スピード

言わずもがなのスピード時代で、どれだけノスタルジーに訴えたりスローフードやスローライフをカンファタブルだと訴えたりしても、スピード感がなければ叶えられないのである。自分一人が「僕はスローフードを実践するのであります」と宣言してスローフード生活を送る分にはスピードも何もないけれど、何かひとつ自分の信じるものが社会にとってよりよいことだと声に出すとき、それは叶える意思がなければただの言いっ放しで、ただの言いっ放しを是としないのであれば少しでも形にするアクティビティが要る訳で、少しでも形にするためには今の世の中スピード感は必須。なぜなら、スピード感がなければ、他の主義主張に瞬く間に追い越されるからだ。

僕が勤めているIT業界は輪をかけて言わずもがなのスピード業界な訳ですが、「どうやってスピードを出すか」というところには実は小さいようでとても大きな差があり、その差に気付いていない人は、仕事人として有用な成長を遂げていないと思う。金を稼ぐという意味でのビジネススキル、それこそ「いかに手早く金を稼ぐか」というビジネススキルには長けていて、変化の激しい昨今、これはとても有用なスキルだけれど、その表層的なディールとコミュニケーションの世界に身を置きたくはないなと僕は思ってしまう。

 で、小さいようで大きな差というのは何かと言うと、スピードの出し方について、「より早くできるようになってスピードを出す」のか、「適当に端折ることでスピードを出す」のかの違い。

 例えば大きな話で言うと、買収なんかは「金で時間を買う」訳で、ある意味では端折ってる。でも、事業というスケールだと一から全部やってたら間に合わないケースはままある。なので金で解決する。けれど、個人単位でのアクティビティのディティールのコミュニケーションにおいて、その間を端折って端折って、「こっちのほうが話の通りがいいので」みたいなことをやっていると、その歪は取り返しのつかないことになったりする。何より、それは全然、スピードを出せている訳ではない。

 コンテキストをどれだけ豊富に、どれだけ大量に理解することができるかが勝負の分かれ目だと思う。なのに、とにかくコンテキストを端折ろうとするのは正確な業務遂行が徐々にできなくなってしまうことになる。ややこしい話を、いかにややこしいまま聞けるか、いかにややこしいまま話せるか。それは徒に時間をかけるということではなく、うまく編集してうまくそのまま伝えることができるか、聞くことができるか、ということで、けしてどう「省略」するか、ということではない。この意識とスキルは、ビジネススキルとしてよく取り上げられる「エレベーターピッチ」のような、サマライズの方法と似ているようで実は違っていて、どちらかというとアートの領域に近いことのような気がしている。でも、これがうまくできる人たちが多い集団のほうが、より優れたビジネスのアウトプットを残しているように思える。だから、このあたりが、教えることのできないビジネスの「才能」みたいなものなのかな、と思う。

いつか僕らも大人になり老けてゆく

もたもたしなかったご褒美は、ライド中は雨が降らなかったこと。

僕は今、若さを喪失する怖さと戦っている。自分自身で選ぼうとしている、この先の自分自身の人生の歩き方と、自分自身の人間としての成熟のために、心がけている鍛錬は、ある意味で若さからの卒業を求めてくる。若さを忘れないままで成熟することももちろんできると思う、けれど若さを卒業するほうが成熟への近道であることは否めないと思う。

若さ。微かにでも心を動かされた現実に、ずっと心を動かされ続けるようなこと。むしろ、微かに動いた心のその動揺が、ずっと続くような心性が、若さだと思う。諦めの悪さ。ナイーブさ。憤りやすさ。燃えやすさ。意地。どうでもいいことにえんえん拘り続けられること。刹那的。そういうものから卒業すること。腰を据えること。

そういうものが無くなることそのものは実は怖くない、というかそれには既に麻痺するくらい老けているかもしれない、ただ、それを怖いと感じる自分がいなくなることが怖い。この怖さだけは保ち続けたままで老けたい。だから、その怖さとは戦い続けないといけない。戦い続けている限り、この怖さは消えない。戦いをやめたとき、怖さを感じる自分を無くしてしまう。

負けるのは恐くない
ちょっと逃げ腰になる日が来ることに怯えているけど 

ビッグ・データがこの先いちばん不要にするのは実は「経営者」?

