御上至上主義で特定秘密保護法案は葬れない

ここには重篤な「御上至上主義」「御上依存」が染みついていて、何かを動かす力はほとんど宿っていない。

"なんと愚かな人間を、政治家などという仕事に就かせ、それをわざわざ身銭を切って養う事の哀しさよ!

言うても仕方が無いことやけど言う。
こういう動きが、せめて半年前ぐらいから始まってたら……。
マスコミや著名人が、せめて半年ぐらい前から声を上げてたら……。"
(ふくしま集団疎開裁判の会)

政治家と自分たちが繋がっていることを棚に上げているし、声を上げるのは「マスコミ」や「著名人」という「お上」がやってくれるべきだ、という「他人任せ」根性が染みついている。特定秘密保護法にアラートを上げるのは、別に個人だってできたはずだ。たとえ、それが近場の数人にしか伝わらなかったとしても。どこかの優れた一握りおスーパーヒーローが「政治家」や「マスコミ」や「著名人」となって、我々庶民の暮らしを守ってくれる、そういう発想こそが独裁に繋がるのだ、独裁を招く特定秘密保護法の成立に加担する意思なのだ、ということに気づいていない。「お上はダメだから我々で」では遅いのだ。お上はお上で動かし、自分たちは自分たちで動く。相手がどれほど「上」に立つ相手であれ、そいつのせいにするのなら自分の自由と引き換えになることを忘れてはならない。オマエは何を成し遂げたんだ?といつも返す刀で聞かれているのが人生。

ただ、僕のこの考え方は、現代のマスコミの怠慢に繋がっていることも理解するようになった。マスコミは我々一般大衆の合わせ鏡であるだけではなく、体制側の拡声器でもあり、なおかつ一般大衆が努力するときには自分たちの役割をサボることもあるからだ。マスコミに対してどうやって継続的な牽制を続けるか?かつてTVがほぼマスコミだったころは、なんだかよくわからないけれど「世論」というものが大反対しているので法案を通すのを取りやめよう、みたいなことが実際に起きた。情報流通がこれほどまでに簡単になった現代のほうが、そういう一般大衆の「大きな力」をマスコミが反映しなくなってきていると思う。

ファーストフード店での品格

とあるマックでMサイズのホットコーヒーを頼んで仕事をしていると、それは起きた。

二十代と見える男性店員が、少し離れた席に座っていた五、六十歳の男性に話しかけた。話しかけるというよりは詰め寄った。

「お客様。お客様。お客様!」

机をコンコンとノックもするのだが反応がない。客の男性はイヤフォンをしていて何か聞いているようだが、あれだけ人が詰め寄ってきたら普通気づくと思うので、寝ているようだ。

とうとう店員がその男性客を揺すって気づかせた。

「お客様!これ、持ち込みですよね?持ち込みは困るんです!お済でしたらお帰り頂けますか!」

男性客のテーブルの上のトレーには、コンビニのサンドイッチと思しき包みの屑、バナナの皮、飲みさしのいろはす。Sサイズのコーヒーが申し訳のように隅に置かれていた。

どうもやり取りを聞いていると、男性客は以前から繰り返し持ち込み・長時間滞在をやっているらしい。それを不快に思っていた若い店員が、溜まりかねて爆発した、という感じだった。

男性客のほうは「チーフを出せ」とか「まだコーヒー飲んでるんやわ、他の人もたくさん居てるでしょう、コーヒー長い時間飲んでる人」とか「マックってこんな怖いとこやったけなあ」とか、のらりくらりと躱している。

僕は非常に複雑な気分になった。これは今はやりの「お客様は神様か?」文脈に通じることだと思った。

  • コーヒー一杯で長時間滞在することの是非
  • 持ち込みすることの是非
  • 長時間滞在の上、座席で眠ることの是非

「ちゃんと商品を買って入店していて、滞在時間に制限がないんだから、何しても構わない」というスタンスの「客」という存在が増えて半ば当たり前みたいになったのはいつからなんだろう?やりはしないけどもし僕があの男性客と同じことをしたとして、注意されたら恥ずかしくて退店する。それがまっとうな感覚というものだろう。園遊会で陛下に手紙を渡してはいけないなんて「いちいち書くことではない」という以上に、いちいち明文化しなくても分かってないといけないことだろう。「書いてないじゃないか」という言い草がいかに下劣な人間性なのかということを、僕たちは改めて世に浸透しなければいけないと思う。

