社内尊敬

会社には、どうしても尊敬されない、というタイプの人が必ずいる。あれはなんなんだろう?と思って少し考えてみた。

どうしても尊敬されない、ということが問題になるのは、人事上、管理職に就いている人たちだ。なぜかと言うと、我々一般平社員は、自分の仕事をしていればいいからで、尊敬される・されないはあまり関係がない、というか「尊敬される」とプラスになるけれど、されてないからといってマイナスではない。それが「ゼロ」の状態。
しかし、人事上の管理職についている人はそうではない。誰だって、尊敬できない人物に管理されたくはない。だから、「尊敬される」がゼロで、「尊敬されない」とマイナスだ。なのに、「尊敬できない」状態のままで、それを別に改善しようとも思わないタイプの人が、結構いるということだ

我々一般平社員も、自分がやりやすい環境をどうしても好む傾向にあるので、「甘い」環境を作る管理職を好みがちで、それを「尊敬」と取り違えては困る。まあそういうバカな過ちは流石に犯さない、という前提で、どういうタイプが「尊敬されない」のかな、と考えてみると、とどのつまり、会社の中での役割とか関係なく、一般社会の人間としての「人格」の出来・不出来で、尊敬できる・できないってやっぱり決まっちゃうんだな、という結論に至る。言葉づかいが粗野な人は人気は出ても尊敬はされないし、威張る人は畏怖はされても尊敬はされないし、嵩に掛かる人も諂われたとしても尊敬はされない。それらはすべて、企業というところの論理だ、ということは重々承知しているし、そういう「尊敬されない」人たちは、ひとたび状況が逆転して自分のポジションがダメになったらそれまでだという腹を括って仕事をされているのでそれはそれで大したものだなあと感心する。

けれど、自分はやはり人間的な成長を伴いたいので、それを範とすることはできない。社内での尊敬を集めたいなんて烏滸がましいことは思わないけれど、一般社会でも通じる人格を、年齢に相応しい人格を磨く努力は続けたいと思う。それにはやはり、それに相応しい言葉を語れることだと思う。 

海龍王寺、奈良公園でマハラジャ

秋の散歩ライド。ちょっと奈良まで。今シーズン初ロングスリーブ・ロングパンツライドでもあります。寒くなったね。

特にどこに行こうとも決めず、頑張って飛ばすつもりもなく、いわゆる「街乗り」したい、という気分で。思い切り長い距離走りたいのと、散歩みたいに走りたいのと、代わる代わる気分がやってくる。ま、とりあえず平城宮跡へ、という感じで。

平城宮跡では平城宮天平祭やってましたがスルー。なぜかと言うと、THROAT RECORDSの現地を確認しに行きたい、と思ってたのを思い出したから。で、みやと通りを通ってるとき、「これ、そのまま369に出ずに、あそこで左に曲がった方がいいんじゃないか?」と思ってた平城宮跡の南端の道へ。この道を出来る限り東に進んで奈良市役所に当たってから369に出るのがいちばんスムースと発見。収穫。

さて小川町への道。JR奈良駅前から三条通に入り、アミューズメントCUEを越えたところで左折したんだけど、なんとまあ三条を一本入るだけでこんな普通の住宅街が溢れてるなんて、知りませんでした。普通にブランコや滑り台のある公園がいくつもあって。

こんな近未来SF的な、あるいは古びた工業団地みたいな、不思議な景色に出くわしたり。

お目当てのTHROAT RECORDSは11/20オープンだそうでした。中に人がいたので、正面からアップで写真撮る勇気がなくてこれが限界。

特にアテもなくふらふら走ってたら、県庁前の奈良公園でC'festaに遭遇。奈良の著名店・人気店のメニューが楽しめる、今風に言うと野外バル、といった風情です。折角だからなんか食べようかな~と思って一周してみたら、なんと!!