なるほどなあ。まさに目から鱗。そこまで思考が及びませんでした。

ビッグ・データの活用によって、これまでのITでは発見できなかった知見を得ることができると言われていて、今ビッグ・データが最も売り込まれている先はたぶんマーケティング関連だと思います。確かに、コンビニの、売上高はあまり高くないとあるプライベート商品が、実は来店頻度の高い「得意客」がよく購入し、しかもリピート率が高い商品なので、売れてないという理由でこの商品の生産を中止すると、この商品を楽しみに来店していた「得意客」を失ってしまう、というような分析は、従来のPOS情報では難しかったと思います。

しかし、この3月15日付の日経朝刊の見出しはほんとに目から鱗で、いつもは朝刊は通勤時に読んで会社の新聞捨てに捨ててくるのに、大事に持って帰ってきたくらい僕には有益でした。

「勝算は不明だが、社長が言うからやるしかない」「しばらく様子をみて結論は次の会議で」-。そんな情緒的で、悠長な意思決定は通用しなくなるかもしれない。

SAPジャパンの村田聡一郎氏は、「企業経営は3K(勘、経験、慣習)ではなく、データを土台にしたものに変わる」という。

確かに、なぜ3Kで経営するかというと、あらゆるデータを網羅的に必要十分な速度で分析することができなかったから。それが、ビッグ・データ技術の進歩で、本当に大量データをリアルタイムに分析できるようになれば、3Kで経営する必要はなくなる。小刻みにトライ・アンド・エラーを、PDCAを回すことができる。

粗っぽいけれど、「ビッグ・データ技術が経営判断を下してくれる」という未来を想像したとき、思ったことは二つあります:

  • 今「ビッグ・データ」と言ったときに想定されるほどのデータ量を集積できる企業活動を行っている企業はいわゆる「大企業」に限られると思う。その「大企業」では経営層の維持コストが高額になっているとすれば、ビッグ・データ技術が経営判断を代替することで、「経営のコストダウン」を図ることが出来る。これは「経営のリストラクチャリング」に繋がることだと思う。そして、特に製造系の業種において、大規模企業でなければ製造できなかったけれども、企業全体の維持コストが高すぎるために製造の自由が生産者の手から離れてしまった状況を改善できるのかも知れない。
  • 逆に、個人事業主にとっては、直接ビッグ・データを集積して経営に活かせないかも知れないけれど、大企業での知見が活かせるような状況になるかも知れない。そうなると、『MAKERS』が謳うような、生産主権の奪取のための一助になるのかも知れない。

経営ほど数字を純粋に使える領域はない、そう繰り返し繰り返し言われ続けてきたので、ビッグ・データは確かに経営にこそ適用できる領域に思えてきますし、部分的にであれ、人間が下してきた経営のディシジョンを置き換えていかなければ嘘のような気がします。そこにもし、人間の判断を挟まないといけない理由があるとしたら?-数字ではない判断材料だとしたら、それは今まで僕らが言われてきた「経営」ではない、と言っていい事態のような気がします。

だから「本」を読まなければならない

ネットを巡回していて、以下の記事が目に留まった。

たった1記事で8万人に読まれる文章を書けるようになるライティング術

全然アクセスのないこんなブログを書いているので(笑)、そのタイトルはもちろん興味深いです。

一読してみて、キモになるのはここだと思いました:

 

「文章」と「コピーライティング」の最大の違い

 

この違いを理解するためには、まず、雑誌や書籍など文章力が必要とされる「紙のメディア」と、ブログやサイトなどコピーライティングが必要とされるWEBメディアの違いを抑えておく必要がある。

 

単刀直入に言うと、両者の違いは以下の通りだ。

 

