独走会/街のパン屋でパンを買う 2014/04/06 生駒総合運動公園ーHanna

近所走りもまた楽し。約2か月のブランクを経て、独走を再開しました!

一時間前後で手ごろなライドと言えば、私の住む生駒には「宝山寺」と「暗峠」という、泣く子も黙る二つのヒルクライムコースがあるのですが、さすがに登りきる自信がありませんでしたので、控えめに生駒総合運動公園まで登ってきました。

控えめとは言え、GARMINを見るとときどき斜度12%だったりしてリハビリにはもってこいでした。先週から時間があれば少しでもと、できる日はローラーを10分でも回していて、追い込んでも全然心拍も息も上がらなくて、「なんか調子よくなってるのかも」と喜んでましたが実走は甘くはありませんでした(笑)。向かい風でぜんぜん進まなくなる貧弱な脚。

ロングライドが大好きな自分ですが、この1時間足らずのご近所ライドで心底思ったのは、「自転車乗るのがほんとに好きだなあ」ということ。少しの時間でも、特に変わり映えのしないコースでも、ゆっくりでも休み休みでも、自転車で走るということが自分にとって無上に楽しいことなんだと改めて実感したライドでした。

帰りはHannaに寄り道して食パン買って帰りました。奈良はパン屋が多くて、それがライドの目的にもなって楽しい限りです。


失うということ

大切な人と別れること
ひとりぼっちになること
誰かに笑われてしまうこと
欲しいものが買えないこと

何を嘆いているのか もう一度確かめて
(『光芒』/B'z)
B000WP0B2U ACTION
B’z
VERMILLION RECORDS(J)(M) 2007-12-04

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この会社に転職して以来8年おつきあいしてきたお客様を失った。8年間、常に弊社で拡張や更新して頂いていたシステムを競合に奪われた。もちろんそのシステムを奪われたことイコールお客様を失うことではないが、通常システムは4,5年保守なのでその間は使い続ける、つまり向こう4,5年は大きなチャンスが回ってこないということになる。

お世話になったお客様なので感情的なものもある。当然守秘義務があるのでほとんど書くことはできないけれど、大体においてシステムというのはほとんどベンダーを変えることなく10年20年と使っていくか、短いスパンでその都度最適なベンダーを選ぶかのどちらかで、5年以上おつきあいしているお客様は会社にとっても「上得意」であり、「数字を読み込んでいる」お客様になる。そういうお客様を失うダメージは相当大きいのだけれど、長くおつきあいするタイプのお客様の場合、ベンダーが安穏としないように時折プレッシャーをかけるので、当然失うかもしれないという局面は回ってくる。現場は当然長くおつきあいしているので、どうも今回は風向きがまずいぞ、というのは早い段階から肌で感じられる。

それが入札のように条件が明確で期日も明確な選定なら戦いやすいけれど、たいていの民間企業はそんなにガラス張りで検討したりしない。満たさなければいけない仕様条件というのも担当者の胸三寸だったり、見積提示期限も1社だけ1日多く猶予されたりする。そんな中、この案件を落としたことの口惜しさというのは、多分に政治的なものが関与したと思われるところなのか、何が我々のディスアドバンテージなのか分かっていながら社内が動かなかったことなのか動かしきれなかったことなのか、この案件このお客様はこの5,6年は大きな需要が見込まれるのに自社はその未来を計算に入れた提案ができないことなのか、奪っていった競合がその5,6年の大きな需要の舞台を持ってマーケティング的に広めてくることがわかっているからなのか、いつか自社がその競合からWinBackしたときの取りざたされ方が面白くないからなのか。自分のメンツにこだわっているのだろうか。

しかし、この案件このお客様については、海外本社含めてやれることは全部やりきったという自負はある。これで勝てなかったのなら仕方がないと、結果が出る前に思うことができたくらいやりきった。でも実際に敗北が決定した今、このお客様にどう対処していくのかという現実的な課題とともに、進路についての大きな課題を突き付けられた思いでいる。

何を嘆いているのか もう一度確かめて

the pillowsトリビュート『ROCK AND SYMPATHY』

amazingでawesomeなトリビュートでした。『SYNCHRONIZED ROCKERS』以上かも。僕はカミナリグモの『開かない扉の前で』が一番です。強烈に心情に訴えます。

