独走会 2015/07/19 東寺

実を取る。美しさは固より。

三連休の中日、まとまった時間があってどこに走るか。できるだけ長い距離長い時間走りたいのだけど、100kmオーバーの片道ライドは、どこに行っても帰りの電車を考えると予定時間をオーバーしてしまう。目まぐるしく変わった天気予報は最終的にこの日曜だけ雨マークだし、それなら往復ライドで距離を走ることにしようと、京都に向かうことに。

生駒から168号で交野へ、交野から府道736号で松井山手へ、第二京阪の側道で久御山まで出て西に折れて1号で京都まで、というお気に入りのルートで京都へ。いつもは通りすがるだけだった東寺へ今日はお参り。世間は高野山が開山1,200年で盛り上がっていて、奈良もこのお蔭で都道府県別宿泊客数万年最下位から脱出したそうですが、東寺も空海に下賜されたゆかりのお寺。近鉄で京都に行く際に必ず五重塔を目にするのもあってか何故か親近感を覚えるお寺。あの周辺は何かフレンドリーな空気が漂っているなあといつも思っていたのだけど、帰りに見た「煩悩なければ菩提なし」というお言葉でなるほどなあと妙に納得。

世にあるものは須らくあるものであって、それにどう対峙するかがその人の生き方になる。今日のライドは後半完全に足を失ってしまって、家まであと1,2kmというところで休憩してしまったくらいだけど、やり遂げたことを振り返りつつ、次に繋げよう。

と言う訳で久し振りの箇条書き:

  • 交野-松井山手間の第二京阪側道はやっぱり最悪で、絶対選択すべきでない。行きも帰りも同じルートは飽きるなあと魔が差して走ってしまったけれど、バイクよけはしょっちゅう出てくるし、意味もなくアップダウンさせられるし、ペースあがらないのでいいことが何もない。1号線本線の路肩を走るべき。
  • 移動時間3:20で75kmはたぶん現状コンスタントに出せる実力じゃないかと思う。これで行くと5時間で100kmなので、やっぱり今のところ100km走ろうと思うと6時間見ておかないといけない。
  • どれだけ快調でも1時間に5分は休憩を取る。補給食は早めに取る。後半、確実に足が削れる。
  • どこに行っても生駒は最後登りになるので、ボロボロになって帰ってきている姿をご近所さんに見られるのは結構恥ずかしい。

B'z "B'z LIVE-GYM 2015 EPIC NIGHT" 2015/07/05@京セラドーム大阪

稲葉さんがMCで言った「気持ちが大事だからね、気持ち」これに尽きます。
(ネタバレします)

すっかり生活が変わり、ライブの感想も1週間遅れが精一杯だし、早めに会場に来て雰囲気を楽しむこともなければライブの前に徹底的に予習することもない、だから"NO EXCUSE"で”重々!”をやり忘れたり、でも楽しみ方が変わってもLIVE-GYMはLIVE-GYMでした。本編でアルバムチューンをすべてやってくれたのは何かの思し召しだと信じたいくらい。本当に本編を楽しめるだけで十分でアンコールは飛ばして家路に着いたのだけれど、まるで生活が変わればそういうこともあると言わんばかりに、アルバムチューンはすべて本編で聴けたのでした。

"BLACK COFFEE"に燃え上っていたのはアリーナ10列目付近というコアなファンばかりと思われるエリアでも僕だけでしたが、過去のタイトルの胸を抉ってくる選曲の凄いこと。"YOU&I""Don't Leave Me""Blue Sunshine"って。”きっと良かったんだろう僕たちは巡り合えて””似たようなことを何度繰り返して一体どこに辿り着けるの””わかりあうことの難しさを思い知る”ー泣かすじゃないですか。

でまあ”Ultra Soul"はやるよなあ、と一通り盛り上がって、いっつも思うけど続けて”スイマーよ!!"やればいいのに、と思ってたら"スイマーよ!!"ですよ!セットリスト全く見ず行ったのでびっくりでした。アリーナ10列目付近というコア(後略)でも、往年のクロールを模したフリをやってたのは僕だけで、この曲で一体オーディエンスがどこまで盛り上がれたのかちょっと不安でしたが、”魔法じゃない じゃないけどできるよ”はやっぱり泣けるのでした。

この先あとどれくらいライブを観れるのか楽しめるのかわかりませんが、観れても観れなくても悔いのないように、今まで成長のためのエネルギーをくれ続けてきたB'zに失礼のないように、熱心に生きていこうと改めて思ったライブでした。"EPIC DAY"のことを”いちばんまったりとしたアルバム”なんて書いてごめんなさい。あれは尋常じゃないエネルギーが炸裂しているアルバムです。

