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依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実 デイミアン・トンプソン 中里 京子 ダイヤモンド社 2014-10-10 by G-Tools |
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依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実 デイミアン・トンプソン 中里 京子 ダイヤモンド社 2014-10-10 by G-Tools |
みんな本当に「めんどくさがり」になっちゃったんだな、と思います。わかりやすくないとダメなんだなって。
何か大事なものかそうじゃないか、それもよくわからんのだけど、本当は中間に何かあるのに、原因と結果をすぐに結びつけるって今の考え方は自分も含めて本当じゃないなって思います。これは、「絆が大事」とか「日本人のこころ」とか「おもてなし」とか「ものづくりバンザイ」とか、そういう心性と結び付いたもんじゃないってことがいちばん大事だと思う。これはまず、すごく科学的な思考方法のところから出てきているもので、決して情緒的とか道徳的とかそういうことじゃない。何かを抜かして原因と結果をすぐに結び付けて、それで解決だって思おうとしてるけど、それは違うんじゃないかって。
上の世代のつぶれそうな反乱軍に行くまでも気持ちもなく、そうかといって、下の世代のように「時代は変わった」と言うわけにもいかない。
自分でドリップするようになって新しく自分に生まれた考えというのが、「効率的にやってはいけないことがある」ということ。
ペーパードリップは、豆を計量して、挽いて、サーバを温めて、ペーパーフィルタにお湯をかけて、お湯を沸かして、まず蒸らして…とたくさんの手順を踏むので、職業がSEの私は、どうやったら段取りよく最短時間で淹れらるか?と考えて工夫をし始めていました。そうやって何回か淹れていて、味に違いが出たのか出ていないのかなんて分からないんですが、でも、「あ、コーヒーってこうやってせかせか淹れるもんじゃないな」というのはふっと心底思ったのです。コーヒーを淹れるというのは、ひとつひとつの所作を落ち着いてゆったりやるということ。強いて言えば、落ち着いてゆったりやるだけの時間をきちんと確保するために、他の日常事をだらだらせず手際よく済ませていくこと。これがコーヒーを淹れるという生活かと思い至りました。だいたい、効率を追及しだしたら、豆だって大量にまとめ買いしたほうがいいということになるし。もちろんそんなことできません。直近で飲むだろう適量を都度買わないと。
それからは、お湯を沸かしながら豆を計量して…とか、何と何を並行させられるかとかは止めました。落ち着いてコーヒーを淹れることがひとつの瞑想になるようにしたいというところです。
さて今日は先日、東大寺戒壇院そばのお気に入りのカフェ工場跡で買ってきた豆で淹れました。工場跡でカフェオレ飲んで支払のときに豆が売られているのに気付いて、「どんな味ですか?」とお店の人に聞いてしまう自分も間抜けですが(今飲んだのがその豆で淹れてるだろうっていう)、「飲んだ後はすっきり」とお店の人が教えてくれた通りでした。ブレンドですがクリアで飲んだ後は確かにすっきりです。強い後味を残しません。ちょっと苦味が長続きするかな?という程度です。パッケージに「by 香豆舎」と書かれていたので、香豆舎の存在も知れました。今度足を延ばしてみようと思います。
久し振りに初めてのパン屋で買いました。馴染みのルート上にあるのに一度も行ったことのなかった人気のお店「こはく。」。
JR関西本線の法蓮の踏切近く、というよりも「くるみの木」の道向、というほうが通りがよさそう。こじんまりとした佇まいですが、店に入った際の目移り具合は富雄の「ブランジェトミオ」に匹敵でした。
相変わらず写真を撮るという意識が徹底できず、一個(栗あんぱん)食べてしまってから思い出して慌てて撮るという体たらく。しかもパンの名前を全然覚えらず。左上から時計回りにチーズ(見ればわかる)、ぶどうパン(これだけは覚えてる)、ブルーベリー(だけじゃなかった)。ぶどうパン以外は、メインの食材以外の組み合わせが豪華。高揚します。
