ダイバーシティについて

IT業界に勤めていてよかったなと思うのは、思想とか哲学とかの新しい概念のコトバが結構ITの現場から流用されていくので、早い段階でその要諦を「なんとなく」知れていることがあります。例えば最近だとアジリティとかヒューリスティックとかオートノミックとか(最近じゃないか)、あるいはIT業界はコンサルと近く、就労形態についても先端を行くところがあるので、メンターとかコーチングとかもかなり早くから馴染んでました。

そんな中、昨日書いたエントリでダイバーシティが出てきて、昨日は議論について考えたのですが、今日はダイバーシティについて、職業上触れてきて自分の課題となっている点について、書きます。

それは、「果たしてダイバーシティは金科玉条か?」ということです。

「みんなちがって、みんないい」の金子 みすゞに始まり、基本的に世の中みんな「多様性」礼賛です。これには、種を意地していくためには遺伝子レベルの多様性が有用である、つまり、いろんなバリエーションがあるほうが、いろんな危機に対して対応できる個体が存在する可能性が高まるので、種の絶滅を回避することができるから多様性万歳、という補強もされていると思います。

これに近い文脈で、システムの世界には「レジリエンス」という概念があります。回復力、といった意味合いです。システムがダメージを受け破損した際に、どれだけ柔軟に回復することができるか、という能力を指します。

Hiroshi Maruyama's Blogのこのエントリで書かれているように、ソニーCSL北野さんが頑健性には多重性・多様性・モジュール性の3要素があるとしているが、その中で「多様性」については果たしてどうだろう?という見方が最近あると思います。

例えば東日本大震災の被災地である東北地方が、日本の現在状況よりはるかに進んだ移民受入地となっていて、異なる言語を使用し異なる文化を持つ人々が同等割合で分布するような「多様な」地だったとしたら、あれほどまでに迅速で自発的な回復を遂げる行動が取れたでしょうか?あの回復は、それほど多様ではない、もっと言えば一様だったからこその迅速性がそこにはあったと思います。

ITの世界でも、ちょっと正確ではないですが、例えばオフィス環境を全部Windowsにしておくとウィルスとかに一遍にやられるからMacとかLinuxとかも配置しておきましょう、というのが多様性ですが、多様にすることによって複雑になり柔軟でなくなり迅速でなくなるデメリットはあります。そこで「オープン」が金科玉条だったIT業界でも、「垂直統合」と言われる、ぜんぜんオープンじゃないけど、上から下まで1ベンダーで固めてしまってるから安定しているし全体最適されてますよ、という言い方が登場してきました。

ITの世界の潮流は、多くは、世間の様々なところの思想としても広がっていくことが多いと思っています。レジリエンスと「多様性」についてのこの視点と、垂直統合の思想が、どういうふうに世間に広がっていくのか(あるいはいかないのか)、私は興味津々なのです。

議論について

数日前、ウェブ上で、有名ブロガーchikirinさんのブログ「chikirinの日記 for DU」の「「話し合って決める」という幻想」というエントリが物凄く取り上げられていて、興味を惹かれて読みました。私はchikirinさんの存在はさすがにもちろん知ってますが今まで読んだことがなかったですし、この「chikirinの日記 for DU」はマジメに読んでいいものなのかあるいは幾分扇動の入ったものなのか、そういうノリなのかどうなのかも判らないのですが、読んで思ったことがありました。

約めて言うと、このエントリで言われているのは、「議論するということに意味を見いだせない」ということで、「議論して、誰かの意見を放棄させることなんて言語道断で、各々、思っている通りに生きればいい」ということだと思うのですが、この、「議論して誰かの意見を放棄させる」というところに、違和感を感じた訳です。

私にとっての議論というのは、基本的に「自分の意見を変える」ために行うものだったからです。

もちろん、「なんでオレの言うことが判らないんだ!!」と頭に血が上ることも少なくないですが、少なくとも相手がなぜそう考えるかは、相手の話を聞かないと判らない。「話を聞く」ことと「議論」は違う、訳ですが、「話を聞」いて、その先で「議論」したときに何をしているかと言うと、私の場合は、「自分の考え方で変えられるところはあるか」というのを探っている作業になる訳です。