正直に言って、あの店員は、もう少しうまい言い方は確かにあったと思う。人を、とりわけ客を思うように動かしたいのなら、言い方は非常に大事だと思う。しかしそれは、あくまで「結果」にフォーカスした行動方針だ。言い換えると、自分が手に入れたい「結果」のために、自分をある意味で「曲げている」ということもできる。自分の常識に照らしてあってはならないことをやっている相手に対して、今後の店の売上とか自分の雇用とかそういうのを算盤に入れた結果、「下手に出たほうがいい」という判断でやっていることだ。果たしてそれは褒められたことだろうか?ここで、「お客様は神様なのか?」という命題が登場する。僕は、客であればいかなるときでも丁重に扱われなければならないという常識はそろそろ終わりにしていいと思っている。第一、「お金を払っているから」という論法は、「じゃああなたよりもお金を払っている方をより優遇します」と言われたらぐうの音もでないロジック、のはずなのだ。

男性客も店員もどっちもどっちで片づけるのは簡単だけど、僕は、どんなときでも言葉遣いというのは最重要だという基準を当てはめたとしても、やはりこの件は男性客が間違っていると思う。こういう状況があった際、「あれはあの客が悪い」と誰もが思う状態がまっとうだと思う。

街の本屋で本を買う - 2013/11/17 ジャパンブックス生駒南店

本を読むのも、ただなんということもなく楽しみに感じなくなっている昨今。なんだろうこの気分。

書評を読んだり本屋で見かけたりして、気になっているタイトルは溜まっているけれど、なぜか今一つどれも手に取る気になれない。手に取ろうと思うと頭に浮かぶどんよりとした気分。それが何なのか何が原因なのかわからない、読もうと思ったら休みがだいたい一日潰れてしまってこれで良かったのか?と落ち込んでしまうのを思い起こしたからなのか、読書という行為をちゃんとやっているのに何か無駄なことをしたと思ってしまうことに自分自身幻滅してしまうことを思い出すからなのか、よくわからないけれどとにかくどんよりする。

なんとか打開したいのでとりあえず有益無益を一切考えず、いちばん今自分が興味の持てる『動きすぎてはいけない』を買おう、と近所のジャパンブックスに行ってみたけれど、薄々分かってはいたけれど、さすがに近所の小型の本屋さんにそんなゴリゴリのドゥルーズ哲学本置いてる訳ありません。本棚をくまなく探してみて偶然見つけたのがよしもとばななの『すばらしい日々』。知らないタイトルだな、いつの刊行だろ?と手に取ってみたら帯には「震災、放射能、両親の死ー」と書かれているし、これはそんなに古い本ではないと思ったら2013年10月25日初版。せっかく出会ったのでそのままご購入。だいたいこんな塞ぎ込んだ気分のときにはよしもとばななに助けられることが多いな。有難い。気楽にさっと今日読んでしまおう。

すばらしい日々
よしもとばなな

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街の本屋で本を買う - 2013/11/15 ジュンク堂書店 梅田ヒルトンプラザ店

2か月前、「今こそ原子力推進に舵を切れ」と謳った雑誌が、「福島の被災者が見たチェルノブイリ」とは。

B00EQ5H72O WEDGE 2013年9月号 今こそ原子力推進に舵を切れ
岡本隆司 竹本三保 原田 泰
株式会社ウェッジ 2013

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チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』は過去の原発事故の歴史に学ぶという難しい課題を詳細に伝えてくれた本でした。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』と、WEDGEの2013年11月号「福島の被災者が見たチェルノブイリ」とは、どちらもチェルノブイリの現地を取材し、現実に学ぶというスタンスと思われるのに、なぜこうも受ける印象が違うのだろう?『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』が言うことは真摯に受け止め自分なりに考えてみようと思うのに、WEDGEの言うことは最初から反発する気満々になってしまう。