  • 紙媒体を読むきっかけ:お金を払って読んでいる
  • WEB媒体を読むきっかけ:たまたま目にとまった

そして、この記事を読んですぐに頭に浮かんだのは、「8万人に読まれるブログが書ける」ではなく、「だから『本』を読まなければならない」と言える根拠がここにある、ということでした。

つまり、Webというのは、「いかにフックするか」に血眼になっている文章の集積体。中身がないとはもちろん思わないけれど、「なぜその文章を読みたいと思ったか」と言うと、自分の内面からの関心に触れたというよりも、向こう側から「読めよ、読めよ」と言われて読んだ、というケースが圧倒的だと思います。

つまり、「読み」がほとんど受動的。

一方、本を読むのは、どの本を読むか、というところから、受動的では要られない状況になっています。もちろん流行りものや話題先行の本もあるけれど、そういった本ではなく、自分の関心に沿う本を読むためには、自分から「選択」しないといけない。

この、「向こうから与えられる選択」か、「自分から取りに行く選択」かが、「読み」に与える影響は果てしなく大きいと思うのです。

だから僕は「本」を読み続けます。

    「そんなこと言ったっけな?」

     志村けんがコントで手にしていた新聞が「原発さえなければ」と書かれた記事だった、というのが話題になっているのをfacebookで見ました。原発反対の方々に好意的に紹介され、「さすが志村さん」と言った論調がほとんどですが、僕はこれに若干違和感を持っています。

     僕はfacebookにアップされていた静止画像を見ただけで、コント自体を見てませんしyoutubeでも一度検索しただけだとなさそうだったので、推測で言うしかないのですが、まず、その新聞を選び、「原発さえなければ」と書いた面がテレビに映るように、意図的にしたのかどうかが不明ということと、意図的だとして、それが志村けんの意図なのか、その他の関係者の意図なのかが不明ということです。

     「原発については物議を醸すのが明白なのに、敢えてテレビに映る様にしている時点で、それは意図的なものと言っていい」という推測もありますが、そういう決め付けられ方をされた場合、志村けんサイド(および関係者サイド)は、「いえ、あれは偶然あのページだっただけです。何の意図もありませんでした。ごめんなさい。」と申し開くこともできる状況にある訳です。

     そういう、「言い逃れ」できる状態にある”発信”を、無闇に持ち上げる風潮というのはどうなのだろうと思います。コントを一通り見れば、あれは「反原発」を暗にメッセージしようとした意図的な新聞の見せ方だったと判るような行動があるのかも知れません(例えば、コントの流れとは無関係に妙に新聞をかざす、とか)が、そういったことのない状況で、メッセージをくみ取るというのは危険でさえあると思います。昨年末の紅白歌合戦で、斉藤和義が「NO NUKE」というギターストラップでステージに立ったのとは、訳が違うのです。
     文学は、言葉として明記されていない部分のメッセージを読み取っていくものですが、言葉として書かずにメッセージを伝える際の作法のようなものはあって、「これはこのように読めるね」という積み重ねで成り立つもです。文学の読み方というものの視点からこの志村けんのコントの取り上げられ方を見ると、違和感を禁じ得ないのです。

     仮に原発推進派の有力者から志村けん(および関係者)が「けしからん」と詰め寄られたときに、「いえ、あれは偶然です。何の意図もありません。不用意でした。私は原発推進派です」と詫びを入れられるようなやり方で、「原発さえなければ」というメッセージを発信していることを、本来であれば、原発反対派の人は批判してしかるべきだと思います。原発反対というのは、そんな甘いもんじゃないぞ、と。原発反対という主張をすることは、そんな腰砕けな、腑抜けたやり方でやっていいもんじゃないんだぞ、と。
    何かモノを言う時に、安全地帯からモノを言うというのは、絶対的に間違っていると思います。そういうモノの言い方を誉めそやすスタンスは、改めなければいけないと思います。特にそれが著名な人であったり、コミュニティの大小を問わず有名人であったり影響力を持っていたりする人であれば、なおさらです。 

