『WIRED』とお上と『踊る大捜査線』

日本人の僕には胸の奥底に間違いなく「お上信仰」が宿っている。少しでも気を緩めると襲い掛かってくる。

そして僕が最も嫌うのは、権力に楯突くフリをする癖に、自分に有利になると判ったら権力のある人や有名人著名人やインフルーエンサーと言われる人に近づける機会があれば簡単に擦り寄りお近づきになろうとする心性だ。その節操のなさはどこから来るのか。だからと言って「権力大好き」と開き直っているのも好きにはなれないが、「誰かが得をするのは許せないけれど、自分だけが得をするのは全然オッケー」というのは軽蔑以外の何物でもない。

そしてそれを自分に課するのは本当に苦しい。なぜなら、そういうふうに振る舞う同じ種類の人がそんなにはいないからだ。疎外感。何の「得」もない疎外感。それでも、自立を掲げる人間は必要なのだ。それが小さい自分にとっての唯一の矜持な気がする。自立を掲げられない人間が組んだ徒党など社会にとって百害あって一利もない。

『WIRED』の若林恵編集長のこのEDITOR'S LETTER、素晴らしいとしか言いようがない。お上とサムライ。いつからこんなものを奉るようになったんだ。もう片方の手で自由を求めるようなフリをしながら、もう片方の手でお上の庇護を渇望している。そんなバカな振る舞いないだろう。西欧にだって「神」はいて、神が見ているから善を行え、それと同じように日本ではお上が見てくれているから耐え忍べ、本気でそう思っているならそう振る舞えばいい。それでいて同時に自由を欲しがるなんて勝手すぎるだろう。お上が何もしてくれないから。国の補助が。助成が。バカバカしい。

先日、「地上波初登場」と謳ってた『踊る大捜査線 THE FINAL』を観て、踊る~を観るといつも感じる違和感を今回も同じように感じてた。なぞるべきストーリーはおもしろいんだけど、ストーリーを通して作者が言いたいこと、みたいなテーマがいつも頷けない。『THE FINAL』では、青島が「正義なんてのは、胸に秘めてるぐらいがいいんだよ」と言う。多数の人々が協力してことを成し遂げる組織では、組織のルールと体系に沿うことが必要なんだ、と説く。この組織は「社会」と言い換えてもいい。そして悪いことをしてた人は、「お上」=人事官が捌いてくれる。現場は、ルールを逸脱して告発のような行動を起こすのはご法度。『THE MOVIE 2』か『3』かで、ネットを使って連携をする、誰かがリーダーではないヨコのつながりで活動する犯人グループに対して、自分たちには素晴らしいリーダーがいる、と青島が叫ぶシーンがあったと思う。あれも、ある種のお上信仰だ。立派な君主が登場して立派な君主による「独裁」のほうが、組織=世間はうまく行く、と言っているかのようだった。時代はフラットな組織の有効性をうたいだしていた中で、それに反論するかのような「テーマ」を訝しんだ。『THE FINAL』に戻るけれど、確かに鳥飼たちのやり方は違法なだけに許されないものの、アクションを起こしたということを否定するような筋書きは評価できない。

自分のことは自分でやる。お上をあてにしない。そこにしか未来はないと思う。それは、政府がバカでもなんでもいいということではない。自分のことを自分でやろうと思わない人が多いから、まともな選挙結果にならない、ということだと思う。

奈良先端科学技術大学院大学公開講座2013 「ビッグデータが世界を変える あなたに迫る超大規模データ」 10/05

1コマ105分 x2コマの講義受講は約20年ぶりでちょっと辛かったですが、正に仕事で関わっている分野について、研究者の方の解説に触れられる貴重な機会です。これが無償なんだから行かない道理はないでしょう!

奈良先端科学技術大学院大学(以下NAIST)はウチから車で20分くらいのところなんですが、毎年秋に公開講座をやっていたと今年初めて知りました。今年、公開講座の存在が私のアンテナに引っかかってくれたのはもちろん講座のテーマが「ビッグデータ」だったからですが、ビッグデータは業界のみならず、広く世間の関心を呼んでいるテーマらしく、今年の公開講座は講座始まって以来最大の300名の申し込みがあったとのことでした。