WEDGEを出版しているのが株式会社ウェッジという会社だけど、株式会社ウェッジはJR東海の関連会社で、WEDGEはびっくりするくらい正直にJR東海の意向を反映したような記事を前面に出してくる。その最たるものが2013年9月号の「今こそ原子力推進に舵を切れ」だった。原子力を封印していることで燃料費4兆円という国富が海外に流出しているとか、なかなか言い返しようのない論法で原子力推進を押してくる。WEDGEはグリーン車で無料配布なので、読者ターゲットもアッパーミドル以上、経営者層なので、「一般世間は原子力反対なのでおおっぴらには言いにくいけれど、事業コストを考えれば電力費は安価なほうがいいから早く原発再稼働してもらいたい」と思っている層にうまく取り入る記事を掲載している。

そんなWEDGEだから、これにお金を出して利するというのは、僕一人が買おうが買うまいが態勢に影響はないんだけど、態勢に影響がないからといって自らの行動をいい加減にするのが最もよくないと常日頃言っているので、ここはひとつ、WEDGE2013年11月号が何を言っているかは、買うのではなく立ち読みで調べようとと、ジュンクヒルトンプラザで立ち読みした。

結局、WEDGEのチェルノブイリ特集から感じるうさん臭さというのは、「自分たちに都合のいい結論ありき」で、それを補強するために、あたかも過去の歴史に学ぶ姿勢を持っているとアピールするのにこれ以上ない「チェルノブイリ」を持ち出しているところだと思う。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』は原子力発電をどうするかについては保留して、チェルノブイリの現状から正しい知識を学ぶことと、福島原発を「観光地化」するという案の説明に徹している。開かれたジャーナリズムというのは、決して中間で客観的な意見を伝えるということではないのだとすると、JR東海の意向を如実に反映するWEDGEもひとつの役割を持っていて、努めて客観的な記載にし、原発をどうするかについて明確なスタンスを出していない『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』はジャーナリズムとしては中途半端ということになってしまうのだろうか?

Surface Pro 2の使い心地 その3

すみません、ちゃんとありました、Google Appsアプリ。

Chromeを普通に立ち上げたらタッチでフォーカスが当たらないとか、IEとChrome、どちらか一方しかWindows8モードでしか動かないので不便とか書きましたが、なんと"Google Search"アプリが普通にGoogle Appsアプリになってました。ただの検索インターフェースかと思っていたら、gmailもカレンダーも写真もドライブも全部Windows8アプリとして最適化されたものになってました。インターフェースの色目もきれいだし、フォントも美しいし、使いやすいです。「アプリ」のメニューの出方が使ってるアプリでばらばら(gmailだと右上の3x3のボックスが並ぶアイコンだけどドライブだと旧来の左上とか)なのがちょっと戸惑うけど、Googleドライブも使いやすいインターフェースから使えるのは素晴らしいです。Surfaceがより使えるものになります。

『数字を追うな 統計を読め』/佐藤朋彦

その数字を扱う「意図」も留意されるべきだけど、何のためにその数字を使うのかと言う「目的意識」の吟味も大事だと思います。

特定秘密保護法案の動向に警鐘を鳴らしたとしか思えない節についてはfacebookにもう書いちゃったので、阪神淡路大震災のときに統計が継続されたエピソードを読んだときに思ったことを纏めよう。

1995年の阪神淡路大震災のとき、被災された調査世帯の一部で、家計調査の家計簿を記録し続けていた世帯があったそうです。過酷な被災状況の下で家計簿と日々の暮らしの記録を記帳されていた調査世帯に、著者は「ほんとうに頭の下がる思いでした」と記されています。

さてその家計調査を見ると、消費支出は1-3月期で約10%、4-6月期で約6%前年同月比減なのに、7-9月期は3.2%増になります。これは、震災で多くの、あるいはあらゆる家財を失った被災者の方が生活を立て直していく中で、エアコンや冷蔵庫といったものが最低限どうしても必要になってくる中で支出されたものと考えられます。

