奈良びいき、村田と生駒をテレビで観る

偶然、奈良が関係するテレビ番組を二つも観た。

 「課外授業 ようこそ先輩」に、ロンドンオリンピック・ボクシングで金メダルを獲った村田選手が。冒頭、「僕に教えられることはあまりないので」と言ってボクシングのトレーニングを軽く体験してもらってた。

 この回は、いつも観てる「課外授業」とちょっと視点が違うように感じた。いつもは、後輩である生徒たちを変えていく先輩の「指導」にフォーカスが当たってると思うけど、今日の村田選手のは、村田選手と生徒と、その「人」そのものにフォーカスが当たってるようだった。村田選手が恩師のおかげでここまでこれた、というエピソードを話した後、「出会い」について作文を書いて、と後輩に指示したら、「ママと出会えてよかった」という作文を発表されて壇上で思わず涙ぐむところとか。

 村田選手はオリンピック中も、そのインタビューも、オリンピック後の言葉なんかも全部好きで、かっこいい男だなあと、同郷にこんなかっこいい男がいて誇らしいと思ってたんだけど、番組の最後、後輩たちに「実家帰ってなあ~」と声かけられてた姿を見て、ますます好きになりました。

 「追跡!真相ファイル」の「119番通報にいま何が」には、生駒の消防署が。よく生駒消防署、取材受けたなあと感心。

  内容に関して。消防は、通報者とのやり取りを通じて、救急車の出動要請なのか、出動が必要なのかどうかを確認していると言うが、なぜそのようなことをするかというと、全ての要請を受けると過負荷・高負担であったり、いたずらに対処しなければならなかったり、つまり「出動させない」方向にインセンティブが働いてのことだから、そのやり取りの言葉も当然、「出動しなくてもよいですか?」という誘導に近くなる。
これは企業のクレーム対応を考える際と同じだが、「より熱心に要求することを、本当に困っているかどうかを計る基準とする」というのは、一見正当にも思えるが、結果平等の原則に反している。しつこく言えば何とかなるというのは、正当に見えて、実は「声の大きい者が勝つ」社会を助長している。
119に電話をして、「救急車が要りますか?」と問うて「要ります」と答えた人には、等しく救急車を出さなければならない。それが徒だったり、不要だったりした場合に、初めて何かのペナルティを加えればよい。もしくは、通常の救急車ではなく、低費用の簡便な「救急車両」を準備する、という方向で費用を抑えつつ出動機会を増やす方向が僕には正しいように思える。#7119を準備して、コールセンター的に、電話での判断の精度を上げようとするのは、いかにも日本的だけど、適切なコストのかけ方とは思えない。事は命に関わること、無用な電話によって緊急度の高い方の救急車要請に応えられないケースを減らすのがゴールなら、選別よりも、如何に要請にこたえるキャパシティを増やすか、それも低コストで、という方向のほうが圧倒的に正しいはずだ。

会社員の品格

ターゲット(ノルマ)達成のためなら、金のためなら、何をやってもいいのか?「それは道義が許さない」と反論するのなら、オマエは道義の為に死ねるというのか?-という極論の応酬。

僕は、結局のところ、この騒動というのは、「目に見えるものしか、論拠として認めない」というスタンスが根源だと思う。人間の活動は、目に見えるものだけで説明することは出来ないし、そもそも目に見えるものはすべて集めてこれていると思うことが傲慢なのだ。一応、その傲慢さは認識してかおらずか、「一面からの仮説」という前提がつけられることも多いが、その「一面からの仮設」を検証する過程で、何が失われるかを検証する試みはこれまで一度も見たことがない。

取引(先)も生殺与奪が繰り返されるのだから、次々と新しい会社が生まれ、ということはどんどんと投資が行われるマーケットにフォーカスし、投資が終わった会社とはオサラバする、というサイクルが最も効率的であることは誰の眼にも明らかだけど、ある一定の幅を持った時間軸の中で、そういった活動をしている団体が、多くの信頼を得ることができるかと言えば、オサラバされた会社の集合から三行半を突きつけられているのが現実だろう。長い時間の間に何が起きるのか、それを予め認識した振る舞いの暗黙知が「品格」である。

