こういうノリの話は(ウチの)会社の人間にはしてはいけないと肝に銘じてたのに、うっかり勢いで話してしまった。こないだ、東京から上司が来阪したので飲みに行き、その場で話の流れで蒲郡行きの話をしてしまったのだ。蒲郡に、10年後の自分に手紙を出せる時手紙というのがあって、そこまで自転車で行ったという話を。
この話をしてしまったのはほんとに痛恨だった。こういうことを「おもしろい」と思う感受性は、誰しも持っている訳じゃない。持っていても「おもしろい」と人前で言うかどうかも別問題だし、そういうのを持っているのは「若い間」だと決めてかかっている老年は、この話を聞いて話者の僕を「青臭い」と見做すようになる。ナイーブ扱いされてしまう。
何をおもしろいと思い、どんな情熱を胸に抱くかは個人の自由だけど、その「個人の自由」-つまり「他人の自由」を尊重できない人はただくたびれてしまっただけの枯れた人間と言い切って差支えないだろう。成熟も円熟も人生に必要なことに違いないけれど、それらすべては「たくさんの視点」を自分の中につくれるからこそ必要なことなのであって、わからないこと・できないことを増やすためのものではない。僕は視点を増やしまりいわば王道で、人間性はもちろんビジネスでも成長を続ける。
よしもとばななを読むときの個人的なテーマがあって、それは「収入を得るということがどう描かれているか」ということ。初めて読んだのが『N・P』で、そこから遡って既刊作を読んで、以来読み続けている中で、僕にとってのばななの転換点だったのが『海のふた』だった。ばななの作中の人物の半ばオカルトチックな魅力は抗いがたいものの、読み続けていてどうしても残るしこりのような不満、それは、「この人たちの生活ベースは浮世離れしすぎてて、一般庶民の僕らの世界の物語ではない」という感覚だった。おじいさんの遺産が転がり込んできたのでつつましく生活すれば一生働かなくてもいいようなおとうさんから生まれてきた娘、みたいな設定の下で奇跡を起こされても、ばななの作品世界ではそれでも心を打たれてしまうものの、やっぱりそれを自分の日常生活に活かすには求められる飛躍が大きくて、どちらかというと「寓話」というか、子ども時代にしつけのために読まれて刷り込まれる昔話的にしか活かせなかった。
それが、『海のふた』は違った。正確には思い出せないけど、かき氷屋を初めて自分で稼ごうとする主人公が登場するのだ。僕はこの作品を、それこそ胸に大事に抱くように読んだ。あらすじすら正確に思い出せないけれど、「自分で稼ごうとする主人公を、よしもとばななが描いた」というその感動は今でも全く色褪せずに胸の中で輝いている。
そして本作なんですが、これはもう『癒しの豆スープ』に尽きる。他の四篇ももちろん素晴らしいですが、『癒しの豆スープ』はとんでもなくよいです。ばなな独特の馴染のある恋愛・家族ストーリーを縦糸に、「生きる」こと「働く」こと、つまり「仕事とは何か」という、ばなな独特の世界をともすれば曇らせてしまいそうなテーマを横糸に、これ以上ないバランスで描き切られている。金儲けに走るスタンスを否定することはなく、お金に拘らないスタンスを奇異に持ち上げることもなく、それぞれの道にはそれぞれの道の意義があり、その意義を全うするためにはそれぞれに辛く苦しいハードルがあり、その意義を全うするために進んでいる限りそれは正しい歩みであり誰に否定されるものでもないということを、全力で描き切ってある。もし、これを読んで、「収入を得る」ということに対する全方位的なスタンスがわからないとしたら、その人にはもう働く資格なんかないと言い切ってもいいかもしれない。それくらい、「それぞれにはそれぞれの道があり、それは深く意義を理解することで判り合えるもの」ということが込められた物語だと思います。
それにしても、吉本隆明を読んで、よしもとばななを読んだら、当面、そこそこの程度の本だと読めないんだよなあ。全然おもしろいと感じなくなる。困ったもんだ。
さきちゃんたちの夜 | |
![]() |
よしもと ばなな 新潮社 2013-03-29 売り上げランキング : 3401 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
生駒市民たるもの、折に触れ、暗峠は登っとかなきゃならんでしょう!