しかし残念だったのは、その300名のほとんど、9割くらいと言って言い過ぎじゃないと思う、ほとんどが定年退職後と思しき老年男性だったこと。世間のこういう教養講座的なものを覗いてみると、特に奈良ではたいていお年を召した方々。選挙のときと同じ雰囲気。確かにあの世代の方々は知的好奇心が旺盛というか、テレビや新聞を賑わす世間の出来事を、「自分の世界」と同じレイヤで見聞きし語る姿勢で生きてきているので、門外漢かどうかお構いなしに興味のあることには貪欲と判ってはいますが、それにつけても中年以下のいないこといないこと。結局、日常生活や仕事で忙しいからこういう時間が取れないとなると、いつまで立っても教養も連携も身につかず、政治に参加する動機もなく、世の中何にも変わりません、を補強していくだけのような気がします。

講義そのものは、言語処理系の話とデータマイニングの話で、どちらも一般知識としては知っていましたが、誰かに語って説明してもらったのは初めてなので、語る言葉が増えてとても有益でした。一方で、各講義の後で質疑の時間があったのですが、そこはやはり一般人の方が来られているので、質問の内容もどうしても講義の内容にマッチした質問ではなく、漠然とした「ビッグデータ」に対する質問になってしまう場面もあったのですが、それに対して、きちんと一般的な切り口で答えを返されていたところがさすがだと思いました。

今月は毎週土曜は学生です。この後の講義も興味深いものばかりで楽しみにしています。

誰かが追いかける背中になること

この業界、あまり詳しくは書けないけれど、会社を辞める人が立て続く時期というのがある。今、まさに立て続いているんだけど、その中に、私とほぼ同じ頃に入社して、3,4年同じチームで仕事をしていた、とても仕事の出来る5歳ほど年下の男性がいた。先週一杯で退職で、辞めることを知ったのは先週の火曜日、それも人づてだった。

彼と同じチームで仕事をしていたときは本当に飛ぶ鳥を落とす勢いというか、物凄くうまく行っていたチームだった。私は転職して1,2年の頃で、まだもう一つ社内組織も事情もワークフローもそれどころか製品さえ万全に把握できておらず、そんなところを一から十まで細かく丁寧にフォローしてくれたのが彼だった。何かにつけ細部まで完璧で、私はお客様のところで案件をどういう方向で進めれば満足して頂けるか、大枠の方向性を間違えないようにすることに集中すればよかった。とても信頼できるチームメイトだった。

それで、「辞めるって聞きましたよ」とメールしたら、彼から丁寧な返信がもらえた。だいたい、そういうときのメールに書かれる内容というのはマイナスなことはないものだけれど、彼がそのメールに、私の仕事ぶりに影響され、同じ職種を目指してみたいと思っていました、と綴られていて、話半分でも非常に嬉しかった。自分の仕事ぶりが、誰かの励みになれたのなら、それによってチームメイトとしてのその人を失うことになるとしても、自分のやっていることは間違っていないと自信を持てるありがたいことだ。

自分の背中が、誰かにとって追いかける目標になれていた自分は、少し誇りにしてもいいんじゃないかと思った。これは自分にとってとても励みになる。サラリーマンとしてこの年になって、こういった励みはなかなか巡り合えるものではない。だからこそ、胸に大事に灯しながら明日からも努力しようと思う。

クラウドファンディングとサスティナビリティとアート

前から、クラウドファンディングについてきちんと考えようと思っていました。クラウドファンディングとは、wikipediaによると、

クラウドファンディング(英語:crowd funding)とは、不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。

となっています。大雑把に言うと「インターネットを使って幅広く事業資金を調達すること」で、その特徴は小口出資が主体で、ベンチャー的に個人で起業する人にとって有力な資金調達手段であり得ることだと言えると思います。

数か月前、このクラウドファンディングのことを、「素晴らしい事業を行っていれば、インターネット上で世界中から報酬を支払ってくれる人を集められる、素晴らしい仕組みだ」と書いているブログを読んで、「何を寝言を言ってるんだ」と思ったのがクラウドファンディングについて考え込むきっかけでした。

クラウドファンディングは、文字通り「ファンディング」です。「報酬」ではない。これから何かを始めたい、だけれでもその元手がない、銀行に出資を願うほど多額も要らないしそこまでの信用力もない、そういう「企業家」が、自分の事業計画をネット上で公表して、ネット上の不特定多数に出資を募る。つまり、クラウドファンディングで調達したお金は「出資」ですから、「償還」しなければならない。利子つけて返さないといけない訳です。