例えばこういう統計を見て、「大災害が発生した際、被災世帯に対して纏まった金銭的な支援が必要になるのは約半年後なので、災害発生時に発生から半年後くらいで機動的に運用できる支援準備を考える」というふうな目的意識で読むのか、「半年くらい経ったころに家財を買い揃え始めるからこのくらいの時期にセールを売ったり出張販売したりすれば稼げる」というふうな目的意識で読むのか。もちろんこの二つの読み方に優劣善悪をつけること自体が危険なことであると認識していますが、こういう判断から逃げないところにしか、いわゆる「品」を獲得していくことはできないのではないかと思います。

LOSTAGE "Crypt City Defect release tour" 2013/11/08@奈良NEVERLAND

ネバーランドで兄さんが宙を舞うのを初めて見ました!

・・・というテンションでいつも通りライブの感想を書くはずが、「あれってダイブでいいんだっけ?クラウド・サーフ?」といちいち言葉の定義に敏感になるタチなので検索してみたら、思いもかけず横山剣氏のブログに行き当たり、何気なく読んでみたらこれが途方もなく深くて腕組みして考え込んでしまったのでした。

2009年のエントリーなので(いつも思うけど、コラムとかブログは年月日入れておくのが絶対だと思うんだけど、一般のニュースサイト含めてなんで掲載年月日ないところ多いんだろう?このサイトも各エントリーにはNoだけで年月日がなくて、ROCK IN JAPAN FES.の年数で2009年とやっとわかった)詳細はぜひぜひ読んでほしいのですが、ダイブ・モッシュ・クラウドサーフがつきもののKen Bandが「ダイブ・モッシュ禁止」を掲げたROCK IN JAPAN FES.に出演した際の心境と顛末が克明に書かれてます。そのバンドとファンが(仮に危険だとしても)共有しているスタイル、運営方法に責任を持つ主催者、その主催者が決定する運営規則、そこへの参加意思と参加自由、等々、「自由」について考えるときの姿勢としてこれ以上ないものに触れることができました。それとともに、これだけのことをきちんと言語化して説明できるのが凄いなあと思いました。ぼんやり考えることができても、これだけ詳らかに丁寧に書き落とすのは並大抵ではないと思います。

さて話を戻そう(Kenさんのマネ)。諸般の事情で今回も(Crypt Cityのツアーだというのに)ライブは中座でthe springsummersとLOSTAGEまで観て帰りました。the springsummersは予備知識なしでしたがここ最近では珍しいんじゃないかなと思う堅物バンドな匂いを感じました。真面目とかそういう意味じゃなくて、向こうっ気が強いというかやろうとしていることに忠実というか。曲も結構好みでした。しばらくアンテナ張ってみようかと思えるバンドでした。

LOSTAGEはいちばんのトピックはもちろん宙を舞い流血した五味兄さんなんですが(笑)昨日はいつにもまして兄さんボヤキMCのオンパレード。おもしろかったので思い出せるだけ箇条書きに:

  • (「今日はたくさんお知らせがあります」と語り始め、12/23の「大忘年会」を告知した後、ノーリアクションの会場に向かって)「もういいねん。無視されてもそのまま続けるから。淡々と続けるから。拍手とかもいらん。笑いとかもいらんねん」
  • (MC中、何かついて拓人さんに振った際、無視されて)「今日はオマエ遠くに感じるわ。会場もすごい遠く感じる」
  • 「あ。僕昨日誕生日でした!こういうとき、メンバーがこっそり何か準備してくれてるとか・・・ないよな」
  • (一緒に演奏する話をツイッター?上であっさり世間に知らしめてしまった中尾氏に対して)「なんで言うねん。ここに来てる人みんな知ってる前提やん」
  • (NEVERLANDやる前に)「いつになったらみんなで唄えるようになるんやろ。できるまでやるからな」

いやーしかし、HANARARTもとみおフェスも振りきって行ってよかったです(笑)

袖触れ合うも多生の縁・ネット版

熊本出張の機内で手に取った『翼の王国』に掲載されていた吉田修一の連載。「いつでも連絡が取れると思っていれば、もしかすると・・・」。こういうのももう二十年もすると、跡形もなくなるノスタルジーなんでしょうか。

