街のサテンで豆を買う 喫茶イレブン

ウチから歩いて10分かからない「喫茶イレブン」に、カフェインレスがありました。

喫茶店でカフェインレスの豆を売っているところはなかなか見つからなかったのですが、ここ最近は珍しくなくなってきたような感じがします。豆を買うつもりはなかったんですが、通りかかった際に「カフェインレス」の文字が目に入ったので引き寄せられました。

前々から行きたい行きたいと思いつつなかなか行けず、先月の生駒市の市報で取り上げられているのを見ていよいよ行きたいと思っていたのでグッドタイミングで通りがかったんですが、マスターは市報で見てたよりちょっと厳つかったです(笑)。でも話すといい人そうでした。店内でもハット被っててお洒落でした。

こちらのカフェインレスはグアテマラ。カフェインレスで愛飲しているタリーズのはエチオピアモカで、飲み比べてみて何か違いが感じれるかなと思いつつ淹れてみたんですが、喫茶イレブンのグアテマラカフェインレスのほうが濃いというか重いというか、口に残る味わいだと感じました。酸味も香りもこちらのほうが強いかな?タリーズのエチオピアモカも香りは十分立ちますが、よりクリアな飲み口だと思います。

生駒はパン屋も多ければ喫茶店も多いので、少しずつ手を伸ばしていこう。

『サラバ!』/西加奈子

思いも掛けず「”信じる”とは?」というラストに驚き。

宗教とは何か、と言う問いが凄く難しい。宗教はそれ自体人間を救うための尊いもののはずなのに、世界において宗教が関係して起きる凄惨な出来事の余りの多さに、宗教に対する嫌悪感・警戒感を抱かずにおれないから。しかしこれはよく無宗教と言われる日本人だからなんだろうか?本著のラストで、歩の親友であるヤコブが、

信じることがどういうことかなんて、考えたこともなかった。僕にとって信仰は、息をするのと同じことなんだ

というように、多くの世界の国々では人は信仰する宗教を持ち、少なくとも自分が信仰する宗教に対して嫌悪感・警戒感を抱くことはないんだろうか。もちろんそうなんだろう。嫌悪したり警戒したりするものを信じれるはずはない。

でも、宗教を持たなければ生きていけないかというと、そんなことはないと思う。大前研一氏だったと思うけど、世界の人々と渡りあうための常識の一つとして、無宗教だと言ってはいけない、信じる宗教がないというのは、グローバルな観点では自分を律する価値観を持たないと表明しているのと同じだ、と書いていて、上記のヤコブの言葉と照らし合わせても、なるほどと思える。けれど、それは人間の歴史の経験から生まれた慣習としてそうなのであって、世の中には宗教を持たず自分を律している人もたくさんいる。それを世界の人々に伝えることができるかどうかが一大課題であって、本著はコプト教信者のエジプシャン・ヤコブと無宗教の代表のような日本人・歩が心を通わせあうところに、伝えることができるという確信があるように感じる。

作中にはもう一つ、サトラコヲモンサマという、ある意味で理想の共同体の宗教が登場するんだけど、これも有り勝ちな形で崩壊する。この崩壊の事件で思い起こすのは、日本人にとっての宗教は、「縋る」とほとんど同意なんじゃないの?ということ。信仰というのは、自分が信じるその宗教の考え方というか理念というか、そういう魂のようなものを自分自身すっかりそのように考え振舞えるようになることだと思うのだけど、日本人にとっての宗教に対する態度はほとんど、「縋る」に二アリーイコールだと思う。自分ではどうしようもない事柄に対して、人間ではない大きな力にその解決を頼み込む、というのが宗教の姿なように思う。なので、ただひたすら念仏を唱えるとか、ただひたすらお参りするとか、そういう行為が認められているのだと思う。でも、仮にひたすら念仏を唱えるという行為を取るにしても、どういうつもりでその行為を行っているかで、意味が全く変わってくるはずではないかと思う。それは、「縋る」では駄目なのではないか。一見、無心のように見えて、その無心はほんとうの無心を穢してしまう無心なのではないか。その行為は、報われなかったときの態度に跳ね返って現れる。この観点、先日読んだ『沈黙

宗教は自分にとって縁遠く疎いテーマで、今まで関心を持って読んだことがあるのは親鸞についてくらいなんだけど、親鸞の悪人正機もその修辞の難しさで誤解してしまう。親鸞に関する書籍も再読してみよう。