節操がなくても、羽振りを見せびらかしても、それで良いと思うならその生き方を極めればそれでよいと思う。その姿を見る、様々な人々の様々なまなざしに無自覚でいられるうちは。私はそのような道は選ばない。

ネット書店には一覧性がないのです

amazonとどっちを使うことになるかな?

amazonとの比較はともかく、hontoのネットストアが「3,000円以上購入で500ポイント進呈」という12/24までのキャンペーンをやってたので、折角なので買ってみようと思いました。ちょうど、『言語にとって美とはなにか』を買おうとしてたこともあるので。

『言語にとって美とはなにか』は1巻が¥780、2巻が¥740で¥1,520。あと¥1,480分何を買おう?さすがにジャスト¥3,000は狙わないけれど、¥500はみ出したら500ポイントのために何やってるのか分からなくなるので、ちょうどいいぐらいの金額の本を見繕うんだけど、これがなかなかうまくいかない。

「なんか欲しい本あったっけな?」と思い返しても数冊しか出て来ないので、勢いamazonのwishlistを見ることに。これが実店舗だとそれこそ山と本があるので偶然の出会いもあるんだろうけど、ネットだとせいぜい売れ筋と新刊で眺めるくらいしかやりようがない。

おまけに意外と¥1,500前後の本がない!どういう訳か¥1,470の本ばかりなのだ。10円足りない!(笑)そうかと思えば¥2,000を超える本ばかりで、おまけに中古で買えば500円以上安くなるので二の足を踏む。

結局、今回はキャンペーンが適用されるように買うのは止め。でもそうなると、hontoネットストアで買う意味ってあんまりない。だからと言ってamazonに拘る理由もないんだけど。実店舗でもネットでも買えてポイント貯められるhontoに片寄せしたほうがいい?ちょっと思案どころ。

美意識の到来

来年のテーマは「美」。もう決めた。

4041501067 定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
吉本 隆明
角川書店 2001-09

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思えば僕は造詣のない芸術の中でもとりわけ美術は全然解せなくて、素晴らしい絵画を見て「これは凄い」と感動するなど、そのくらいのことは出来るけれど、著名な作者とか歴史とかその作風や背景や意図や、といったことに全く疎いと言っていい。なぜ疎いかというと細やかな違いが判らないからで、大雑把に見てはっきり特徴のあるようなものは認識できるけれど、そうでないものは識別できなくて鑑賞できない。

そんな僕なので、デジカメもケータイのカメラ機能で十分とずっと思ってきた。ロードバイクで遠出する際、写真を撮りやすいようにとデジタル一眼を買ったけれど、それもどちらかというと「すぐ撮れる」という点を重視した買い物だった。

ところが、そんな僕が、ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真の違いに気づき始めた。奈良に住んでいるのでサイクリングの行先も神社仏閣が勢い多いんだけど、神社は取り分け違いがはっきり判る。社に漂う気配の映り具合が違うのだ。

このことに気付き始めたときに読んだのが、『プラスチックの木で何が悪いのか』だった。本物の木と見分けが全くつかない精巧なプラスチックの木があったとしたら、街路樹をプラスチックの木で代用して何が悪いのか。直感的には悪いと言うけれども言葉にするのが難しい命題。ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真も、解像度の差としてその命題が現れる。つまり、いくらデジタル一眼は社に漂う気配が映し出せているといっても、あくまで千数百万画素のレベルでの話であって、一億画素があればそちらにはより克明に映し出され、それでも肉眼に映る気配とは似て非なるもの。では画素数を問わない絵画なら話はどうなるのか。

ニーチェが最後にたどり着いた<価値基準>は「美」だという。僕は何かが美しくて何かが美しくない、という判断にはあまり興味が湧かなかったのだけど、ここにきて「美」に対する興味が大きくなっている。何が美しくて何が美しくない、という話は、相対的で主観的なものとして、相互認証的に「放置」しておくのが最もよい、という消極的な考え方だったところが、「何が「美」なのか」ということと、「「美」とは何か」ということを、突き詰めて考えてみたくなった。この、「美」をうまく言えないところに何かがある。だから、『言語にとって美とはなにか』の再読から始めようと思う。