「摩波楽茶屋」に再会!「あっ」と思って、僕のほうは店員さんも知ってる~って判ったんですが、行ってみたら「顔覚えてました」って店員さん言ってくれて嬉しかった(笑)。ここはほんとに旨いんです。

ココナッツチキンカレーヌードル。隠れちゃってますけど、大和肉鶏のおっきなツミレが入ってて、麺はフォーで、ちょっと辛めでおいしいです。散歩してきたおじさんにちょうどいい。店員さんに「また行くわ~」と言ってごちそうさま。

食後のコーヒーにcafe WAKAKUSAに、と覗いてみたらお客さん一杯だったので泣く泣く諦めて家路に着いたのですが、ふと思いついて、いつも通ってて気になってて行ったことのない海龍王寺へ。海龍王寺、ホームページもブログもfacebookページもツイッターもある、凄いIT先進寺院でした。びっくり。

これが気になってた表の看板?と言っていいのか。今年が辰年ということで名前に因むから建てられたのかな。

偶然、十一面観音菩薩の特別公開期間でした。この十一面観音、物凄く整った仏像です。顔も整っていれば、全体のフォルムも、装飾なんかも、とても整っていて美しいです。その整い加減から、現代に違和感がないので逆に親近感が湧くくらいです。偶然に身を任せていいものを観ることができました。

帰り際、「自転車ですか?」と話し掛けてくる女性が。聞くと、ボランティアで土日にお手伝いをしている学生さんだそうで、僕が手に取ったフリーペーパー「こしゃじ便り」も創っている「南都古社寺研鑽会」の方でした。このフリーペーパー、レイアウトがすっきりしていて、かつ、時流に乗って古社寺に惹かれた人が創ってるのではなくて、なんか地味に古社寺趣味な人が真面目に創ってる感じがとても良く出てます。ブログで見る限り第四号まで出てるみたいなので、各寺回って手に入れようかな。

本堂。びしっ と決まってるところと、若干田舎っぽさに通じる古風な感じが混じってるようで格好良い。

往復25kmあるかないか、たかだか3時間くらいの散歩でしたけど、ふらっと走るだけでこんなにいろんなことに出くわし、リフレッシュできるものです。今日は晴れてくれた天気に感謝。今度はどこに行こうかな~。

ロングスパン-長い目

アメリカ大統領選を見るたび、いつも、「アメリカは物事を短期的にしか見ない、日本は何事も長期的視野に立って考える」っていうの、嘘だろうと思う。

僕は外資系に勤めているので、世間が「外資系は短期的なモノの見方をする」と見ているのが判っているし、自分もそう思うところはあるけれど、アメリカは何と言ってもその国の根本のところである大統領は、4年に1度選挙かつ三選禁止。だから、アメリカは国の方向性をいったん選んだら、とにかく4年はそれでやり続ける。そして、腐敗を避けるため、三選は禁止している。それに引き替え、日本は、気に入らなかったらすぐにも辞めさせるし、気に入らないと言ってすぐに辞める人も出てくる。こんなんで、日本は長期的視野に立つ国民性なんて、恥ずかしくて絶対に言えない。

長い目かどうかは、絶対的な日数年数ではなくて、それぞれの物事に対して適正な期間というのがあって、それに対しての相対的な評価のはず。日本の「長期的視野」というのは、往々にして、やっていることが成功するアテもないけどそのアテを真剣に考えるのも面倒だから、単に時間稼いでるだけじゃない?ということが多いんじゃないか。要は、「いつ見切るか?」という判断がない。あたかも何事も永遠に続くと思ってるかのように。

でも、そうじゃない。国のトップは8年以上続くと硬直するし、知事が何回でも再選できるなんて、腐敗に対する自衛意識が低い国ということだと思う。「問題だと思うなら、選挙人がその候補者を当選させないはず」なんて言うのはほとんど詭弁だと思う。そんなこと言いだしたら、ほとんどの法律が要らなくなる。どんな犯罪にだって、犯す側にも応分のリスクがあるのだから。その一方、ビジネスマンは年単位ではなく一刻も早く成果を出すことを要求される。これもまた、時計の針が違うことを意味している。

イオンバイクは文化か?