そして、西加奈子氏出演の「あさイチ」の録画を観る。「現代ってすごく共感文化じゃないですか。私は共感できないものにどう接するか、その先が大事なんだと思います」。撃沈。ど真ん中。そこに共感してしまいます。

『図書館奇譚』/村上春樹

正直、ストーリーは面白くてずんずん読み進めて没頭して文句なしなんだけど、何を読み取ったらいいのかは全く分かれませんでした。

図書館で老人に捕まえられる不条理はなんとなく現代社会の不条理そのもの、「一か月間知識を詰め込みに詰め込んだ脳みそを、頭をのこぎりで開けられてちゅうちゅう吸われる」というのに「それでもわざわざやってくる人がいる」というのは知識欲の禁断の快楽みたいなもの、誘導する少女は成長で、無事図書館を脱出できたのに母親が死ぬのは少年は不条理を経験したことによって自立への道を歩かなければならないということ、図書館の地下に残してきた靴は母親からもらった愛をどこかで捨てなければ少年は自立できないということ、いろいろこじつけられなくはないけれど全然すっきりしない。

ドイツで出版された絵本版の日本語版、絵本だからストーリーはそういうものか、と納得しようとしても、あとがきでこの『図書館奇譚』の文章はバージョン1が元になっているということで絵本用のものではないらしく、もう読み取ろうとか考えずに「ずんずん読めておもしろかった」という読書がたまにあってもいいじゃない、で終わることにしました。

”そんな運命 シブい運命”(Black Coffee)

今までで一番、飛びぬけてまったりした印象でした。成熟した"IN THE LIFE"という感じ。あまりに崇高な思想を歌われたりはしないけれど、だから生活に密着して聴けるけど、成熟感は抜かせない。

全体を通すと、"EPIC DAY"というタイトルの意味をよく理解できます。やっぱり大事なのは、"EPIC DAYなんて来るのか来ないのか分からないけれど、来るように日々行動するということ”という了解の仕方。B'zは決して、単純に"いつかEPIC DAYが来ます”とだけ、言ってる訳ではない。"MAGIC"で”ひたすら信じて待て”と歌ったけれどあれも決して単純に報われることを保障してる訳じゃない。"EPIC DAY"に戻って、このアルバムは、ここまで来てしまったという現実とか(”Exit To The Sun"の「微笑んでくれる人がひとりいるなら もうそれでいいじゃないかってうなずかなきゃいけないね」)、やり直せない現実とか(”Classmate")、そういう「年をとった」現実を正面から受け止めて、そこに安住せずもっともっと先へ生きていこう、というふうに受け取ります。

全体を通すとそういう風に受け取れるながらも、魂を鷲掴みにされ一度聴いてからずっと頭の中で考えが四方八方に伸びて収まらず、どうしてもそれについて書きたくなってしまうのが”Black Coffee"。"Classmate"とか、内容的には哀しいテーマであっても曲の印象も歌われていることもきつい伝わり方はしてこない中、まるで鈍器と鋭利な刃物の両方で感情に大ダメージを与えてくるような曲。

明日になったら何か変わるでしょうか
くだらない誤解を笑うような
氷がちょっとずつ解けるような
そんな夢 甘い夢
ノミホソウ

「ノミホソウ」。そんなこと有り得ないよ、と諦めさせられる。だいたい世の中では意見を交わせば通じ合える、という理想を掲げる中で、「そんなのただの楽観的希望的観測でしかない」と突き放す「ノミホソウ」。

お互いいろんなものを
見せ合ったけど
まるごと愛せる才能がまだ足りない

時間をかけ相互理解が深まると、もちろん受け入れられない部分や、経験して記憶に残ってしまう否定的な部分が積み重なる。だから時間をかければかけるほど、そういった受け入れられない部分を受け入れる力が必要になるけれど、それが「まだ足りない」と、自分を責める方向に向かうしかないネガティブスパイラル。

誰のことも恨まないで憎まないで
優しい思い出だけ集め
このままさよならしてしまおう
そんな思い 苦い思い
ノミホソウ

そして出口を無くしてしまうこの曲最大の大転換。日本では(世界でもそうなのかも知れないけれど)、耐えきれないことがあったとき、それを自分の外部のせいにせず、不平不満も言わず、感謝すべきことに感謝だけをして、潔く身を引く的なスタンスが美徳とされ、それをわかっていてその選択肢を選ぶことが時に「楽」なこともあって、そうやって楽なほうに逃げてしまう自分を「苦い思い」で見つめてその考えすら「ノミホソウ」と言われてしまう。どん詰まりの状況で、ただ黙ってそこから立ち去ることさえ許されない。