B00GP2YCPG ROCK AND SYMPATHY -tribute to the pillows-
V.A.
avex trax 2014-02-25

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結成25周年記念のトリビュートアルバム。15周年記念でリリースされた『SYNCHRONIZED ROCKERS』はミスチルに始まりバンプ、テナー、エルレ等々早々たるメンバーで、ピロウズの人気を高めるのに一役買ったのは間違いないと思うんだけど(一番貢献してるのはもちろんFLCLだと思う)、今回のはピロウズを聴いて育って文字通りリスペクトしててトリビュートしたい若手バンドによるカバー。名前聴いたことあるけど曲聴いたことないかな…というバンドもいくつかあって、このアルバム売れるのかなあ評価どうなんかなあと思ってたら、amazonでもiTunesでもとても高い評価を得てるしコメントも絶賛の嵐。期待して聴いてみたところ絶賛の嵐も納得。『WHITE ASH』をSEに使いたかったからという理由でバンド名をWHITE ASHにしたというWHITE ASHによる『WHITE ASH』に始まり、軒並み力こめてるな~というカバーです。少し異色だったのはシュリスペイロフの『カーニバル』で、かなり原曲に忠実な感じでこれもまたリスペクト感が伝わります。

中でもいちばん鮮烈だったのはカミナリグモの『開かない扉の前で』!さすが山中さわおプロデュースバンドというべきでしょうか。あの曲がリリースされたときのピロウズの状況の上に更にあの歌詞の持つ普遍的な孤独感を上乗せしたような、胸に迫るカバーでした。

街のパン屋でパンを買う - 2014/04/01 ブーランジェリータカギ

なかなか行けなかった会社のご近所 、ブーランジェリータカギにようやく行けました!
 午後一で淀屋橋近辺のお客様で気づけば12時を過ぎていて、お昼飛ばそうかと思ったけれどブーランジェリータカギを思い出してようやく行けました。ばっちりお昼時なので店内は混雑してました。外で食べること確定の僕はそんなにたくさん買う訳にもいかず吟味してる時間もなく、入り口に3秒立ち尽くして全体を俯瞰していちばん目に留まった入り口近くで「焼き立て」のポップが踊っていた「塩パン」を購入。「塩パン!?」というのが頭でリフレインして目に留まったのかも。

で、どこで食べようかとぶらぶらして、錦橋でフェスティバルタワーを望みながら食べることに。塩パンは大きめの塩が少量まぶされています。そのアクセント具合がたいへんおいしかったです。噂に違いませんでした。 
ただ、お店の中の雰囲気がちょっと・・・狭いから当たり前なのか流行っているお店だから当たり前なのか、お店の人の会話がちょっと乱雑で、通るのもあんまりお客さんに遠慮する感じがなく、かつ常連と思しきお客さんと大きな声で話していて、ちょっと気が引けました。

「自分なり」の3/11

3/11が来てニュースにたくさん触れる。たくさん触れる中で頭の中にかすかに違和感を残したのは「自分なりに」という言葉だった。被災地を訪問した学生、被災者によるイベントへの参加者、ボランティア参加者、いろんな人がインタビューに答えて「自分なりに」という言葉を使っていた。「自分なりに被災者の方の気持ちを受け止められたと思うので」「自分なりに震災の甚大さを理解できたと思うので」等々。

思うことというのは本来どれも「自分なり」だと思う。自分なりの考えでないものは、誰かの考えに他ならない。何かを見聞きして感じ思うことは必ずすべて「自分なり」のはずだ。だからいちいち「自分なり」と断る必要はないはずだ。なのになぜこうも誰もが判で押したように「自分なり」と言うんだろう?言ってしまわなければならないのだろう?