    見栄え

     昔からよく言われることではあるけれど、見栄え重視のプレゼンテーションというのがあまり好きではありません。世の中はいつからか「プレゼンテーション至上主義」で、いかに上手に見せるか、が最重要であるように叫ばれて久しいですが、どうしてもその風潮が肌に合いません。もちろん、自分の考えや想いを人に伝えるために、プレゼンテーションは工夫に工夫を重ねなければならないということは理解できています。そういう仕事をしていた時期もあります。そういう意識を高く持てば持つほど、「見栄えはいいけれど、中身は実はほとんどないな」というプレゼンテーションが判るようになるのです。

     特に自分が所属しているIT業界では、日本は昔から、導入後のITシステムの効果を計測することは稀中の稀なので、提案段階ではROIなんて言いたい放題でやっている人がいたりします。そして言いっぱなしで、実際にそのROIが達成できたかどうかは確認されることなく、最初に謳った人は担当が変わっている。そういう繰り返しに毎度毎度やられる企業側にも問題があるのかなあと、つまり、担当している人もそれほど長期的に物を見ていないか、今までと大して変わらなければとりあえずよい、という事なかれ主義か。パフォーマンスを継続して確認しないことで、大きなロスが生まれるものだといつも思います。

    アイ・キャッチャー

    買ってきました!

    営業として最も簡単なことは、アイ・キャッチすること。何故かと言うと、実際に売らなくてもいいかな。売らなくても、「お客様の気を引きました!」というだけで自分の成績になる。これほど楽な商売はない。

    そして、そんな楽な商売をするために組織されたチームは、自分が「これ」と見定めたお客様に攻め込んで行けることが多い。こんなおかしな話はない。自分の担当という範囲も何もない中で、「ここ売れそう」という予想だけで、どこにでも行ける営業がいるのは、褒められた話ではないと思う。

    アイ・キャッチするのが専門の人間に、お客様も通常なら心を開かない。なぜなら、長期間付き合える相手ではないと判っているからである。

    お客様にとって、訪問されて意義のある人間というのは、最低要件として、お客様を担当している人間か、製品のスペシャリストかのどちらかで、いわゆる「遊撃手」のような、どこに行ってもいいし、何をしゃべってもいいんです、みたいな人間が訪問してきても、おもしろい話を聞けたと思ってくれるだろうけども、ビジネスが起こることは稀。それでも、えり好みをして訪問すれば、お客様側に切迫した要件があって、そんな「遊撃手」でもそれなりにお役に立てる可能性はある。

    しかし、大前提として我々はお客様に何か価値をお届けしたい。お客様に価値を提供するためには長い期間のお付き合いが必要で、それには組織の人間は「お客様付き」か「製品付き」かのどちらかしかない。そのどちらでもない人間がどれだけいろんなことを語れても、それで勝率が上昇することはほとんどないと思う。

    『「反核」異論』/吉本隆明

    ところが日本人の社会って依然として情緒だけで動いちゃうね

    鮎川信夫氏のこの一言だけで十分なのかも。

    この一言は、日本での言論というのは、言論を通じてどこかにたどり着こう、相手から発せられた意見や反論なども取り込んでさらに先に行こう、という態度ではなくて、あくまで自分の立場からしか物を言わない、自分の立場に固執し、自分の立場を守る目的での言葉しか言わない、だから情緒だけで物を言ったり動いたりしかできないよね、という文脈で述べられたもので、ほんとうにその通りだなあを、わが身を振り返る訳です。

    『「反核」異論』については、「反核」そのものに対して否定を投げかけるのではなく、「反核」に至る過程-つまり、当時のソ連がポーランド「連帯」弾圧を覆い隠すために作為的に巻き起こしたものだということを見抜けずその作為に乗っかってしまうことへの批判と、「反核」を謳うのであればアメリカだけでなくソ連も断じなければ筋が通らないではないかという批判、この二つが主軸。ここで思うのは、『「反核」異論』という見出しだけで、「けしからん」というリアクションを返すような、言論的に薄っぺらく弱弱しい状況に現在もなっているんじゃないか、ということ。自分と異なる意見を述べそうな人が出てきたときに、「なぜ、そういうことを言うのか?」という想像力と、その立場を取り込んでいこうとする足腰が、どんどん弱ってきている気がする。