正直な思いを残らずぶつけあい
悔いが残るほど傷つけあい
それでも少し前に進む
そんな運命 シブい運命
まだ見ぬ旅路があるのなら
しばらく歩いてみるのもいい
出発の前にもう一杯だけ
黒い珈琲 苦い珈琲
ノミホソウ

たった一か所だけ出てくる救い、それが「それでも少し前に進む」。そしてそれを「そんな運命 シブい運命」と呼び習わす。先のフレーズで「このままさよならしてしま」うことを「ノミホソウ」と言っているので、意見が徹底的に食い違う相手と、それでも離れることはしないということは前提になっていると思う。離れることはできないからズタズタになるほどやりあって、それでやっとなんとか「少し前に進む」。そんな状況を、「そんな運命 シブい運命」と言わずに何と言えよう。それでも少し前に進んでその先に「また見ぬ旅路がある」と思えるから「しばらく歩いてみる」。「しばらく」と言い、「してみるのもいい」と言っているけれど、これはもうそうやって生きていくしかない、それが人生という運命なんだと言っているように聞こえる。

自分にとっては”有頂天”は久し振りに投げ出されるだけの救いのない歌詞だなあと思ってて、この"Black Coffee"も相当にどん詰まり感のある苦く重く苦しい歌詞だけど、"EPIC DAYなんて来るのかどうか分からないけれど”という境地を維持するためには、これくらい徹底的に自分を追い込む覚悟がないといけないんだなと深く深く突き刺さった。例によって単純な男女間のことを歌っている曲ではないし、自分が自分の生活に照らし合わせる際も自分の生活というより自分のスタンスすべてに染み渡らせようと考える内容だった。

B00SQEGZ42 EPIC DAY (通常盤)
B'z
バーミリオンレコード 2015-03-03

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『沈黙』/遠藤周作

マーティン・スコセッシが映画を撮影中と聞いて、『沈黙』を読みました。今年はこれまで以上に、宗教に関する著作を読まねばなるまい。

換骨奪胎?和魂洋才?良く言えばこういった四文字熟語が宛がわれるのだろう、この部分が一番鮮烈に印象に残る。

デウスと大日を混同した日本人はその時から我々の神を彼ら流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ。

日本人は人間を美化したり拡張したりしたものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない

日本は過去にキリスト教を受け入れなかった歴史のある国であり、その当時キリスト教徒に対して行った仕打ちというのは現代の反キリスト教集団の仕打ちと比べて勝るとも劣らない。だから、現代起きている事態を、我々日本はこの現代にはもう起こさないと考えるのは浅はかであると思う。日本は歴史の始まりから美しく賢明な国だと思いこむ風潮があるけれど、あまりにも浅はかだと思う。

そして先に引用した部分。世界のどこかにこの日本と同じような性質の国があるのかどうか知らないが、日本は輸入してそれを自分たちに適するようにカスタマイズすることにかけて随一の能力は持っているように思う。問題は、それが「何のためにそうするか」という点が全くないことだ。ほとんどすべての場合において、それは「自分たちの都合」のためになされる。どこそこの国ではこれが一番よい、という物品でも概念でも、それ自身どういった目的を帯びているか、そういう点はほとんど考慮されない。自分たちの都合だけが最優先される。日本式なやり方、日本式の外国の文化を国内に取り入れる際のカスタマイズの仕方、手法の最大の問題点はここにあると思う。どういった目的を成し遂げるために生み出された文化であるかを蔑ろにして、自分たちの「都合」に合わせてそれを利用してしまう。現代でも「xx(国名)ではこれが昔からの・・」とか「xx(国名)のライフスタイルでは・・・」と言ったような紹介の仕方は、自分たちのいいように部分を摘まんで自分たちの「都合」に合わせて利用している。私は外資系に勤めているが、この業界の外資系の多くは、部分的には外資系の数字に対する厳格性を振りかざして社員を統制する傍ら、日本は日本の独自の文化があるという体で、接待で癒着しろと言ってしまうような会社もあるくらいだ。

日本人が作り上げた神と教会の神の違いを考えるのも面白い。けれど今の私に最も通説な課題として残ったのは上記の二つ。
4101123152 沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
新潮社 1981-10-19

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Kindle for PC 出たけれど…

Kindle for PCがいつの間にかリリースされてたので早速手ごろなNewsweek買って試してみましたが致命的な弱点が。それは「ピンチできない」!