日本語は、「こう思わなければならない」という規範の塊でできているからではないか。そして、「あなたのやっていること考えていることは、全く不十分なものなのだ」と常に誰かから言われるような環境にある言語なのだ。どこかに到達すべき頂点があって、常にそこを目指すことを強いられる言語。それが日本語。だから、何をどう感じるかは個々人でそれぞれなんだという「自由」がいつまで経っても受け入れられない。だから、震災の記憶に触れて、被災者の方がどういう思いでいるのかに思いを巡らせてみて感じたことも、わざわざ「自分なりに」と断っておずおずと差し出さないといけない。そんなこと「自分なり」に決っているというのに。

わざわざ「自分なりに」と前置きをさせる言語というのは、自立を妨げる言語であるような気がする。知らない間に日本語の巧妙な業に操られて、誰かの自由な思いを妨げるような発想をしていないか、3/11に改めて自省しようと思う。

『鶴見俊輔集 6 限界芸術論』/鶴見俊輔

長い間興味を持ち続けているテーマが、ひとつは「過ぎたるは尚及ばざるが如し」で、もう一つが「美」。過ぎたるは尚及ばざるが如しというのは、人間の活動はビジネスにしてもスポーツにしても高みを目指して努力を続けるものだけれど、特にビジネスに関しては青天井という訳にはいかないし、利潤追求の結果いつかはたいてい破綻してしまうので、サスティナビリティと言った概念が登場したりする、でも本当に持続性を実現しようとするのであれば、どうやって「やり過ぎない」で住むような仕組みを構築するかを考えなければならない、その心得としての「過ぎたるは尚及ばざるが如し」。これを「確かに経済的にも、過ぎたるは尚及ばざるが如しだね」と納得できるだけの言葉を持ちたい。もう一つの「美」は、ニーチェが終盤たどり着いたのが「美」だと読んだことがあって、金銭とか数値とか理屈とかではない、というよりもそういうもので表しきられることのないモチベーションは「美」なのだろうと思っていて、「美」を何か差別的な特権的なポジションではなくて、人がよりよく生きるためのモチベーションというポジションに位置づけるような言葉を持ちたい。この2つの「言葉を持ちたい」という願望を長い間持っています。

そこに現れたのがこの『限界芸術論』でした。

今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」とよびかえることとし、この純粋芸術とくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」と呼ぶことにしてみよう。

この三元論は衝撃でした。数直線状だった僕の「美」に対する意識を否定されました。芸術の尺度を単純に「美」だけで言ってはいけないとは思いますが、少なくともその「尺度」が三種類あることを肯定した文章に初めて会いました。

生活の中に芸術を置く試みというのは、僕個人の感覚としては相当難しいことです。その理由は3つあって、1つは、生活の中の芸術だとしてもある一定のレベルに達していなければ芸術として成り立たないということ。だから大抵は、学生時代の部活で馴染んだジャンルを生活の中でやるか、相当程度時間に余裕のある社会人が時間をかけて習得するかのどちらかになる。2つは、その結果、勢い社会全体が「生活の中に芸術を置く」という価値観を共有できないので、「生活の中に芸術を置く」という行為が「とあるムーブメント」以上にならないので、それは「社会」にならないということ。3つはやはり「限界芸術」は「職業」ではないので、それで生活を成り立たせず、その結果、いつでも脇に置かれてしまう性格にならざるを得ない、ということです。

本著でも柳宗理の「民芸」について取り上げられていますが、「限界芸術」が規定する、「生活との境界線にある」という点は、「美を極め(られ)ない中途半端な取り組み」の「言い訳」として機能してしまわざるを得ない、という決定的な弱点を持ちます。その弱点を自覚した上で「限界芸術」として取り組むのか、それともその「言い訳」を巧妙に駆使して、「天井」を回避するような楽なやり方に逃げこむのか。

すでに見てきた柳田国男の小祭の復興という理念は、ここに見事に生かされているのではないか。柳田・柳両氏に見られる復古主義的心情は、宮沢においては、遠い未来のほうをむく新しい革新的意思によっておきかえられている。

これを具現せんと活動していたのが宮沢賢治であるとし、彼の著作から「限界芸術」の理念を言語化していくところは圧巻です。賢治を読む人は誰しもが感じる無垢のループ。それが「限界芸術」のキーであるという説には厚みがあります。ただし、柳田國男を引いている点については、この後読んだ『現代日本の民俗学 ポスト柳田の50年』によって感想が大きく歪むことになりました。

4480085254 限界芸術論 (ちくま学芸文庫)
鶴見 俊輔
筑摩書房 1999-11

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街の本屋で本を買う - 2014/02/17 スタンダードブックストア@心斎橋→天牛堺書店ekimoなんば店 『週刊 東洋経済 2014年 2/15号』/東洋経済新聞社