私は以前から、「あなたの”あなた”と私の”あなた”は違う」と言い続けているんですが、誰かとの意見交換(話を聞くのと議論とを明確に分けなければいけないのなら、敢えてこういう言い方をする)において、心がけているのは「主客をできるだけ入れ替える」ことで、自分が説得したいと思うなら相手もこちらを説得したいと思っていて不思議はない、という主客転倒と、止揚じゃないけど、ある考え方とある考え方が交わり否定しあうところでしか、新たな考えが出て来ない、ということです。

自分の意見を「言う」ということは、誰かにとっては私の意見を「聞く」ということです。ということは、誰かが意見を「言う」ときは、私は誰かの意見を「聞」かなければなりません。それぞれが独立して一方通行でそれでもいいのかも知れませんが、その一方通行の束を一つの行為をしてみたとき、そこに新しい考えの生まれるチャネルを見ることが出来ると思います。

街の本屋で本を買う - 2013/04/13 ジャパンブックス アントレ生駒店

去年もここで買ったの書いたよなと思ってバックナンバ見たら、まさかの同系列!

前回も”世界から「仕事」が消えてゆく”と銘打たれた『COURRIER』、今回も”未来の会社”がメイン特集の『WIRED』。自分が住んでいる土地で、仕事に関する本を買う。これは何かの符牒か。

歩きたくなる奈良の本』の大きなポスターが貼られていたので、そうそう、と思い出し手に取ってみましたが、もちろんいい本ですけれでも僕の結論を簡潔に言うと奈良県人としてはお金を出して買う本ではないなと。何故かと言うと奈良県人としてはこの内容の本ならなくても奈良を歩くことを愉しめるから。遷都1,300年前後、湯水のように出てきた奈良本を隈なく買って読みましたがそれはその当時の奈良ファンとしての思い。今、奈良ファンとしてやるべきことはそれではないと気づかされた本でした。

B00B7DKYFA WIRED VOL.7 GQ JAPAN.2013年4月号増刊
コンデナスト・ジャパン 2013-03-11

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4874354076 歩きたくなる奈良の本 (えるまがMOOK)
京阪神エルマガジン社
京阪神Lマガジン 2013-04-11

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『LOSTAGE AT SHIBUYA CLUB QUATRO』一週間聴きました

五味兄さんのパートは「VOCAL」ではなく「THROAT」なのであります!

LOSTAGE初のライブ盤、『LOSTAGE AT SHIBUYA CLUB QUATRO』、一般には4/3発売だったのですが、五味兄さんが奈良でやってるレコード屋THROAT RECORDSでは3/30に先行発売だったので、喜び勇んで買いに行ってきました。店舗は前々から知ってたんですが中々入る勇気が出ず、今回は明確に買おうとするものがあり一歩を踏み出しやすかったのです。兄さんはとても丁寧な方でした。

で、3/30に買って以降、その土日の時間あるときと、平日の通勤行き帰り、ずーっと聴いてたのですが、ライブアルバムっていいなあと言うのが最大の感想かなー。ライブアルバムと聞いて、僕は直近の『CONTEXT』がNEVERLANDでほぼ一発撮りと聞いてたのでそれと印象を比較するんですけど、音の生々しさ感の表情の違いもあるし、同じ一発でも「本当に戻れない感」というのと、「そこにオーディエンスがいる感」という良さがひしひしと出ます。

 

こんなにやったのね・・・という羨まし過ぎるセットリスト(笑)。アンコールで5曲も!(笑)

僕は『夜に月』がかなり好きで、このアルバムの中でのプレイでも『夜に月』がいちばんかな。サビんとこのコーラスの、CD音源みたいに(これもCD音源なんだけど)ボケてない加減が堪らなかったです。

 

シンプルなデザイン。

それにしても、五味さんの最後の「最高だったよー」というあの一言。ぜひ奈良でも一度、あのテンションで聞きたい(笑)。僕はせっかく奈良に住んでるので、出来るだけツアーは地元奈良のを観るようにしてるんですが、なんかNEVERLANDでやるときの五味さん、結構ボヤキ節が多い気がするし。確かにあんまり奈良って熱くならない気がするし(笑)。

でも思うんだけど、折角、奈良に拘って奈良でやってるんだから、月イチとかで地元でライブやってくれたらいいのになーと。もうちょっと、スケジュール発表を定期的にきちんとやってくれたら集客できそうな気がする。奈良って、なんか、イベントの告知がイマイチうまくない人とかハコとかが多い気がする。


ポスターに加えてもうひとつの店舗特典、マッチ!