独走会 2015/06/28 岩船寺

例えどんなに些細で容易くてどちらでもよいようなことでも、やると決めたことをやり遂げることの重大さ。

40歳を迎えて1年、2年、3年と過ごして思うのは、なんであれやろうと決めたことを「やり遂げる」ということが、非常に尊くて大事になっているということ。30代の頃は、やり遂げる中身が重要で、着手したものの当初決めた壮大な到達点に達する見込みがなくなった時点で、達成見込みのないプロセスに時間をかけるのは無駄で、新たな「やり遂げる中身」のためにその時間を使ったほうがいい、という考え方で行動していたように思う。

しかし、40代になると、それがどんな些細なことであれ、例えば毎日朝10分ラジオ英会話を聴くとか、新書一冊読み切るとか、仕事帰りにお店に立ち寄って服を一着買って帰るとか、「こうしよう」と決めたことをやり遂げることが年々難しくなっていく。それは体力的なものもあれば、精神的なものもあれば、物理的なものもある。けれど、「やろう」と決めたことを「やる」力というのは、そこをいい加減にしていくと癖になり、ずるずるとやり遂げられない体質になっていくように感じる。

今日は大体4時間あれば散策も含めて往復するのに十分余裕の距離、片道25kmくらいでよさげな行き先を探してみたら、あじさい寺で調べてみた岩船寺がちょうどよい距離。焦らず飛ばさずじっくり走る。般若寺を過ぎたあたりのセブンイレブンで一息ついて、東を向いて約7kmの強弱のある登り。岩船寺は思いの外の人出で賑わっていてすっかり観光気分。

意外にも7kmの登りが堪えたけれども、初志貫徹で決めた時間内で自走で帰宅。約4時間で50km弱、拝観とパン屋寄り道して十分愉しめてやり遂げたこと、これの積み重ねが40代を形作っていくと思う。

僕は往復同じルートで帰りましたが、般若寺の近くには浄瑠璃寺があるので、行きは308号メイン、帰りは163号メインでぐるっと一周というのも楽しいコースになると思います。オススメの行き先です。

街の本屋で本を買う - 2015/06/10 ふたば書房京都駅八条口店 『日経ビジネス 孤高の製造業ファナック』

日経ビジネスはアマゾンに売ってないので『街の本屋で本を買う』にうってつけなんですがリンクが見栄えしなくて困るのです。

京都には日本が世界に誇る製造業があまた有って、その中の一社を訪問するために乗る電車の発車十数分前に立ち寄った本屋でこれを見つけてしまっては買わないで立ち去ることはできませんでした。父がファナックと同業の工作機械メーカー勤務だったこともあり、興味は一入。こういった知識を知ることは最低限の基礎知識であるにも関わらず、こういった知識を知らずとも商売を続けられたことを恥じ入りつつ、かと言ってこの最低限の基礎知識を次のレベルの、新しいビジネスに繋げるには相当の地道な積み上げが求められるけれども投げ出さない。

独走会 2015/06/07 宝山寺

時間は誰に対しても平等に流れない。であるが故に必ず有効に使える訳ではない。

少しの時間が出来たので、玄関出て1分でスタート地点の宝山寺クライムへ。距離にして2km弱、獲得標高約150m、つまり平均斜度約7.5%というなかなかでほどほどのクライムコース。20分あれば行って帰ってこれるこのコースでも、20分が生まれたときに即出発できる準備が整ってないとその時間を有効に使うことはできない。時間がないないというのであれば、時間が生まれたときに即座にその時間を有効活用するだけの迅速さがないといけない。時間が出来たときに限って、何をするでもなく時間をやり過ごしてしまうのも人の性根という感じはする。だから有効活用するためにスケジュールを立て調整を図るという慣習が生まれるけれど、それを人は誰しも心がける訳ではない。不確定要因に逆らおうとしない人間もいるのである。時間は自分の努力だけで、必ずしも有効に使える訳ではない。そう思い知るからこそ、わずかな時間でも有難いと思い、より活きた時間にしようと心から思うものである。だから、わずかなその20分を、心拍数を限界に上げる辛い時間にしてまで坂を登るのである。


