何歳でも挑むべき「青春」はある-『横道世之介』/吉田修一

「年甲斐もない」という言葉の意味を、間違えてました。この本は、我々団塊ジュニア世代にこそお勧めです!

オビに「青春小説」と書かれてるんですが、主人公世之介の青春時代は1980年代。つまり、本作が書かれた2008-2009年には世之介は40歳過ぎ。青春時代を世之介と過ごした登場人物達が、現在(2008-2009年)から、当時の世之介を回顧するエピソードが挟み込まれて物語が進行します。団塊ジュニアで今年41歳になる僕に取っては若干世代が上ではあるのですが、自分達の青春時代の舞台を背景にして、現代に書かれた青春小説を読む、という、「青春小説なのに懐かしさを伴う」不思議な読書体験になります。土地転がしとか、大韓航空機爆破事件とか。

例えば世之介が大学入学後、地元で高校生の時付き合ってた彼女と再会し、行きがかり上二人でドライブしているときに言われた言葉、

「世之介とこうやってると楽しいんだけど、何かが終わったんだなって、しみじみ思う」

青春小説の王道のモチーフですが、これが、現代から青春時代を眺めている視線で読むことで、それが子どもから大人になる過程としてのみ経験することではなく、いくつになっても避けられないことなのだということをありありと感じます。世之介は九州から東京に出てきて、同じアパートの住人に世慣れてきたと言われたり、ホームレスに無頓着になったり、何かを失う過程を通過しながら、それでも何かを失わずに生きてきたことが描かれるのですが、それは、けして19歳から40歳の間にのみ起こることではなくて、生きている以上死ぬまでそれは避けてはいけない過程だということを、伝えようとしているように読んでいて感じます。

30歳になり、35歳を過ぎて40歳になり、歳を重ねれば重ねる程、「年甲斐もない」という言葉に捉われてきていたのですが、もちろん成熟しなければいけないところは成熟しつつ、本当に「人生死ぬまで青春」という何かはあって、「悩むことを止めたとき、人は老い始める」という言葉そのままに、挑み続けないといけない面があるのだと感じさせられました。本作は本当に、僕と同じくらいの年代の人にお勧めです。少し前に読んだ『青春の終焉』と、組み合わせて自分なりに解釈したいなと思います。

4167665050 横道世之介 (文春文庫)
吉田 修一
文藝春秋 2012-11-09

by G-Tools

戒壇院、十七時丁度、昭和二十二年生

東大寺戒壇院の御朱印を書く方(正式な呼び名は何と言うのでしょう?)とお友達になりました。

二日に春日大社に初詣した際に、御朱印帳を購入しました。一時、御朱印帳が(ネットも含めた私の目に映る範囲で)一大ブームになったことがあり、その時はどうも安易な感じがして買わなかったのですが、私のロードバイクの「近所乗り」の行先は圧倒的に神社仏閣なので、御朱印帳に御朱印を頂いていくのも良いなと思い、お気に入りの神社である春日大社で御朱印帳を買いました。

記念すべき第一頁はもちろん春日大社でしたので、第二頁はそれなら東大寺でしょうと(ほんとは昨日、稲蔵神社で頂こうと思ったのですが、御朱印を書いてくれるところが判らなかった・・・)、今日は東大寺まで走りました。

ただ、下調べしておいたのですが、東大寺は御堂が多いので、御朱印を頂けるところがとても多いのです。大仏殿はもちろんとして、二月堂、三月堂、四月堂、戒壇院、行基堂、念仏堂、不動堂、まだまだあったと思います。まだ混雑してると思われる初詣の時期の今日、大仏殿にロードバイクで乗り付けてビンディングシューズで歩く気にはなれなかったので、今まで行ったことのない戒壇院でもらうことに決めて出発。

 

大仏池から見た大仏殿。こちら側は人通りも車通りもほとんどありませんでした。いつもの静けさでした。

 

その大仏池側から境内に入れる門があったので、ここから入りました。門の先は華厳寮と千手堂。千手堂は閉まっているようでしたが、ちょうど私が通り過ぎた後におばあさんが持参物と共に立ち止まっていたので、何かあったのかも知れません。

 

戒壇院と千手堂の間の門を、戒壇院側から見ています。この正月飾りが余りにも好みで写真に収めました。

 

このささやかさ、小ささ、均衡感、華美ではないけれども、不動の門に絶対で最低限のアクセントを置いた祝賀の表現。たまりません!