    あと、本筋とはちょっとそれますが、

    大部分の労働者は、労働者としてのじぶんというものよりも、消費社会の中で背広をきて遊びに行くときのじぶんを、じぶんと思いたい率のほうが多くなってきているのではないか

    というところ、こう書かれた文章を読むと「当たり前でしょ」と思うけれど、「当たり前でしょ」と思うくらい、適格に書けているところが凄いなあと。そして、それが消費なのか、消費ではなくとも「労働」に費やしているのではない時間帯なのかの違いはあると思うけれども、とにかくそういうときのじぶんを「じぶん」と思いたい率は本著か書かれた時代よりも現代の方が更に高まっていると思われるのに、近年とかく「仕事、仕事」と言われるのは、高度消費社会においてはそれはやはり「退行」なのではないか、と本著を読んでおもった。これは『暇と退屈の倫理学』を読んだ時にも思って整理仕切れなかった。高度消費社会はグラフの頂点で、ここから緩やかに生産社会に戻っていって、その結果、「じぶん」らしい「仕事」をする社会に、復帰していくのだろうか?それは「退行」ではないのだろうか?

    B000J78L32 「反核」異論 (1983年)
    吉本 隆明
    深夜叢書社 1983-02

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    もう人生で二度と見ることのない水仙

    私は仕事柄、人よりも少しだけいろんなところに行く機会を貰っていて、いわゆる「地方」に行く機会も少なからず貰っています。ふだん仕事をしている大阪と違って、地方は(まあ、住んでいる奈良もそうなんですが)交通手段がそう便利ではないですから、電車はおろかバスに乗るのにも10分20分歩いたりすることは珍しくないです。

    普通はタクシーを呼んだりレンタカーを借りたりするのでしょうが(もちろん私もそうすることが多いですが)、時にふと10分20分歩いてみます。さぼっていることにならない程度に。そうすると、都会のマンション街を通るのとは全然違う、生活感満載の住宅街を通ったりします。都会のマンション街と違って、そんな住宅街を真昼間に通るサラリーマンいないと思うので違和感満載です。

    二十代の頃は、そういう寄り道をして、「ああなんか面白いなあ」と思っただけでした。四十歳の今は、「たぶん、ここを通ることはもう人生で二度とないだろうなあ」と思うことが増えました。もちろん、ここに来た理由であるその会社様との仕事が進めば、近々また来るかも知れないですが、その時は社用車で来るかも知れないし、帰りはタクシーを呼ぶかも知れない。ましてやわざわざ、住宅街を縫って表通りに出るようなことをするかどうか、判らない。

    広がる田んぼの先に住宅地が並ぶ狭い道を抜け、用水路沿いを歩いていたらふと目に飛び込んだ水仙。なんで自分は今ここにいるのかなあという妙な感覚と、いつもは自分はいないそこに流れている時間と、一生のうちに一度も見ることのない景色と。なんとなく写真を撮りました。

    あなたはシェアする「不便」を引き受けられますか あるいは図書館の凋落

     職業にしている事柄について書くのはある種のリスクを伴いますが、やはり逃げる訳にはいかないだろうと思いまして、書いてみようと思います。facebookで國分功一郎さん(『暇と退屈の倫理学』の著者の方)が、「大学の成績管理システム(?)がとてつもなく使い辛い」とポストされていたのを見て思ったことを書きます。

     掻い摘んで言うとこの件は、「ユーザインターフェースがまるでなっていないシステムの使用を、ユーザが強制されている」という話なのですが、システム構築側にいる僕の、システム構築側の立場の感想としては、「そりゃそうでしょう」です。だって、そのシステムを購入するのは、誰ですか?