独走会 2015/05/30 馬見丘陵公園

独走というのは、決して、他人を受け付けないということではありません。むしろ、その逆なのです。

富雄のスーパーかっこいい自転車屋さんTRANSITのマスコットキャラクター・ヨシダさんから「明日走りませんか?」というメッセージ。ちょうど時間が取れていたので走るつもりだったのでお受けしまして8:30にTRANSIT前に集合、サコウさんと3人で富雄から馬見丘陵公園の往復約46km走りました。家を出てからフロントのブレーキシューが削れ切ってることに気が付いた整備不良の私を、なんでも出てくる四次元カバンを持ってるサコウさんがシューを出して救ってくれました。

何のために独走を掲げるのか?それは、究極的には「誰とでも走れるようであるために」なのです。生きるのは独りでは生きられない、というけれど、独りでやれることは独りでやろうとする人間の集まりでなければ、助け合って生きていくこともできないはず。それほど熱心に練習できる訳でももともと体力自慢な訳でもない自分は、こういうお誘いを在り難く頂いたときに出来る限り足手まといにならず楽しく走れるように、そのために日頃独走を心がけるという次第なのです。

富雄から馬見丘陵公園のルートはとても気持ちいいです。馬見丘陵公園は美しく整備された公園で、ツーリングの目的地に向いてます。


街の本屋で本を買う - 2015/04/10 ジュンク堂書店天満橋店 『日経ビジネス まるわかりインダストリー4.0』

惹かれたのは『りゆうがあります』だったけれど、「”トヨタが下請け”に!?」の釣りには抗えませんでした。

仕事終わりに少し立ち寄ってみたら、入り口にでかでかと紹介されていた『りゆうがあります』。買うかどうか悩みながら店内を一周していると目に飛び込んできた「インダストリー4.0」。製造業のお客様を多く担当しているので、IoTとかインダストリー4.0は拾い読むようにしているけれど、「”トヨタが下請け”に!?」はさすがにつられてしまう。

早速立ち読みしてみると、ポイントは非常に非常に明快で、深く頷けるものでした:

「トヨタさんがインターネットにつながせてくれない」
ネットに接続すると「生産ノウハウが社外に流出しかねない」と、トヨタが難色を示しているからだ。
故障したらその場で人がすぐに対応できるように「担当者が工場に常駐して見張ってほしい」とトヨタから要望されたという。

日本でITビジネスに関わっている人ならほとんどがこれを読んで頷くと思う。「どうすれば安全に接続できるか」という技術的議論には経営層はついていけず、ひたすら安全策に走る。何かと言えば「やっぱり最後は人です」式の発想になる。そりゃもちろん人間というインターフェースがいちばん優秀に決まっている。決められた手続き・プロトコルでしか仕事ができない機械やコンピュータに比べ、人は自然言語で指示ができる。でも、たかだかと言っては申し訳ないけれど、機械を一日中見張っているだけの「簡単なお仕事」に着く人に、いったいどんなキャリアパスが望めるというのか。3年見張ったら課長とか部長とかって、今時の企業でそんなキャリアパス確保しておけないのは周知の事実だと思う。なぜなら、グローバルでは実際にインターネットを使ってこの部分を機械化・自動化することが進んでいるからだ。

実は生産性なんて何も考えていないのではないか。いつまでたっても自社の生産性だけで、自社の生産性をあげるために、非効率を外部化しているだけなのではないか。確かに人がする仕事を残すのは重要なこと。でもそれは、一日中機械を見張るような仕事のことではない。

こうやって尻込みしているうちに、いよいよものづくりでもまた遅れを取ってしまうのか?

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街のサテンで豆を買う 喫茶イレブン

ウチから歩いて10分かからない「喫茶イレブン」に、カフェインレスがありました。

喫茶店でカフェインレスの豆を売っているところはなかなか見つからなかったのですが、ここ最近は珍しくなくなってきたような感じがします。豆を買うつもりはなかったんですが、通りかかった際に「カフェインレス」の文字が目に入ったので引き寄せられました。

前々から行きたい行きたいと思いつつなかなか行けず、先月の生駒市の市報で取り上げられているのを見ていよいよ行きたいと思っていたのでグッドタイミングで通りがかったんですが、マスターは市報で見てたよりちょっと厳つかったです(笑)。でも話すといい人そうでした。店内でもハット被っててお洒落でした。

こちらのカフェインレスはグアテマラ。カフェインレスで愛飲しているタリーズのはエチオピアモカで、飲み比べてみて何か違いが感じれるかなと思いつつ淹れてみたんですが、喫茶イレブンのグアテマラカフェインレスのほうが濃いというか重いというか、口に残る味わいだと感じました。酸味も香りもこちらのほうが強いかな?タリーズのエチオピアモカも香りは十分立ちますが、よりクリアな飲み口だと思います。