ほんとつくづく思う。私が社会人になった20年弱前は、電車の時間は時刻表で調べてた。PCの画面で地図が見れるようになるなんて想像だにしていなかったと思う。なにしろ携帯電話もなかった。

それが今やメールは当たり前、SNSは当たり前。物理的制約から解き放たれて人間関係が多様になったと言えるし、その分、希薄な人間関係が増えたような気もしてる。年賀状だけ交換するような類の人間関係が、ネットの存在でやおら増大したというか。でも、ほんのわずかな関わり合いの人でも、その人のことを思い出した時に「これについて教えを乞うてみよう」と連絡を取りやすいという点でネットは大したものだし、大体において常日頃から忙しい有名人や社会的地位のある方々はSNSなどある前から年に一回会うかどうかの関係を、有事の際はいつでも声を掛けられる存在として維持しているし、昔にしたってどこそこで一度お会いしました程度のことを口実に面会を願ったり物を頼んだりするシーンが小説なんかでもよく登場する。

ほとほと凄い時代になったものだと思いながら『翼の王国』を開いていたら目に飛び込んだのが先の吉田修一の連載。いずれはこの感覚も時代の遺物として葬られ忘れ去られる感覚だろうけれども、私たちの世代が死滅するまでは、確かに世の中に存在した感覚であって、存在した感覚である以上、判らないよりも判る人間のほうが様々な局面で話が「わかる」だろう。死ぬまで大事にしたい。

Surface Pro 2の使い心地 その2

googleドライブかskydriveか、それが問題だ。

Sufrace Pro 2を買って4日目、一泊出張、しかも長野で一泊して翌日バスで東京という打ってつけの出張が入ったので、会社PCも持ちつつSurfaceも持って行って使い心地を試してみました。出張を終えてトータルでいちばん思ったことは、

  • これが「あんまりわくわくしない」マシンなのは、これは「生産性のマシン」だからだ

というものでした。これは私だけの感覚かも知れないですが、初めてiPod touchを持ったときとか凄いわくわくしましたし、今でもAndroidケータイだと何の気なしに触ってしまったりする訳です。でもSurfaceは、何の気なしに触っても対してわくわくしません。そのうち、何の気なしに触ろうという気がなくなってきます。そして気づいたらAndroidケータイ触ってます。

この差は何から来るかと言うと、私の場合は「情報表示のインターフェースの簡便さ」から来てます。AndroidケータイでFeedlyとFacebookを開いてスワイプしてたら何か新しいこと表示されるかなーと脳が無意識に思って時間を浪費する訳です。それに比べるとSurfaceはワンクッションあります。まだFacebookの公式アプリを入れてないからかも知れないですが、何の気なしに情報を表示させる、という雰囲気ではありません。一般的に「Windows8はアプリの充実が課題」と言われるのはこのあたりのことと同義かな、と思います。特に目的がなくてもアプリがたくさんあれば、インストールしてそれ使ってるとなんか楽しいことしているという気分になりますが、Windows8はぜんぜん数がありません。

いちおう、ニュースアプリとかはよく出来てます。 流れてくる情報は毎日新聞等のサイトの中から自分で選択できるのですが、ブラウザで見るよりもタブレットに最適化されているので、何の気なしにぱらぱら見るのに向いてますが、それでもやっぱりスマートフォンの「何の気なし」さ加減には追いつきません。

一方で、文章を書いたり、資料を作成したり、資料を確認したりするのには大変便利です。起動は早いし、キーボードはちゃんとあるし、ネイティブのOfficeがちゃんと動きますし。そういう訳で、これはやっぱり「何かを生み出す」ためのマシンだと個人的には思います。スマートフォンでもPDFは読めますが、確かに仕事の資料を送信しておいてAndroidケータイで見ることはなくはないですが、画面サイズの問題もあってあまり頭に入ってきませんでした。でもSurfaceは普通に使えます。

そうなってくると課題になるのが、「Googleドライブを使うか、Skydriveを使うか?」です。会社PCとSurfaceの2台持ちである以上、クラウドでデータ同期は必須です。私はこれまでクラウド系はGoogleドライブを利用してきたのですが、SurfaceはSkydriveの利用を前提で設計されています。もちろん仕事だけじゃなくて、こういうブログのような個人的な発信の材料もクラウドでやりたいのですが、どちらを利用するべきか。

