感情の展示 - チェルノブイリから「フクシマ」へ-開沼博/『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

この写真のように、チェルノブイリの第一中央制御室は2013年の現在も現役で、作業員が働いている。諸外国が福島を大雑把に捉えるのに憤りを感じていても、自分もチェルノブイリはチェルノブイリという都市ごと荒廃していて、発電所など既に機能していないと思い込んでいた。

「日本の戦争関連の博物館やドイツのアイシュヴィッツなどでは、しばしば責任の所在が裏テーマになっている。それは、日本の軍国主義や帝国主義であったり、ドイツのナチスだったりするしかし、ここではそのような責任の所在、絶対的な悪の存在が感じられない。責任の所在はどこにあるのか」
彼女の答えは明快だった。
「全員だ」

「フクシマ」をめぐる二年間の議論においては、「わかりやすい議論」「カタルシスを得やすい結論」をメディアが描き、あるいはそれを少なからぬ人々が求めていた状況の中で、「敵」を探す形での描写が行われてきたのではないか。

チェルノブイリ博物館は、抽象的でアーティスティックで、感情や主観に訴えかける展示がなされているとのこと。日本の博物館は、物や数字をドキュメンタリー的に客観的事実として提示して、その受け取り方は観る側に委ねる形が大多数で、それが正であると思われている。

どうして、(少なくとも)日本では、客観的な展示の仕方が「正」なんだろう?展示に感情を交えることに対して確かに拒絶感はある。その拒絶感を手繰っていくと、「ウェットな日本人のメンタリティ」という否定的な言葉に辿り着いた。どうして「ウェット」であることに、否定的なニュアンスを含めるのだろう?それは、「同質性の強要」を感じさせるからだと思う。ウェットであるというのは「あなたとわたしは同じ」という感覚。展示に感情が混じっていると、その発信者側は、その感情に対して異論を挟むことを拒んでいるように感じる。この「同質性の強要」が、当たり前だけど人それぞれの受け取り方を許さない発信方法を日本では助長しているのだと思う。

責任の所在をまず探し求めるというのも、同じところが出発点ではないかと思う。「責任は全員にある」という考え方は、特に、フクシマについて語っている外国人のブログ等で時々見かけるけれど、自分も含めて日本ではあまり見かけない。日本では「責任は全員にある」ということを、本来責任を取らなければいけない立場にある者が平然と使ってしまうところがある。それを封じるためには、「責任は全員にある」という考え方をタブーにするしかなかったのかも知れない。けれども、「責任は全員にある」という認識から出発する思考を少しでも多くの人が持つように広げていかない限り、福島原発事故を歴史の中に位置づけることができないと思う。

4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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作文

「決まったことを、決まったとおり、キチンとやる」だけで生産性は3倍になるという。13分冊、計1994ページの店舗マニュアル(MUJIGRAM(ムジグラム))の秘密を公開した。

「ホウレンソウ」は、人の成長の芽を摘む
松井忠三・良品計画会長に聞く

「ホウ・レン・ソウ」というのは基本的にはピラミッド型組織のより上の階層が、より下層での活動の状況を逐一把握したいという「欲求」から来るもので、「ホウ・レン・ソウ」はビジネス上当然のことと下層の立場が思ってしまう背景は、不都合な事実はできれば隠しておきたいという「欲求」と、本来それは説明できなければいけないことだという「倫理観」と、上の立場からの監督がなければ怠けてしまうということを認めているところから来るのだと思う。だから、「ホウレンソウは人の成長の芽を摘む」というのは正しい指摘だと思う。「ホウレンソウ」と監督のセットでなければ怠けてしまうというのは自律性がないということで、そこには成長はない。成長のない社員の組織に成長はない。その仕組みを、下層の状況を逐一把握したいという上層部の「欲求」が助長してしまう。ホウレンソウによって下層の状況を逐一把握したいという「欲求」に負けてしまうのも、上層部の「怠惰」と言っていいような気もする。

最近、その「ホウレンソウ」にしても、これはまるで「作文」だな、という報告書がたくさんある。ビジネス上のレポートとは思えないような言葉づかいと感情丸出しの長文の羅列。まだできてもいないのに「素晴らしい経過で順調です」という自画自賛。とてつもないことをやっているという印象付け。本来、日報や週報や月報の類は、作文ではないと思う。あまりに内容のない2,3行の報告もどうかと思っては来たけど、無駄な作文もどうかと思う。