では私はクラウドファンディングのサイトを見て、「これは」と興味をひかれた、おもしろそうな事業に出資するだろうか?答えはノーです。その理由は、今見聞する限り、投資に見合うリターンのある案件は存在しないからです。

クラウドファンディングの出資者に対するリターンは、聞くところによるとほとんどがその事業で生み出される成果物みたいです。たとえば10,000円出資して、よくわからない発明品が手に入ってもしようがない。これは、儲けたいか儲けたくないか、ということとは違います。これがはっきりと「寄付を募る」というのだったら、興味をひかれたおもしろげな案件に、喜んでお金を出すと思います。「ファンディング」と名乗っているのにこれだから、出資する気にならないのです。

銀行の融資の仕組も、株式会社の仕組も、経済活動上その必要性があるからああいう形態になっている訳です。その多くは「信用」に関わるところだと思います。だから、融資の仕組も株式の仕組も長続きしている。でははたして、クラウドファンディングの仕組が長続きするか?今のところ、日本では私はノーだと思います。物珍しいから面白がってお金を出している人が多くいるうちは続くと思いますが、面白がって出すお金には限度があります。それに面白がる鮮度も限度があります。おまけに、そうそう面白い案件が出てくることはないですし、真に面白い案件であれば銀行から出資を受けることもできるはずです。そう考えると、リスクは高いのに満足なリターンのないクラウドファンディングが続けば、そこにサスティナビリティがあるかないかは明白なように思います。

このクラウドファンディングをアートに応用している活動もいくつかあるようですが、出資が必要なアート活動というのはどういうものなのか考えてみました。例えば映画を創る。そのための資金が必要である。ならばその調達資金は当然、上映の売上から返すべきお金になる。こういうことならわかる。しかし、調達したお金は芸術家の食い扶持で、出資に対するリターンは展示会のチケット。こういうのはおそらく続かないと思う。なぜならチケットを買う方が早いし、それのほうが断然全うだから。まず努力するべきは、アウトプットに対する対価を得られるように努力することで、出資を得ようとすることではないと思います。

だから、クラウドファンディングにも寄付型があって、寄付型であれば私は納得できると思います。この筋はきちんと通すべき筋ではないかなと覆います。

ゲームと複雑な感情

携帯電話向けゲームの先駆者、グリーが急失速した。スマートフォン(スマホ)時代についていけず、業績は悪化。一時は任天堂をおびやかすほどの栄華を誇りながら、その天下はわずか3年で終わった。グリーにとって生き残りをかけたサバイバルゲームが始まっている。
グリーの「三年天下」、熾烈なゲーム生存競争  日本経済新聞Web刊 2013/9/2 7:00

 私は就職活動時、第一希望がゲーム業界で、当時で言うところの「ゲームデザイナー」になりたいと準備をした人間で、心からゲームを愛していたので、グリーやディー・エヌ・エーを苦々しく思っていた。小説や漫画や映画と同じように、芸術的要素も持ちうるひとつの娯楽として成り立とうとしていたゲームを、プレイヤーの知恵も工夫も技巧も何も関係ないただの「ボタン押し」に成り下げた主犯格として。ゲームをその程度に矮小化しただけならいざ知らず、「カネを出せば強くなる」式の仕組を持ち込み、おまけにそれをゲームのおもしろさを左右する要素よりもゲームの収益源としての役割を優先させたからだ。言わずと知れた「コンプガチャ」だ。おもしろいゲームがまだまだ世の中にはあるなかで、猫も杓子もゲームと言えばグリーかディー・エヌ・エーかでやるもんだという認識に染まっていくのを、本当に悲しい思いで見ていた。

 しかし一方で、彼らも判っていたように、私たちもグリーやディー・エヌ・エーのモデルが未来永劫に続くとは思っていなかった。なぜならグリーやディー・エヌ・エーのモデルはプラットフォームビジネスだったから。世間のビジネスモデル指南書では「プラットフォームを握る者が世界を制す」とよく書かれていて、それは確かに正しいのだけど、プラットフォームをプラットフォームとして維持し続けることは並大抵のことではない。スマートフォンがシェアを拡大して、アプリというものが各スマートフォンのアプリ購入サイトから購入するのが当たり前になったとき、グリーやディー・エヌ・エーに存在価値はあるだろうか?

