取のための一助になるのかも知れない。

経営ほど数字を純粋に使える領域はない、そう繰り返し繰り返し言われ続けてきたので、ビッグ・データは確かに経営にこそ適用できる領域に思えてきますし、部分的にであれ、人間が下してきた経営のディシジョンを置き換えていかなければ嘘のような気がします。そこにもし、人間の判断を挟まないといけない理由があるとしたら?-数字ではない判断材料だとしたら、それは今まで僕らが言われてきた「経営」ではない、と言っていい事態のような気がします。

「そんなこと言ったっけな?」

 志村けんがコントで手にしていた新聞が「原発さえなければ」と書かれた記事だった、というのが話題になっているのをfacebookで見ました。原発反対の方々に好意的に紹介され、「さすが志村さん」と言った論調がほとんどですが、僕はこれに若干違和感を持っています。

 僕はfacebookにアップされていた静止画像を見ただけで、コント自体を見てませんしyoutubeでも一度検索しただけだとなさそうだったので、推測で言うしかないのですが、まず、その新聞を選び、「原発さえなければ」と書いた面がテレビに映るように、意図的にしたのかどうかが不明ということと、意図的だとして、それが志村けんの意図なのか、その他の関係者の意図なのかが不明ということです。

 「原発については物議を醸すのが明白なのに、敢えてテレビに映る様にしている時点で、それは意図的なものと言っていい」という推測もありますが、そういう決め付けられ方をされた場合、志村けんサイド(および関係者サイド)は、「いえ、あれは偶然あのページだっただけです。何の意図もありませんでした。ごめんなさい。」と申し開くこともできる状況にある訳です。

 そういう、「言い逃れ」できる状態にある”発信”を、無闇に持ち上げる風潮というのはどうなのだろうと思います。コントを一通り見れば、あれは「反原発」を暗にメッセージしようとした意図的な新聞の見せ方だったと判るような行動があるのかも知れません(例えば、コントの流れとは無関係に妙に新聞をかざす、とか)が、そういったことのない状況で、メッセージをくみ取るというのは危険でさえあると思います。昨年末の紅白歌合戦で、斉藤和義が「NO NUKE」というギターストラップでステージに立ったのとは、訳が違うのです。
 文学は、言葉として明記されていない部分のメッセージを読み取っていくものですが、言葉として書かずにメッセージを伝える際の作法のようなものはあって、「これはこのように読めるね」という積み重ねで成り立つもです。文学の読み方というものの視点からこの志村けんのコントの取り上げられ方を見ると、違和感を禁じ得ないのです。

 仮に原発推進派の有力者から志村けん(および関係者)が「けしからん」と詰め寄られたときに、「いえ、あれは偶然です。何の意図もありません。不用意でした。私は原発推進派です」と詫びを入れられるようなやり方で、「原発さえなければ」というメッセージを発信していることを、本来であれば、原発反対派の人は批判してしかるべきだと思います。原発反対というのは、そんな甘いもんじゃないぞ、と。原発反対という主張をすることは、そんな腰砕けな、腑抜けたやり方でやっていいもんじゃないんだぞ、と。
何かモノを言う時に、安全地帯からモノを言うというのは、絶対的に間違っていると思います。そういうモノの言い方を誉めそやすスタンスは、改めなければいけないと思います。特にそれが著名な人であったり、コミュニティの大小を問わず有名人であったり影響力を持っていたりする人であれば、なおさらです。