職業にしている事柄について書くのはある種のリスクを伴いますが、やはり逃げる訳にはいかないだろうと思いまして、書いてみようと思います。facebookで國分功一郎さん(『暇と退屈の倫理学』の著者の方)が、「大学の成績管理システム(?)がとてつもなく使い辛い」とポストされていたのを見て思ったことを書きます。
掻い摘んで言うとこの件は、「ユーザインターフェースがまるでなっていないシステムの使用を、ユーザが強制されている」という話なのですが、システム構築側にいる僕の、システム構築側の立場の感想としては、「そりゃそうでしょう」です。だって、そのシステムを購入するのは、誰ですか?
我々システム構築側は、企業なり大学なり自治体なりにシステムを御提案しますが、そのシステムの購入の判断は最終的には「費用対効果」と言った類に収斂されます。当たり前です。高いお金を払って、役に立たないものを誰も買いたくないです。問題は、この費用対効果の検討のとき、「実際に使用する人の手間」といったコストが反映されない場合がある、ということです。社長の立場からすれば、今まで満足に出来ていなかった管理会計が日次ベースで更新されるなら願ったり叶ったりでしょう。それを実現するために、社員は実はエクセルでちまちま明細を入力しなければならず、そのために日々の業務が圧迫されても、そこには目が行かないかもしれません。
話はここで、「今まで通りのフォーマットでなければ、システム更改を許さない」というスタンスの問題と、「エンドユーザの不便なんて気にかけない、購入の意思決定ができるポストが好感するメリットを謳え」という売り方の問題に分かれるのですが、実際の利用者の利便性を向上するようなシステムを設計・提案したところで、自分達の提案が採用される確率が飛躍的に上がることはないことが多いです。なぜなら、その「きめ細かい」構築に掛かる費用が、意思決定者に評価されることは少ないからです。
例えば、市役所の窓口の何かのシステムがあったとします。それが、年度末にはいつもすごく待たされるようなシステムだったとします。その年度末のピークに合わせて、今まで2つだった窓口を3つに増やしました。この施策は評価されるでしょうか?結構な確率で、「税金の無駄だ」という意見を言う人が出てくると思います。年度末のピークがどれほどかとしても、残りの11カ月は無駄になる訳です。 システムの現場でもこれと同じようなことが起こります。年度末だけ人を増やしても、そのシステムが3台なければ意味がないのです。かくして、システムを実際に利用するユーザが、システムによって業務改善が図られないケースが生まれます。
どこに、どれだけ、どのようにお金を注ぎ込むかというのは、事ほど左様に難しい話だと思います。会社という団体にとって、どこにお金を注ぎ込むことが、会社全体の利益になるのか。同じように、日本という国にとって、どこにどのようにお金を注ぎ込むことが、全体最適なのか。システムを実際に使う人にとって最も使いやすいに越したことはないのですが、それよりも全体最適になるお金の使い方があるかも知れない、訳です。
この話を考えるとき、いつも、1,2年前に大流行りした「シェア」について思います。最近、あんまり聞かなくなったような気がしますが、それは、「シェア」というのが、詰まるところ、不便を引き受けなければならない仕組だということに、みんなが気付き始めたからではないかと思います。ひとりひとりが対象を占有するのではない仕組ですから、自分が使いたいときに使えないかもしれないという不便を内包していることは当然なのですが、「シェア」が流行したときには、今の自分の利便性を落とさず、所有コストといったわずらわしいものからだけ、解放されると勘違いしていた人が結構数いたんじゃないかと思います。これは知識に関しても同様だと思います。誰彼かまわず、「これ面白いよ」という情報をシェアしたところで、その有用性はだんだん担保されなくなります。「シェア」したい人が、一方的にその思いで押しつけているだけで、それが本当にシェアに値するものなのかどうかがどんどん判らなくなります。
この位のことは、そのシェアというシステムをとっくの昔に実現していた、図書館という存在の凋落ぶりでも最初から判っていたことだと思います。あれほどの情報がシェアされているというのに、図書館をその目的で使う人はあまり増加しません。そして、図書館自身はもはや、本の魅力だけではその存在を維持できなくなっています。本筋を離れたところでの集客は、いずれ必ず鍍金が剥がされるか、自らの姿を大きく変えさせられるかのいずれかです。図書館がそれを願ってやっていることであれば、それはそれでいいのかも知れません。
今、日本が求められているのは、どうやって融通し合って生きていくか、という仕組みの再構築で、そこには「シェア」の概念が含まれていることは自明です。保険だって年金だって言ってみれば「シェア」の一形態だと思います。その「不便」の引き受け方を真剣に考えていないことが、社会の停滞に繋がっているのではないかと思います。