評価基準

新・ルソンの壺、人を育て 技を伝える~中小企業の生き残り戦略~を観て、評価基準について考えた。山岡製作所では「スーパー職人」という一種の認定制度があり、かつ、弟子の成長度合が師匠の評価に反映される仕組が構築されている。これと、部下のノルマ達成率の総計が上司の評価である仕組とは、似ているようで確かに何かが違う。もう一つ、等級が決まっていても、その等級が「取引」に利用されることが常態化すると、職場のモラールを崩壊させる。達成率が唯一のメトリックとなっているような企業で、それ以外の要因で給与が上昇するようなことがあると不公平感以上の悪影響が広がる。

 『新・ルソンの壺』を観てそこまで考えたのは、先週に米マイクロソフトのバルマーCEO、1年以内に退任というニュースがあったことが若干影響していると思う。バルマーCEOの退任は、マイクロソフト社内における従来型のWindowsビジネスの地位低下を明確に表していると思う。これは、PC・スマホ・タブレットにおけるマイクロソフトのOSシェアが22%に過ぎないという事実を受け止めている。これは、現在の足を引っ張る過去の功績と決別するという必要であり大切な決断だ。将来の主要事業ではないことがはっきりしている事業の現在の業績が前年度比や前四半期比で華々しかったからと言ってそれが高く評価されると、企業内での士気は下がる。有体に言うと「白ける」。過去の功績を振り回す事業部の存在や、「そうは言え、現在の収益の過半がこの事業から生み出されている」という強弁。これらを意図的に継続的に抑制するのは容易いことではないということだろう。

独走会 - 平城宮跡、猿沢池、樫舎

夏らしい夏のポタリングおさめ。

朝の涼しい6時台から走ろうと思いつつ日頃の寝不足で目覚まし通り起きても二度寝、うだうだいうのも気持ちよくてのろのろ準備して漕ぎ始めたのは8時前、行先決めずにふらっと走るときの行先は決まって平城宮跡、太極殿と朱雀門を回りつつ、9時にならまちに着けば朝一番で樫舎の氷が食べられるなと、猿沢池の周りをくるくるしたのちにお目当ての氷。

また来年もあるさという気持ちと、もう今年で最後かもという気持ち。ちょうど良いバランスの今しか湧き上がらない感情と言葉を大切に。

「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う-「当事者性」の問題 『チェルノブイリで考える』/津田大介ー『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。という当たり前のことをいつもくどくどと言ってしまうのですが、そういう当たり前のことをつい言ってしまう気持ちの理由というのを、改めて深く考えてしまいました。

 過度な当事者主義の横行も、異常な放射線忌避による風評被害も、震災遺構をめぐる問題も、すべてに通底しているのは問題の「腫れ物」化だ。紛糾を恐れ、デリケートな問題の議論を先延ばしにしてきたことが我々から「当事者意識」を奪ってしまったのではないか。

 「当事者」というのはとても困難な問題です。「当事者」の要望は、「当事者」が表明するだけでは叶えられないことがある。だから、「当事者」ではない人間がそれを拾い上げるという行動が起きますが、この「拾い上げ」が、「当事者」の意に沿っている場合といない場合があり、更に、純粋に意を汲み損ねている場合と意図的に沿っていない場合があります。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という、一見反論しようのない言い方で意見を通そうとする人々は、非常に危険であり、意見を表明する立ち位置としてこれは絶対的に間違っているということを明確にしたほうがいいように思います。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という言い回しを使う心性には、「どこまで行っても相手方の気持ちを100%正確に理解することなどできない(かもしれない)」という想像力が働いていないことが明白だからです。我々は、「当事者」の代理で発言することは、本来ほぼ100%不可能なことだという謙虚な姿勢がどうしても必要になると思うのです。

 一方で、「当事者」が「当事者」として発言するときにも、同じことが言えると思います。このことを言うのは非常に骨が折れるのですが、それでも言わなくてはならないと思いますが、「当事者」は、「当事者」としてだけ発言すればいいのかというと、決してそうではないと思います。「当事者」は、「当事者」以外の人々が存在する「社会」を見据えた上で、要望を発言するべきだと思います。震災遺構の保存に関する保存派と解体派の対立と遷移は、時間経緯だけで考えるのではなくて、「当事者」と「非当事者」の双方向の意見交流の望ましいスタンスからも考えたほうがよいと思います。