1万円台の激安シティサイクルを買ってあまりメンテもせず錆だらけにする人と、高級ロードバイクを買って3,4年で乗らなくなる人、どっちが自転車を愛してる?そんなに差があると言える?

僕はロードバイクに乗ってるけれど、シティサイクルを否定する物言いには懐疑的。おおよそ、「自転車文化」を語る向きは、シティサイクルを目の敵にしてる物言いで、例えば、自転車文化が成熟しているヨーロッパではママチャリに乗ってる人なんていない、とか言うけれどそりゃ嘘で、ここ数年で何度かヨーロッパに旅行しているけれど、ママチャリはごまんとあるし、自転車を愛するヨーロッパでは放置自転車なんてないって言うけど、放置自転車もごまんとありました。それに、日本で街乗りレベルで自転車を楽しむなら、シティサイクル=ママチャリがいちばん快適なはず。そんなにスピード出す必要ないし、そんなに長距離走る必要もないし、専用のシューズを履く必要もない。

「自転車文化」を語る向きの言説に影響されて、イオンバイクのような激安シティサイクルショップを、僕も少し嫌悪してたんだけど、いざ実際の店頭を見てみると、直感的と言うか本能的と言うか、そういう部分では「ええなああれ、1台欲しいな」と思っちゃう。なんなんだろうこの感覚、と思ってじっと考えてみたんだけど、これは、低価格のモノに惹かれるというよりは、社会に浸透させようとしているものに惹かれるんだろうな、と思った。僕はとても平均的日本人なので、たぶん、普通の人びとも同じような感覚なんじゃないのかな、と思う。

「自転車文化」を喧伝する人達は、1,2年前から始まった「ブーム」をけん引して、今まではロードバイク・クロスバイクをメインにして、今年はやたらとシクロクロスを推してくる。そうやって、新しいモノを紹介して、新しい高額消費を誘引する。けれど、だいたい、僕たちは、こういうのが一過性の「ブーム」だと、自転車に限らず、日本に住んでいると本能的に知っている。なぜなら、実際、今、「自転車文化」を喧伝している中で、数十年前にも自転車ブームがあって、その頃こういうのに乗っててねえ、という向きが、結局、そのブームが終わって最近のブームが起きるまで、バイクに乗り続けていない事実を知っているからだ。

定着しないものは、ブームであって文化ではない。それを承知で手を出す訳だから、価格は安いに越したことはない。そういう日本の特性を理解したメーカーは、その理解度が製品デザイン・設計に出ているんじゃないかなと思う。

「一生モノです」なんて言って売っていて、それが実際に一生モノだった現場を、日本で僕たちは恐らく見たことがないと思う。よほどの高額商品なら別だけど、そういう高額商品も文化ではあるけれど、それはその価格帯の世界の中では一定の時に耐えうる価値があるから文化と成り得ているのであって、4,5年で終わるならそれもまたただの「ブーム」。

なので、僕は、いわゆるスポーツバイクだけを偏重する胡散臭い「自転車文化」を奉る人びとよりも、イオンバイクのほうが自転車文化の育成に貢献してくれると思うようになった。ただ、それも、イオンバイクに勤めている店員さんのレベルと熱意があっての話。物凄い知識量はなくていいけれど、「たかが自転車」みたいなのが透けて見える店員が多いようなら、やっぱりイオンバイクもただの「激安」ショップで終わると思う。

初めてのパッチでパンク修理

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パンクは何回もしたことあるのですが、パッチでパンク修理したことがなく、初めてやってみました。

パッチは応急処置という思い込みがあったのですが、結局、パンクする度に毎回スペアに履き替えてパンクしたタイヤは捨ててたので、一度、パッチで修理してみようと。

上に引用した、ゴムのりで貼り付けるタイプの丸パッチでやってみたのですが、コツが判らず以外と難しい。パッチを貼って、ビニールカバーを剥がそうとしても、パッチごとくっついてくるので全然貼れない。

