見栄え

 昔からよく言われることではあるけれど、見栄え重視のプレゼンテーションというのがあまり好きではありません。世の中はいつからか「プレゼンテーション至上主義」で、いかに上手に見せるか、が最重要であるように叫ばれて久しいですが、どうしてもその風潮が肌に合いません。もちろん、自分の考えや想いを人に伝えるために、プレゼンテーションは工夫に工夫を重ねなければならないということは理解できています。そういう仕事をしていた時期もあります。そういう意識を高く持てば持つほど、「見栄えはいいけれど、中身は実はほとんどないな」というプレゼンテーションが判るようになるのです。

 特に自分が所属しているIT業界では、日本は昔から、導入後のITシステムの効果を計測することは稀中の稀なので、提案段階ではROIなんて言いたい放題でやっている人がいたりします。そして言いっぱなしで、実際にそのROIが達成できたかどうかは確認されることなく、最初に謳った人は担当が変わっている。そういう繰り返しに毎度毎度やられる企業側にも問題があるのかなあと、つまり、担当している人もそれほど長期的に物を見ていないか、今までと大して変わらなければとりあえずよい、という事なかれ主義か。パフォーマンスを継続して確認しないことで、大きなロスが生まれるものだといつも思います。

アイ・キャッチャー

買ってきました!

営業として最も簡単なことは、アイ・キャッチすること。何故かと言うと、実際に売らなくてもいいかな。売らなくても、「お客様の気を引きました!」というだけで自分の成績になる。これほど楽な商売はない。

そして、そんな楽な商売をするために組織されたチームは、自分が「これ」と見定めたお客様に攻め込んで行けることが多い。こんなおかしな話はない。自分の担当という範囲も何もない中で、「ここ売れそう」という予想だけで、どこにでも行ける営業がいるのは、褒められた話ではないと思う。

アイ・キャッチするのが専門の人間に、お客様も通常なら心を開かない。なぜなら、長期間付き合える相手ではないと判っているからである。

お客様にとって、訪問されて意義のある人間というのは、最低要件として、お客様を担当している人間か、製品のスペシャリストかのどちらかで、いわゆる「遊撃手」のような、どこに行ってもいいし、何をしゃべってもいいんです、みたいな人間が訪問してきても、おもしろい話を聞けたと思ってくれるだろうけども、ビジネスが起こることは稀。それでも、えり好みをして訪問すれば、お客様側に切迫した要件があって、そんな「遊撃手」でもそれなりにお役に立てる可能性はある。

しかし、大前提として我々はお客様に何か価値をお届けしたい。お客様に価値を提供するためには長い期間のお付き合いが必要で、それには組織の人間は「お客様付き」か「製品付き」かのどちらかしかない。そのどちらでもない人間がどれだけいろんなことを語れても、それで勝率が上昇することはほとんどないと思う。

もう人生で二度と見ることのない水仙

私は仕事柄、人よりも少しだけいろんなところに行く機会を貰っていて、いわゆる「地方」に行く機会も少なからず貰っています。ふだん仕事をしている大阪と違って、地方は(まあ、住んでいる奈良もそうなんですが)交通手段がそう便利ではないですから、電車はおろかバスに乗るのにも10分20分歩いたりすることは珍しくないです。

普通はタクシーを呼んだりレンタカーを借りたりするのでしょうが(もちろん私もそうすることが多いですが)、時にふと10分20分歩いてみます。さぼっていることにならない程度に。そうすると、都会のマンション街を通るのとは全然違う、生活感満載の住宅街を通ったりします。都会のマンション街と違って、そんな住宅街を真昼間に通るサラリーマンいないと思うので違和感満載です。

二十代の頃は、そういう寄り道をして、「ああなんか面白いなあ」と思っただけでした。四十歳の今は、「たぶん、ここを通ることはもう人生で二度とないだろうなあ」と思うことが増えました。もちろん、ここに来た理由であるその会社様との仕事が進めば、近々また来るかも知れないですが、その時は社用車で来るかも知れないし、帰りはタクシーを呼ぶかも知れない。ましてやわざわざ、住宅街を縫って表通りに出るようなことをするかどうか、判らない。

広がる田んぼの先に住宅地が並ぶ狭い道を抜け、用水路沿いを歩いていたらふと目に飛び込んだ水仙。なんで自分は今ここにいるのかなあという妙な感覚と、いつもは自分はいないそこに流れている時間と、一生のうちに一度も見ることのない景色と。なんとなく写真を撮りました。

あなたはシェアする「不便」を引き受けられますか あるいは図書館の凋落

 職業にしている事柄について書くのはある種のリスクを伴いますが、やはり逃げる訳にはいかないだろうと思いまして、書いてみようと思います。facebookで國分功一郎さん(『暇と退屈の倫理学』の著者の方)が、「大学の成績管理システム(?)がとてつもなく使い辛い」とポストされていたのを見て思ったことを書きます。

 掻い摘んで言うとこの件は、「ユーザインターフェースがまるでなっていないシステムの使用を、ユーザが強制されている」という話なのですが、システム構築側にいる僕の、システム構築側の立場の感想としては、「そりゃそうでしょう」です。だって、そのシステムを購入するのは、誰ですか?