 その上で日本社会のよくない点というのは、「当事者」に対して「社会」を見据えさせる強度がもともと強すぎること、つまり「忍耐」を強いすぎることだと思います。そして、特に震災に関してなぜ「当事者」に「忍耐」を強いさせるかと言えば、私たち「非被災者」が「非当事者」として振る舞っているから、「当事者」という自覚がないからに他ならないと思います。それは日本で起きたことでありながら、自分たちの問題ではなく、いつの間にか「先送り」に加担してしまっている。

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。当事者の代わりに、当事者の「わたし」を使うことは許されない。けれども、「わたし」を非当事者として配置するのは更に許されない。この当たり前のことを、「私たち日本人」的な思想でぼやかしてしまっているのにどうも苦々しく思います。わたしはあなたを、あたなはわたしを、双方思いながら物を言う。それを理想論だというところから、第三者が仲介に入るという形式を選ぶか、双方思うことなく「わたし」の主張をひたすらぶつけ合って着地点を探る形式を選ぶか、というような選択論が出てくるのだと思います。後者は短絡的にはアメリカ的な印象を持ち、こういう「声の大きさ」で勝負を決めるようなやり方はよい進歩を導かないと思ってきましたが、今現在の状況を鑑みると、お為ごかしが横行して「当事者」が救われないことの多い状況よりも、そちらのほうが幾分ましなのではないかと考えてしまいます。
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東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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街の本屋で本を買う - 2013/08/17 ジャパンブックス生駒南店 『文藝春秋 九月特別号』-『爪と目』/藤野可織

 データ・サイエンティスト関連のムック本、もしかしたら売ってるかな、と思ってちょっと行ってみたけれどやっぱり無くて、折角行ったので芥川賞受賞作を読もうと『文藝春秋』を買って帰りました。

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

の書き出しが有名になったように、この小説は「あなた」を主人公にした二人称小説で、この「あなた」と「わたし」の倒錯のややこしさと面白さが肝だと思うのですが、私にはどうしてもこの「あなた」を、読んでいる私に作品が向けているように取ってしまって仕方ありませんでした。

 本作には、三歳の女の子の「わたし」と、その父親、ベランダで変死した母親、そして父親の愛人で母親の変死後同居することになる「あなた」が登場しますが、「あなた」は生にとても執着の薄い人間として描かれます。子どもの頃、ハムスターを飼いたいと両親にせがんで買ったものの四か月で死んだ後は特段それを悲しむことも新しい生き物を飼いたいとも思わなかったというペットに関する挿話を、「わたし」と同居することになる際に思い出してわくわくする話として引き合いに出されるくらい、情の薄い人間(相手の男の連れ子と住むのを、ペットを飼うのと横並べにするような)。

 この、「目の前に流れていくことをうまくやり過ごしていくだけ」の「あなた」を、徹底的に冷徹に見つめていた「わたし」という存在も、一点を除いて「あなた」と「だいたい、おなじ」と言ってしまうんだけど、読んでいる最中、情が薄くて流れに任せるだけで「(不都合なものは)見ないようにすればいい」で生きているこの義母のことを「あなた」という、その「あなた」は読んでいる自分だ、と取ってしまいながらどうしても読んでしまいました。どうせオマエは、自分の身の回りで起きている面倒なことをすべて「見ないようにしている」んだろう、と非難され続けているようでした。

 そう非難し続けている「わたし」も「あなた」と「だいたい、おなじ」と言うところ、人間の精神活動の両義性みたいなものを感じて唸るのですが、「だいたい」じゃないところがどこかというのと、「見ないようにすればいい」という、作中登場する本の一節から引用された文章を「わたし」が「あなた」に言って聞かせたのが、「わたし」が三歳のこの時点ではなく「さらにあと」と表現される、「わたし」が恐らくはこの時点での「あなた」くらいの年齢に追いついた段であること、この二つを思うと、人間は所詮、という少し暗い気持ちにもなります。

 何を見ないといけないのか?という問いを突き詰めたくなる物語なのですが、なぜか、この「あなた」の突きつけられ方に強く引き付けられて読み終えたのでした。

サザン、桜井高校、女子マラソン

先週末はスポーツとか音楽とか、そういうのから様々刺激を受けました。

NHKで放送された「35周年スペシャル 復活!サザンオールスターズの流儀」。サザンは若い頃、好きと嫌いが微妙に入り混じる対象で、ときどき繰り出す絶妙に力の抜けた「おふざけ」の、その面白さは判るんだけど、なぜサザンだったら許されるのに他で許されないことがあるのか、サザンのセンスは判るけれどそれだけで認められていいのか、という割り切れない思いと、絶妙に逃げずにもっと腰を入れてやってくれよ、という歯がゆい思いで、のめり込むにのめり込めないバンドだったんだけど、自分が30代後半を過ぎたあたりから、サザンがサザンを続けている凄みとかファンを大事にするスタンスとかに感動してました。