今まで、「PCで読めない」という理由ただ一点で(実際にはKindle Cloud Readerというウェブサービスがあるので読めなくはないのだけど)amazonでは電子書籍を買わず、honto!というサイトで買ってたのですが、kindleがPCで使えるなら話は変わってくるぞ、と喜び勇んでKindle for PCインストールしてNewsweek買ったのですが、なんとピンチができない。

PCとは言え、Windos8環境でピンチが出来ないのは痛い。Surfaceなんでピンチ操作に慣れているのです。これはないかな、ということで電子書籍はhonto!維持で決定。honto!のビューアも、ピンチしててもページ繰ったら元に戻るとかいろいろ文句言ってたんですけどね。

独走会 - 2015/02/15 北野天満宮

道を知っている、ということは例えそれがどんな些細な点だとしても、大きな差となって現れる。

年末に園城寺ライドで走ったところでもあるし、部分部分はこれまで何度か走ったことのある道で、分岐や本線・側道の合流等、何一つ迷うことなく走り続けられるのは本当に気持ちいい。京都に着くまでは天気もよく風もなく、ほとんど直進のルートで、北野天満宮までの43kmを休みなし1時間40分。移動速度26km。ロードバイク的にはまだまだだとよくよくわかっているのですが十分満足できるペースでした。ド平坦なルートならこのペースでずっと走れる自信がつきました。

どんなことでも、先人の知恵を全く借りずにやれることもやっていることも絶対にないのだから、「道」を誰かから教わってそれに沿って活動するのが、少しでも多くの「道」を教わって活動するのが、絶対的にうまくやれるってわかりきったことです。先人の知恵を全く借りずにおれることなどこの世にないのだから、自分の力で道を切り拓くなんてことは傲慢と妄想の産物に他ならないのですが、果たしてそうやって端折って端折って先に進んで成功することだけで人生の意義を見出せるのかという思いと、人生の残り時間が少ない中で、端折って端折ってやれることを増やすのが当然ではないのかという思いとが交錯。

如何に時間をかけるか。如何に失敗するか。成功するためにではなく、如何に純粋な失敗を重ねられるか。グーグルの知らない検索ワードを探すアクションと同様に、如何にプライベートな失敗を数多く経験できるか。ここに差別化の未来がある。もはや、個性は失敗にしか宿らない。


御朱印。文字通り「印」でちょっと珍しいな。

『日本人のためのピケティ入門』/池田信夫

どこがいちばん問題意識として頭に残るかって「ストックに対する累進課税」、ここでした。言われてみると、と思って読書記録手繰ってみると、「ストックへの課税強化」をこれからの課題として上げている書籍がやっぱり複数あった。

稼いだおカネは貯めずにぱーっと使いなさい、という世の中を目指すような感じがして、従来の道徳観と合わずに若干躊躇するかも知れないけれど、格差拡大の元凶がそこなのだとすればこの転回は早く受け入れなければいけないことなんだろうと思う。それに、おカネをじゃぶつかせれば景気がよくなるんですという言説が本当だとすれば、富裕層に対してストックさせずにどんどん消費させる政策が間違っているはずがない。

しばらく前、「貯蓄から投資へ」みたいな喧伝がなされた時期があったけれど、あれは結局、証券の持ち手が、売り先がなくなり商売が行き詰まったのでカモの買い手を求めて繰り広げられた一大キャンペーンみたいなものと思っていて、だから「投資」とは言っても、純粋に事業に資金が巡る効果よりも資産としての証券を持っている人が売却(と更なる購入とのサイクル)で利益を維持していっただけだと思ってる。

一方で、その「証券を持っている」側の人なんかは、『ヤバい日本経済』のように、「不動産価格の回復が必要」みたいに、ストック擁護になっていてある意味おもしろい。

今回は相続税もテコ入れされているし、ストックに対する課税強化という方向に進むのかなと見えても、直感的には今現在巨大なストックを持っている層が、そう簡単にその政策を実現させるとは思えない。基本、ストックを持っている層が、政治においても大きな力を持つのは現実。なので、これはやっぱり「革命」が必要なことなんだろうなあと思う。

