「ホウ・レン・ソウ」というのは基本的にはピラミッド型組織のより上の階層が、より下層での活動の状況を逐一把握したいという「欲求」から来るもので、「ホウ・レン・ソウ」はビジネス上当然のことと下層の立場が思ってしまう背景は、不都合な事実はできれば隠しておきたいという「欲求」と、本来それは説明できなければいけないことだという「倫理観」と、上の立場からの監督がなければ怠けてしまうということを認めているところから来るのだと思う。だから、「ホウレンソウは人の成長の芽を摘む」というのは正しい指摘だと思う。「ホウレンソウ」と監督のセットでなければ怠けてしまうというのは自律性がないということで、そこには成長はない。成長のない社員の組織に成長はない。その仕組みを、下層の状況を逐一把握したいという上層部の「欲求」が助長してしまう。ホウレンソウによって下層の状況を逐一把握したいという「欲求」に負けてしまうのも、上層部の「怠惰」と言っていいような気もする。「決まったことを、決まったとおり、キチンとやる」だけで生産性は3倍になるという。13分冊、計1994ページの店舗マニュアル(MUJIGRAM(ムジグラム))の秘密を公開した。
夏らしい夏のポタリングおさめ。
朝の涼しい6時台から走ろうと思いつつ日頃の寝不足で目覚まし通り起きても二度寝、うだうだいうのも気持ちよくてのろのろ準備して漕ぎ始めたのは8時前、行先決めずにふらっと走るときの行先は決まって平城宮跡、太極殿と朱雀門を回りつつ、9時にならまちに着けば朝一番で樫舎の氷が食べられるなと、猿沢池の周りをくるくるしたのちにお目当ての氷。
また来年もあるさという気持ちと、もう今年で最後かもという気持ち。ちょうど良いバランスの今しか湧き上がらない感情と言葉を大切に。
「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。という当たり前のことをいつもくどくどと言ってしまうのですが、そういう当たり前のことをつい言ってしまう気持ちの理由というのを、改めて深く考えてしまいました。
「当事者」というのはとても困難な問題です。「当事者」の要望は、「当事者」が表明するだけでは叶えられないことがある。だから、「当事者」ではない人間がそれを拾い上げるという行動が起きますが、この「拾い上げ」が、「当事者」の意に沿っている場合といない場合があり、更に、純粋に意を汲み損ねている場合と意図的に沿っていない場合があります。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という、一見反論しようのない言い方で意見を通そうとする人々は、非常に危険であり、意見を表明する立ち位置としてこれは絶対的に間違っているということを明確にしたほうがいいように思います。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という言い回しを使う心性には、「どこまで行っても相手方の気持ちを100%正確に理解することなどできない(かもしれない)」という想像力が働いていないことが明白だからです。我々は、「当事者」の代理で発言することは、本来ほぼ100%不可能なことだという謙虚な姿勢がどうしても必要になると思うのです。過度な当事者主義の横行も、異常な放射線忌避による風評被害も、震災遺構をめぐる問題も、すべてに通底しているのは問題の「腫れ物」化だ。紛糾を恐れ、デリケートな問題の議論を先延ばしにしてきたことが我々から「当事者意識」を奪ってしまったのではないか。
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チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1 東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀 ゲンロン 2013-07-04 by G-Tools |
データ・サイエンティスト関連のムック本、もしかしたら売ってるかな、と思ってちょっと行ってみたけれどやっぱり無くて、折角行ったので芥川賞受賞作を読もうと『文藝春秋』を買って帰りました。