 そして満を持したかのように届いたニュースが、「セガなどゲームソフト15社がスマホ向けゲームのユーザー開拓で連携する」というものだった。もちろんグリー、ディー・エヌ・エー外し。

 もちろん、「いい気味だ」という気持ちは禁じ得ない。心から愛するゲームを、ただの「商品」として扱った罰だ。利殖の道具として。ゲームという様式の中でのおもしろさを追求したのではなく、条件反射と禁断症状を利用して釘づけにすることを追求した彼らに「ざまあみろ」と言いたい気持ちはもちろんある。しかしながら、グリーの田中良和氏は如才ないし、経営スキルは高いものを持たれていると思うし、何よりもともとSNSを運営していたところに「商材」としてゲームを扱ったように、扱うものに強いこだわりを持つのではなく、ビジネスの対象として扱うことのできるスキルを持っているので、会社としてのグリーは必ず復活してくると思う。

 なぜ、グリーやディー・エヌ・エーに対して、「ざまあみろ」と散々罵倒すればいい、という気持ちになりきれないのだろう?それは、グリーやディー・エヌ・エーを「利用」してきた外野のほうが、よほど罪深いのではないか、と思うからだ。投資家についてはそうは思わない。うまくリターンを得て勝ち抜けた人はそれだけの才覚があったのだと思うし、そもそもゲーム会社を投資の対象にすること自体に、ゲーム業界を志していた身としては違和感を感じざるを得ない。それが、ゲーム業界が未熟で不安定だという意味ではない。だいたいの世間の人は、ゲームとは何か、ゲーム業界とは何かなんて、ちゃんと理解しようとはしていないと思うからだ。

 ではグリーやディー・エヌ・エーを利用してきた「外野」とは誰か?それは他ならぬ我々IT業界だと思う。言うまでもなく、ゲーム業界は大量のサーバ、ストレージ、高速のネットワーク等々、非常に高性能なIT機器やシステムを必要とする。ある意味で、テクノロジーの最先端業界なのだ。我々IT業界も他の産業界と違わず、最新テクノロジーはどこかで「実験」し、その知見を以て安定化させて一般化し賞品として普及させなければならない。他の業界がどうなのかはよくわからないけれど、我々IT業界ではこの「実験」先は、パブリック・セクター(大学か、公共投資が行われる事業-たとえば「京」)かゲーム業界だ。こういう「実験」が行われるところでは、「先行投資」が行われているので、リターンに対する厳しい目よりは、「絶対価」の高低だけで採用される節がある。かくして我々は、自分たちのノウハウを蓄えるための「実験場」として、最新テクノロジーをゲーム業界に売りつける。

 企業活動においてはどうしても金で時間を買わなければならないフェーズがあるのは承知していて、だからこそ先行投資の必要があることも理解している。けれど、グリーが本当に記事で書かれているほど破綻しているのであれば、そこまで倫理を失わせたのは無暗に車輪を回させた我々にも責任の一端があると言えるのではないか。結局、その果実を手にしているのはやはりクレバーにその場を乗り切っているIT企業だけなのだ。それに最も憤る。ソニーのセルのときもそうだった。

評価基準

新・ルソンの壺、人を育て 技を伝える~中小企業の生き残り戦略~を観て、評価基準について考えた。山岡製作所では「スーパー職人」という一種の認定制度があり、かつ、弟子の成長度合が師匠の評価に反映される仕組が構築されている。これと、部下のノルマ達成率の総計が上司の評価である仕組とは、似ているようで確かに何かが違う。もう一つ、等級が決まっていても、その等級が「取引」に利用されることが常態化すると、職場のモラールを崩壊させる。達成率が唯一のメトリックとなっているような企業で、それ以外の要因で給与が上昇するようなことがあると不公平感以上の悪影響が広がる。

 『新・ルソンの壺』を観てそこまで考えたのは、先週に米マイクロソフトのバルマーCEO、1年以内に退任というニュースがあったことが若干影響していると思う。バルマーCEOの退任は、マイクロソフト社内における従来型のWindowsビジネスの地位低下を明確に表していると思う。これは、PC・スマホ・タブレットにおけるマイクロソフトのOSシェアが22%に過ぎないという事実を受け止めている。これは、現在の足を引っ張る過去の功績と決別するという必要であり大切な決断だ。将来の主要事業ではないことがはっきりしている事業の現在の業績が前年度比や前四半期比で華々しかったからと言ってそれが高く評価されると、企業内での士気は下がる。有体に言うと「白ける」。過去の功績を振り回す事業部の存在や、「そうは言え、現在の収益の過半がこの事業から生み出されている」という強弁。これらを意図的に継続的に抑制するのは容易いことではないということだろう。