スピード

言わずもがなのスピード時代で、どれだけノスタルジーに訴えたりスローフードやスローライフをカンファタブルだと訴えたりしても、スピード感がなければ叶えられないのである。自分一人が「僕はスローフードを実践するのであります」と宣言してスローフード生活を送る分にはスピードも何もないけれど、何かひとつ自分の信じるものが社会にとってよりよいことだと声に出すとき、それは叶える意思がなければただの言いっ放しで、ただの言いっ放しを是としないのであれば少しでも形にするアクティビティが要る訳で、少しでも形にするためには今の世の中スピード感は必須。なぜなら、スピード感がなければ、他の主義主張に瞬く間に追い越されるからだ。

僕が勤めているIT業界は輪をかけて言わずもがなのスピード業界な訳ですが、「どうやってスピードを出すか」というところには実は小さいようでとても大きな差があり、その差に気付いていない人は、仕事人として有用な成長を遂げていないと思う。金を稼ぐという意味でのビジネススキル、それこそ「いかに手早く金を稼ぐか」というビジネススキルには長けていて、変化の激しい昨今、これはとても有用なスキルだけれど、その表層的なディールとコミュニケーションの世界に身を置きたくはないなと僕は思ってしまう。

 で、小さいようで大きな差というのは何かと言うと、スピードの出し方について、「より早くできるようになってスピードを出す」のか、「適当に端折ることでスピードを出す」のかの違い。

 例えば大きな話で言うと、買収なんかは「金で時間を買う」訳で、ある意味では端折ってる。でも、事業というスケールだと一から全部やってたら間に合わないケースはままある。なので金で解決する。けれど、個人単位でのアクティビティのディティールのコミュニケーションにおいて、その間を端折って端折って、「こっちのほうが話の通りがいいので」みたいなことをやっていると、その歪は取り返しのつかないことになったりする。何より、それは全然、スピードを出せている訳ではない。

 コンテキストをどれだけ豊富に、どれだけ大量に理解することができるかが勝負の分かれ目だと思う。なのに、とにかくコンテキストを端折ろうとするのは正確な業務遂行が徐々にできなくなってしまうことになる。ややこしい話を、いかにややこしいまま聞けるか、いかにややこしいまま話せるか。それは徒に時間をかけるということではなく、うまく編集してうまくそのまま伝えることができるか、聞くことができるか、ということで、けしてどう「省略」するか、ということではない。この意識とスキルは、ビジネススキルとしてよく取り上げられる「エレベーターピッチ」のような、サマライズの方法と似ているようで実は違っていて、どちらかというとアートの領域に近いことのような気がしている。でも、これがうまくできる人たちが多い集団のほうが、より優れたビジネスのアウトプットを残しているように思える。だから、このあたりが、教えることのできないビジネスの「才能」みたいなものなのかな、と思う。

いつか僕らも大人になり老けてゆく

もたもたしなかったご褒美は、ライド中は雨が降らなかったこと。

僕は今、若さを喪失する怖さと戦っている。自分自身で選ぼうとしている、この先の自分自身の人生の歩き方と、自分自身の人間としての成熟のために、心がけている鍛錬は、ある意味で若さからの卒業を求めてくる。若さを忘れないままで成熟することももちろんできると思う、けれど若さを卒業するほうが成熟への近道であることは否めないと思う。

若さ。微かにでも心を動かされた現実に、ずっと心を動かされ続けるようなこと。むしろ、微かに動いた心のその動揺が、ずっと続くような心性が、若さだと思う。諦めの悪さ。ナイーブさ。憤りやすさ。燃えやすさ。意地。どうでもいいことにえんえん拘り続けられること。刹那的。そういうものから卒業すること。腰を据えること。

そういうものが無くなることそのものは実は怖くない、というかそれには既に麻痺するくらい老けているかもしれない、ただ、それを怖いと感じる自分がいなくなることが怖い。この怖さだけは保ち続けたままで老けたい。だから、その怖さとは戦い続けないといけない。戦い続けている限り、この怖さは消えない。戦いをやめたとき、怖さを感じる自分を無くしてしまう。

負けるのは恐くない
ちょっと逃げ腰になる日が来ることに怯えているけど 

ビッグ・データがこの先いちばん不要にするのは実は「経営者」?