さすがに東洋経済はなかったですが、日経ビジネスやCOURRIER JAPONは置いていて少しびっくりしました。

昼休み、中之島図書館に返却と貸出に行った際、目に入った東洋経済。表紙に「70歳まで働く 45歳から考える「次の仕事」」。これは買ってよもう、電子書籍版がいいかと思ったけれど読みにくいことは判っていたので、これは紙の書籍で買うことに。

で、売ってる訳ないと思いつつ、ルート上行きやすかったスタンダードブックストアへ。かなり久し振り。スタンダードブックストアにビジネス書買いに来ることなんてなかったので気付かなかったけれど、意外にも「Business」というラベルが貼られた書棚が結構多いです。ビジネス系の雑誌なんて見たことなかったと思ってたのですが、冒頭書いた通り幾つかはありました。Businessの棚はやはりIT絡みのものが多かったです。気になっていた『Yコンビネーター』を見つけたのでしばし立ち読み。有限責任が理解できてなかったドイツ人学生とか、意外と普通にいるんだな~となぜか少し安心。そう言えば、いかにもスタンダードブックストアに来そうな雰囲気の女の子二人組がホリエモンの新刊を手にしてたのをみて結構な衝撃を受けました。サブカルチャーなのかカルチャーなのか、そういう意味でポップになり浸透していくというのはあまり良いことではない気がしました。これは少しきちんと考えたいなと。

店を出てここから最寄りのビジネス誌売ってそうな本屋どこだ?と思い浮かべてみたらこないだ行った天牛堺書店ekimoなんば店が。なんばは四ツ橋筋がジュンクとBook 1stが並んでて便利だと思ってたんですが、やっぱり御堂筋側にあるのは強いですね~。今後はこちらのほうが利用頻度が高そうな気がします。

B00I48R27E 週刊 東洋経済 2014年 2/15号 [雑誌]
東洋経済新報社 2014-02-10

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ニューワー(ル)ド/NEW WOR(L)D

今年の目標、今年のテーマ、というようなことを、毎年毎年元旦に考えてきたけれど、今年は何故かうまく考えを纏めることができなかった。毎年、テーマを考えて、できたこともあればできないこともあり、どちらかというとできないことのほうが多いものの、テーマを考えながら日々過ごしてみて、このテーマに沿ってやってみて成果があったとか、これは少し軌道修正が必要だ、とかを繰り返すことに疲れてしまったのかと疑ってしまうような感覚だった。

何を目指せば充実感が得られるのか、正直に言えば全くわからなくなっていた。経済的な成功を目指すのか、内面の向上を目指すのか、身を立てるのか、四十二になるというのにその判断すら覚束ない、その価値基準を構築しようというのがこの数年の大きなテーマだったはずなのにその足がかりさえ掴めていない自分に情けなさしか覚えなかった。

募るのは卑屈な思いと寂寥感。無力感。今更何かを頑張ったところで手遅れ、だけどそれでも頑張ってみようと思ってやってみてもある日突然一つ残らず一番下の積み木から蹴飛ばされて潰されるようなそんな感覚。少しのミスも許されず、少しのミスもしないように微細に微細に決め事を重ねても重ねた決め事の隙間をあざ笑うかのように思いもしないアクシデントが襲い失敗し落ち込み、ではと決めずに気楽にと思えばそれもまたうまく行かずにやぶれかぶれになる。

もともと体力づくりを怠っているし体が強いほうではないので、ムリをすればムリをするだけ、気が立って言葉が荒くなる。メンタルを鍛えようとしても、少しのズレも許せない心の狭さが邪魔をする。

今年は新しい世界を目指そう。ただ、新しい世界を目指そう。何かの延長線上ではない、新しい世界を。新しい風景を見たい。そのためには新しい言葉が要る。今までのこの言葉ではもう限界は見えている。新しい言葉を、自分の日常の言葉に変えていかなければいけない。その先に、新しい世界がある。その新しい言葉の土台は、きっと感謝の気持ちのはずだ。だから新しい言葉と新しい世界を目指す最初の日に、感謝 の文字を記そう、感謝とともに。今年のテーマは「ニューワー(ル)ド」。

いつかのブリコルール

facebookで山本あつしさんがブリコラージュと名につく団体のページをオススメしてくださったのを見て、「そう言えばオレがブリコルールって書いたのいつだっけな」と振り返ってみたら2年も前だった。

ブリコルール

 I'm a bricoleur.