 

戒壇院は参拝時間の終わりが近づいていたからか、全然参拝者がいませんでした。静かなものでした。戒壇院は厳かと言うよりもむしろ人を寄せ付けない厳しい雰囲気があります。

堂内の四天王・二仏を拝ませて頂き、帰りに御朱印をお願いしたら、スーツを着た書き手の方が「自転車ですか?」と聞いて来られる。なんでもその方もクロスバイクに乗られているそうで、一日20km程毎日乗っておられたときがあったとか。主たるスポーツは剣道をされていて、足腰のトレーニングのために自転車も始められたとか。更にお話を聞くと、御勤務先を定年退職されてから、東大寺の職員として戒壇院に詰められているとか。とても若々しい方で、「私の親父も定年退職してますがどこにも出て行きませんよ」と言うと、「おいくつですか?」「65です」「あ、私と同じですわ、昭和二十二年生まれ?」「そうですそうです」「おや奇遇ですなあ~」と話が進みました。

ちょくちょくこの界隈まで走りに来てるので、また寄らせてもらいますと、名乗り、お名前をお伺いし、気持ちよく戒壇院を後にしたのでした。しかしいつも思いますが、年配の方でお話のうまい方というのは本当にうまい。顔がまず常時笑顔だし、使われる言葉に気持ちのよくない言葉が入らない。この方は、定年まで勤められた会社・ご職業も大きいと思いますが、年配の方と話をさせて頂くといつもこうできるように努力しないとなあと思うところです。

 

これが戒壇院の御朱印です。四天王の文字の睨みの効き具合が迫力ですが、書き手の方の人となりに少しでも触れたというだけで、御朱印というものへの印象も大分変わってくるから不思議です。東大寺の他の御堂の御朱印も頂いて行きたいと思います。

ちなみにタイトルの「十七時丁度」は、今日の日没の時刻です。寒いながらも日が出ている時は気持ちよく走れたのですが、日が暮れてからの寒さはサイクリストにとっては厳し過ぎました・・・。

走り初め、初氷と稲蔵トースト

手水の水の表面が凍ってました。

長い年末年始休暇で、しかも必ずや降るだろうと予想してた雪も全くでいい天気が続いたのになぜかロードバイクを駆る気が向かず、さすがにこのままうだうだと日を過ごすと乗ることが習慣から離れてしまうと思い、少しでも乗ろうと、近所で気になってた稲蔵神社まで。

なぜ気になっていたかと言うと、アルション東生駒本店に「稲蔵トースト」というメニューがあるのを見たその日の帰り道に稲蔵神社を見つけたからです。稲蔵トーストには米粉が加えられたハードトーストで、アルション東生駒本店にほど近い稲蔵は昔から米作りが盛んな土地で、その米をパンに活かしたいと開発されたという情報が、稲蔵神社のホームページに書かれていたりして、一度稲蔵神社を見て起きたいな、と思っていたのです。

 

稲蔵神社はこじんまりとした静かな神社です。矢田丘陵に差し掛かって在ります。168号線沿いの鳥居からまっすぐ1km程進むと辿り着きます。この168号の鳥居からの一本道がさながら表参道です。

 

稲蔵神社はこじんまりとした中に結構な数の鳥居があります。この石造りの鳥居が古くからのもののよう。

 


祭神は生魂明神と大宮能御膳神とのことで、「なんだろうその神様?」と思い、Googleで検索したのですが、生魂明神はこの稲蔵神社を紹介したページばかりヒットする。神社の神様というのは、有数で決まっていて、ある神様が祭られている神社が全国に複数あると思っていたので、ましてや「生魂」ならよく聞く名前なのでとても標準的な神様だろうと思ったので、何か腑に落ちないような感じ。更に調べて観て、生魂は生命の神、大宮能御膳神は五穀豊穣の神(こちらはいくらか情報があった)で、この二柱の神が、稲蔵の烏帽子岩に宿ったということで、稲蔵神社はこの烏帽子岩を磐座(いわくら)としています。

奈良は大神神社を始め、自然そのものを神体とする神社が多いと言われますが、僕の感覚としては、自然が神体ではない神社の神体は例えばなんだろう?と考え込んだりします。そのくらい、僕は日本的なアニミズムが感覚として身についているんだろうなと思います。