の書き出しが有名になったように、この小説は「あなた」を主人公にした二人称小説で、この「あなた」と「わたし」の倒錯のややこしさと面白さが肝だと思うのですが、私にはどうしてもこの「あなた」を、読んでいる私に作品が向けているように取ってしまって仕方ありませんでした。はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。
先週末はスポーツとか音楽とか、そういうのから様々刺激を受けました。
NHKで放送された「35周年スペシャル 復活!サザンオールスターズの流儀」。サザンは若い頃、好きと嫌いが微妙に入り混じる対象で、ときどき繰り出す絶妙に力の抜けた「おふざけ」の、その面白さは判るんだけど、なぜサザンだったら許されるのに他で許されないことがあるのか、サザンのセンスは判るけれどそれだけで認められていいのか、という割り切れない思いと、絶妙に逃げずにもっと腰を入れてやってくれよ、という歯がゆい思いで、のめり込むにのめり込めないバンドだったんだけど、自分が30代後半を過ぎたあたりから、サザンがサザンを続けている凄みとかファンを大事にするスタンスとかに感動してました。
桑田さんが番組の後半、「青山学院大学って洒落た大学に入って、彼女つくって楽しもうって思ってたけど、全然そんなふうにならない。半年ほど経ってサテンでTVの長嶋さんの引退セレモニー観て涙が思わずはらはらと流れて。オレ、何やってんだろうって」。その挫折があって音楽に行けたし、ここまでやってこれたと。その後、恒例の「流儀」をまとめる最後の下り、「サザンの流儀」で「力を抜くんですけど、そういうのはどうしても下にいっちゃうんですよねえ~」と、この上ないサザンらしい脱力感で締めてました(笑)。
高校野球、我らが奈良県代表桜井高校を一生懸命TVで応援してたんですが、監督も言ってた通り、先攻取ったらよかったのになあと思ったところはあります。奈良県(勢)の傾向として、後攻を取るんですよね。最後の最後を残しておきたいという心理。これ、県民性だと思います。
それはともかく、桜井高校は「自分との闘い」を主眼としているといろんな記事で読んでいました。好プレーには敵味方なく賛辞を贈るし、好打したりしても派手なガッツポーズはしない等、精神面を重視しているのが随所でよく判りました。率直に言って、甲子園で勝とうと思ったら、若さ丸出しでガッツポーズ出して勢いに乗るほうがいいし、下手な緊張とは無縁でいれると思います。
それでも、桜井高校は自分たちのスタイルを貫いて、それぞれに感じるところを持って一試合やり抜きました。スポーツである以上、勝ちを目指すのは当然ですが、「何を持って”勝ち”というのか」という、非常に高度な問いかけをされたと思います。それも、従来のありがちな精神論や修養論ではない、長い長いスパンを持った、考え続けるにふさわしい問いかけだったと思います。
自分がビジネスマンとして停滞している、停滞期にいる、そんな忸怩たる思いをいつも微かにでも抱きながらここしばらくの日々を過ごしてきた私にとって、サザンと桜井高校が見せてくれた「経過」は、新たな意欲を生み出す素になってくれそうなものでした。
そういう、芸術家魂やスポーツマンシップに触れて充足する一方で、世界陸上モスクワの女子マラソンの中継。日本人選手の前を行く3位の外国人選手がリタイアした際、「よしっ」という声とともに中継サイドの拍手があったのは頂けなかった。確かに日本人選手のメダルは渇望されたことなので喜ぶのは理解できるけれど、ライバル選手がリタイアしたタイミングでの拍手は潔いものではないと思う。もちろん、ライバルがリタイアしたことも含めてレースだから、3位になったことを喜ぶのは当然のことだと思う。だからこそ、あのタイミングで拍手するべきではない。
去年辿り着けなかった洞川温泉、「いつかまたチャレンジできる時が来る」と言ったのを果たすべくアタックしましたが、(下調べ不足で)あと1kmで頂上というところで無念の通行止め断念でした。
これが今回のルート。なぜかマイル/フィート表示ですが。
素人の僕にも、ギターの音がよいということは判ったのでした!