味はハードにもソフトにも寄りすぎていない絶妙なところをついてると思います。そして値段も至ってスタンダードです。これであれだけバラエティに富んだ品ぞろえされると、片っ端から買って帰りたくなるというもの。このタイプのパンを買うなら今後確実に候補に入りそう。行ってよかった。
”僕は後どれくらい キミと会えるだろう"
(『MOONDUST』/the pillows)
同世代のアーティストが現役でやり続けてくれるというのは本当にありがたいことだと思います。35歳になったとき、70歳まで生きれるとして人生半分過ぎたんだなあと思ったときの寂寥感なんてまがい物だったと思うくらい、42歳の今、人生の残り時間はどのくらいなんだろうと思う真剣さは鋭い。いろんなことの残り時間が少なくなっていて、あと何回できるんだろうという事態に陥っていて、この真剣さを分かち合えない世界のもどかしさにもんどりうっている。
残り時間が少なくなって年を取って忙しくなって時間をかけるところも興味の対象も情熱の質も中身も変わり、好きなバンドの新譜のタイトルが青いカーネーションのことを指していてその花言葉が「永遠」だから今の自分たちに相応しいと思ってなんて由来を調べることもしなくなり、20周年のときは武道館まで行ったけど25周年の今、どんな記念イベントが開催されているのか全然知らなかったり。
だけどそれはそういうもんなんだろうと最近では認められるようになってきている。決してそれは老いではないし後退ではない。たとえどんなに理解を得れない世界に住んでいたとしても、腐らずに成熟していく道を歩まないといけない。知ったことが多い分だけ、できることも増やせるはずだ。仮に残り時間がなくなってしまったとしても。稀有なアルバムでした。
"The Last Period
破れかけた飛行船で行こうぜ"(『Clean Slate Revolution』/the pillows)
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ムーンダスト (CD+DVD) the pillows avex trax 2014-10-21 by G-Tools |
先日豆を買った、(iL) Soigneurのハリスツイードミュゼットバッグ。
豆を買うときにサイトで目に入ってたバッグ。(iL) Soigneurはミュゼットバッグのカスタムオーダーがオンラインでできる他にあまり見ないお店なんですが、オフザシェルフ、つまり既製のミュゼットバッグもありまして、ハリスツイードのサコッシュってなかなか良いなあ、実はあんまりサコッシュって使う機会ないけど、これはあったら重宝しそう、と買ってしまいました。冬場のお使いにはたいへん重宝しそうです!
(iL) SoigneurはPayPalでの支払いができるんですが、注文の際、選択を間違えて日本語表記の住所のままで注文してしまい、BristolのPCで日本語フォントは入ってないよなあ~どうなるかなあ~と思いつつ待っていたら、ばっちり漢字を印刷した紙を貼りつけて送ってくれました。おまけにVUELTA woven patch、いわゆるワッペンも同封してくれました。(iL) Soigneur、いいヤツです。
最高の秋晴れの中、遠足よろしく山添村にある「めえめえ牧場」までツーリングしました!牧場入り口まで…
14日の火曜から毎日、「週末どこ走ろう」と思いを巡らせ、おぼろげに「林道がいいな」と、過去に走った山間部の光景が頭に浮かんだのと、なるべく自走で距離を走りたいというのと、走ったことのない道で行ったことのないところに行きたいというのとで、Google Mapをぐるぐる回して思いついたのがめえめえ牧場。今年の夏は県内の鉄道沿線の草刈に大活躍したというニュースで有名になったし、一方で、布目ダムのように自転車ツーリングの目的地としてはあまり聞かないし、よし、めえめえ牧場に行こう!と思い立ったのでした。
ただ、県道80号は以前太安万侶の墓までツーリングした際に走ったので、今回は県道80号の少し南を走る林道、鉢伏峠を越えることにしました。
県道80号だとこんな感じで、
鉢伏峠越えだとこんな感じ。
ヘリポートあたりで合流してその先は80号。距離にすると80号のほうが1.2km長く、平均斜度は鉢伏峠のほうが1.8%きつい。5~6kmの距離で平均斜度1.8%変わるとこんなに違うのかというくらいきつかったです。途中、二回目の20%超の劇坂区間は、茶畑が広がってとても麗しい景色なんですが脚ついてしまいました。