桑田さんが番組の後半、「青山学院大学って洒落た大学に入って、彼女つくって楽しもうって思ってたけど、全然そんなふうにならない。半年ほど経ってサテンでTVの長嶋さんの引退セレモニー観て涙が思わずはらはらと流れて。オレ、何やってんだろうって」。その挫折があって音楽に行けたし、ここまでやってこれたと。その後、恒例の「流儀」をまとめる最後の下り、「サザンの流儀」で「力を抜くんですけど、そういうのはどうしても下にいっちゃうんですよねえ~」と、この上ないサザンらしい脱力感で締めてました(笑)。

高校野球、我らが奈良県代表桜井高校を一生懸命TVで応援してたんですが、監督も言ってた通り、先攻取ったらよかったのになあと思ったところはあります。奈良県(勢)の傾向として、後攻を取るんですよね。最後の最後を残しておきたいという心理。これ、県民性だと思います。

それはともかく、桜井高校は「自分との闘い」を主眼としているといろんな記事で読んでいました。好プレーには敵味方なく賛辞を贈るし、好打したりしても派手なガッツポーズはしない等、精神面を重視しているのが随所でよく判りました。率直に言って、甲子園で勝とうと思ったら、若さ丸出しでガッツポーズ出して勢いに乗るほうがいいし、下手な緊張とは無縁でいれると思います。

それでも、桜井高校は自分たちのスタイルを貫いて、それぞれに感じるところを持って一試合やり抜きました。スポーツである以上、勝ちを目指すのは当然ですが、「何を持って”勝ち”というのか」という、非常に高度な問いかけをされたと思います。それも、従来のありがちな精神論や修養論ではない、長い長いスパンを持った、考え続けるにふさわしい問いかけだったと思います。

自分がビジネスマンとして停滞している、停滞期にいる、そんな忸怩たる思いをいつも微かにでも抱きながらここしばらくの日々を過ごしてきた私にとって、サザンと桜井高校が見せてくれた「経過」は、新たな意欲を生み出す素になってくれそうなものでした。

そういう、芸術家魂やスポーツマンシップに触れて充足する一方で、世界陸上モスクワの女子マラソンの中継。日本人選手の前を行く3位の外国人選手がリタイアした際、「よしっ」という声とともに中継サイドの拍手があったのは頂けなかった。確かに日本人選手のメダルは渇望されたことなので喜ぶのは理解できるけれど、ライバル選手がリタイアしたタイミングでの拍手は潔いものではないと思う。もちろん、ライバルがリタイアしたことも含めてレースだから、3位になったことを喜ぶのは当然のことだと思う。だからこそ、あのタイミングで拍手するべきではない。


独走会 - 小南トンネル手前(黒滝) 86.09km

去年辿り着けなかった洞川温泉、「いつかまたチャレンジできる時が来る」と言ったのを果たすべくアタックしましたが、(下調べ不足で)あと1kmで頂上というところで無念の通行止め断念でした。


これが今回のルート。なぜかマイル/フィート表示ですが。

今回はただひたすら洞川温泉に辿り着くことだけを目指したので、途中の寄り道一切なし。登りのスタート地点となる下市口までの40kmは途中1度休憩を挟んでひたすら体力温存を意識して走る。下市口を出てまず309号線の平均6%前後の3kmを走り、そこから12km走った後、いよいよ県道48号線、平均斜度11%強の山道を6km、標高差560mをほぼ一本調子で登り続ける。309号と県道48号の間の12kmには、日本最古の水の神社・丹生川上神社下社とかお馬さんとかキャンプ場とかおもしろそうなものが山ほどありましたが写真など一切撮らず。ひたすら洞川温泉目指して突っ走る!


