だから「本」を読まなければならない

ネットを巡回していて、以下の記事が目に留まった。

たった1記事で8万人に読まれる文章を書けるようになるライティング術

全然アクセスのないこんなブログを書いているので(笑)、そのタイトルはもちろん興味深いです。

一読してみて、キモになるのはここだと思いました:

 

「文章」と「コピーライティング」の最大の違い

 

この違いを理解するためには、まず、雑誌や書籍など文章力が必要とされる「紙のメディア」と、ブログやサイトなどコピーライティングが必要とされるWEBメディアの違いを抑えておく必要がある。

 

単刀直入に言うと、両者の違いは以下の通りだ。

 

  • 紙媒体を読むきっかけ:お金を払って読んでいる
  • WEB媒体を読むきっかけ:たまたま目にとまった

そして、この記事を読んですぐに頭に浮かんだのは、「8万人に読まれるブログが書ける」ではなく、「だから『本』を読まなければならない」と言える根拠がここにある、ということでした。

つまり、Webというのは、「いかにフックするか」に血眼になっている文章の集積体。中身がないとはもちろん思わないけれど、「なぜその文章を読みたいと思ったか」と言うと、自分の内面からの関心に触れたというよりも、向こう側から「読めよ、読めよ」と言われて読んだ、というケースが圧倒的だと思います。

つまり、「読み」がほとんど受動的。

一方、本を読むのは、どの本を読むか、というところから、受動的では要られない状況になっています。もちろん流行りものや話題先行の本もあるけれど、そういった本ではなく、自分の関心に沿う本を読むためには、自分から「選択」しないといけない。

この、「向こうから与えられる選択」か、「自分から取りに行く選択」かが、「読み」に与える影響は果てしなく大きいと思うのです。

だから僕は「本」を読み続けます。

    「そんなこと言ったっけな?」

     志村けんがコントで手にしていた新聞が「原発さえなければ」と書かれた記事だった、というのが話題になっているのをfacebookで見ました。原発反対の方々に好意的に紹介され、「さすが志村さん」と言った論調がほとんどですが、僕はこれに若干違和感を持っています。

     僕はfacebookにアップされていた静止画像を見ただけで、コント自体を見てませんしyoutubeでも一度検索しただけだとなさそうだったので、推測で言うしかないのですが、まず、その新聞を選び、「原発さえなければ」と書いた面がテレビに映るように、意図的にしたのかどうかが不明ということと、意図的だとして、それが志村けんの意図なのか、その他の関係者の意図なのかが不明ということです。

     「原発については物議を醸すのが明白なのに、敢えてテレビに映る様にしている時点で、それは意図的なものと言っていい」という推測もありますが、そういう決め付けられ方をされた場合、志村けんサイド(および関係者サイド)は、「いえ、あれは偶然あのページだっただけです。何の意図もありませんでした。ごめんなさい。」と申し開くこともできる状況にある訳です。

     そういう、「言い逃れ」できる状態にある”発信”を、無闇に持ち上げる風潮というのはどうなのだろうと思います。コントを一通り見れば、あれは「反原発」を暗にメッセージしようとした意図的な新聞の見せ方だったと判るような行動があるのかも知れません(例えば、コントの流れとは無関係に妙に新聞をかざす、とか)が、そういったことのない状況で、メッセージをくみ取るというのは危険でさえあると思います。昨年末の紅白歌合戦で、斉藤和義が「NO NUKE」というギターストラップでステージに立ったのとは、訳が違うのです。
     文学は、言葉として明記されていない部分のメッセージを読み取っていくものですが、言葉として書かずにメッセージを伝える際の作法のようなものはあって、「これはこのように読めるね」という積み重ねで成り立つもです。文学の読み方というものの視点からこの志村けんのコントの取り上げられ方を見ると、違和感を禁じ得ないのです。

     仮に原発推進派の有力者から志村けん(および関係者)が「けしからん」と詰め寄られたときに、「いえ、あれは偶然です。何の意図もありません。不用意でした。私は原発推進派です」と詫びを入れられるようなやり方で、「原発さえなければ」というメッセージを発信していることを、本来であれば、原発反対派の人は批判してしかるべきだと思います。原発反対というのは、そんな甘いもんじゃないぞ、と。原発反対という主張をすることは、そんな腰砕けな、腑抜けたやり方でやっていいもんじゃないんだぞ、と。
    何かモノを言う時に、安全地帯からモノを言うというのは、絶対的に間違っていると思います。そういうモノの言い方を誉めそやすスタンスは、改めなければいけないと思います。特にそれが著名な人であったり、コミュニティの大小を問わず有名人であったり影響力を持っていたりする人であれば、なおさらです。 