とは言え、出来は散々でした・・・。平均斜度10.5%、最大斜度25%超、距離3kmの激坂、暗峠。大阪側ほどではないにせよ、普通の坂じゃないことは明明白白です。半年ぶりくらいのチャレンジで、登り方を忘れてて3回足をついてしまいました。途中、踊り場のようになだらかになるところが2回あって3パートに分かれてるイメージを持っているんですが、最初のパートでも斜度15%越えるのでそこで心拍数を持っていかれてしまいました。ただ、ラスト1kmの激坂は意外にきつくなかったというか、やっぱりアップの重要性を感じました。ちょうどいいアップができていると楽に登れるんですよね~。
正直、暗峠なんて登ったってなんにもおもしろいことないです。無闇にきついし、舗装はあれてるし、コンクリート路面とか輪っか?のスリップどめが施された路面とか、ふらふらになって辿り着いた頂きは石畳でタイヤ取られてこけそうになるし、全然見晴しもよくない。挙句、下りもあんな路面なので怖くてしょうがない。同じ県境の峠なら、十三峠のほうが距離も短いし斜度も緩いし眺めもいいし、どう考えても暗峠より十三峠のほうが登り甲斐がある。大阪側に出る目的にしても、暗峠の大阪側の下りなんてほとんど歩いてるのと同じスピードでないと危なすぎるし。
それでも時々は暗峠を登る理由、それは、ロングライドをしていてキツくなったとき、暗峠を思い出して、「アレよりはマシだろ?」と思えるから。もちろん、ツーリングに無理は禁物、適切な状況判断でリタイアすることも大事ですが、「もう少し頑張ってみよう」というエネルギーも同じくらい大事で、疲れて嫌気がさしたときに、暗峠でも諦めなかった自分を思い出すと、もうちょっと頑張ろうかなと思えるのです。厳しいトレーニングをする意味ってそこかなと思います。僕はロードバイクは趣味なので愉しめることが第一なんですが、ときどき、愉しみを広げるための努力もしておこう、というところです。
念願叶って、蒲郡の”海辺の文学記念館”に行ってきました!10年後の自分に手紙を出しに。
このルート、今までの僕のツーリングの中で最高に楽しいルートでした!自信を持ってオススメできます。10年後の自分に手紙を出すという行為が、ツーリングでそこまで行くということでより素晴らしいものになります。機会があればぜひやってみてください。
”海辺の文学記念館"では、”時手紙”といって、5年後または10年後の自分に手紙を出すことができます。これをテレビで知って、「行ってみたい!」と思い、Google Mapで調べてみたら、奈良から約180km。ビワイチやしまなみで経験したことのある距離ではあるので、全然ムリという訳ではないなと思ったんだけど問題は締切時間。時手紙の受付締め切りは15:30。自分の足では180km走るためにはどんなに頑張っても10~11時間かかる。15:00着として、11時間ということは朝4時に出発しないといけない。ということで、余裕を持ってまだ暗い朝の3時に出発した結果が先月の被轢過。なので今回はムリせず走れるスケジュールを組み立てました。
- JR奈良駅発加茂行の始発、5:03発に乗車。JR奈良までは車で移動。
- JR伊賀上野駅6:04着。準備を整え、6:30頃スタート。
- 163号線を東へ。ほぼ道なりで津・なぎさまちへ。8:40頃着。約45km。
- 9:00のエアポートラインでセントレアへ。10:00頃着。セントレア内のプロントで補給を済ませる。
- セントレア10:15発の名鉄で、二駅先の常滑へ。名鉄は特急でも特急券なしで乗れる車両があります。セントレアからは自走では出れないそうです。
- 常滑駅10:30頃スタート。県道34号-衣浦トンネル-国道247号と乗り継いで、蒲郡。13:30頃到着。約55km。