サザン、桜井高校、女子マラソン

先週末はスポーツとか音楽とか、そういうのから様々刺激を受けました。

NHKで放送された「35周年スペシャル 復活!サザンオールスターズの流儀」。サザンは若い頃、好きと嫌いが微妙に入り混じる対象で、ときどき繰り出す絶妙に力の抜けた「おふざけ」の、その面白さは判るんだけど、なぜサザンだったら許されるのに他で許されないことがあるのか、サザンのセンスは判るけれどそれだけで認められていいのか、という割り切れない思いと、絶妙に逃げずにもっと腰を入れてやってくれよ、という歯がゆい思いで、のめり込むにのめり込めないバンドだったんだけど、自分が30代後半を過ぎたあたりから、サザンがサザンを続けている凄みとかファンを大事にするスタンスとかに感動してました。

桑田さんが番組の後半、「青山学院大学って洒落た大学に入って、彼女つくって楽しもうって思ってたけど、全然そんなふうにならない。半年ほど経ってサテンでTVの長嶋さんの引退セレモニー観て涙が思わずはらはらと流れて。オレ、何やってんだろうって」。その挫折があって音楽に行けたし、ここまでやってこれたと。その後、恒例の「流儀」をまとめる最後の下り、「サザンの流儀」で「力を抜くんですけど、そういうのはどうしても下にいっちゃうんですよねえ~」と、この上ないサザンらしい脱力感で締めてました(笑)。

高校野球、我らが奈良県代表桜井高校を一生懸命TVで応援してたんですが、監督も言ってた通り、先攻取ったらよかったのになあと思ったところはあります。奈良県(勢)の傾向として、後攻を取るんですよね。最後の最後を残しておきたいという心理。これ、県民性だと思います。

それはともかく、桜井高校は「自分との闘い」を主眼としているといろんな記事で読んでいました。好プレーには敵味方なく賛辞を贈るし、好打したりしても派手なガッツポーズはしない等、精神面を重視しているのが随所でよく判りました。率直に言って、甲子園で勝とうと思ったら、若さ丸出しでガッツポーズ出して勢いに乗るほうがいいし、下手な緊張とは無縁でいれると思います。

それでも、桜井高校は自分たちのスタイルを貫いて、それぞれに感じるところを持って一試合やり抜きました。スポーツである以上、勝ちを目指すのは当然ですが、「何を持って”勝ち”というのか」という、非常に高度な問いかけをされたと思います。それも、従来のありがちな精神論や修養論ではない、長い長いスパンを持った、考え続けるにふさわしい問いかけだったと思います。

自分がビジネスマンとして停滞している、停滞期にいる、そんな忸怩たる思いをいつも微かにでも抱きながらここしばらくの日々を過ごしてきた私にとって、サザンと桜井高校が見せてくれた「経過」は、新たな意欲を生み出す素になってくれそうなものでした。

そういう、芸術家魂やスポーツマンシップに触れて充足する一方で、世界陸上モスクワの女子マラソンの中継。日本人選手の前を行く3位の外国人選手がリタイアした際、「よしっ」という声とともに中継サイドの拍手があったのは頂けなかった。確かに日本人選手のメダルは渇望されたことなので喜ぶのは理解できるけれど、ライバル選手がリタイアしたタイミングでの拍手は潔いものではないと思う。もちろん、ライバルがリタイアしたことも含めてレースだから、3位になったことを喜ぶのは当然のことだと思う。だからこそ、あのタイミングで拍手するべきではない。


待機児童、禁煙外来、費用対効果

「全国の待機児童25,000人を2017年度までに解消を目指す」というニュースが流れた後のCMで、「禁煙外来は健康保険が利用できます」というのが流れて、うーん、と考え始めたのです。

勝手にタバコ吸い始めてそれで依存症になったりして、それを治すのに健康保険からお金が出るというのはどういうことだ。そもそもタバコを吸わない私などはそう思ってしまう。タバコを止めるというのは、病気を治すのとは違うではないか。しかしアルコールもそうだが依存症にまでなってしまった人は、それを治すために高額な医療費を払ってまでやるとは思えない。だから保険適用を認める。タバコを吸い続けた人が肺癌になったり副流煙で周囲の人が健康を害したりすることによって膨らむ医療費が健康保険支出を増大させているなら、それよりも禁煙外来にかかる保険費用が少ないなら、禁煙外来に保険適用を認めるのが、費用対効果としては正しい。