    見栄え

     昔からよく言われることではあるけれど、見栄え重視のプレゼンテーションというのがあまり好きではありません。世の中はいつからか「プレゼンテーション至上主義」で、いかに上手に見せるか、が最重要であるように叫ばれて久しいですが、どうしてもその風潮が肌に合いません。もちろん、自分の考えや想いを人に伝えるために、プレゼンテーションは工夫に工夫を重ねなければならないということは理解できています。そういう仕事をしていた時期もあります。そういう意識を高く持てば持つほど、「見栄えはいいけれど、中身は実はほとんどないな」というプレゼンテーションが判るようになるのです。

     特に自分が所属しているIT業界では、日本は昔から、導入後のITシステムの効果を計測することは稀中の稀なので、提案段階ではROIなんて言いたい放題でやっている人がいたりします。そして言いっぱなしで、実際にそのROIが達成できたかどうかは確認されることなく、最初に謳った人は担当が変わっている。そういう繰り返しに毎度毎度やられる企業側にも問題があるのかなあと、つまり、担当している人もそれほど長期的に物を見ていないか、今までと大して変わらなければとりあえずよい、という事なかれ主義か。パフォーマンスを継続して確認しないことで、大きなロスが生まれるものだといつも思います。

    アイ・キャッチャー

    買ってきました!

    営業として最も簡単なことは、アイ・キャッチすること。何故かと言うと、実際に売らなくてもいいかな。売らなくても、「お客様の気を引きました!」というだけで自分の成績になる。これほど楽な商売はない。

    そして、そんな楽な商売をするために組織されたチームは、自分が「これ」と見定めたお客様に攻め込んで行けることが多い。こんなおかしな話はない。自分の担当という範囲も何もない中で、「ここ売れそう」という予想だけで、どこにでも行ける営業がいるのは、褒められた話ではないと思う。

    アイ・キャッチするのが専門の人間に、お客様も通常なら心を開かない。なぜなら、長期間付き合える相手ではないと判っているからである。

    お客様にとって、訪問されて意義のある人間というのは、最低要件として、お客様を担当している人間か、製品のスペシャリストかのどちらかで、いわゆる「遊撃手」のような、どこに行ってもいいし、何をしゃべってもいいんです、みたいな人間が訪問してきても、おもしろい話を聞けたと思ってくれるだろうけども、ビジネスが起こることは稀。それでも、えり好みをして訪問すれば、お客様側に切迫した要件があって、そんな「遊撃手」でもそれなりにお役に立てる可能性はある。

    しかし、大前提として我々はお客様に何か価値をお届けしたい。お客様に価値を提供するためには長い期間のお付き合いが必要で、それには組織の人間は「お客様付き」か「製品付き」かのどちらかしかない。そのどちらでもない人間がどれだけいろんなことを語れても、それで勝率が上昇することはほとんどないと思う。

    『「反核」異論』/吉本隆明

    ところが日本人の社会って依然として情緒だけで動いちゃうね

    鮎川信夫氏のこの一言だけで十分なのかも。

    この一言は、日本での言論というのは、言論を通じてどこかにたどり着こう、相手から発せられた意見や反論なども取り込んでさらに先に行こう、という態度ではなくて、あくまで自分の立場からしか物を言わない、自分の立場に固執し、自分の立場を守る目的での言葉しか言わない、だから情緒だけで物を言ったり動いたりしかできないよね、という文脈で述べられたもので、ほんとうにその通りだなあを、わが身を振り返る訳です。

    『「反核」異論』については、「反核」そのものに対して否定を投げかけるのではなく、「反核」に至る過程-つまり、当時のソ連がポーランド「連帯」弾圧を覆い隠すために作為的に巻き起こしたものだということを見抜けずその作為に乗っかってしまうことへの批判と、「反核」を謳うのであればアメリカだけでなくソ連も断じなければ筋が通らないではないかという批判、この二つが主軸。ここで思うのは、『「反核」異論』という見出しだけで、「けしからん」というリアクションを返すような、言論的に薄っぺらく弱弱しい状況に現在もなっているんじゃないか、ということ。自分と異なる意見を述べそうな人が出てきたときに、「なぜ、そういうことを言うのか?」という想像力と、その立場を取り込んでいこうとする足腰が、どんどん弱ってきている気がする。