来年は、僕にとって「美」を深く考えることで、そういう「絶対的な」価値基準から自由に物事を考えられるようになっている自分の思考を、一歩深めることができると思う。

THE BIG ISSUE JAPAN 205号 「スペシャルインタビュー 奈良美智」

再び、「孤独」について。

BIG ISSUEはここで買うと決めているドーチカで「最新号」と言って買ったら奈良美智。不機嫌な子どもと名前ぐらい知ってる、ですが、6年前の大プロジェクト「AtoZ」から震災を経て、今開催中の「君や 僕に ちょっと似ている」までの道のりが描かれていて、わずか3ページのインタビューだけど感動するところがたくさんありました。

人混みに紛れ、共同作業(「AtoZ」を指す)による楽しさと引き換えに忘れてしまったのが、一番のオーディエンスでもある自分自身だった、と奈良さんはいう。

最初に僕の作品に興味をもってくれた人たちは、あの学園祭のような身内の盛り上がり(「AtoZ」を指す)をどう感じたのかなと思ったんです

「共同」という、聞こえの良い、現代では誰も反論することのできないスタンスの内側に、「群れる」という否定的な弱さが忍び込むことを誰もが忘れている。奈良氏は、それを「本能的に人混みに紛れようとした」という言い方をしてる。

集団製作の中で失いかけた孤独な自分自身との対話。

自分は自分自身と向き合わなければいけない。自分自身と向き合っている人こそが、誰かの心にも働きかけることができる。自分自身と向き合っていない人が心を動かされた何かに、間違って心を震わされてしまってはいけない。それは、他の誰かにもまたよくない波を送ってしまうから。

それから、セラミック彫刻を選ぶのかブロンズ彫刻を選ぶのか、というところで、ひとつひとつその特徴とか向き不向きと自分のやりたいことを、丁寧に考えて前に進めてることを読んで、自分もひとつひとつへの思索をもっと徹底してやらないといけないと思いました。

LOSTAGE w/Z@奈良NEVERLAND 2012/12/16

 tが抜けてて「プレゼンス」になってるけどな!でもライブはめっちゃ熱かった!!

 「生活」に行けなかったので、今日のネバーランドはいつも以上に楽しみにしてたのです。朝、TRANSITの店主向井さん、マスコット吉田さんと競輪場ポタリングして、家に帰って投票に行って、ご飯食べて、という慌ただしいスケジュールの後、近鉄乗ってネバーランドに!

 来年2月に解散するZとの対バンということで、先にZが出てくるのかなと思ったら、先にLOSTAGE!遅めに会場に着いた割りに入ったらスカスカだったのに、適当なポジション取りしてしまって大失敗。とは言え、ちょうどフロア中央のポール際なので、ステージはよく見えました。

 五味さんは何をどうしたのか最初からシャウト全開でめっちゃ飛ばしてました。なんかあのキレたような飛ばし方の時ってよからぬ展開になるような…という不吉な予感が走り、案の定というか拓人さんを両腕掴んで「おい!おい!」ってな感じで揺さぶったり、おいおい…と思ったんですが別になんかまずいことがあったようではないようで、『裸婦』なんかはちょっとニヤついたおとなしめなカンジだったけど、全般的にはぶっ飛ばしたプレイでした。

 いちばん心に残ったのは、魚頭さんが参加した後のMCで、「この年になると、なかなか怒ってくれる人とかいなくなるんですよ、そのありがたみが」と魚頭さんに感謝を述べてたシーン。ほんとに使い古された言い回しだけど、叱ってくれる人がいる有難さは忘れてはいけないと思うし、自分はもう、誰かに叱ってもらおうなんて思ってはいけない地点にいるんだという自覚も忘れてはいけないなあと、フロア中央のポール際で激しく頷きながらその言葉をかみしめてました。