下市口を8:00に出発したいので、7:30下市口到着予定にして、5:30に生駒出発。朝日が赤い。

下市口までの40kmは概ね快調で予定通り。食べたのはカロリーメイト一個。ただ、どうも吉野近辺は相性が悪くて、いつも走っても走っても「まだ着かんのか!」という苛立った気分になるものの、これもメンタルを鍛える一環だと抑えて走る。

下市口のコンビニで、40km分の疲れをなるべく取るため15分くらいの十分な休憩と、水分と補給食の確保。ここでウィダーインゼリーを食べて、予備一個を買い、持参のメイタンccc x2と併せて3個の補給食。メイタンは県道48号の登りはじめで1本、力尽きかけそうになったら残り1本を食べる想定。

309号の登り斜度6%3kmは比較的快調。登りはじめは辛かったものの、リズムを掴むと6%なのでスムーズに登れました。ここの頂上のほうが、県道48号の上のほうより景色がよかったかも。

で、問題の県道48号。

309号で途中まで登ってきて、9:00頃道の駅黒滝の分岐から東に逸れて県道48号に入るというルートを選んだので、県道48号の登りの入り口、河分神社あたりで「小南トンネル全面通行止め 洞川方面は309号に迂回してください」という張り紙を見てたものの、その時点でもう打つ手なし。今更309号に10km弱かけて引き返すだけの時間も気持ちも体力もない。どこで停止させられるのかわからないけれど、とにかく登れるところまで登ろうと腹をくくって9:30頃、県道48号にアタック。

しかしやはり県道48号は甘くありませんでした。落石はゴロゴロしてるしクラックは入ってるしそのうえ斜度は10%越えで休みなし。ひたすら10%以上で登り続ける。そりゃもう何度も休みました。いちばん怖かったのは水が尽きること。だいたい、走れているときで時速7km前後。漕いで出せる最低速度。これ以上遅いと、こけてしまう速度。で、1km登るくらいで力尽きるので、6km登るのに1時間以上かかる計算。これは去年の経験上覚悟してたことなのですが、道が悪いということがどれだけ登りにくいことなのか、去年よりも今年のほうが経験積んだ分だけよくわかりました。そして今回、初めて「眠くなる」という疲れ方を経験しました。



そして標高890m地点、無念の通行止め。

このゲートの隙間を縫ってまだ先に進めそうではあったけれど、交通ルールを守るのがサイクリストの精神、通行止めと警告されているところは通行しないのが当然。残念だけどわかってたことなのでここで引き返しました。

ただ、斜度10%のダートって、下るのも大変なんですよね・・・握力がなくなっていって。登りも下りも辛かったです。

とは言え、下りきった後、下市口までの20km弱は頗る快調で、登るのは辛かったけど結構足は回復してくるようになったなと思いました。

今回は、洞川温泉まで行けなかったものの、やりきったことがすべて。箇条書きは、要らないな。309号でなら泥川温泉に辿り着ける自信はある。近いうちに再挑戦したいな。

ちなみに下市口から特急に乗ったのですが、特急券を注文した駅員さん、私が自転車なので気を利かせて車両の後ろの席を取ってくれたのはいいんですが、橿原神宮前での乗換がホームのいちばん遠い車両で、かつ、車両の後ろには荷物を置けるところがない車両という、親切なのか意地悪なのかわかりませんでした(笑)。

LOSTAGE "New Moon, New Moon. ~背中と背中~" 2013/08/07@奈良NEVERLAND

素人の僕にも、ギターの音がよいということは判ったのでした!


先月のpangeaに続いてのLOSTAGE。前日はインターネット放送のDEERs NARA Channelというのに兄弟揃って出てはったんですが、疲れの溜まってた僕は0:30でリタイア。寝ちゃいました。視聴者500名を目指そう!と(DJの人が)言ってましたが(笑)どうなったんでしょう。

この日いちばん印象に残ってるのは、オープニングのエフェクト!僕が行ったライブでああいうオープニングから曲に入ったことないような気がするんだけど、どうだろう?おとぎ話との対バンに合わせてキラキラした音から入ったとか?そんなことないか(笑)。『僕の忘れた言葉達』『あいつ』、あの流れ良いです。

途中、MCで「今日はええ曲いっぱいやるよ」と兄さんが言ってましたが、ほんとにいい曲目白押しでした。「いい曲」というのは言い回しが難しいけれど「聴かせる曲」と言えばいいのか「メロディアスな曲」はちょっと違うな、とにかく大音量感で盛り上がっていくというのではなくて聴き惚れるというか酔いしれるというか、そういう面のある曲をずらりと並べられたように感じました。いつもはNEVERLANDで聴くと他より小さいうえにお客さんが少ないこともあって音圧を感じまくるのが高揚感だったのですが、この日は音が個々の音がすごくくっきり聴こえて、「大音量なのに耳を澄まして聴く」という、不思議な体験をしました。神経を研ぎ澄ませて一音一音聴くのが楽しかった。