4492444149 日本人のためのピケティ入門: 60分でわかる『21世紀の資本』のポイント
池田 信夫
東洋経済新報社 2014-12-12

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独走会 - 2015/02/08 生駒市総合運動公園

朝から走ろうと思ってたらいつもの如く雨に降られたので、夕方、近場のちょっとした登りを。16倍速の擬似タイムラプスで。

手軽なクライム練習コースと言えば宝山寺、なのですがあれでもちょっとキツいな、と思う弱気なときは総合運動公園へ。1km・8%でいい気晴らしできます。登り始め地点まで3kmあるのでウォームアップ・ウォームダウンもできて30分でお手頃。

この日も風がきつくて煽られ煽られ、登りで路肩に寄せてられなくなったことも(遅いからですが)。どの車もクラクション鳴らしたりはなくて、とてもありがたかったです。安全運転。

タイムラプスって凄く難しいことだったんですね~。動画があればコマ飛ばせばそれっぽくなるのかと思ってました。成らん(笑)。

独走会 - 2015/02/01 大神神社

さすが大神神社の朔日参りは大変な人出でした。想像以上でした。

生駒に住んでいますので朔日参りと言えば宝山寺、なのですが多少時間がまとまって取れたこともあって、ネットで調べたら朔日参りの風習が大神神社にもあると判ったので大神神社に参拝に。片道30km、1時間30分を目標に。法隆寺から田原本に抜けて24号線に出るところまではすこぶる快調だったのですが、大神神社を24号線沿いと勘違いしていてここから迷走が始まり、一時は真逆に曲がったりして結局相当タイムロスして1時間45分かかってしまいました。後ろの時間もあったので参拝も御朱印もままならず、鳥居で写真だけ取って退散するハメに。

残り時間が1時間30分を切っているので、自走で戻ると間に合わないかも知れない、なのでスマホで電車を検索してみても、場所が大神神社なのでJR、本数が少ないし近鉄にどこで乗り継ぐねん・・・と思ったら天理で乗り換えるというルートが。なるほど天理か、天理だったらJRを待たなくてもそこまで走って行けるなあと40分あるし、と、大神神社から天理駅までの10km強を走ったのですが冬の午後の北風にまともに煽られ、道は遮るものの何もない田畑の中の田舎道、ときどき吹き飛ばされそうになりながらぎりぎり天理駅に辿り着いたのでした。

今回、ウォーキートーキーハンドセットというアイテムを実戦投入。

要はスマートフォンに接続するスピーカーマイクなんですが、ボタンを押している間は相手の声が聞こえない(こちらが話す)等々、ちょっと「なんとかかんとか、オーバー!」的な気分のオモチャで、ちゃんとこれだで着信に対応できるというところがおもしろいなと思ってamazonで買いました。

でも、これを見ていちばん「これだ!」と思った使い道は、「Googleマップのナビを喋らせること」!
こんなふうに首元にクリップしておけば、Googleマップのナビゲーションが聞こえるんじゃないか?と。

目的地ゴールまでの道のりはルートラボでつくってGARMINに入れてるのですが、到着した後、その近辺で2,3立ち寄りたいお店(主にラーメン屋)がある訳です。私のGARMINは英語版Edge 800なので、スポット名等全部ローマ字で直感的じゃないので結構迷うことが多く、市街地の目的地へはスマホ片手に、というパターンで時間を無駄に食うことしばしばなので、いっそナビが聴けるようにすればいいのではという発想。ならばあのグーグルのCMみたいに「ここからどこそこまで」みたいに音声検索で、音声検索の起動も「オーケーグーグルで」、そしてナビは音声で、と考えたらこのウォーキートーキーは使えるんじゃ?と思ったのです。

今回、実際に大神神社から天理駅まで使ってみました。走行中は風の音でナビ音声が聞こえないんじゃ?と不安でしたが、だいたい、曲がらなければいけないところでは速度が落ちてるので十分ナビは聞こえます。カーナビと同じくらいの要領と思えばかなりスムーズにルートを走ることができます。日本のGoogleマップは自転車ルートに対応していないので、徒歩ルートを使うことになるので、稀に「ほんとにここか?」というルートを案内されたりもします。なので自動車ルートで検索するほうがよいかも。いずれにせよ、ウォーキートーキーはなかなかおもしろいアイテムでオススメです。