奈良先端科学技術大学院大学公開講座2013 「ビッグデータが世界を変える あなたに迫る超大規模データ」 10/05

1コマ105分 x2コマの講義受講は約20年ぶりでちょっと辛かったですが、正に仕事で関わっている分野について、研究者の方の解説に触れられる貴重な機会です。これが無償なんだから行かない道理はないでしょう!

奈良先端科学技術大学院大学(以下NAIST)はウチから車で20分くらいのところなんですが、毎年秋に公開講座をやっていたと今年初めて知りました。今年、公開講座の存在が私のアンテナに引っかかってくれたのはもちろん講座のテーマが「ビッグデータ」だったからですが、ビッグデータは業界のみならず、広く世間の関心を呼んでいるテーマらしく、今年の公開講座は講座始まって以来最大の300名の申し込みがあったとのことでした。

しかし残念だったのは、その300名のほとんど、9割くらいと言って言い過ぎじゃないと思う、ほとんどが定年退職後と思しき老年男性だったこと。世間のこういう教養講座的なものを覗いてみると、特に奈良ではたいていお年を召した方々。選挙のときと同じ雰囲気。確かにあの世代の方々は知的好奇心が旺盛というか、テレビや新聞を賑わす世間の出来事を、「自分の世界」と同じレイヤで見聞きし語る姿勢で生きてきているので、門外漢かどうかお構いなしに興味のあることには貪欲と判ってはいますが、それにつけても中年以下のいないこといないこと。結局、日常生活や仕事で忙しいからこういう時間が取れないとなると、いつまで立っても教養も連携も身につかず、政治に参加する動機もなく、世の中何にも変わりません、を補強していくだけのような気がします。

講義そのものは、言語処理系の話とデータマイニングの話で、どちらも一般知識としては知っていましたが、誰かに語って説明してもらったのは初めてなので、語る言葉が増えてとても有益でした。一方で、各講義の後で質疑の時間があったのですが、そこはやはり一般人の方が来られているので、質問の内容もどうしても講義の内容にマッチした質問ではなく、漠然とした「ビッグデータ」に対する質問になってしまう場面もあったのですが、それに対して、きちんと一般的な切り口で答えを返されていたところがさすがだと思いました。

今月は毎週土曜は学生です。この後の講義も興味深いものばかりで楽しみにしています。

『スナックちどり』/よしもとばなな

「私」が離婚した「彼」は、明確に「バブル時代」の擬人。みよりをすべてなくした「私」のいとこの「ちどり」は、バブル崩壊後の現代の擬人。「私」と「ちどり」は40歳で、好景気に沸く80年代~90年代前半を目の当りにしながら、その後を今まで生きてきた世代。「ちどり」は、自分の人生でいいことはもうすべて起こっていて、この後はそうそういいこともないまま過ぎていくのだと観念している。この話は、バブル崩壊後、だんだんと老い先が見えてくる頃合いを、どうやって生きていけばいいのかということを、時代を擬人化して語ってくれているのだと思う。

「彼」は、人を楽しそうにするのが大好きな人だったが、それだけの人でもあった。本当に楽しくしているのではなく、あくまで「楽しそう」にするだけ。彼の中には中心がない。人が喜ぶ顔だけを求めて振る舞っている。それがいかに空しいことか判っていながら、少し思い返すとどうしようもなくそんな「彼」のムードに引っ張られてしまう「私」。正に、バブルなんてろくなもんじゃないと頭で判っていながら、その魅力に抗いきれない現代を象徴しているよう。

そんな、どうにも遣る瀬無い状況からなかなか立ち直れない私たちに、「私」は「少し先の楽しいこと」を見出して今日を生きていくことが力になるよと言っている。イギリスを旅する二人は、明日あそこに行こう、という楽しいこと、来年またここに来よう、という楽しいこと、そういうのを見つけて日々を暮らすことが変なスパイラルを断ち切れるやり方だよと。

変なスパイラルを断ち切るために二人がイギリスで少しの間共に暮らしたように、少しの間、その現実から距離を置いてみるのも間違いではないと語ってくれる。いつものよしもとばななの小説のように、得体の知れない生命力が言葉のそこかしこから放たれてくる雰囲気ではなくて、本当に希望を失って、明日のことも未来の夢もよく判らなくなったような、どん底の世代に対して、立ち直り方をひとつそっと差し出してくれる、稀有な小説と思う。