磐座と稲蔵。そして稲作。こういう言葉の音の連関を考えるのが昔から好きです。

 

境内は完全に無人。そんな中、本殿に御神籤があったのですが、「引かれたら御茶屋で番号を言ってください」と書かれていて、「御茶屋?そんなのあったっけ?」と思いつつ神社を後にして、ロードバイクを準備して漕ぎ始めた瞬間、脇のおうちの表に「お守り xxx円」等々書かれた張り紙を発見。「あそこだったのか~」と残念に思いながら、すぐ近くのアルションへ。今度、あの御茶屋に行ってみよう。

 

で、なぜかぼけている稲蔵トーストの写真(笑)。アルションのパンはおいしいので期待大、さっそく食べてみよう。

稲蔵神社の近くに稲蔵寺もあるので、今度御茶屋と併せて行ってみようと思ってます。

Grit Computing(グリット・コンピューティング)

いつでも正しい人なんているのかな
まあ そんなこと たいした問題じゃないネ
行こうよ行こうよ あいかわらずなボクら

(『あいかわらずなボクら』/B’z) 

2013年の年頭、最初に意見したのは、「”ちゃんと年下の人に憧れられてる?”って、なんだその”ちゃんと”って!ちゃんと憧れられてる?ってどんな言い草だ!!」というものでした(笑)。

以下、箇条書き:

  • ライフハック以降、「習慣」「仕組」「仕掛」ということに、非常に力点が置かれてきた昨今だったと思う。確かに、アクションを起こすための「工夫」としての仕組み、システム、コツというのは非常に助かるし有用だけど、ちょっとそれに頼り過ぎになってきてるような気がする。「精神論の強要は、物事を何も解決しない」という反省点が、「仕組」論者の出発点だけれども、それが行き過ぎて、なんでもツールとフォーマットで小器用にやれ過ぎて、芯の通ったモノに出会えない傾向にあると感じている。
  • なので、今年はひとつ、「やろう」という気概、意思、精神、そういうものが大事なのだ、とリマインドしてやっていこうと思う。IT-コンピューティングはいつも「習慣」「仕組」「仕掛」側の味方だったと思うけれど、そのコンピューティングを使う「意思」を、コンピューティングと並置してみたい。Grit ComputingはもちろんGrid Computingと掛けていて、「意思を持ってコンピューティングする」という、何かを導くためにコンピューティングするというスタンスの再確認と、「意思とコンピューティングの両輪で、新しい地平を見出す」という大方針の両方を指している。
  • 「つなぐ」というのにももう飽きた。「誰かと誰かを繋ぐ働きをしたい」というのに僕は興味がない。興味がないというよりも、誰もがみんな、誰かと誰かを繋ぐことにばかり興味があるように思える。それは言うなれば商社ばかりの社会、物流機能ばかりの社会。確かにどんな人間でも、誰かと誰かが出会うことで何かは起きる。しかし、「誰かと誰かを繋ぐ働きをしたい」というのは、自分自身は何もしなくても、誰かと誰かのチカラを利用して生きていくようなところがある。僕は、「つながれる」役に立てる何かを実現するほうに自分を注力したい。できていないだけに。
  • ビジネスにおける「目標」という言葉と、人生における「目標」という言葉の、意味は異なる。
  • 美の追求。
  • いろんな人の話を聞くというのは、30代までの方法だと認識。
  • 何を受け取るか、何を読み解くか、批判、の順。
  • 仕事においては、つまるところ、あまりにも時間ロスが多いことが、そしてそれを「付き合わなければいけないものだ」と思い込んでいるところが自分を苦しめている。付き合わなくてもよいと思うことは説明する。そして、思い定めた方向に対する時間を死守する。
  • 無駄にする時間がない、本当にいつ死んでしまうかも知れない、来年はやれないかも知れない、そう思って元日の1:00の電車に乗ってみた。乗車はPiTaPaで出来るけれど、記念に買ってきたこの切符を毎日眺めて、この思いを日々思い返し、日々の行動に繋げよう。

本気で探したいのは何なんだろう-『ロスト・シティ・レディオ』/ダニエル・アラルコン

2012年最後の読書は、久し振りにジャケット一目惚れ、タイトル一目惚れ!が、しかし、難しかった・・・。

グリーンを基調としていて、少年が駆け出していて、下、半分よりも気持ち少ない面積が単色で塗り込められた表表紙。そしてタイトルが『ロスト・シティ・レディオ』。この洒落っ気ある一冊が南米生まれ合衆国育ちの現代作家の作品で、間違いなく好みの本だと手を伸ばす。