    あと、本筋とはちょっとそれますが、

    大部分の労働者は、労働者としてのじぶんというものよりも、消費社会の中で背広をきて遊びに行くときのじぶんを、じぶんと思いたい率のほうが多くなってきているのではないか

    というところ、こう書かれた文章を読むと「当たり前でしょ」と思うけれど、「当たり前でしょ」と思うくらい、適格に書けているところが凄いなあと。そして、それが消費なのか、消費ではなくとも「労働」に費やしているのではない時間帯なのかの違いはあると思うけれども、とにかくそういうときのじぶんを「じぶん」と思いたい率は本著か書かれた時代よりも現代の方が更に高まっていると思われるのに、近年とかく「仕事、仕事」と言われるのは、高度消費社会においてはそれはやはり「退行」なのではないか、と本著を読んでおもった。これは『暇と退屈の倫理学』を読んだ時にも思って整理仕切れなかった。高度消費社会はグラフの頂点で、ここから緩やかに生産社会に戻っていって、その結果、「じぶん」らしい「仕事」をする社会に、復帰していくのだろうか?それは「退行」ではないのだろうか?

    B000J78L32 「反核」異論 (1983年)
    吉本 隆明
    深夜叢書社 1983-02

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    もう人生で二度と見ることのない水仙

    私は仕事柄、人よりも少しだけいろんなところに行く機会を貰っていて、いわゆる「地方」に行く機会も少なからず貰っています。ふだん仕事をしている大阪と違って、地方は(まあ、住んでいる奈良もそうなんですが)交通手段がそう便利ではないですから、電車はおろかバスに乗るのにも10分20分歩いたりすることは珍しくないです。

    普通はタクシーを呼んだりレンタカーを借りたりするのでしょうが(もちろん私もそうすることが多いですが)、時にふと10分20分歩いてみます。さぼっていることにならない程度に。そうすると、都会のマンション街を通るのとは全然違う、生活感満載の住宅街を通ったりします。都会のマンション街と違って、そんな住宅街を真昼間に通るサラリーマンいないと思うので違和感満載です。

    二十代の頃は、そういう寄り道をして、「ああなんか面白いなあ」と思っただけでした。四十歳の今は、「たぶん、ここを通ることはもう人生で二度とないだろうなあ」と思うことが増えました。もちろん、ここに来た理由であるその会社様との仕事が進めば、近々また来るかも知れないですが、その時は社用車で来るかも知れないし、帰りはタクシーを呼ぶかも知れない。ましてやわざわざ、住宅街を縫って表通りに出るようなことをするかどうか、判らない。

    広がる田んぼの先に住宅地が並ぶ狭い道を抜け、用水路沿いを歩いていたらふと目に飛び込んだ水仙。なんで自分は今ここにいるのかなあという妙な感覚と、いつもは自分はいないそこに流れている時間と、一生のうちに一度も見ることのない景色と。なんとなく写真を撮りました。

    あなたはシェアする「不便」を引き受けられますか あるいは図書館の凋落

     職業にしている事柄について書くのはある種のリスクを伴いますが、やはり逃げる訳にはいかないだろうと思いまして、書いてみようと思います。facebookで國分功一郎さん(『暇と退屈の倫理学』の著者の方)が、「大学の成績管理システム(?)がとてつもなく使い辛い」とポストされていたのを見て思ったことを書きます。

     掻い摘んで言うとこの件は、「ユーザインターフェースがまるでなっていないシステムの使用を、ユーザが強制されている」という話なのですが、システム構築側にいる僕の、システム構築側の立場の感想としては、「そりゃそうでしょう」です。だって、そのシステムを購入するのは、誰ですか?

     我々システム構築側は、企業なり大学なり自治体なりにシステムを御提案しますが、そのシステムの購入の判断は最終的には「費用対効果」と言った類に収斂されます。当たり前です。高いお金を払って、役に立たないものを誰も買いたくないです。問題は、この費用対効果の検討のとき、「実際に使用する人の手間」といったコストが反映されない場合がある、ということです。社長の立場からすれば、今まで満足に出来ていなかった管理会計が日次ベースで更新されるなら願ったり叶ったりでしょう。それを実現するために、社員は実はエクセルでちまちま明細を入力しなければならず、そのために日々の業務が圧迫されても、そこには目が行かないかもしれません。