なるほどなあ。まさに目から鱗。そこまで思考が及びませんでした。

ビッグ・データの活用によって、これまでのITでは発見できなかった知見を得ることができると言われていて、今ビッグ・データが最も売り込まれている先はたぶんマーケティング関連だと思います。確かに、コンビニの、売上高はあまり高くないとあるプライベート商品が、実は来店頻度の高い「得意客」がよく購入し、しかもリピート率が高い商品なので、売れてないという理由でこの商品の生産を中止すると、この商品を楽しみに来店していた「得意客」を失ってしまう、というような分析は、従来のPOS情報では難しかったと思います。

しかし、この3月15日付の日経朝刊の見出しはほんとに目から鱗で、いつもは朝刊は通勤時に読んで会社の新聞捨てに捨ててくるのに、大事に持って帰ってきたくらい僕には有益でした。

「勝算は不明だが、社長が言うからやるしかない」「しばらく様子をみて結論は次の会議で」-。そんな情緒的で、悠長な意思決定は通用しなくなるかもしれない。

SAPジャパンの村田聡一郎氏は、「企業経営は3K(勘、経験、慣習)ではなく、データを土台にしたものに変わる」という。

確かに、なぜ3Kで経営するかというと、あらゆるデータを網羅的に必要十分な速度で分析することができなかったから。それが、ビッグ・データ技術の進歩で、本当に大量データをリアルタイムに分析できるようになれば、3Kで経営する必要はなくなる。小刻みにトライ・アンド・エラーを、PDCAを回すことができる。

粗っぽいけれど、「ビッグ・データ技術が経営判断を下してくれる」という未来を想像したとき、思ったことは二つあります:

  • 今「ビッグ・データ」と言ったときに想定されるほどのデータ量を集積できる企業活動を行っている企業はいわゆる「大企業」に限られると思う。その「大企業」では経営層の維持コストが高額になっているとすれば、ビッグ・データ技術が経営判断を代替することで、「経営のコストダウン」を図ることが出来る。これは「経営のリストラクチャリング」に繋がることだと思う。そして、特に製造系の業種において、大規模企業でなければ製造できなかったけれども、企業全体の維持コストが高すぎるために製造の自由が生産者の手から離れてしまった状況を改善できるのかも知れない。
  • 逆に、個人事業主にとっては、直接ビッグ・データを集積して経営に活かせないかも知れないけれど、大企業での知見が活かせるような状況になるかも知れない。そうなると、『MAKERS』が謳うような、生産主権の奪取のための一助になるのかも知れない。

経営ほど数字を純粋に使える領域はない、そう繰り返し繰り返し言われ続けてきたので、ビッグ・データは確かに経営にこそ適用できる領域に思えてきますし、部分的にであれ、人間が下してきた経営のディシジョンを置き換えていかなければ嘘のような気がします。そこにもし、人間の判断を挟まないといけない理由があるとしたら?-数字ではない判断材料だとしたら、それは今まで僕らが言われてきた「経営」ではない、と言っていい事態のような気がします。

だから「本」を読まなければならない

ネットを巡回していて、以下の記事が目に留まった。

たった1記事で8万人に読まれる文章を書けるようになるライティング術

全然アクセスのないこんなブログを書いているので(笑)、そのタイトルはもちろん興味深いです。

一読してみて、キモになるのはここだと思いました:

 

「文章」と「コピーライティング」の最大の違い

 

この違いを理解するためには、まず、雑誌や書籍など文章力が必要とされる「紙のメディア」と、ブログやサイトなどコピーライティングが必要とされるWEBメディアの違いを抑えておく必要がある。

 

単刀直入に言うと、両者の違いは以下の通りだ。

 

  • 紙媒体を読むきっかけ:お金を払って読んでいる
  • WEB媒体を読むきっかけ:たまたま目にとまった

そして、この記事を読んですぐに頭に浮かんだのは、「8万人に読まれるブログが書ける」ではなく、「だから『本』を読まなければならない」と言える根拠がここにある、ということでした。

つまり、Webというのは、「いかにフックするか」に血眼になっている文章の集積体。中身がないとはもちろん思わないけれど、「なぜその文章を読みたいと思ったか」と言うと、自分の内面からの関心に触れたというよりも、向こう側から「読めよ、読めよ」と言われて読んだ、というケースが圧倒的だと思います。

つまり、「読み」がほとんど受動的。

一方、本を読むのは、どの本を読むか、というところから、受動的では要られない状況になっています。もちろん流行りものや話題先行の本もあるけれど、そういった本ではなく、自分の関心に沿う本を読むためには、自分から「選択」しないといけない。