 我々システム構築側は、企業なり大学なり自治体なりにシステムを御提案しますが、そのシステムの購入の判断は最終的には「費用対効果」と言った類に収斂されます。当たり前です。高いお金を払って、役に立たないものを誰も買いたくないです。問題は、この費用対効果の検討のとき、「実際に使用する人の手間」といったコストが反映されない場合がある、ということです。社長の立場からすれば、今まで満足に出来ていなかった管理会計が日次ベースで更新されるなら願ったり叶ったりでしょう。それを実現するために、社員は実はエクセルでちまちま明細を入力しなければならず、そのために日々の業務が圧迫されても、そこには目が行かないかもしれません。

 話はここで、「今まで通りのフォーマットでなければ、システム更改を許さない」というスタンスの問題と、「エンドユーザの不便なんて気にかけない、購入の意思決定ができるポストが好感するメリットを謳え」という売り方の問題に分かれるのですが、実際の利用者の利便性を向上するようなシステムを設計・提案したところで、自分達の提案が採用される確率が飛躍的に上がることはないことが多いです。なぜなら、その「きめ細かい」構築に掛かる費用が、意思決定者に評価されることは少ないからです。

 例えば、市役所の窓口の何かのシステムがあったとします。それが、年度末にはいつもすごく待たされるようなシステムだったとします。その年度末のピークに合わせて、今まで2つだった窓口を3つに増やしました。この施策は評価されるでしょうか?結構な確率で、「税金の無駄だ」という意見を言う人が出てくると思います。年度末のピークがどれほどかとしても、残りの11カ月は無駄になる訳です。 システムの現場でもこれと同じようなことが起こります。年度末だけ人を増やしても、そのシステムが3台なければ意味がないのです。かくして、システムを実際に利用するユーザが、システムによって業務改善が図られないケースが生まれます。

 どこに、どれだけ、どのようにお金を注ぎ込むかというのは、事ほど左様に難しい話だと思います。会社という団体にとって、どこにお金を注ぎ込むことが、会社全体の利益になるのか。同じように、日本という国にとって、どこにどのようにお金を注ぎ込むことが、全体最適なのか。システムを実際に使う人にとって最も使いやすいに越したことはないのですが、それよりも全体最適になるお金の使い方があるかも知れない、訳です。

 この話を考えるとき、いつも、1,2年前に大流行りした「シェア」について思います。最近、あんまり聞かなくなったような気がしますが、それは、「シェア」というのが、詰まるところ、不便を引き受けなければならない仕組だということに、みんなが気付き始めたからではないかと思います。ひとりひとりが対象を占有するのではない仕組ですから、自分が使いたいときに使えないかもしれないという不便を内包していることは当然なのですが、「シェア」が流行したときには、今の自分の利便性を落とさず、所有コストといったわずらわしいものからだけ、解放されると勘違いしていた人が結構数いたんじゃないかと思います。これは知識に関しても同様だと思います。誰彼かまわず、「これ面白いよ」という情報をシェアしたところで、その有用性はだんだん担保されなくなります。「シェア」したい人が、一方的にその思いで押しつけているだけで、それが本当にシェアに値するものなのかどうかがどんどん判らなくなります。

 この位のことは、そのシェアというシステムをとっくの昔に実現していた、図書館という存在の凋落ぶりでも最初から判っていたことだと思います。あれほどの情報がシェアされているというのに、図書館をその目的で使う人はあまり増加しません。そして、図書館自身はもはや、本の魅力だけではその存在を維持できなくなっています。本筋を離れたところでの集客は、いずれ必ず鍍金が剥がされるか、自らの姿を大きく変えさせられるかのいずれかです。図書館がそれを願ってやっていることであれば、それはそれでいいのかも知れません。

 今、日本が求められているのは、どうやって融通し合って生きていくか、という仕組みの再構築で、そこには「シェア」の概念が含まれていることは自明です。保険だって年金だって言ってみれば「シェア」の一形態だと思います。その「不便」の引き受け方を真剣に考えていないことが、社会の停滞に繋がっているのではないかと思います。