魚頭さんが「もう一歩前に来てみんな」と言った後に横になった女の子が猛烈にノリがよくて、根本さんがステージに上がって以降、会場のレスポンスがほとんどZに持って行かれてる雰囲気のなかで、LOSTAGEでこんなにノリのいい客が近くにいたことが今までなくて(LOSTAGEのワンマンでも!これは五味さんもいつも言っている・笑)、物凄く楽しくていいライブになりました!帰りのZIMAがうまくなったと思う(笑)。

ほんとに「孤独」は不幸なこと、なのか?-『ことり』/小川洋子

 日曜日経朝刊の書評で知って即日買って、一週間で読みました。

 その書評に、「世間ではやけに”つながり””つながり”と言われるが、『ことり』の小父さんの人生を読んで、孤独だった小父さんは不幸だったのだろうか?孤独はそんなに不幸なことなのだろうか?と疑問に思わずにおれない」というようなことが書かれていて、そこが、僕を即日買いに行かせた最も大きなポイントだった。

 ほんとに「孤独」は不幸なことなのだろうか?

 『ことり』の小父さんは、一日のペース、一週間のペース、一年のペースを大切に守りながら、独自の言語しか喋らない、鳥を愛するお兄さんと、そのお兄さんを亡くしてからは独りで暮らしている。小父さんは、心を許せる数少ない人びととの交流の他は、できる限り、人と触れ合うことからも遠ざかり、静かにペースを守るように暮らしている。
 この暮らし方は、現代人から見たら、変化を拒み、社交性もない、だから社会の構成員として何の貢献もない、望ましくない生き方と言われそうだし、人との交流を極力拒んでいる点で、つながりもなく、「孤独」で、不幸な人生のように映りそうだ。

 その小父さんの清純さと頑なさに、胸を締め付けられっぱなしで最後のページを読み終えることになるものの、僕は小父さんの「孤独」を不幸だとは一度も思わなかった。僕たちが住む現代社会は、大切なものを守るために、時に、排他的ではない形での「集い」を試みなければならない、というよりもそれを要請されるような社会になっている。だから、小父さんの生き様は、通俗的にはどんなに淋しそうに見えたとしても、現代社会に住む僕たちは、必ずや「手本」として心に留めておかなければならないひとつのスタイルなのだ。

 そしてもう一つ、"つながり"を価値あるものにするのは、「孤独」を尊べる者だけなのだ。「孤独」の価値を、「孤独」の意義を、「孤独」の理由を知らない人がつながっても、そこで生まれてくるのは欺瞞のエネルギーだけ。何かをやった気になるだけど、誰かに利用されやすいだけの。「孤独」を恐れない人たちの"つながり"こそが、本当の"つながり"なのだ。 

4022510226 ことり
小川 洋子
朝日新聞出版 2012-11-07

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街の本屋で本を買う - 2012/12/14 SORA Books 2ビル出発店

今年訪れた書店の中のナンバーワンかも。空港だけは、少し気取った雰囲気も似合う!

福岡空港第2ターミナル3階にある書店。朝、早く着き過ぎた地下鉄福岡空港駅で大きな大きな広告看板を見て、時間もあるしと足を運んでみました。

ターミナル2階から吹上を見上げると、SORA Booksが見えるのですが、その「空の上の書店」的な雰囲気に胸の中はちょっとどよめきます。エスカレーターで3階に上がると、右手に見えるカフェテリア「バンテルン」の奥に書店が広がっていて、足を踏み入れずにおれなくなります!

HINT INDEX BOOKでは、カフェ併設の書店なんて珍しくもなんともなくなったと書いたのですが、このSORA Booksはカフェ併設が魅力になってました。カフェではなくて、書店エリア内にも、コンセント付の座席が10席程度あって、ゆったり時間を過ごせる構成は満点です。
「カフェ」というものは、その空間があることで「落ち着いた時間を過ごす場所」というサインが発せられると思うけど、例えば東京駅など、あまり落ち着いた時間が流れないような場所にそういうものを作っても、ミスマッチというか。東京の人はあの時間の速さに慣れているのでオーケーなんでしょうけど、そうでない僕にとっては、「カフェ」があることで余計に落ち着かない空気を感じるのかも知れません。