この後、水間トンネル前も登らされ、布目ダム脇を通過した後もまた登らされ、「めえめえ牧場」という看板を見つけて右折した後も斜度8%前後の登らされ、
やっと「めえめえ牧場」入り口に到達したのに、
詰まる所、「仕事をしている人は、市民活動などしなくてよい」ということか。
参加者6人でのワークショップの際、「樽井さんが自分と違うと思うところは何か」という問いに対して、「端的に主婦だということ。私は会社員でそれだけの時間がない」と言ったところ、「あなたぐらいの年齢の男性は仕事で脂がのっている時期だから、樽井さんと同じようなことはできないと思います。身近なところから始めればよいと思います」と、初老と見える女性が仰った。
その内容自体は全く私も同意見なんだけど、このやり取りに2つの違和感を持った。1つは、私の発言が、「何か大きなことを成し遂げたいと思っている」と前提されて受け取られていたこと、もう1つは、身近なことを何もしていないと前提されていたことだ。
私がこの「いこま塾」に参加しようと思った動機の中で最も大きいのは、「地域のことをほとんど知らない、地域活動に参加できていない」という反省。だいたいの中年サラリーマンは「地域のことをほとんど知らない、地域活動に参加できていない」という批判に当てはまると思う。確かに、仕事に24時間すべて注ぎ込むのは大変だけどやりやすいことだし、そのほうが仕事上の成果も上がるけれど、自分が住んでいる地域のことを何も知らない、地域に何も貢献できていないというのは生活者として不完全と確かに思うので、自治会やその行事や市のイベントにできるだけ参加するようにするようになった。この「いこま塾」への参加もそのひとつ。
今日の内容は全国的にも注目されている活動の主催者の方の話だったけれど、内容はともかく、私のような中年サラリーマンがこういったイベントに参加するだけでもかなり珍しいことだと思う。私はその「中年サラリーマンがこういったイベントに参加することが珍しい」という状況そのものを改善していかないと、市民の成熟というものはないと考えていた。
ところが、このイベントに参加している人の意識も大半は、「中年男性サラリーマンは、身近なことですら、地域活動には参加していなものだ」という前提を持っているという印象を受けた。仕事を持っている人は、仕事をしていればいいというのが大半の意識なのだ。
私はここで大きく落胆したが、更に一歩進めて樽井さんの言葉を思い返した。「育児のストレスが重なって、自分が社会と繋がっていないような感覚になって、何か少しでも社会と接したい一心で」。市民活動というのは、こういうことなのかも知れない。行政では不足する仕組みやサービスの遂行とか、いろいろなメリットは言われるものの、最大のメリットは社会との接続を生み出すということなのかも知れない。そう考えると、主婦や退職世代が市民活動の中心というのは改めて自然だと思える。そして、仕事をしている人間は、仕事によって社会と接続できているので、改めて市民活動で社会と接続しなくてもよいと言われているように思える。
そう言えば最近、会社で子持ちの男性3人が続けさまに「自分は仕事でおむつ代を稼がないと」「自分の稼ぎがなければ子どもを食べさせていけないのだから」と、仕事に没頭することを肯定するための「常套句」を言うのを聞き、なんと旧態依然としているのだろうと驚いたことを思い出す。最初に書いた通り、24時間フルに仕事に注ぎ込むのがいちばん容易いこと、けれど現代の我々は、そうではないやり方の実践を求められている。ルールがないからといって遮二無二時間を仕事に費やすことを当然視できない環境にいるのだ。もうひとつ、新聞の夫婦お互いに対する不満、といった特集で、「喧嘩の最後には「誰のおかげで食べていけるんだ」と言われる」という20代女性の声があって驚いた。その言葉は今や言ってはいけないものとして同意がとられている言葉と思っていたから。世代を超えてまだ使われているとしたら、国民性というのはそうそう変わらないということなんだろうか。
いろいろ考えたけれども、やはり地域活動に参加する市民は、老若男女まんべんなく参加している状態が自然であり理想だという考えは変わらない。だから、中年サラリーマンが地域社会に参画できるようなスケジュールや取組を真剣に考えないと、地域が歪になる時代がすぐそこまで来ていると思う。市民活動が助成金で育てられるとしたら、その助成金は誰が支払っているのか。市ではなくて、市民なのだ。税金なのだ。