416382510X スナックちどり
よしもと ばなな
文藝春秋 2013-09-27

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街の本屋で本を買う - 2013/09/27 紀伊國屋書店梅田本店

紀伊國屋の梅田本店と言うのは、デカいだけでごちゃごちゃしてて人も多くて見づらくて見づらいのに本の「姿」はあまり感じられなくて好きじゃなくなって当分行ってなかったんだけど、機会があって入ってみたら、僕は今回北西側の入り口から入ったんだけど、そこからビッグマン側の出入り口までほぼ斜めに店内を突っ切れるレイアウトは結構目に飛び込みやすくなっていて好印象だった。

でも特に何を買うこともなくビッグマンから出ようと思った最後の最後に目に飛び込んだ、よしもとばなな。続いて村上春樹も目に飛び込んだんだけど、府立図書館で『魔の山』借りてきたとこなんだけど、やっぱりその魅力にはあらがえずよしもとばなな『スナックちどり』お買い上げ。

好きな作家の新刊はもちろんチェックしているつもりなんだけど、やっぱりたまにチェックできていないことがあって、おまけにチェック漏れてたものの発売日に偶然出くわしてしまうとそりゃやっぱり買わない手はないよね。

416382510X スナックちどり
よしもと ばなな
文藝春秋 2013-09-27

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誰かが追いかける背中になること

この業界、あまり詳しくは書けないけれど、会社を辞める人が立て続く時期というのがある。今、まさに立て続いているんだけど、その中に、私とほぼ同じ頃に入社して、3,4年同じチームで仕事をしていた、とても仕事の出来る5歳ほど年下の男性がいた。先週一杯で退職で、辞めることを知ったのは先週の火曜日、それも人づてだった。

彼と同じチームで仕事をしていたときは本当に飛ぶ鳥を落とす勢いというか、物凄くうまく行っていたチームだった。私は転職して1,2年の頃で、まだもう一つ社内組織も事情もワークフローもそれどころか製品さえ万全に把握できておらず、そんなところを一から十まで細かく丁寧にフォローしてくれたのが彼だった。何かにつけ細部まで完璧で、私はお客様のところで案件をどういう方向で進めれば満足して頂けるか、大枠の方向性を間違えないようにすることに集中すればよかった。とても信頼できるチームメイトだった。

それで、「辞めるって聞きましたよ」とメールしたら、彼から丁寧な返信がもらえた。だいたい、そういうときのメールに書かれる内容というのはマイナスなことはないものだけれど、彼がそのメールに、私の仕事ぶりに影響され、同じ職種を目指してみたいと思っていました、と綴られていて、話半分でも非常に嬉しかった。自分の仕事ぶりが、誰かの励みになれたのなら、それによってチームメイトとしてのその人を失うことになるとしても、自分のやっていることは間違っていないと自信を持てるありがたいことだ。

自分の背中が、誰かにとって追いかける目標になれていた自分は、少し誇りにしてもいいんじゃないかと思った。これは自分にとってとても励みになる。サラリーマンとしてこの年になって、こういった励みはなかなか巡り合えるものではない。だからこそ、胸に大事に灯しながら明日からも努力しようと思う。

街の本屋で本を買う - 2013/09/24 ブックスキヨスク新大阪駅店

flipboardをパラパラ捲っていたら、アスキークラウド最新号の紹介が。使うアテはないけれど無闇に気になっている決済サービス"Square"の特集で、翌日振込等の常識破りのサービスを展開しつつ、カード会社への手数料支払等を考えると実際に利益を出せるビジネスなのか?というところに踏み込んでいる内容とあり、これは買いだと新大阪駅で降りると同時に即購入。

しかし雑誌はどこでも置いているしどこでも買えるから、こういうのこそ地元の本屋で買うべきといつも思うけど、買いたいと思った時に買わないとそびれたり忘れたりするし、だいたい帰宅時はすでに閉店してる時間帯。やっぱり利便性は優先。

B00F2L44JK アスキークラウド 2013年 11月号 [雑誌]
アスキー・メディアワークス 2013-09-24

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クラウドファンディングとサスティナビリティとアート

前から、クラウドファンディングについてきちんと考えようと思っていました。クラウドファンディングとは、wikipediaによると、

クラウドファンディング(英語:crowd funding)とは、不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。

となっています。大雑把に言うと「インターネットを使って幅広く事業資金を調達すること」で、その特徴は小口出資が主体で、ベンチャー的に個人で起業する人にとって有力な資金調達手段であり得ることだと言えると思います。