伊賀上野から津まで2時間で着けるとは自分では思ってなかったので、予定全般は1時間繰り上がってるのですが、ところどころ思った以上に時間が掛かってるのでちょうどよかったです。もし、津に9時までに到着できなくて10時になったとしても、14:30蒲郡着なので、充分行けると思います。実際に走る距離は100km少し。巡航18km/h前後で100km走ることが出来れば十分です。
早朝のJR奈良駅。5時台の並ぶ電光掲示板は壮観。
伊賀上野。高校時代はここで近鉄に乗り換えてました。今はもう、その路線は近鉄ではありません。
津からエアポートライン。自転車はちゃんと括ってくれました。かっこいいお兄さんが。
まさかのトライアスロンフェスタ。この後、信号待ちで後ろから追いついてきたロードの人に、「来週のトライアスロンに出られる方ですか?2XU履いていらっしゃるので」と間違われてしまう。迂闊に2XUなんてはくもんじゃない(笑)
凄く楽しみにしていた衣浦トンネル。地下11階まで階段で降りていくのが大変でした(笑)
これが「海辺の文学記念館」。平野啓一郎氏も蒲郡出身だと初めて知りました。
こちらの管理人の方はとても上品な方でした。手続きの案内は判りやすく丁寧で、気持ちよく過ごせる場所です。
手紙を書き終えたら、こんなポストに投函します。すごく風情あります。
海辺の文学記念館からすぐのところに竹島という島があり、そこに伸びる桟橋がまた風情あります。
では恒例の箇条書き:
- GARMINの表示は、どの画面でもGRADE(斜度)を出しておくのが意外と役に立つことが判った。今回のルートはほとんど勾配のないルートだったものの、見た目下りなのにきついなーと思ったら斜度2%の登りとか、正確に把握することで楽に走ることが出来た。
- 風もほとんどなく、ずっと平坦だったという好条件はあったものの、今回はとにかくよく走った。これは、タイヤがPRO4に変わったからか、ハブが新品に変わったからか、様々の要因があるように思う。年に一度、ちゃんとしたオーバーホールをしたほうがいいなと思った。
- エネルギーチャージ系の補給食を2回食べた以外は、プロントのモーニングトーストと、ファミリーマートのおにぎり1個しか食べなかった。小刻みに少しずつ食べられるようになりつつある。
- トラックに抜かれるのはまだ少し恐怖心がある。これは克服するのは難しい。薄れるのを待つしかなさそう。
- このルート、帰りをよくよく考えておく必要があります。僕は、昔住んでいたところを通りたかったのもあって、蒲郡-名古屋-亀山-伊賀上野-奈良というJR在来線乗継で帰りましたが、2:30くらいに蒲郡を出られるなら、自走で名古屋まで40kmくらい走って、名古屋から新幹線で京都、京都から近鉄というのがいちばんよいと思います。
九州では蔦屋が流行ってるの??
人生で初めて宮崎に来て、なんの予備知識もなく突然現れた蔦屋書店に目を見開く。タリーズが組み込まれた造り、外周をファッション系の店舗が囲む配置、敷地内に多めに設けられたリーディングスペース等々、おおよそ最近の大規模書店の流儀はすべて盛り込まれてる。ワンフロアのぬけの良さ、レジ位置の判り難さが「書店」であることの空気を薄れさせ、リーディングスペースで「買わずに読書」することへの抵抗を極小化させていること、特集棚が雑誌群と文庫本群の切替部分で程よく目に入ること、等々、結構よく出来た店舗だなあと頭では理解してるのに感覚はどうにも在り来たりだなあと感じているのは、建物外面の店名フォントや店舗紹介の文字列、店内のガイド表示の判り易さと無関係ではないと思う。ある程度マスをターゲットにしなければ維持できないマーケットにおいては、単に「趣味のいい」店構えは客を選ぶだけ。その「趣味」が単に「見づらい」「判り難い」としか捉えられない客層にはリーチできない。このジレンマは、地方では解消しようもない?