この、「向こうから与えられる選択」か、「自分から取りに行く選択」かが、「読み」に与える影響は果てしなく大きいと思うのです。

だから僕は「本」を読み続けます。

    「そんなこと言ったっけな?」

     志村けんがコントで手にしていた新聞が「原発さえなければ」と書かれた記事だった、というのが話題になっているのをfacebookで見ました。原発反対の方々に好意的に紹介され、「さすが志村さん」と言った論調がほとんどですが、僕はこれに若干違和感を持っています。

     僕はfacebookにアップされていた静止画像を見ただけで、コント自体を見てませんしyoutubeでも一度検索しただけだとなさそうだったので、推測で言うしかないのですが、まず、その新聞を選び、「原発さえなければ」と書いた面がテレビに映るように、意図的にしたのかどうかが不明ということと、意図的だとして、それが志村けんの意図なのか、その他の関係者の意図なのかが不明ということです。

     「原発については物議を醸すのが明白なのに、敢えてテレビに映る様にしている時点で、それは意図的なものと言っていい」という推測もありますが、そういう決め付けられ方をされた場合、志村けんサイド(および関係者サイド)は、「いえ、あれは偶然あのページだっただけです。何の意図もありませんでした。ごめんなさい。」と申し開くこともできる状況にある訳です。

     そういう、「言い逃れ」できる状態にある”発信”を、無闇に持ち上げる風潮というのはどうなのだろうと思います。コントを一通り見れば、あれは「反原発」を暗にメッセージしようとした意図的な新聞の見せ方だったと判るような行動があるのかも知れません(例えば、コントの流れとは無関係に妙に新聞をかざす、とか)が、そういったことのない状況で、メッセージをくみ取るというのは危険でさえあると思います。昨年末の紅白歌合戦で、斉藤和義が「NO NUKE」というギターストラップでステージに立ったのとは、訳が違うのです。
     文学は、言葉として明記されていない部分のメッセージを読み取っていくものですが、言葉として書かずにメッセージを伝える際の作法のようなものはあって、「これはこのように読めるね」という積み重ねで成り立つもです。文学の読み方というものの視点からこの志村けんのコントの取り上げられ方を見ると、違和感を禁じ得ないのです。

     仮に原発推進派の有力者から志村けん(および関係者)が「けしからん」と詰め寄られたときに、「いえ、あれは偶然です。何の意図もありません。不用意でした。私は原発推進派です」と詫びを入れられるようなやり方で、「原発さえなければ」というメッセージを発信していることを、本来であれば、原発反対派の人は批判してしかるべきだと思います。原発反対というのは、そんな甘いもんじゃないぞ、と。原発反対という主張をすることは、そんな腰砕けな、腑抜けたやり方でやっていいもんじゃないんだぞ、と。
    何かモノを言う時に、安全地帯からモノを言うというのは、絶対的に間違っていると思います。そういうモノの言い方を誉めそやすスタンスは、改めなければいけないと思います。特にそれが著名な人であったり、コミュニティの大小を問わず有名人であったり影響力を持っていたりする人であれば、なおさらです。 

    見栄え

     昔からよく言われることではあるけれど、見栄え重視のプレゼンテーションというのがあまり好きではありません。世の中はいつからか「プレゼンテーション至上主義」で、いかに上手に見せるか、が最重要であるように叫ばれて久しいですが、どうしてもその風潮が肌に合いません。もちろん、自分の考えや想いを人に伝えるために、プレゼンテーションは工夫に工夫を重ねなければならないということは理解できています。そういう仕事をしていた時期もあります。そういう意識を高く持てば持つほど、「見栄えはいいけれど、中身は実はほとんどないな」というプレゼンテーションが判るようになるのです。

     特に自分が所属しているIT業界では、日本は昔から、導入後のITシステムの効果を計測することは稀中の稀なので、提案段階ではROIなんて言いたい放題でやっている人がいたりします。そして言いっぱなしで、実際にそのROIが達成できたかどうかは確認されることなく、最初に謳った人は担当が変わっている。そういう繰り返しに毎度毎度やられる企業側にも問題があるのかなあと、つまり、担当している人もそれほど長期的に物を見ていないか、今までと大して変わらなければとりあえずよい、という事なかれ主義か。パフォーマンスを継続して確認しないことで、大きなロスが生まれるものだといつも思います。