先月のpangeaに続いてのLOSTAGE。前日はインターネット放送のDEERs NARA Channelというのに兄弟揃って出てはったんですが、疲れの溜まってた僕は0:30でリタイア。寝ちゃいました。視聴者500名を目指そう!と(DJの人が)言ってましたが(笑)どうなったんでしょう。
この日いちばん印象に残ってるのは、オープニングのエフェクト!僕が行ったライブでああいうオープニングから曲に入ったことないような気がするんだけど、どうだろう?おとぎ話との対バンに合わせてキラキラした音から入ったとか?そんなことないか(笑)。『僕の忘れた言葉達』『あいつ』、あの流れ良いです。
途中、MCで「今日はええ曲いっぱいやるよ」と兄さんが言ってましたが、ほんとにいい曲目白押しでした。「いい曲」というのは言い回しが難しいけれど「聴かせる曲」と言えばいいのか「メロディアスな曲」はちょっと違うな、とにかく大音量感で盛り上がっていくというのではなくて聴き惚れるというか酔いしれるというか、そういう面のある曲をずらりと並べられたように感じました。いつもはNEVERLANDで聴くと他より小さいうえにお客さんが少ないこともあって音圧を感じまくるのが高揚感だったのですが、この日は音が個々の音がすごくくっきり聴こえて、「大音量なのに耳を澄まして聴く」という、不思議な体験をしました。神経を研ぎ澄ませて一音一音聴くのが楽しかった。
そういう意味ではやっぱり『SURRENDER』がベストアクトかな~。pangeaのときとは全然違うと素人の僕でも判るくらい、ギターで変わるもんなんですねえと。めっちゃ聴き入りました。レコードされた音がその曲のあるべき姿の音だと思ってる訳ではないので再現性云々はないですけど、率直に言ってpangeaのときよりこの日の音のほうが好きでした。pangeaのときの、今のLOSTAGEが出している『SURRENDER』も感慨深かったんですが、純粋にこの日の『SURRENDER』はよかったです。美しくて。
さてやっぱり途中五味さんがMCで語ったことについて感想を書かないわけにはいかない訳で。
この日の前日、五味さんのお友達が何かの事故で(兄さんの言葉をそのまま借りると”悪さして”)亡くなったそうで、そのことに思いを馳せながら曲をやります、と言ってました。誰かの死に出くわすたびに、生きていることがありがたいこと、自分に残り時間がそれほどないこと、をつくづくと思いしるし、五味さんもその感情をとても言い表しにくくしているふうでしたが、僕も去年とある出来事があって、残り時間はそんなにないんだと思うようになって、やり方や流儀や新しいメソッドの取得なんかに夢中になるより何をどれだけ実施し何をどれだけ経験するかだろうというふうなスタンスに変わりつつあります。ほんとに残された時間は少ない。その少ない残された時間を、対して思い悩みもせずできるだけ気楽に楽しく過ごすように生きるのもいいし、ただただ経済的充足のためにまっしぐらになって生きるのもいい。でも僕はどうしても、何をどれだけ考えられたかが充実感に繋がる。だからできる限り、残り時間が少ないんだという危機感が、本能的な危機感であり続けるように生きていきたい。
ただ困ったことに、「その間際」の恐怖をふとした瞬間に実感してしまうことが、その危機感に少し鈍感にしているような気がする。
原爆の日の今日、この本を紹介します。ひとりでも多くの人に読んでほしいから、印象に最も残る日だと思うから。
「チェルノブイリ」と「ツーリズム」が、「原発事故跡地」に「観光地化」が結びつくその様は、最初は強烈な違和感を持つかも知れません。不謹慎、という言葉が出てくるかもしれません。しかし、アウシュビッツや広島が観光地化していることを思い返すと、チェルノブイリが観光地化していることはけして不謹慎なものではないと理解できるようになります。それは、チェルノブイリ周辺に暮らす人々の収入源を生み出すという実利的な理由だけでなく、「歴史」を実在のものとしてこの地球上に残存維持していくことの意義を理解できるからです。そういった、歴史の悲劇の面・負の面を見れる場所への観光を、「ダークツーリズム」と呼ぶのだそうです。
本書の「はじめに」でこう語られます。
原爆ドームがあってさえ、今このような状況に進もうとしている現代です。もし、福島を「歴史」として残存維持する努力を怠ったならば、我々には「進歩」はないということになるでしょう。福島第一原子力発電所の事故は、けっして例外的なものではありません。その二十五年前にはチェルノブイリがありました。そしてまた、二十年後、三十年後には(あってはならないことですが)、アジアかアフリカか世界のどこかで同規模の事故が生じるかもしれません。わたしたちは、福島を、そのようなグローバルな事故の連鎖のなかに位置づける必要があります。