割引券の行方

 浅草に宿を取っているというのになぜか喜多方ラーメンを食べに行った夜、近くの席に座った同世代くらいの女性が、ねぎラーメンの割引券を持ってくるのを忘れたんだけど、と店員に投げかけていた。女性の手元にはねぎラーメン以外の割引券がいくつかあったみたいなんだけど、そう言われてもないものはない訳で店員も困って、ダメですねえと答えるしかなくて、結局そのやり取りがどうなったのかはわからなかった。

 そのやり取りを聞いててふと思い出したのが、なぜか大学生の時、当時つきあっていた彼女に回転寿司を奢ってもらったこと。彼女の友達がその回転寿司屋でバイトをしていて、会計をごまかしてあげるから食べにおいで、と誘われたとかでそのお店に行った。回転寿司はなかなかおいしくて、たらふく食べて、確かに一人1,000円ちょっととかそんなもんだったと思う。彼女の友達が適当にレジを叩いてウィンクしていたのを妙にはっきり覚えている。

 もちろん許されることではないし、こんなことが横行してたらお店に損害が溜まる。というか、厳密であれば帳簿上で発覚する。店員ひとりの、ましてはバイトの独断でやっていいことじゃ、絶対ない。でも、僕らが学生の頃は時代が牧歌的だったのか僕が暮らしていた地域が牧歌的だったのか、これくらいのことはバイトでもやっていた印象があるし、これくらいの権限はバイトでも持っていいという雰囲気だったように思う。
 翻って今自分が勤めている会社では、僕は営業じゃないので見積を出す権限がないけれど、営業の人ですら、自分の家族なんかに破格値でパソコンを売ったりすることはできない。自分が担当している企業じゃなければ見積が出せないというのもあるし、コンプライアンス云々というのもある。詰まるところ、会社が大きくて、個々人の裁量を制限せざるを得ないということ。

 なぜこんなことを思い浮かべたかというと、このラーメン屋の店員さんも、自分のお店じゃないから、割引券を忘れてきたというお客さんに、「じゃあいいですよ、今回は喜多方ラーメンの割引券でねぎラーメン食べてもらって」と簡単に言えないんだろうなあと思ったから。ルールをきちんと守って働くことはもちろん重要なこと。でも、知り合いが来たからちょっとオマケしてあげるとか、割引券忘れたけど違うのでまかなってあげるとか、そういう部分が損なわれて汲々としたほうが、業績が伸びていくものだというふうにはどうしても思えなかった。もちろん横領とかはダメだけれど、意外とここには、働いて稼ぐうえでの大事なことが潜んでいると思った。

風邪をひく

 今冬は例年以上によく風邪をひく。2009年の新型インフルエンザ騒動以来、冬場は帰宅時はもちろん、出社時もオフィスについたら手洗い嗽を徹底しているものの、風邪をひいてしまう。もともと風邪に弱いことは自覚しているので、数年前から、風邪を引いたかな?と思ったら早めに市販薬を飲んで鎮めるようにしているんだけど、先月風邪をひいて薬を飲んだ際、治るのは治ったんだけど、数日、寝ても寝ても寝たりないし、目が覚めたとき「ここはどこだ?」という記憶が飛んでるような状態になるし、何をやるにも気力が湧かなくなるし、変だなあと思っていて、これは薬の影響じゃないかと考え、今回の風邪は薬を使わないでおこうとしてみた。

 だいたい、体というのは与えられるものに徐々に慣れてしまうものなので、薬も使えば使うほど効かなくなるということを、病気がちだった僕はよくよく知っている。ここ数年、風邪の治りが悪いのも、薬を使うことに体が慣れてしまったからかと、そういう意味でも一度きっちり風邪をひいてみるか、と思ったのだ、が。

 少し寝不足で目の覚めた16日の朝、のどが痛い。「これは引き始めだな」と思いつつ、そのまま博多に出張。日帰り。翌日17日の朝、いつもの時間に起きられず。普通に活動はまだ出来るものの、どれだけ着てもどこにいても冷えが止まらない(悪寒ではない)。その翌日18日は朝なんとか起きれたものの、仕事をしているうちに徐々に体力が削れていき、気力もなくなる状態に。帰宅早々寝てしまう。

 土曜はしんどいながらも普通に過ごし、日曜の今日はほぼ回復。鼻と痰が続く体質なので息苦しさはあるけれど、普通の活動には支障ない。だいたい、発症してから回復するまで4日。土曜日、辛抱ならずに葛根湯を飲んだけれど薬は使わず。