結局、先にパッチを剥がしてしまって貼り付けるというブサイクな結果に。なんでも練習しておくものです。

「なぜ?」の嵐

ジェルタブの正しい使い方はこちら 

日本のTVCMは、ロジカルであるよりもイメージ重視、という印象は誰にでもあると思います。僕もそう思ってますし、外国のTVCMと違って、そのイメージ重視な作りの中に、独自の「広告文化」を育ててきたと評価もされていると思うのですが、「ん?待てよ」と思ったのが、「予洗い」という言葉の使い始めだったと思われる、ジョイ ジェルタブのCMです。

ジョイ ジェルタブのCM、ウェブで簡単に見つかるだろうと思ってたらどうしても見つからなかったので、そして、「某タレントの実演CMで有名な」というキャプションが見つかって、「あ~確かに実演やってたな」と思ったので、ちょっと今回言いたいことの例に挙げるのは相応しくなかったな、と思ってるのですが、TVCM、昔に比べて、より一層、ロジカルじゃなくなったな、と思ったのです。

昔のTVCMは、「それがどうしてそうなる?」という論理の十分な説明はないにしても、「有効成分ナントカが疲れに効く!」みたいな、いちおう、「その効果の元はこれなんです」という因果の名詞は言ってたような気がするんです。でも、(ジョイ ジェルタブのCMは実はこうじゃなかったっぽいんですが、あくまで例えばの話、)「ジョイ ジェルタブは予洗い要りません!」みたいな、「それなんで?」というとこを一切言わないで、「できます!」としか言わなくなったような気がします。

これは、世間の感覚にやはり敏感に反応しているのではないかと思うのです。今の一般消費者は、何ができるかしか気にしない。「なぜ」できるかは知ろうとしない、できなかったら「責任とれ!」と言えばそれでいい、と思っている節があるから。「できるってゆったやろ!」てなもんです。これは、返品OKが一般的になったことも後押ししていると思います。

確かに、スピード社会だし、モノの仕組みは複雑だし、スマホがなぜアプリ動かせるかなんてどう考えたって判りっこないし、そういうものが増えて、「なぜ」を問うこと自体が相当困難になっているとは思います。だけど、「なぜ」を省略したほうが効率的なように見えて、もし、できなかったとき、そのコストを回収するための様々なコスト(時間とか、請求の手間とか、交渉のストレスとか)は、結局高くついていることが多いと思います。なにより、「なぜ」を問わないことで、自分達が住む社会の思考能力が劣化していきます。当たり前のことが当たり前として作用する、安全で快適な社会は、ひとりひとりが律儀に「なぜ」を考える努力があって初めて成り立つと思うのです。

 

宝物

 「大切なことはいつも旅が教えてくれた」というようなコピーを通勤途中の路上で見た。確かに旅は大切なことを教えてくれる、それは疑いようのない事実だけれど、地下通路の天井にそれは延々と整然と並んでいて、押しかけるようなそれは全く「大切なこと」というありがたさとは無縁に見えた。結局のところそれは旅行会社のコピーだし、今会社に出社しようとしている俺の歩みには「大切なこと」はないと言うことですか、と少し子供じみた反発が、一歩ごとに増してくる。

 俺の宝物と言えば皿だった。皿が宝物と言っても、有名な産地の高級な焼き物という訳でもなく、一生モノと言われる高品質なものという訳でもない。どこにでも売っているポリプロピレン製の皿で、自分で腕枕して寝そべっている漫画のトラが描かれている。今みたいに、手ごろな価格でデザイン性の高い北欧家具が買える、なんて考えられない事実の話だ。中学生にもなってこんな皿使い続けさせるなよ、なんて思いながら、そのトラの絵を右回りに回せばトラが起き上がるように見えるので、そんな遊びをずっと続けていたような気がする。言うまでもないことだけど、なんの特別なところもない、使い勝手に細やかな配慮もされていない、ただ、皿としては最低必要な条件を満たしているだけ、というような皿を、気に入っているからこそ長く長く使い続けた、そのことこそが大切なことなのだ。