数か月前、このクラウドファンディングのことを、「素晴らしい事業を行っていれば、インターネット上で世界中から報酬を支払ってくれる人を集められる、素晴らしい仕組みだ」と書いているブログを読んで、「何を寝言を言ってるんだ」と思ったのがクラウドファンディングについて考え込むきっかけでした。

クラウドファンディングは、文字通り「ファンディング」です。「報酬」ではない。これから何かを始めたい、だけれでもその元手がない、銀行に出資を願うほど多額も要らないしそこまでの信用力もない、そういう「企業家」が、自分の事業計画をネット上で公表して、ネット上の不特定多数に出資を募る。つまり、クラウドファンディングで調達したお金は「出資」ですから、「償還」しなければならない。利子つけて返さないといけない訳です。

では私はクラウドファンディングのサイトを見て、「これは」と興味をひかれた、おもしろそうな事業に出資するだろうか?答えはノーです。その理由は、今見聞する限り、投資に見合うリターンのある案件は存在しないからです。

クラウドファンディングの出資者に対するリターンは、聞くところによるとほとんどがその事業で生み出される成果物みたいです。たとえば10,000円出資して、よくわからない発明品が手に入ってもしようがない。これは、儲けたいか儲けたくないか、ということとは違います。これがはっきりと「寄付を募る」というのだったら、興味をひかれたおもしろげな案件に、喜んでお金を出すと思います。「ファンディング」と名乗っているのにこれだから、出資する気にならないのです。

銀行の融資の仕組も、株式会社の仕組も、経済活動上その必要性があるからああいう形態になっている訳です。その多くは「信用」に関わるところだと思います。だから、融資の仕組も株式の仕組も長続きしている。でははたして、クラウドファンディングの仕組が長続きするか?今のところ、日本では私はノーだと思います。物珍しいから面白がってお金を出している人が多くいるうちは続くと思いますが、面白がって出すお金には限度があります。それに面白がる鮮度も限度があります。おまけに、そうそう面白い案件が出てくることはないですし、真に面白い案件であれば銀行から出資を受けることもできるはずです。そう考えると、リスクは高いのに満足なリターンのないクラウドファンディングが続けば、そこにサスティナビリティがあるかないかは明白なように思います。

このクラウドファンディングをアートに応用している活動もいくつかあるようですが、出資が必要なアート活動というのはどういうものなのか考えてみました。例えば映画を創る。そのための資金が必要である。ならばその調達資金は当然、上映の売上から返すべきお金になる。こういうことならわかる。しかし、調達したお金は芸術家の食い扶持で、出資に対するリターンは展示会のチケット。こういうのはおそらく続かないと思う。なぜならチケットを買う方が早いし、それのほうが断然全うだから。まず努力するべきは、アウトプットに対する対価を得られるように努力することで、出資を得ようとすることではないと思います。

だから、クラウドファンディングにも寄付型があって、寄付型であれば私は納得できると思います。この筋はきちんと通すべき筋ではないかなと覆います。

独走会 - 酬恩庵一休寺

一休も600年前、この隙間からの秋晴れを眺めたということか。
独走会と言うのは富雄の超絶カッコいい自転車屋TRANSITの走行会「おいしいポタリング」の参加者の(すごくカッコよく言うと)スピンアウトで、「独りで走る愉しさ」を知る大人の集団、ということにしています。その独走会の走行会、「独走会(どくそうえ)」というのをやってまして、集合時間と場所だけ決めて、途中輪行でも何でもいいからそこまでやってこい、という、自転車でやるフラッシュモブ的なことをしてます。先週予定していたのですが台風で取りやめたので、この21日に行ってきました。目的地は酬恩庵一休寺。あの一休さんが晩年を過ごし、お墓もあるお寺です。JR京田辺・近鉄新田辺からほど近いところにあります。

僕の当日のルートはこんな感じ。


行きは生駒から北上し、くろんど池の東・陸上自衛隊祝園駐屯地のすぐ西の山を縫っていくルート。これがたぶん最短距離だと思います。帰りは、行きのルートがずいぶん下りだったことを判っている分、そのルートを引き返す気になれず、近鉄沿いに南下して163で帰りましたが、GARMINのログを見ると、それでもまあまあ登ってる・・・。