  • ブラウザは、ChromeとIE、どちらか一方だけがWindows8(アプリ)モードになる。
  • Windows8モードで動作しているブラウザは、「対象を保存」をやると、保存先の選択がエクスプローラ形式じゃなくて、アプリ全画面の表示になる。
  • OfficeはネイティブでSkydrive保存ができる。
  • 特にOneNoteは強力。すこしメモを残すような使い方でも、複数のPCと連携できる。
  • 写真が基本Google+の自動バックアップを使っているのでGoogleドライブを外すことはできない。
  • すでに結構な数のアウトプットを、Googleドライブで扱っている。

すでに使っているのがGoogleドライブなのでGoogleドライブを使うのがすっきりはするのですが、社内ネットワークに接続している際、Googleドライブの使用に明瞭でない制限がある雰囲気で、それに対してskydriveは問題なく使えるので、この出張では、会社PCから、アポ前にバス移動中に読んでおきたい資料をSkydriveに保存して、それをバスの中でSurfaceで見る、という使い方をしてみました。

Skydriveのローカル同期の設定がよくわかっていなかったのですが、バスの中で問題なく資料を読むことができました。何といっても今のところマシンの起動もアプリの起動も断然早いので、読みたいときにすぐ読めるのは大きいです。仕事用はskydriveで連携するのがベストで間違いなさそうですが、仕事以外のデータ連携もskydriveでやるか、分けてGoogleドライブでやるかは、もう少し運用してみないと、それぞれの良し悪しがわからなそうです。


目的地は新宿ではありません

朝6:04飯田発のバスに乗って東京に向かう途中にそれは起きました。

「首都高速で事故渋滞20km。日野から新宿まで所要時間3時間」。さてどうする。双葉SAを出た8:30頃流れたアナウンス。アポは飯田橋で13:00。このままで間に合うのかどうか、日野がどのへんかもよくわからない。とりあえずケータイで調べてみると、鉄道だとJRで40分くらい、車だと35分くらいで新宿に着く距離らしい。日野で下車して鉄道の駅は近くにあるらしいので、乗り換えてしまえばお金は追加でかかるものの時間は読める。

そうこうしているうちに日野が近づいて、「事故渋滞は解消していますが別の渋滞が発生しており新宿への到着は11:10頃の見込み。別の渋滞が発生する可能性もある」とのアナウンス。さてどうする。

判断材料としては:

  • アポは飯田橋13:00。
  • 鉄道に乗り換えることにすると、1時間見ておけば新宿にほぼ間違いなくつける。
  • このままバスに乗っていれば、11:10頃新宿着の見込みで、本来所要時間40分なので、渋滞解消に伴いさらに縮まる可能性はあるが、逆に遅れる可能性もある。
  • 現在9:40。

私は「時間が読める」ことを取ってバスを降りて鉄道を選んだのですが、他の乗客の方は8割そのまま乗車されてました。商用等でなければ元の到着予定より1時間くらいまでの遅れなら許容範囲だと思いますし、仮にもっと遅れてもわざわざバスを降りるという選択肢はないでしょう。

しかし商用の私にとって、判断材料としてもうひとつ重要な事があるのを、そのとき忘れてました。それは:

  • 目的地は新宿ではない

ということです。バスが新宿行なので、そのまま移動した場合の新宿への到着時刻ばかりで比べてましたが、要は飯田橋に13:00に間に合うように移動すれば良くて、それまでの時間をどう有効に使えるかがいちばん重要なのです。

そうすると、日野でバスを降りた後、即座に新宿に移動する必要はなく、11時頃の喫茶店を探すのも大変になってくる新宿でばたばたとメールや電話連絡をするよりも、10時から12時前のビジネスアワーをバスを降りた日野で使って、それから電車移動するほうが効率的です。

それで、バスを降りた日野からモノレールで立川に10分くらいで移動して、立川駅前で仕事をして、中央線に乗るという選択を取りました。「目的は何なのか」を常によく見極めないといけないと思った出来事でした。