 どこかに行かなければ大切なことは手に入りません、という発想も好きになれなければ、どこかに行きさえすれば大切なことが手に入ります、という性根ももちろん好きになれない。なんでもない日常にこそ、大切なことは散りばめられているなんて暢気なことは言えない。ただ、誰かが唆すのに安直に乗ってしまうのが嫌いなだけだ。もし、大切なことがとても足を踏み入れにくい密林の中にあると言われれば、どうにかしてそこに行こうとするだろう。自分にとっての宝物を、誰かから決められたりはしない。

朱に交われば赤くなる

今の会社は、外資系のIT企業なのに、誰かが転職することを少し批難するような風潮がある。ほぼ誰もが、どこかから転職してきた人間なのにも関わらず。

確かに、お金だけを追いかけて、節操なく渡り歩く姿というのは、日本人の感覚的としては好ましくは思えないので、批難含みになるのはもちろん判るんだけど、最近、それもどうかなあと、しばしば、つくづく、思うようになった。

この夏以降、自分の身に起きたことで、いろいろと考えることが多かった訳だけど、仕事をする人間としては、やっぱり社外から欲しいと思われるようでないと、つまり転職できるような人間でないとダメだなあと、つくづく思うようになった。もちろん、以前からそう肝に銘じていたことではあったけれど、会社の中で愚痴に近い不平不満諦めの言葉を言うだけだったり、「売れればいい」的な言い草・姿勢が通るのでそう振る舞う人達に囲まれる内に、だんだんと内弁慶に毒されてしまっていたようだ。

年を取ると変わりにくくなるように、人間的な環境というのは変えるのはとても難しい。なるべく影響を受けないように自衛することと、世界を変えるか、さもなくば別の世界をもう一つ持つことだ。そして、その世界はもう開けている。

山越え

 僕は長い間、今晩が山という言葉を間違えていた。今晩が山というのは、今晩が助かるかどうかの正念場、今晩を乗り越えれば助かる、という意味ではなくて、今晩、ほとんど間違いなく終わってしまうということを、万に一つの可能性は可能性として残っているからそれで厳密に「山」だということで表現を和らげているのであって、今晩が峠という言葉とは、うっかり同じ意味だと捉えてしまうが、峻別するべきだったのだ。峠は、越えることができる。山と言ってしまったとき、それは越えようがないものなのだ。
 祖母を亡くした小学生の時、僕は「山」も「峠」も感じることができなかった。病室に到着したときには、祖母はもうこの世の人ではなかった。学校で給食を食べていた僕と妹は父が迎えに来て、母は先に車を飛ばしていたのだが、僕ら兄妹を連れて病室に入った父に「間にあわへんかってん」と涙を堪えて伝えた場面で、病室の記憶が終わっている。

 朝の通勤ラッシュの地下鉄のロングシートに、お爺さんが座っていた。結構乗り降りの激しい駅に到着して扉が開いてから、お爺さんは腰を上げた。そのお爺さんの前でつり革に捉まっていた僕は、お爺さんが鞄を整え始めていたので、次の駅で降りるんだなと察しはついていた。だから早めに身を開いて降り易くしたのに、お爺さんは電車が止まって扉が開いてから下車の動作に入った。他にも降りる人はたくさんいて、お爺さんが下りる道筋はできそうだったけど、それも乗り込んでくる人で早々に埋められてしまいそうだった。お爺さんはバランスを取って両足で踏ん張ってがっしと立ち上がると、まだ開いていた下車道を確かな足取りで進んでいこうとした。

 あのお爺さんは、今、山を登っている。それが毎朝のことなのか、その日の朝だけのことだったのかは、判らない。そうして、それを一瞬じれったく見てしまった僕も、確かに山を登っていたのだった。