 予定ややりたいことが溜まっているときに限って風邪をひいたりするものだけど、風邪に平常心を乱されてしまうことで余計なロスをするほうがいけないので、割り切って次のチャンスを手にするように、やるべきことをやるように切り替える。それくらいのことは、さすがにできるようになった。

「言動一致」など造作ないことだ、「心言一致」の難さに較べれば

 「有言実行」が持てはやされ、もはやもともとこの言葉がこの形の四字熟語として昔から存在しているようになったのは何時頃のことだろう。世の中は生活とビジネスがニアリーどころかイコールで結ばれるようになり、晩御飯のメニューにまで説明責任が求められ、グローバル化の掛け声のもと、「言わなきゃわからない」が不滅の真理のように崇められるようになった。

 僕は子どもの頃から信じている。言わなきゃわからないヤツは、言ってもわからないのだ。そして、それなら言わないほうがマシなのだ。自分の言ったことに責任を持ち、その通りに行動することなんて、訳もないことだ。自分が思ったことを、思った通りに伝える言葉を紡ぎだすことの途方もない難しさに較べれば。

 自分が思ったことを、思った通りに伝える言葉を見つけることを放棄した人たちを今までに夥しい数見てきた。こういうときにはこういうふうに思うものです、という習俗的習慣や、今の時代はこういうふうに反応するのが当然です、という時代的迎合に、そしてそれは取りも直さず「言葉」から出来ている、そういう「言」を自分の「心」に取り込んで、それを「心」としている人たちを。

 自分の思ったことを、思った通りに伝えようと必死になるとき、そこで直面するのは嘲笑と蔑笑だった。なぜそんなことに一生懸命になるのかと笑われ、必死になればなるほど伝わらないことで笑われた。

 猫も杓子もプレゼンテーションに明け暮れ、「どう話すか」「どう表現するか」ばかりが追及されるが、もし本当に「言わなきゃわからない」と思っているなら、必要なのは「どう話すか」ではなく「どう聞くか」だ。聞く力をどう養うか。相手が話していることの本意を、言葉の枝葉末節に捉われることなく掴み取ろうとする意志。それこそが、「言わなきゃわからない」状況で必要とされる。今のプレゼンテーションばやりは、コミュニケーションの本質を忘れさせている。コミュニケーションは双方向だ。そして、大事なのは「聞く力」だ。

 芸術家の神髄は、表現力にあるのではなくて、これまでの芸術が歩んできた歴史を知っていて、その文脈の中で各芸術家が何を言おうとしているかを読み取れることにある。だからこそ、自分の表現がどのように伝わるかを考えて、自分の思いを表現できるのだ。自分の言葉の範疇でしか、相手の言葉を理解できないような、そんな「有言実行」は要らない。

言葉ひとつ足りないくらいで
全部諦めてしまうのか 

奈良びいき、村田と生駒をテレビで観る

偶然、奈良が関係するテレビ番組を二つも観た。

 「課外授業 ようこそ先輩」に、ロンドンオリンピック・ボクシングで金メダルを獲った村田選手が。冒頭、「僕に教えられることはあまりないので」と言ってボクシングのトレーニングを軽く体験してもらってた。

 この回は、いつも観てる「課外授業」とちょっと視点が違うように感じた。いつもは、後輩である生徒たちを変えていく先輩の「指導」にフォーカスが当たってると思うけど、今日の村田選手のは、村田選手と生徒と、その「人」そのものにフォーカスが当たってるようだった。村田選手が恩師のおかげでここまでこれた、というエピソードを話した後、「出会い」について作文を書いて、と後輩に指示したら、「ママと出会えてよかった」という作文を発表されて壇上で思わず涙ぐむところとか。

 村田選手はオリンピック中も、そのインタビューも、オリンピック後の言葉なんかも全部好きで、かっこいい男だなあと、同郷にこんなかっこいい男がいて誇らしいと思ってたんだけど、番組の最後、後輩たちに「実家帰ってなあ~」と声かけられてた姿を見て、ますます好きになりました。