     我々システム構築側は、企業なり大学なり自治体なりにシステムを御提案しますが、そのシステムの購入の判断は最終的には「費用対効果」と言った類に収斂されます。当たり前です。高いお金を払って、役に立たないものを誰も買いたくないです。問題は、この費用対効果の検討のとき、「実際に使用する人の手間」といったコストが反映されない場合がある、ということです。社長の立場からすれば、今まで満足に出来ていなかった管理会計が日次ベースで更新されるなら願ったり叶ったりでしょう。それを実現するために、社員は実はエクセルでちまちま明細を入力しなければならず、そのために日々の業務が圧迫されても、そこには目が行かないかもしれません。

     話はここで、「今まで通りのフォーマットでなければ、システム更改を許さない」というスタンスの問題と、「エンドユーザの不便なんて気にかけない、購入の意思決定ができるポストが好感するメリットを謳え」という売り方の問題に分かれるのですが、実際の利用者の利便性を向上するようなシステムを設計・提案したところで、自分達の提案が採用される確率が飛躍的に上がることはないことが多いです。なぜなら、その「きめ細かい」構築に掛かる費用が、意思決定者に評価されることは少ないからです。

     例えば、市役所の窓口の何かのシステムがあったとします。それが、年度末にはいつもすごく待たされるようなシステムだったとします。その年度末のピークに合わせて、今まで2つだった窓口を3つに増やしました。この施策は評価されるでしょうか?結構な確率で、「税金の無駄だ」という意見を言う人が出てくると思います。年度末のピークがどれほどかとしても、残りの11カ月は無駄になる訳です。 システムの現場でもこれと同じようなことが起こります。年度末だけ人を増やしても、そのシステムが3台なければ意味がないのです。かくして、システムを実際に利用するユーザが、システムによって業務改善が図られないケースが生まれます。

     どこに、どれだけ、どのようにお金を注ぎ込むかというのは、事ほど左様に難しい話だと思います。会社という団体にとって、どこにお金を注ぎ込むことが、会社全体の利益になるのか。同じように、日本という国にとって、どこにどのようにお金を注ぎ込むことが、全体最適なのか。システムを実際に使う人にとって最も使いやすいに越したことはないのですが、それよりも全体最適になるお金の使い方があるかも知れない、訳です。

     この話を考えるとき、いつも、1,2年前に大流行りした「シェア」について思います。最近、あんまり聞かなくなったような気がしますが、それは、「シェア」というのが、詰まるところ、不便を引き受けなければならない仕組だということに、みんなが気付き始めたからではないかと思います。ひとりひとりが対象を占有するのではない仕組ですから、自分が使いたいときに使えないかもしれないという不便を内包していることは当然なのですが、「シェア」が流行したときには、今の自分の利便性を落とさず、所有コストといったわずらわしいものからだけ、解放されると勘違いしていた人が結構数いたんじゃないかと思います。これは知識に関しても同様だと思います。誰彼かまわず、「これ面白いよ」という情報をシェアしたところで、その有用性はだんだん担保されなくなります。「シェア」したい人が、一方的にその思いで押しつけているだけで、それが本当にシェアに値するものなのかどうかがどんどん判らなくなります。

     この位のことは、そのシェアというシステムをとっくの昔に実現していた、図書館という存在の凋落ぶりでも最初から判っていたことだと思います。あれほどの情報がシェアされているというのに、図書館をその目的で使う人はあまり増加しません。そして、図書館自身はもはや、本の魅力だけではその存在を維持できなくなっています。本筋を離れたところでの集客は、いずれ必ず鍍金が剥がされるか、自らの姿を大きく変えさせられるかのいずれかです。図書館がそれを願ってやっていることであれば、それはそれでいいのかも知れません。

     今、日本が求められているのは、どうやって融通し合って生きていくか、という仕組みの再構築で、そこには「シェア」の概念が含まれていることは自明です。保険だって年金だって言ってみれば「シェア」の一形態だと思います。その「不便」の引き受け方を真剣に考えていないことが、社会の停滞に繋がっているのではないかと思います。