どっかの誰かがまた生半可に言い出しそうなので、たまには先手を打って言ってやる。唾を飛ばして言ってやる。根性なくても言える。

オレはブリコルール。

確かにシステムは概念だけれど記号でもある。そしてシステムエンジニアというよりもシステムブリコルール。

物言いとしてはよくないけれど、なかなか勘のいいこと思いついてるな、と珍しく昔の自分に感心した。

情報の価値は紙でも電子でも同じでしょう? なぜ「書籍」がつくと話ややこしくなるの?

季刊誌『マグナカルタ』が、見つけたところなのにそのvol.5でほぼ休刊決定みたいなことが書かれていて、「なんで電子書籍でやらなかったんだろう?そっちのほうが損益分岐点低くできただろうに」と思ってすぐ「いやごめんなさいそれはないです」と思い直しました。ほんの最近、「なんじゃこの電子書籍!?」と頭に来てたことを忘れてたのです。

その電子書籍とは、hontoの電子書籍。

hontoの電子書籍を利用しようと思ったきっかけは、Surface Pro 2の購入でした。Kindleも持ってるんですが第3世代で、なおかつかたくなに日本のアカウントと統合してないので、日本のamazonで買う電子書籍はそのkindleにはダウンロードできないし、日本ではWindows用のKindleアプリもない。なので今までは仕方なくxperia Aの4.6インチの画面で読んでるんですが、電車とかでは便利ですが、「読む」という行為にはもちろんちょっと厳しい。そこへhontoがWindowsでもandroidでも対応したリーダーを準備して電子書籍販売に本格参入。これは利用できるかも、と思ってたところに電子書籍ストア購入でポイント最大30倍とか言われて、雑誌を電子書籍で買うとどこでも読めるし捨てなくて済むし便利かなと思って買い始めました。

が、しかし。とりあえずよく読む『WIRED』『週刊ダイヤモンド』『Newsweek』あたりを買ってみたのですが。

これらのリーダーは「ImageViewer」なんですが、解像度が低い。低すぎる。

読めなくはないけど。Surface Pro 2が10インチだから悪いのかも知れないけど。でももうちょっとくっきり作れるでしょう。Surface Pro 2はフルHDなんだぞ。他のデバイスの都合にあわせてこうなのか。

まあでも解像度はともかくいちばん気に入らないのは、そんなに読みにくいのに、ズームボタンもないことと、ページを送るとズームが解除されて標準サイズに戻ること!ページめくるたびにいちいちピンチさせるな。鬱陶しい。

更には会社の人に勧められた『テトラポッドに札束を』を買ってみたのですが、

なんじゃこりゃ。ビューアーハXMDFというののが起動するんですが、なんじゃこのガタガタのフォント。設定で変えられることが分かってメイリオとかMeiryo UIとか変えてみたけど大差なし。読ませる気ないんか。

正直、電子書籍ならKindleだと私は思います。圧倒的に読みやすいです。PaperWhitte、買おうかなと思いますがさすがに鞄にデバイス3つは要りません。

ここまでして電子書籍をメジャーにしたくないのかなあとちょっと嘆息してしまいました。日本は電子書籍だからと言ってさほど安くない。『テトラポッドに花束を』で言えば、書籍1,000円に対して電子書籍900円。本の値付けの仕組みって再販制度が云々で何度読んでも頭に入らないんだけど、どんなカラクリがあったにせよ、紙の書籍を作るのに比べて電子書籍のほうがコストは低く済むはず。ということは、あんな質の低い電子書籍なのに、発行者の利益率は当然高まるでしょう。そこまでして紙の書籍を守りたいのか。

誤解を恐れず書くと、書かれている情報の価値はそれが紙の上でも電子書籍でも関係ない。メディアが何であるかは価値の大小に関係しないし、「価値」という抽象的な基準ではなくて単純に金銭的な意味でも関係ない。価値があるのは情報そのものなのだ。書籍の未来についてはそこを出発点にするのが絶対だと思います。その上で、確かに愛着を覚えずにはいられない紙の「本」というものの存在意義・存在価値を考えないといけない。そこに書かれている情報以外に、「本」の居場所はちゃんとあるはずだ。