     話はここで、「今まで通りのフォーマットでなければ、システム更改を許さない」というスタンスの問題と、「エンドユーザの不便なんて気にかけない、購入の意思決定ができるポストが好感するメリットを謳え」という売り方の問題に分かれるのですが、実際の利用者の利便性を向上するようなシステムを設計・提案したところで、自分達の提案が採用される確率が飛躍的に上がることはないことが多いです。なぜなら、その「きめ細かい」構築に掛かる費用が、意思決定者に評価されることは少ないからです。

     例えば、市役所の窓口の何かのシステムがあったとします。それが、年度末にはいつもすごく待たされるようなシステムだったとします。その年度末のピークに合わせて、今まで2つだった窓口を3つに増やしました。この施策は評価されるでしょうか?結構な確率で、「税金の無駄だ」という意見を言う人が出てくると思います。年度末のピークがどれほどかとしても、残りの11カ月は無駄になる訳です。 システムの現場でもこれと同じようなことが起こります。年度末だけ人を増やしても、そのシステムが3台なければ意味がないのです。かくして、システムを実際に利用するユーザが、システムによって業務改善が図られないケースが生まれます。

     どこに、どれだけ、どのようにお金を注ぎ込むかというのは、事ほど左様に難しい話だと思います。会社という団体にとって、どこにお金を注ぎ込むことが、会社全体の利益になるのか。同じように、日本という国にとって、どこにどのようにお金を注ぎ込むことが、全体最適なのか。システムを実際に使う人にとって最も使いやすいに越したことはないのですが、それよりも全体最適になるお金の使い方があるかも知れない、訳です。

     この話を考えるとき、いつも、1,2年前に大流行りした「シェア」について思います。最近、あんまり聞かなくなったような気がしますが、それは、「シェア」というのが、詰まるところ、不便を引き受けなければならない仕組だということに、みんなが気付き始めたからではないかと思います。ひとりひとりが対象を占有するのではない仕組ですから、自分が使いたいときに使えないかもしれないという不便を内包していることは当然なのですが、「シェア」が流行したときには、今の自分の利便性を落とさず、所有コストといったわずらわしいものからだけ、解放されると勘違いしていた人が結構数いたんじゃないかと思います。これは知識に関しても同様だと思います。誰彼かまわず、「これ面白いよ」という情報をシェアしたところで、その有用性はだんだん担保されなくなります。「シェア」したい人が、一方的にその思いで押しつけているだけで、それが本当にシェアに値するものなのかどうかがどんどん判らなくなります。

     この位のことは、そのシェアというシステムをとっくの昔に実現していた、図書館という存在の凋落ぶりでも最初から判っていたことだと思います。あれほどの情報がシェアされているというのに、図書館をその目的で使う人はあまり増加しません。そして、図書館自身はもはや、本の魅力だけではその存在を維持できなくなっています。本筋を離れたところでの集客は、いずれ必ず鍍金が剥がされるか、自らの姿を大きく変えさせられるかのいずれかです。図書館がそれを願ってやっていることであれば、それはそれでいいのかも知れません。

     今、日本が求められているのは、どうやって融通し合って生きていくか、という仕組みの再構築で、そこには「シェア」の概念が含まれていることは自明です。保険だって年金だって言ってみれば「シェア」の一形態だと思います。その「不便」の引き受け方を真剣に考えていないことが、社会の停滞に繋がっているのではないかと思います。

    『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』/ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール

     はじめて電子書籍をリリースして、実感も伴ったところで。

     基本的に僕は紙の書籍が無くなるとは思ってないし、紙の書籍がいいなあという思いも持ってるけれど、盲目的に「本と言えば紙だ」みたいなことを言う人には少し白けてしまう。電子書籍の利便性というのは間違いなくあるし、そもそも、本と言うものが歴史に登場するまでは知は口承だった訳で、その時代には「本って何だよ本って。口承だろ、口承」と思われていたはずなのだ。ノスタルジーにしがみつく姿勢は好きになれないです。

     本著は言わずと知れたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが、お互いの家を行き来して行われた対談だそう。「もうすぐ絶滅するという」というタイトルは原タイトルに忠実な訳ではないようだけど、「そんなことちっとも思ってないよ」という空気が出てて、本著によくマッチしてると思います。