じっとしているだけならそれも大きな罪。一般庶民の私にとって、「お題目を唱える以外に」チェルノブイリまで行くことはできないから、例えばこの本を隅々まで読み、チェルノブイリの今を知ることが、「歴史」の残存維持のために私にできることのひとつであり、やらなければならないことのひとつであると思います。チェルノブイリの、福島の記憶は未来に受け継ぐために、「忘れてはならない」とお題目を唱える以外になにができるのか。それが本書を貫く問題意識です。わたしたちは、そのひとつの回答を探るためにチェルノブイリまで行ってきました。
「全国の待機児童25,000人を2017年度までに解消を目指す」というニュースが流れた後のCMで、「禁煙外来は健康保険が利用できます」というのが流れて、うーん、と考え始めたのです。
勝手にタバコ吸い始めてそれで依存症になったりして、それを治すのに健康保険からお金が出るというのはどういうことだ。そもそもタバコを吸わない私などはそう思ってしまう。タバコを止めるというのは、病気を治すのとは違うではないか。しかしアルコールもそうだが依存症にまでなってしまった人は、それを治すために高額な医療費を払ってまでやるとは思えない。だから保険適用を認める。タバコを吸い続けた人が肺癌になったり副流煙で周囲の人が健康を害したりすることによって膨らむ医療費が健康保険支出を増大させているなら、それよりも禁煙外来にかかる保険費用が少ないなら、禁煙外来に保険適用を認めるのが、費用対効果としては正しい。
いや、なんか納得いかん。
そもそもタバコを売らなければいいのだ。そうすれば、肺癌になったり副流煙で周囲の人が健康を害したりすることで発生する医療費がそもそもチャラになるのだ。と言うと、「タバコを吸うことも個人の権利であり自由のひとつである」となる。副流煙が公共の福祉に反しないのかどうかというのは置いておいて、確かにタバコを吸うのは個人の自由なので、「タバコ保険」をつくればよろしい。taspoがあるのだから、タバコ1箱に自動的に「タバコ保険」料を上乗せして、万一喫煙者が肺癌にかかろうものなら、taspoを提示すれば「タバコ保険」が適用されるようにすればよろしい。これがITの正しい使い方だ。我々非喫煙者も支払っている健康保険の勘定丼の中から賄われるというのは誠に受容しがたい。
そういうと「保険の精神に反する」「互助精神が云々」「細分化は社会格差をかんぬん」となる訳ですが、勝手にタバコを吸い始めて、肺癌になって治療をというのはまだしも、禁煙するのに保険適用というのはやっぱり変だと思う訳です。それを解決するためにtaspoと「タバコ保険」による仕組を導入するためにかかる費用が禁煙外来に使う保険費用よりも莫大にかかるというならこればっかりは目を瞑るしかないかと思いますが、そこそこええ線でやれまっせ、ということなら、歯を食いしばってでも防ぐべきモラルハザードがそこにはある、と思わなくもない。
そんなことを財政負担するくらいなら、待機児童解消に予算を回せたほうがいいんじゃないの?と、そのCMを見ながら思って、25,000人ってどのくらいの割合なのか?と思っていろいろ統計を見てみると、wikipediaによると保育所利用数は約220万人。待機児童25,000人というのは約1.1%ということになる。1.1%を解消するためにどれくらいの労力を割くべきなのか?いや、パーセンテージの過多に関わらず、これはゼロにするべきものなのか?とかいろいろ考えていると、テレビのニュースは「社内保育所の閉鎖相次ぐ」と言いだした。
なぜ?待機児童は解消されてないのに?
要は、「児童は増減するが、保育士は常に児童の定員最大に対応できるように雇用しなければいけないので、収支がどうしても合わない」ということだった。これは社内保育所に限らず、公的私的含めて、日本全国で起きている、待機児童問題の根本なのだろうなと思った。
グローバル化が進めば、人は移動しやすくなるし、移動しなければならなくなる。
居住のフレキシビリティが高まるということは、人口の増減も活発になるし、もちろん児童の年次変動も活発になるということ。あたかもゲリラ豪雨のように、ある年はこの地方に人が集まり、ある年は別の地方に人が、というのが当たり前になっている。じゃあ保育所の体制もそれに合わせて柔軟に、とはいかない。保育士さんを減らして、来年子ども多そうだからまた増やす、なんて簡単にいかない。保育士数も不足しているのだから。
クラウドが世間を席巻しているように、なんでも「必要な時に、必要な分だけ」利用できたらそれがいちばんいいに違いない。けれどそうは行かないから冷蔵庫に食料品貯めたり、貯金したり、蓄電したりする訳です。人が動きやすくなったからと言って、じゃあ保育所とか学校とかもフレキシブルに、と、そういう訳にはいかない。フレキシビリティを高められる部分と、フレキシビリティを高めるからこそ、安定的にサービス供給できなければいけないサービスというのがあって、保育所は恐らくその一つに数えられるものだろうと思う。だからやっぱり、禁煙外来に保険を使うよりも、優先順位としてはこちらなんじゃないの?と思う。別に禁煙外来のほうがハイプライオリティです、とニュースで言ってた訳では、ないけれど。