今回、若干病み上がりということもあって調子どうかなーと思ってはいたのですが、走りだし当初は「大丈夫かオレ」と思うくらい回らず、心拍数も上がってないし足が痛い訳でもないのにとにかく回すのが辛くて、「あーこれは帰りは輪行決定だな」と思ってたのですが、ちょうど鳥谷を超えて京田辺に入って下りに入ったくらいからだんだん回復し、その後は快適にサイクリングを楽しむことができました。しばらく鈍ってる体を起こすためのウォーミングアップは大切と痛感しました。

それにしても前回の多度ツーリングのときから課題だなと思ってるのが、
  • 2~4%くらいの、普通の速度で走れないといけない坂が異様にきつい

これの解消が目下の課題。何が悪いんだろう?5%を超える坂だと、「坂!」と目にもわかるし体もそれに対応するんだけど、緩い坂のとき、異様にきつく感じる。もうちょっと楽に上れるはずなんだけどな。

ゲームと複雑な感情

携帯電話向けゲームの先駆者、グリーが急失速した。スマートフォン(スマホ)時代についていけず、業績は悪化。一時は任天堂をおびやかすほどの栄華を誇りながら、その天下はわずか3年で終わった。グリーにとって生き残りをかけたサバイバルゲームが始まっている。
グリーの「三年天下」、熾烈なゲーム生存競争  日本経済新聞Web刊 2013/9/2 7:00

 私は就職活動時、第一希望がゲーム業界で、当時で言うところの「ゲームデザイナー」になりたいと準備をした人間で、心からゲームを愛していたので、グリーやディー・エヌ・エーを苦々しく思っていた。小説や漫画や映画と同じように、芸術的要素も持ちうるひとつの娯楽として成り立とうとしていたゲームを、プレイヤーの知恵も工夫も技巧も何も関係ないただの「ボタン押し」に成り下げた主犯格として。ゲームをその程度に矮小化しただけならいざ知らず、「カネを出せば強くなる」式の仕組を持ち込み、おまけにそれをゲームのおもしろさを左右する要素よりもゲームの収益源としての役割を優先させたからだ。言わずと知れた「コンプガチャ」だ。おもしろいゲームがまだまだ世の中にはあるなかで、猫も杓子もゲームと言えばグリーかディー・エヌ・エーかでやるもんだという認識に染まっていくのを、本当に悲しい思いで見ていた。

 しかし一方で、彼らも判っていたように、私たちもグリーやディー・エヌ・エーのモデルが未来永劫に続くとは思っていなかった。なぜならグリーやディー・エヌ・エーのモデルはプラットフォームビジネスだったから。世間のビジネスモデル指南書では「プラットフォームを握る者が世界を制す」とよく書かれていて、それは確かに正しいのだけど、プラットフォームをプラットフォームとして維持し続けることは並大抵のことではない。スマートフォンがシェアを拡大して、アプリというものが各スマートフォンのアプリ購入サイトから購入するのが当たり前になったとき、グリーやディー・エヌ・エーに存在価値はあるだろうか?

 そして満を持したかのように届いたニュースが、「セガなどゲームソフト15社がスマホ向けゲームのユーザー開拓で連携する」というものだった。もちろんグリー、ディー・エヌ・エー外し。

 もちろん、「いい気味だ」という気持ちは禁じ得ない。心から愛するゲームを、ただの「商品」として扱った罰だ。利殖の道具として。ゲームという様式の中でのおもしろさを追求したのではなく、条件反射と禁断症状を利用して釘づけにすることを追求した彼らに「ざまあみろ」と言いたい気持ちはもちろんある。しかしながら、グリーの田中良和氏は如才ないし、経営スキルは高いものを持たれていると思うし、何よりもともとSNSを運営していたところに「商材」としてゲームを扱ったように、扱うものに強いこだわりを持つのではなく、ビジネスの対象として扱うことのできるスキルを持っているので、会社としてのグリーは必ず復活してくると思う。

 なぜ、グリーやディー・エヌ・エーに対して、「ざまあみろ」と散々罵倒すればいい、という気持ちになりきれないのだろう?それは、グリーやディー・エヌ・エーを「利用」してきた外野のほうが、よほど罪深いのではないか、と思うからだ。投資家についてはそうは思わない。うまくリターンを得て勝ち抜けた人はそれだけの才覚があったのだと思うし、そもそもゲーム会社を投資の対象にすること自体に、ゲーム業界を志していた身としては違和感を感じざるを得ない。それが、ゲーム業界が未熟で不安定だという意味ではない。だいたいの世間の人は、ゲームとは何か、ゲーム業界とは何かなんて、ちゃんと理解しようとはしていないと思うからだ。