そういう意味ではやっぱり『SURRENDER』がベストアクトかな~。pangeaのときとは全然違うと素人の僕でも判るくらい、ギターで変わるもんなんですねえと。めっちゃ聴き入りました。レコードされた音がその曲のあるべき姿の音だと思ってる訳ではないので再現性云々はないですけど、率直に言ってpangeaのときよりこの日の音のほうが好きでした。pangeaのときの、今のLOSTAGEが出している『SURRENDER』も感慨深かったんですが、純粋にこの日の『SURRENDER』はよかったです。美しくて。

さてやっぱり途中五味さんがMCで語ったことについて感想を書かないわけにはいかない訳で。

この日の前日、五味さんのお友達が何かの事故で(兄さんの言葉をそのまま借りると”悪さして”)亡くなったそうで、そのことに思いを馳せながら曲をやります、と言ってました。誰かの死に出くわすたびに、生きていることがありがたいこと、自分に残り時間がそれほどないこと、をつくづくと思いしるし、五味さんもその感情をとても言い表しにくくしているふうでしたが、僕も去年とある出来事があって、残り時間はそんなにないんだと思うようになって、やり方や流儀や新しいメソッドの取得なんかに夢中になるより何をどれだけ実施し何をどれだけ経験するかだろうというふうなスタンスに変わりつつあります。ほんとに残された時間は少ない。その少ない残された時間を、対して思い悩みもせずできるだけ気楽に楽しく過ごすように生きるのもいいし、ただただ経済的充足のためにまっしぐらになって生きるのもいい。でも僕はどうしても、何をどれだけ考えられたかが充実感に繋がる。だからできる限り、残り時間が少ないんだという危機感が、本能的な危機感であり続けるように生きていきたい。

ただ困ったことに、「その間際」の恐怖をふとした瞬間に実感してしまうことが、その危機感に少し鈍感にしているような気がする。

原爆の日に-『チェルノブイリ ダークツーリズムガイド』/東浩紀

原爆の日の今日、この本を紹介します。ひとりでも多くの人に読んでほしいから、印象に最も残る日だと思うから。

「チェルノブイリ」と「ツーリズム」が、「原発事故跡地」に「観光地化」が結びつくその様は、最初は強烈な違和感を持つかも知れません。不謹慎、という言葉が出てくるかもしれません。しかし、アウシュビッツや広島が観光地化していることを思い返すと、チェルノブイリが観光地化していることはけして不謹慎なものではないと理解できるようになります。それは、チェルノブイリ周辺に暮らす人々の収入源を生み出すという実利的な理由だけでなく、「歴史」を実在のものとしてこの地球上に残存維持していくことの意義を理解できるからです。そういった、歴史の悲劇の面・負の面を見れる場所への観光を、「ダークツーリズム」と呼ぶのだそうです。

本書の「はじめに」でこう語られます。

福島第一原子力発電所の事故は、けっして例外的なものではありません。その二十五年前にはチェルノブイリがありました。そしてまた、二十年後、三十年後には(あってはならないことですが)、アジアかアフリカか世界のどこかで同規模の事故が生じるかもしれません。わたしたちは、福島を、そのようなグローバルな事故の連鎖のなかに位置づける必要があります。

原爆ドームがあってさえ、今このような状況に進もうとしている現代です。もし、福島を「歴史」として残存維持する努力を怠ったならば、我々には「進歩」はないということになるでしょう。

チェルノブイリの、福島の記憶は未来に受け継ぐために、「忘れてはならない」とお題目を唱える以外になにができるのか。それが本書を貫く問題意識です。わたしたちは、そのひとつの回答を探るためにチェルノブイリまで行ってきました。

じっとしているだけならそれも大きな罪。一般庶民の私にとって、「お題目を唱える以外に」チェルノブイリまで行くことはできないから、例えばこの本を隅々まで読み、チェルノブイリの今を知ることが、「歴史」の残存維持のために私にできることのひとつであり、やらなければならないことのひとつであると思います。

4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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本著はゲンロンが年一回刊行されている思想地図βの2013年度版で、今年は2冊刊行されるそうで、その第一弾がこの『チェルノブイリダークツーリズムガイド』、そして第二弾が『福島第一原発観光地化計画』で、8月中に刊行予定だそうです。