いや、なんか納得いかん。

そもそもタバコを売らなければいいのだ。そうすれば、肺癌になったり副流煙で周囲の人が健康を害したりすることで発生する医療費がそもそもチャラになるのだ。と言うと、「タバコを吸うことも個人の権利であり自由のひとつである」となる。副流煙が公共の福祉に反しないのかどうかというのは置いておいて、確かにタバコを吸うのは個人の自由なので、「タバコ保険」をつくればよろしい。taspoがあるのだから、タバコ1箱に自動的に「タバコ保険」料を上乗せして、万一喫煙者が肺癌にかかろうものなら、taspoを提示すれば「タバコ保険」が適用されるようにすればよろしい。これがITの正しい使い方だ。我々非喫煙者も支払っている健康保険の勘定丼の中から賄われるというのは誠に受容しがたい。

そういうと「保険の精神に反する」「互助精神が云々」「細分化は社会格差をかんぬん」となる訳ですが、勝手にタバコを吸い始めて、肺癌になって治療をというのはまだしも、禁煙するのに保険適用というのはやっぱり変だと思う訳です。それを解決するためにtaspoと「タバコ保険」による仕組を導入するためにかかる費用が禁煙外来に使う保険費用よりも莫大にかかるというならこればっかりは目を瞑るしかないかと思いますが、そこそこええ線でやれまっせ、ということなら、歯を食いしばってでも防ぐべきモラルハザードがそこにはある、と思わなくもない。

そんなことを財政負担するくらいなら、待機児童解消に予算を回せたほうがいいんじゃないの?と、そのCMを見ながら思って、25,000人ってどのくらいの割合なのか?と思っていろいろ統計を見てみると、wikipediaによると保育所利用数は約220万人。待機児童25,000人というのは約1.1%ということになる。1.1%を解消するためにどれくらいの労力を割くべきなのか?いや、パーセンテージの過多に関わらず、これはゼロにするべきものなのか?とかいろいろ考えていると、テレビのニュースは「社内保育所の閉鎖相次ぐ」と言いだした。

なぜ?待機児童は解消されてないのに?

要は、「児童は増減するが、保育士は常に児童の定員最大に対応できるように雇用しなければいけないので、収支がどうしても合わない」ということだった。これは社内保育所に限らず、公的私的含めて、日本全国で起きている、待機児童問題の根本なのだろうなと思った。

グローバル化が進めば、人は移動しやすくなるし、移動しなければならなくなる。

居住のフレキシビリティが高まるということは、人口の増減も活発になるし、もちろん児童の年次変動も活発になるということ。あたかもゲリラ豪雨のように、ある年はこの地方に人が集まり、ある年は別の地方に人が、というのが当たり前になっている。じゃあ保育所の体制もそれに合わせて柔軟に、とはいかない。保育士さんを減らして、来年子ども多そうだからまた増やす、なんて簡単にいかない。保育士数も不足しているのだから。

クラウドが世間を席巻しているように、なんでも「必要な時に、必要な分だけ」利用できたらそれがいちばんいいに違いない。けれどそうは行かないから冷蔵庫に食料品貯めたり、貯金したり、蓄電したりする訳です。人が動きやすくなったからと言って、じゃあ保育所とか学校とかもフレキシブルに、と、そういう訳にはいかない。フレキシビリティを高められる部分と、フレキシビリティを高めるからこそ、安定的にサービス供給できなければいけないサービスというのがあって、保育所は恐らくその一つに数えられるものだろうと思う。だからやっぱり、禁煙外来に保険を使うよりも、優先順位としてはこちらなんじゃないの?と思う。別に禁煙外来のほうがハイプライオリティです、とニュースで言ってた訳では、ないけれど。

言葉遣い

もちろん自分も含めて、今の奈良に最も必要なのは「丁寧な言葉遣い」。だな。

先日、ならまちを巡った際、お店の人とかいろんな人と通りすがりに一言二言話すことになったんですが、奈良の人というのは、けして無礼な言葉遣いではないんだけど、気持ちよい言葉遣いでもない。と一概に決めてかかるのは危険だけど、奈良生まれとしては前々から思ってて、奈良県人というのは若干後ろ向きな話し方をする。つっけんどんというか。そしてちょっとキツい。少し上から見ているようなトーン。