 ではグリーやディー・エヌ・エーを利用してきた「外野」とは誰か?それは他ならぬ我々IT業界だと思う。言うまでもなく、ゲーム業界は大量のサーバ、ストレージ、高速のネットワーク等々、非常に高性能なIT機器やシステムを必要とする。ある意味で、テクノロジーの最先端業界なのだ。我々IT業界も他の産業界と違わず、最新テクノロジーはどこかで「実験」し、その知見を以て安定化させて一般化し賞品として普及させなければならない。他の業界がどうなのかはよくわからないけれど、我々IT業界ではこの「実験」先は、パブリック・セクター(大学か、公共投資が行われる事業-たとえば「京」)かゲーム業界だ。こういう「実験」が行われるところでは、「先行投資」が行われているので、リターンに対する厳しい目よりは、「絶対価」の高低だけで採用される節がある。かくして我々は、自分たちのノウハウを蓄えるための「実験場」として、最新テクノロジーをゲーム業界に売りつける。

 企業活動においてはどうしても金で時間を買わなければならないフェーズがあるのは承知していて、だからこそ先行投資の必要があることも理解している。けれど、グリーが本当に記事で書かれているほど破綻しているのであれば、そこまで倫理を失わせたのは無暗に車輪を回させた我々にも責任の一端があると言えるのではないか。結局、その果実を手にしているのはやはりクレバーにその場を乗り切っているIT企業だけなのだ。それに最も憤る。ソニーのセルのときもそうだった。

街の本屋で本を買う - 2013/09/16 生駒駅売店

9/14発売だったことを9/14の夜に思い出し、慌てて近所の本屋に駆け込んだけれど在庫なし。昨日は風邪気味で一日おとなしくしていて、今日、散歩がてらに外に出てみて「ひょっとしたら駅の売店にあるかも」と思って覗いたら運よくありました。本屋じゃないですけど。こんな買い方もあるということで。

AERA (アエラ) 2013年 9/23号 [雑誌]
AERA  2013 923
朝日新聞出版 2013-09-14
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B'z "LIVE-GYM Pleasure 2013 -ENDLESS SUMMER-" 2013/09/12@京セラドーム大阪

”正解が欲しい それが幸せ?
その寂しさを僕らは生きる”
(『Q&A』/B'z)

25周年記念ツアーということで、内容はもう正に"Pleasure"ツアーそのもの。20周年のときの神戸ユニバーのほうがスケール感が大きかった印象ですが、きっとトリの日産スタジアムは20周年のときと負けず劣らずの規模感で展開されるんだろうな~と思うと羨ましい。今、関西で屋外で苦情少なく交通の不便も少なくやれるところって少なそうだもんな~。ユニバーなんて21:30過ぎに終演されて規制退場だと、関西圏でも帰るに帰れない人続出だったもんね。

座席はいつものように当日までわかりませんでしたがアリーナ10列だったので満足。Circle of Rockの次くらいに近いかな?Pleasure 2008のときもまあまあ前方だったので、さすがにX周年記念のPleasureはファンクラブ優先を考慮してくれてるのかも。通常ツアーのときはファンクラブ優先でスタンドはおろか落選することあるもんな…。

さて今回のライブですが、振り返っていちばん最初に思い出すのは「やっぱり『C'mon』は名曲だな~」ということ。未だに泣ける。”C'mon"ツアーのときはもうこの一曲だけで十分という感想だったんですが、その想いは変わらないですね。東日本大震災の直後に創られて、アルバムタイトルにもなってリリースされたこの曲。今後ずっとライブで聴きたいと思います。

もう一つは「正しさ」についての一連の流れかな。

"何をどこまで信じればいいか 君が僕に教えてよ"
(『ZERO』/B'z)


"いつでも正しい人なんているのかな"
(『あいかわらずなボクら』/B'z)


暗闇にうかんでるその頬に触れる
誰もがゆずれない正義を抱いて"
(『Q&A』/B'z)



いや、それよりも、「それは年齢とは関係ない」と思わされたこっちかな。

"いつのまにかこの街に 丸め込まれるのは誰?
くだらなかったあの頃に 戻りたい戻りたくない"
(『Pleasure 2013』/B'z)