 「追跡!真相ファイル」の「119番通報にいま何が」には、生駒の消防署が。よく生駒消防署、取材受けたなあと感心。

  内容に関して。消防は、通報者とのやり取りを通じて、救急車の出動要請なのか、出動が必要なのかどうかを確認していると言うが、なぜそのようなことをするかというと、全ての要請を受けると過負荷・高負担であったり、いたずらに対処しなければならなかったり、つまり「出動させない」方向にインセンティブが働いてのことだから、そのやり取りの言葉も当然、「出動しなくてもよいですか?」という誘導に近くなる。
これは企業のクレーム対応を考える際と同じだが、「より熱心に要求することを、本当に困っているかどうかを計る基準とする」というのは、一見正当にも思えるが、結果平等の原則に反している。しつこく言えば何とかなるというのは、正当に見えて、実は「声の大きい者が勝つ」社会を助長している。
119に電話をして、「救急車が要りますか?」と問うて「要ります」と答えた人には、等しく救急車を出さなければならない。それが徒だったり、不要だったりした場合に、初めて何かのペナルティを加えればよい。もしくは、通常の救急車ではなく、低費用の簡便な「救急車両」を準備する、という方向で費用を抑えつつ出動機会を増やす方向が僕には正しいように思える。#7119を準備して、コールセンター的に、電話での判断の精度を上げようとするのは、いかにも日本的だけど、適切なコストのかけ方とは思えない。事は命に関わること、無用な電話によって緊急度の高い方の救急車要請に応えられないケースを減らすのがゴールなら、選別よりも、如何に要請にこたえるキャパシティを増やすか、それも低コストで、という方向のほうが圧倒的に正しいはずだ。

会社員の品格

ターゲット(ノルマ)達成のためなら、金のためなら、何をやってもいいのか?「それは道義が許さない」と反論するのなら、オマエは道義の為に死ねるというのか?-という極論の応酬。

僕は、結局のところ、この騒動というのは、「目に見えるものしか、論拠として認めない」というスタンスが根源だと思う。人間の活動は、目に見えるものだけで説明することは出来ないし、そもそも目に見えるものはすべて集めてこれていると思うことが傲慢なのだ。一応、その傲慢さは認識してかおらずか、「一面からの仮説」という前提がつけられることも多いが、その「一面からの仮設」を検証する過程で、何が失われるかを検証する試みはこれまで一度も見たことがない。

取引(先)も生殺与奪が繰り返されるのだから、次々と新しい会社が生まれ、ということはどんどんと投資が行われるマーケットにフォーカスし、投資が終わった会社とはオサラバする、というサイクルが最も効率的であることは誰の眼にも明らかだけど、ある一定の幅を持った時間軸の中で、そういった活動をしている団体が、多くの信頼を得ることができるかと言えば、オサラバされた会社の集合から三行半を突きつけられているのが現実だろう。長い時間の間に何が起きるのか、それを予め認識した振る舞いの暗黙知が「品格」である。

節操がなくても、羽振りを見せびらかしても、それで良いと思うならその生き方を極めればそれでよいと思う。その姿を見る、様々な人々の様々なまなざしに無自覚でいられるうちは。私はそのような道は選ばない。

元凶は酒とプレゼン至上主義

世間はしばらくの間、「プレゼンがうまくなりましょう」の大合唱が続いている。プレゼンテーションはもちろん重要だ。「プレゼンなんて、綺麗な映像で、いいことばっか言ってるだけだろ」と言うほど、プレゼンの奥深さを理解できていない訳ではない。対象に対する深く厚い知識の準備があって、伝えるための技巧を正しく駆使されたプレゼンテーションは、物事を圧倒的な力で前に進める。

問題は、「軽々しい」プレゼンテーションだ。わかりやすさが求められすぎる余り、誇張どころか半ば「間違い」に近いぐらいに端折った表現が用いられることもあるし、見栄えに心血が注がれたプレゼンテーションもある。フォーマットに則っているが故に「いかにも」ビジネスプレゼンテーション的に見えるプレゼンテーションもある。問題は、端折られたプレゼンテーションはとっかかりがよいという事実だ。よく、「風呂敷を広げるだけ広げる」という言い方をするが、大風呂敷を広げて仕事を取ることは実は容易いことなのだ。それと同じように、それが真実か否かは関係なく、「わかりやすい」「理解しやすい」ストーリーで相手を陥れ仕事を取ることも容易いことなのだ。

コンサルタントはプレゼンがうまい。それは「プレゼンには膨大で重厚な知識と理解が必要」という前提を考えれば当たり前なんだけど、プレゼンがうまいコンサルタントがビジネスコンサルで入った結果、業績がおかしくなった会社を大小問わずたくさん知っている。僕は、結局、それはコンサルタントが悪いのではなく、「見栄え」に目を引かれたその会社が悪いのだと思っている。

同じように、仕事の基盤は人間関係には違いないけれど、ベタベタと深い付き合いになって、無理を聞いたり通したりするような仕事の仕方も、歪を生んでいく。これは「仕事に何を求めるか」ということに尽きる。どうせ仕事をするのであれば。

世間のみんながみんな、プレゼンが大事、プレゼンの技法が大事、みたいな風潮を見るにつけ、それよりも先にやることあるだろう、と思ってしまうのだ。