     印象に残ってるのは、図書館が全焼するという話がしょっちゅう出てくること。書籍が燃えてしまうということのイメージと、それの象徴的な意味と、そんなこと全然厭わないよ、という3つの軸が展開されるところが面白い。書籍と言えば知、というシンボルと、収集対象、という観点とがあって、めまぐるしく入れ替わる。それと、書籍で興味のあるのは、愚説や嘘の類が書かれているものだ、という箇所。美しいものや優れたものを追いかけていては、人間の知的営みのごく一部しか触れられない、という角度にははっとしたけれど、後半になるにつれて、徐々に若干インテリのスノッブな感じが出てきて語るに落ちたかな、という感じでした。

     でも、書籍の何たるかを考えるには好著だと思います。

    4484101130 もうすぐ絶滅するという紙の書物について
    ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール 工藤 妙子
    阪急コミュニケーションズ 2010-12-17

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    『カジュアル・ベイカンシー 突然の空席』/J・K・ローリング

    現代の現実社会が舞台でありながら、『ハリー・ポッター』よりも娯楽小説な読後感でした。

    と言いながら、実は『ハリー・ポッター』シリーズは、本で読んだことないんです

    ストーリーとは別に(やはりストーリーテリングが巧みなので、筋を見失うことなく読み続け読み進められますが、起伏が激しい訳ではなく、ラストも静かに幕を引くような印象があります)、非常に興味深かったのが、各章の始めに書かれている、『地方自治体・自治組織の運営』という書籍?からの引用。

    Ⅱ:
    p355「自発的な団体の弱点 そのような団体の主たる弱点は、設立時の困難に加えて分裂の可能性が少なくないことである」
    p379「貧困の救済 生活困窮者の利益になる贈与は・・・慈善行為と解釈される。また生活困窮者への贈与は、たとえ付随的に富裕者の利益になる場合においても、慈善行為と解釈される」 

    チャールズ・アーノルド・ベイカーで検索しても『地方自治体・自治組織の運営』で検索してもなーんも出て来ないので、学の無い僕にはこれが実在なのかフィクションなのか区別がつかないんですけど、それにしてもよく書かれた文章だと思います。

    「自発的な団体の弱点は、分裂の可能性が少なくないことである」これは、地方議会等を思い描いて堅苦しく考えなくても、身近で作ったサークルとかグループとか、作らなくとも自然発生した集まりなんかでも容易に思い当たる。これを、どうやれば維持していけるか、と考える方向もあれば、以前読んだ『来たるべき蜂起』のように、コミューンは必ず分裂されてしかるべきものだ、と、コミューンの本質を大事にする方向もあれば、僕のように端から単独に重きを置くという方向もある。どれかが何かから逃げている、という訳ではないと思う。

    「生活困窮者への贈与は、たとえ付随的に富裕者の利益になる場合においても、慈善行為と解釈される」 これなんかは流石によく考え抜かれているなあとほとほと感心しました。日本だと、行為の結果がどうあれ、それを行うに至った考え方がヨコシマなら許されないとか、「付随的に利益」があるなら「汚い」とか言い募る風景がすぐに思い浮かぶ。全方位的に、抜け穴なく評価する姿勢はとても大事なことだけど、全方位的に評価した結果、総じて「どう」なのか、ということを判断する意識が、日本の民主主義には欠けていると思う。

    4062180227 カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 1
    J.K.ローリング
    講談社  2012-12-01

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    4062180235 カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 2
    J.K.ローリング
    講談社  2012-12-01

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    友を訪ねて二十五里

    大学時代からの親友に会いに、津まで走ってきました。一里=3.9kmなので二十五里だと若干少な目ですが、語呂がいいのと謙虚に行こうということで。

     

    彼は桑名在住で、走ったことないルートだし丁度いいかと思っていたのですが、奥さんの出産があって週末は津にいるということで目的地は津。正直、津に向かうルートは結構走ってて飽きてたのですが、伊賀上野から津への163号は走ったことがなかったのでこのルートを選択。伊賀上野までは、前回の伊勢行で走った369号→県道4号から25号というルートを。月ヶ瀬梅林を通るからなんですが、やっぱりちょっと早かったです。

     

    15km地点。朝8:30くらいの太極殿。

     

    27km地点。たぶん、369号のピーク、円成寺手前だと思います。下りで路面に雪はちょっと怖いですが、身に染みる寒さの中を走るのは嫌いではないのです。

    ただ、足先の冷えはやはり厳しい。太腿や脹脛の冷えはスパッツ等で改善できるけど、足先の冷えはなかなかよい方法がありません。シューズカバーも買いましたが、あんまり効果が感じられず今回はしなかったのですが、しないよりはしたほうがましだったかな~と後悔。柳生に着いたところでシューズ緩めて陽に当てて休憩して冷えと痺れを取りました。