生駒はパン屋も多ければ喫茶店も多いので、少しずつ手を伸ばしていこう。

『サラバ!』/西加奈子

思いも掛けず「”信じる”とは?」というラストに驚き。

宗教とは何か、と言う問いが凄く難しい。宗教はそれ自体人間を救うための尊いもののはずなのに、世界において宗教が関係して起きる凄惨な出来事の余りの多さに、宗教に対する嫌悪感・警戒感を抱かずにおれないから。しかしこれはよく無宗教と言われる日本人だからなんだろうか?本著のラストで、歩の親友であるヤコブが、

信じることがどういうことかなんて、考えたこともなかった。僕にとって信仰は、息をするのと同じことなんだ

というように、多くの世界の国々では人は信仰する宗教を持ち、少なくとも自分が信仰する宗教に対して嫌悪感・警戒感を抱くことはないんだろうか。もちろんそうなんだろう。嫌悪したり警戒したりするものを信じれるはずはない。

でも、宗教を持たなければ生きていけないかというと、そんなことはないと思う。大前研一氏だったと思うけど、世界の人々と渡りあうための常識の一つとして、無宗教だと言ってはいけない、信じる宗教がないというのは、グローバルな観点では自分を律する価値観を持たないと表明しているのと同じだ、と書いていて、上記のヤコブの言葉と照らし合わせても、なるほどと思える。けれど、それは人間の歴史の経験から生まれた慣習としてそうなのであって、世の中には宗教を持たず自分を律している人もたくさんいる。それを世界の人々に伝えることができるかどうかが一大課題であって、本著はコプト教信者のエジプシャン・ヤコブと無宗教の代表のような日本人・歩が心を通わせあうところに、伝えることができるという確信があるように感じる。

作中にはもう一つ、サトラコヲモンサマという、ある意味で理想の共同体の宗教が登場するんだけど、これも有り勝ちな形で崩壊する。この崩壊の事件で思い起こすのは、日本人にとっての宗教は、「縋る」とほとんど同意なんじゃないの?ということ。信仰というのは、自分が信じるその宗教の考え方というか理念というか、そういう魂のようなものを自分自身すっかりそのように考え振舞えるようになることだと思うのだけど、日本人にとっての宗教に対する態度はほとんど、「縋る」に二アリーイコールだと思う。自分ではどうしようもない事柄に対して、人間ではない大きな力にその解決を頼み込む、というのが宗教の姿なように思う。なので、ただひたすら念仏を唱えるとか、ただひたすらお参りするとか、そういう行為が認められているのだと思う。でも、仮にひたすら念仏を唱えるという行為を取るにしても、どういうつもりでその行為を行っているかで、意味が全く変わってくるはずではないかと思う。それは、「縋る」では駄目なのではないか。一見、無心のように見えて、その無心はほんとうの無心を穢してしまう無心なのではないか。その行為は、報われなかったときの態度に跳ね返って現れる。この観点、先日読んだ『沈黙

宗教は自分にとって縁遠く疎いテーマで、今まで関心を持って読んだことがあるのは親鸞についてくらいなんだけど、親鸞の悪人正機もその修辞の難しさで誤解してしまう。親鸞に関する書籍も再読してみよう。

そして、西加奈子氏出演の「あさイチ」の録画を観る。「現代ってすごく共感文化じゃないですか。私は共感できないものにどう接するか、その先が大事なんだと思います」。撃沈。ど真ん中。そこに共感してしまいます。

『図書館奇譚』/村上春樹

正直、ストーリーは面白くてずんずん読み進めて没頭して文句なしなんだけど、何を読み取ったらいいのかは全く分かれませんでした。

図書館で老人に捕まえられる不条理はなんとなく現代社会の不条理そのもの、「一か月間知識を詰め込みに詰め込んだ脳みそを、頭をのこぎりで開けられてちゅうちゅう吸われる」というのに「それでもわざわざやってくる人がいる」というのは知識欲の禁断の快楽みたいなもの、誘導する少女は成長で、無事図書館を脱出できたのに母親が死ぬのは少年は不条理を経験したことによって自立への道を歩かなければならないということ、図書館の地下に残してきた靴は母親からもらった愛をどこかで捨てなければ少年は自立できないということ、いろいろこじつけられなくはないけれど全然すっきりしない。

ドイツで出版された絵本版の日本語版、絵本だからストーリーはそういうものか、と納得しようとしても、あとがきでこの『図書館奇譚』の文章はバージョン1が元になっているということで絵本用のものではないらしく、もう読み取ろうとか考えずに「ずんずん読めておもしろかった」という読書がたまにあってもいいじゃない、で終わることにしました。