あれはやっぱり奈良県人の内向性というか閉鎖性というか、閉ざしてバリアを張る修正が、言葉遣いに出てるのだと思う。かく言う僕もそういう話し方をする。おまけに僕の場合厄介なのは生まれは奈良だけど小学生になる前から大学卒業するまで三重に住んでて、三重は結構フレンドリーで温かい話し方をするので、それに慣れてしまっていて(笑)奈良に戻ってきたら自分は奈良県人らしい、キツい話し方をするのに同じ奈良県人に話されたら「なんかキツい」と感じてダメージを受けるという(笑)。

NHKBSの「こころたび」でも、他県の方がほがらかに話す中、奈良の週だけはなんかなんというか・・・という感情を抱きながら観てた。決して悪い人間じゃないんだけど奈良県人って、でもフレンドリーじゃないんだよなあ。

言葉遣いというのは心の有り様が現れる、というけれど、言葉が心を規定するというのもまた事実で、使う言葉を意識することで、心の有り様が変わるのも事実だと思う。この試みは口で言う何万倍も大変で、頭の中を流れる言葉の一群というのは自然に流れて行ってしまうので、既にもう完全に規定され言葉遣いとがっちりリンクした枠組みなので変えるのは大変だけど、心持を変える方法というのはこれしかない。言葉遣いを、変えよう。

「対談 仲川げん奈良市長・堀義人グロービス代表」拝聴してきました

たまたま機会に恵まれたので、仲川げん奈良市長と堀義人グロービス代表の対談を拝聴してきました。

https://www.facebook.com/events/219725538174816/

仲川市長は日本で二番目に若い市長で、当選したときは、奈良市が若い市長を選んだということに大変驚いたことを覚えています。若ければいいという訳ではもちろんないですが、極力動こうとしない奈良という土地で、33歳の市長を立てたというのは物凄いことだったと思います。

さてこの日の対談は、オープニングの説明によると(私はたまたまネットで見かけたので、二人が対談するということだけ知って参加した)グロービスが主催で、日本各地の政治家との対談をやっているそうです。21日に市長選を控える中、絶妙のタイミングでした。

まず最初に苦言したいのは、毎度毎度というか運営の拙さ。奈良でこの手のイベントに参加してみる度、なんだこの運営は、といつもがっかりします。来場者への挨拶がない、受付はたどたどしい、開始は2,3分遅れる、そもそも建物の表にイベント会場の目印が出ていない。イベントが始まって、ビデオカメラのために参加者を移動させたこともあった。あんなの、最初からカメラチェックしてればその席を設けないようにできたんじゃないか。イベントが終わった後も挨拶がない。よく知っている人同士の集会になっている。仲川市長の後援会の方は名刺持ってひとりひとり挨拶に回っていらっしゃいましたが、こういうイベントをやって知ってるサークル内で会話するいわゆる「パーティ」にして何か意義があるのかな?と毎回思います。

では恒例の箇条書き:

  • 質問もさせてもらいましたが、堀さんの「生態系」という言葉が大切だと思った。奈良に限ったことではないかも知れないけれど、「お上が何かを授けてくれないから」「環境をお上が整えてくれないから」という姿勢の人が多過ぎると思う。
  • もうひとつは「正解なんかない」というところ。我々は、「正解がどこかに落ちている」「やり方を磨きさえすれば、成功するはず」と常々思っているけれど、正解はどこにも落ちていないし、やり方そのものが間違っているのかもしれない。
  • 一方、リーダー塾的な構想は、今の奈良に必要なのかどうかはちょっとよく判りませんでした。「自分の足で歩く」という意味でのリーダーシップを抱く人を増やす必要はあると思いますが、「トップ」という意味でのリーダーよりは、実践力のあるプレイヤーを増やす必要があるのではないか。
  • 「生態系」を作ることでの「にぎわい」の振興は、正に奈良に必要なことだと思う。問題は、「奈良府民」もその渦に巻き込めるかだと思う。「奈良県民」だけでにぎわいを作り、「奈良県民」を増やす、という方向性は、個々の生活を考える限り現実的ではないと思う。
  • ソーシャルネットワーク等のネットワークでの情報発信やコミュニケーションはコストがかからない、というのは若干時代遅れだと思う。どんなことでも、「当たり前」に近づけばコストがかかるようになる。ITの世界では特にそうだ。埋没してしまうのだ。

私は生駒市民ですが、市の内外を問わず、こういったイベントに積極的に参加してみようと思います。