     

    42km地点。月ヶ瀬梅林は(いちおう事前にHPでまだ蕾というのは見てたのですが)やっぱり蕾でした。369号のアップダウンを終え、10:40位。だいぶ陽が射しコンディションがよくなってきた頃です。

    しかし、ここから県道4号に入り、名張川沿いを走って25号に合流して伊賀上野まで出る、平坦の約20km、今回のルートでいちばんフラットと思っていたこの区間がいちばん辛かった。GARMINの走行ログを見ると、アベレージスピードが他の区間に較べて著しく低い訳でもないので、疲労感だけかも知れないけど、回せなくて辛いと感じてたのは事実で、太腿の前の痙攣が収まらなくなったこともあって一度停車してサイクルチャージを摂取。サイクルチャージはほんと短時間で覿面に効きます。

     

    60km地点。お昼は伊賀上野の「文雅堂」の白かげラーメン。醤油豚骨です。走り疲れてるとラーメンは避けたいと思うときもありますがこの時は行けました。でも、胃腸も疲れていることは経験上よく知ってるのでよくよく噛んで食べるよう心掛けました。あと、水分で胃が膨れるのも辛くなると知っているので、スープを飲みたいのも我慢。12:00頃出発、後半戦!

     

    伊賀上野から163号に入り、新大仏寺まで3%~4%の登りが約20km続くので、この区間がヤマと思ってたのですが、サイクルチャージとラーメンでエネルギー補給したからかお昼休憩をはさんだからか、全く辛さもなく退屈感もなく走り切れました。足が回転についていけずペダルをカンカン言わせることもなく。ただ、お尻がめちゃくちゃ痛かった!インナーパンツのパッドが大分へたったことを痛感。

     

    78km地点。新大沸寺です。新大佛寺は真言宗智山派のお寺で、全国七か所の東大寺別所の一つだそうです。大門には真っ赤ですがちゃんと阿形・吽形がいます。

     

    向かって右が大仏殿。中にはちゃんと縮小版の大仏様が。お参りしましたがもちろん撮影は遠慮させて頂きました。御朱印帳持参でしたので、初めて県外の御朱印を頂きました。それが東大寺別所というところにちょっとご満悦。

    ここまで来たら、後は下るだけ!163号をひたすら下ります。長野峠越えでは寒さにびっくり。積雪もあり、登ってきたのに体が瞬時に冷えていくのに驚いたのを覚えています。津市街に出ると海が近いからか吹きさらしでは猛烈な向かい風でちょっときつかったりしますが、既にお昼過ぎで温かいので気持ちよく走れました。

     

    102km地点。津に到着!学生時代もあんまり行ったことのない(笑)津城跡で記念撮影。振り返ってみると、津に出るならこのルートがいちばん楽かも。

     

    という訳で、ツーリングについての箇条書き:

    • 50km前後で足が止まるのは、スタミナの問題もあると思うけど、朝ご飯の量が足りてないからではないか。
    • シューズカバーはないよりあったほうがましかも。
    • ハンドルが若干送り過ぎのような気がする。調整。
    • 登りを楽にするためにリアの空気圧を、履いているタイヤでは固めの90psiまで入れたが、平地ではやっぱり響いて厳しかった。
    • 太腿が冷えることに関してはやっぱりこれといって解はない。冷えるもんはしょうがない。強いて言うと、引き足のときに攣るので、今はサドル高をロングライド用に低めの楽なポジションにしてるのをちょっと上げてあげるくらいか?

     

    そして再会したツレと、母校を見学するも冬休み中だし学食系はまったく空いてないし学部校舎も受験中とかで入ったものの追い出されるしで、毎度毎度母校訪問は散々な目に。

    ツレは少し時間を取ってくれるということで、近くのファミレスで晩飯。まあ細かいことを改めて書くのも骨が折れるので書かないけど、最近自分に言い聞かせる言葉として、ツレが「キれるな」、オレが「謙虚に」と言ったのがいちばん印象に残った。表現は違えど、そのエッセンスは同じだと思う。考え抜くこと、容易に投げ出さないこと、自分自身を知ること・判ること。同じように歩みを進めている、気心のあう人間がひとりどこかにいるというのはこの上なく幸せなことです。