その解のひとつは、やはり「”メガ”を捨てること」かなと思う。
それでも、「北欧ミステリー特集」とか引っ張られる棚が結構あって、まだ買ってなかった『ミレニアム』買おうかなーという誘惑があったものの、この出張中に読もうと鞄に入れている本が一冊あるのでそれは止めて、出張先ではやはり読み捨て的な雑誌だなと雑誌だなに行ったらバックナンバーと併せた陳列が上手くて思わず『Tarzan』数冊買いそうになったけどそんなに買ってどうする、と止め。出張には本を持って行かざるべきか、結構尾を引く悩みを持たされたのでした。
非常に微妙な話題ではあるけれど、できる限り丁寧に書いてみようと思う。
先日来、auのLTEの通信障害が断続的に起きている。もちろん、通信というのは24時間いつでも使えますというのがサービスレベルだと思うので、頻繁に障害が発生している状態というのは良いことではないけれど、どんなサービスでも障害が発生することはあると思うので、障害発生そのものについて何か書こうとは思いません。
先日の東京出張で信号待ちをしていたら、目の前の人が社員証をストラップで下げていて、そのストラップに書かれているのが「au KDDI」。それを見てちょっとした違和感を感じた。「僕ならストラップしたまま、社屋外には出れないな」という違和感。僕が勤めている会社も世間ではいろいろニュースで取り上げられるし、過去に大きな障害が発生したこともある。今は取り立ててはないけれど、今でも僕はお昼を食べに出たりするときに社員証を提げたまま出るというマネはできない。auは今、あれだけ連日、通信障害を報じられているのに、その会社の社員と判るようなサインをつけて人前に出るのは気が引けはしないんだろうか?(ストラップは実は「ノベルティ」的なことが多いけど、この人のストラップは書かれている標語やその場所的にたぶん社員さんだと思う)
そういう意味で、「社章」を着けているというのは、会社の「看板」と自分の「顔」を重ね合わせて世間に向けているということだと思う。社章をつけて街中で大騒ぎするなんてとても考えにくいように、社名入りのストラップ(もしくは社員証)をぶら下げて街中でぞんざいな言葉使い横柄な態度で3,4人で連れ立って歩くというのも、僕には傍から見たら見苦しいと思えて考えにくい。世間の人は今、自分の会社をどう思っているのだろうと考えると。
東京は人も多いし会社も多いし、いちいち個人と会社を結び付けない土壌なのかなと思う。実際、会社勤めの僕たちにとっては、会社の不始末の印象をまるまる社員に持ってこられるのは勘弁してほしいというようなところもある。そこまで責任を感じれない社員という立場の人も多いと思う。会社が大きくなればなるほど分業は強まるし、自分の「仕事」が、その不始末と全然繋がらないことも少なくない。ましてや、あの福知山線の脱線事故の責任が、社長にさえ無いと判決される社会なのだから、「法人」と「個人」はきちんと分離してその責を考えるのが、現代社会における正しい考え方のようにも思う。
けれど、僕個人としてはやはり、自分が所属している会社の責任の一端というのは、自分も背負っているという意識は持っていたいと思う。僕の会社にも、会社の方針を自分と完全に切り離して批判したり攻撃したりする人がいる。僕はそれを良しとしない。なぜなら所属している組織から受けているメリットというのが確実にあるから。その人は会社の「看板」がなくても今と同じ収入を得られるのかもしれないが、およそ僕はそんなことは出来ないと思う。会社の「看板」の恩恵を受けて、かつ、会社の「資産」を活用しながら、仕事をやっている。そうである以上、ストラップをぶら下げて、「私はここの会社の社員です」という判別のつく格好をしているなら、そのように世間の目を意識して振る舞うのは当然のことのように思う。だからと言ってストラップ提げてなければ会社とは関係ないよって顔をしていいのかという疑問もあるけれど、常に個人が所属している法人を背負わなければいけない理由はない。ただ、自分がそういう立ち居振る舞いをしているのなら、それに自覚的になるのが当然だと思う。
独立して働いている方々にとっては、これが当たり前のこと。日常の自分の振る舞いがすべて、自分の仕事に跳ね返ってくる厳しい環境。我々、会社勤めの人間は、分業でやっているが故に、ある程度、働いている顔と、それ以外の顔を分けることができる。だからこそ、「働いている顔」の格好をしているときに自覚的になれてない人というのは、その働きにも何か物足りないものがあるに違いないと思う。
ちなみに僕は、社会人になってこの方、企業ロゴや社名入りのストラップを(たとえ自社であれ)使ったことがありません。
「独りで走る愉しさ」の判る集団「独走会」(絶賛メンバー募集中)というのをやってて、その独走会での初イベント「独走会(どくそうえ)」で長谷寺まで走りました(その様子はこちら)。一頻り長谷寺をお参りした後、僕は独走会よろしく「じゃあ私は三輪山回って帰るので~」と、メンバーと別れ、県道38号→県道50号で169号巻向あたりに抜けるコースを走ったのですが、これが事前にルートラボで調べた雰囲気と全く違うキツさでした。
長谷寺から初瀬(はせ)ダムに向かう途中、犬くん(ちゃん?)とすれ違い、ケータイを落としてめんどくさそうに拾い上げるまで。
結構トレッキングの団体さんを見たんですが、いったいどこから来たんだろう??