一方、SORA Booksは空港という場所にある書店。今朝の僕のように、時間に余裕を持って到着するケースも多い場所で、そういう時間は、ぽっかりと空いた「余暇時間」。そういう時間を過ごしている空間に、カフェと書店が現れると、それだけでリフレッシュできます。

鞄にはもうすぐ読み終わる『ことり』が入っていたので、一泊出張の荷物が入った鞄をこれ以上膨らませ重くしたくなかったので本は買いませんでしたが、そうでなければ何冊も買っていたような、買う気にさせる書店でした。在り来たりなつくりのようで、導線に沿って動いたら、入ってほどなくの絶妙のタイミングで『世界の美しい空港』が目に止まるなど、ここはいい書店だと思います。 

街の本屋で本を買う - 2012/12/09 近鉄百貨店奈良店 K' BOOK CENTER

思い立ったが吉日。そんなときは割とすべてがうまく回る。

 昨晩、「最近、どうも記憶力が弱っている。ちょうど、小川洋子のあの話みたいに…」と、『博士の愛した数式』を思い返していたら、今朝の日経朝刊の書評で小川洋子の新刊の案内が。一読して即読みたくなった、初雪の朝。

 で、いきつけの自転車屋TRANSITに、今日はホイールを買うのでロードバイクではなくて電車で向かうその車中、「そう言えば、KIPSクーポン、入手できてなかったな」と思いだす。PiTaPaの支払カードのKIPSカードのポイントが溜まってるんだけど、KIPSクーポンの発券機が難波にあるとHPに書いてるけどどうしても見つけられずまだ発券できてなかった。ついでだから、西大寺まで行って発券して、近鉄百貨店で買ってしまおう。

 西大寺で駅員さんにクーポン発券機の場所聞いて(南改札のすぐ脇のサービス室?の中にあった)、溜まってたポイント分発券して、近鉄百貨店行って『ことり』購入。ちょっとしたきっかけはセレンディピティにもつながるので、侮ってはいけないし見逃してもいけない。

4022510226 ことり
小川 洋子
朝日新聞出版 2012-11-07

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初雪、フラットペダルで往馬大社

新兵器「プラットフォーマー」を買ったので、試走に、家から2km強ながら行ったことのなかった往馬大社まで走ってきました。

プラットフォーマーというのは、ロードバイク用のビンディングペダルをフラットペダルに変えるパーツで、SPEEDPLAYというビンディングペダル専用のものです。普通の靴でもビンディングペダルを踏めないことはないのですが、とりわけSPEEDPLAYはペダルが小さくて、少し長く乗ると足の裏が痛い。できたらバイクを日常使いもしたいな、と思ってるので、プラットフォーマーを買いました。で、今日はジーパンに普通のパーカーにスニーカー、という普段着で、行ったことのなかった往馬大社へ。

往馬大社は創立年代不明というほどのたいへん古い神社だそうで、大神神社と同じで山を御神体として祀る神社だそうです。その山とはもちろん生駒山。同じ「いこま」でも「生駒」だったり「往馬」だったり、表記が複数あるのが奈良の地名のおもしろいところ。表記の変遷とか調べるとおもしろい。 

 

鎮守の森は奈良県の天然記念物に指定されているそうです。社の麓のこの鎮守の森を見上げると、生駒が如何に宅地開発された元「山」の街なのかというのがわかります。

 

今日は初宮詣の日だったようで、たくさんのご家族が来られてました。そんな中、本殿の前で柏手打つのも気が引けたので、石段途中の賽銭箱にお賽銭をあげて、境内を後にしました。

 

プラットフォーマーは、不思議なもので、ビンディングシューズ履いているよりもよっぽど安全なはずなのに、いつもと違うというだけでなぜか不安定に、特に漕ぎ始めが不安定に感じたものの、普通のスニーカーで十分乗れる普通のフラットペダルに早変わり、でした。ウィンドブレーカーを着て帰りの2kmを走るだけで十分体が温まりました。初雪の降った奈良ですが、ポタリングは寒くても楽しめるいい遊びです。

 

プラットフォーマーとはこれです:

B004GGOI0C スピードプレイ プラットフォーマー ホワイト(ZERO用)
スピードプレイ

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