三輪山というのは大神神社の御神体。つまり山自体が神様な訳です。入山するにもかなり厳しいお作法があります。なのでこの一帯は神聖な力を持っていると言っていいかと思うのですが、その力が近くを走るこちらを試すが如く、データには現れないようなキツさで僕の体力と気力を奪っていくのでした。いや本当に。
冷静に振り返ってみると、
- ほとんど水分補給しないまま走ってきたので、疲れてきたときには既に水分補給は遅かった
- 朝6:30に朝食を食べて11:30を過ぎ、空腹でエネルギー切れ
- 気温は30℃、久し振りの高温下のライドで体がついていかない
おまけに、家に帰って改めてルートラボ見てみたら、長谷寺からピークと思われる笠山荒神の参道入り口付近までは、平均すると斜度3%くらいで表示されるんだけど、短く切り取ってみると10%以上が頻発する結構な登り、が約12,3km続いてる。そりゃそれなりの気合で行かないとバテるわ…。169号にやっと出て、目当てだった千寿亭が大行列だったときにはもう、他のお店を探そうという気力すら残ってませんでした。
今週あたりからぼちぼち梅雨に入るみたいで、またしばらく思うように乗れない日々が続きそうですが、夏本番に向けて地道にトレーニングに精を出します。
激推薦。ただただ読んでほしい。僕にとっては今年度No.1決定です。
僕は大学生のときに『共同幻想論』に出会って以来、吉本隆明思想の大ファンで、難しくて理解できないけれどできるだけ氏の著作には触れるようにしてきました。難しくて理解できなくても、読んでいて「おもしろい」と興奮状態になるのが不思議なのです。
その吉本隆明の「最後の仕事」、雑誌『dancyu』での連載を纏め、更に氏の長女のハルノ宵子がコメントを付けた本が出版されたと聞いて即買いに行きました。
読んでいる最中、何度も涙ぐむ。某調味料メーカーのCMで有名になったと思っていた「白菜ロース鍋」が吉本家で古くから「名物」として食卓に上がっていたこととか、そういう意外でおもしろい話も挟まりながら、確かに「味」をテーマに一章一章書かれているのだけど、日々を行きつ戻りつする自由な味わい、それが本著の最大の魅力だと思います。
読んでいるときは、すっと頭に入ってくるのはハルノ宵子の解説文で、吉本隆明の文章は少し読みづらく、活字と配置もあって頭に入って来ず、字面を眺めているだけになっては数行後戻りして読み直す、ということが何度となくあったのに、頭の中に残る「読んだ」という残像・イメージは圧倒的に吉本隆明の文章のほう。ハルノ宵子のは解説文なんだから、と思えば当たり前なんだけど、読みやすさ=残像ではないことの驚きと、解説文という立ち位置を弁えつつもあんなに読みやすい文章を書ける力量をひたすら尊敬し、憧れます。
父親に対する視線。衰弱して記憶が怪しくなっているのに平然と間違いを書いてのける吉本隆明と、それを読んで「この頃の父はだいぶ記憶が怪しくなっている」と切って捨てるハルノ宵子。ひとつの生が終焉に近づいていく、一定の期間における変遷が克明に読める書物はそんなにないです。それだけでも買って読む値打ちが十二分にあると断言できます。
「味」についてのエッセイなのに、『開店休業』という、全然「食」を前面に出してない、それでいて「店」という言葉の入る、判るような判らないような絶妙なネーミングも、実は深い深い意味が隠されているのですが、さすがにそれは書けません。是非、手に取って読んでほしいです。
![]() |
開店休業 吉本 隆明 ハルノ宵子 プレジデント社 2013-04-23 by G-Tools |