『ロスト・シティ・レディオ』は、この物語の舞台である架空の国のラジオ番組。内戦が続いたその国で、行方不明者を探すリスナーの電話を紹介する人気番組。その番組の司会である、誰もが恍惚とする声の持ち主、ノーマが主人公。ラジオ局のノーマのもとに、ジャングルからひとりの少年がやってくる。少年は、ジャングルから消えた人びとのリストを持っていた。「ロスト・シティ・レディオで呼びかけてほしい」と見せられたそのリストに、行方不明のノーマの夫の名前があった。

ノーマと、その夫レイの間の物語として読むならそれほど難しくない。ノーマは、レイのすべてを知らされることはなく、レイの不在の時間にレイに起きた出来事も当然知ることはできず、読んでいる側はその「知れない」苦悩を目の当たりにして、人生の困難さを考えることになる。

けれど、『ロスト・シティ・レディオ』は、そこにだけ焦点を当てているようには思えない。ダニエル・アルラコンの文章は、情感をほとんど抑えた、事物や行動の描写でありながら、内戦や政治といった「事象」の説明は極端に少なく、人びとの暮らしそのものの描写が重なっているんだけど、その人びとの窮屈で困難で恐怖に満ちた生活の炙り出しが、内戦や政治の凶暴性を伝えてくる。ノーマが、レイのすべてを知れることはない、それはどうすることもできないのと同じで、内戦や政治も、人びとが直接には「あまり」どうすることもできない。

「内戦」をどう解釈すればいいのか、「内戦」は少し生々し過ぎて、これを何かの隠喩と捉えて解釈するのがとても難しかったのだけれど、内戦も政治も「あまり」どうすることもできない、と人びとが「諦める」様が、このように描かれる:

あることと、その正反対のことを同時に信じ、怖れていながら同時に向こう見ずでいることはできる。偽名で危険な論文を書き、自分自身は公正な研究者だと信じる。・・・(中略)・・・戦争状態の国家は悲劇だが、自分の手によるものではないというふりをする。自分はヒューマニストだと公言しつつ、鋼のような意思で憎む。

本当は自分もその状況に陥る選択の当事者なのに、「あまり」どうすることもできない状況だと決め付けてやり過ごす。この「分裂」は、一瞬、「ディビジュアル」という概念を提示した『ドーン』を思い出すけれど、それで片づけて良いのだとこの著者が語っているようには思えなかった。

それは何故なんだろう?どうしようもない状況の中でも、人は逞しく生きていくことができる、いや、生きていくしかないんだよ、という、現代文学におけるティピカルな主張ではないように感じながら読んだのだけど、それが何故なのか、そして著者は何だと主張しているのか、それは一読だけではわかりませんでした。段が変わってしばらく読んだら唐突に時空が変わっていた、というような挿話のされ方に頻繁に見舞われ混乱しながら、読み終えてなお「ロスト・シティ」を自分の身の周りにうまく引き付けられなかった。

4105900935 ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス)
ダニエル アラルコン Daniel Alarc´on
新潮社 2012-01-31

by G-Tools

介護の相互作用とは-『驚きの介護民俗学』/六車由美

図書情報館の乾さんに「絶対読め」と勧められ(実際にはこんな口調ではない)て購入。

民俗学者である著者が、デイサービスの介護職に就き、その職場で利用者との「聞き書き」を通じて話を聞く。民俗学は、高齢者の語りからの情報収集が素材として重要なようで、語りを得る方法として「聞き書き」が優れており、かつ、ケアワークの職場は「聞き書き」相手がたくさん居る、そして「聞き書き」を受けることは要介護者にとってもよいフィードバックをもたらす、という、介護と民俗学の出会いが「介護民俗学」。

介護の現場で民俗学を、というのも目から鱗だし、単に民俗学にとって都合のいいフィールドというだけではなく、「聞き書き」が介護にとっても有効で、なおかつ、要介護者にとっても心の安定に有用なものだ、ということが部外者にも理解できるように書かれていて一気に読めます。介護する人と介護される人、というと、そこに序列があることを前提としてしまっている、この「非対称性」を、「聞き書き」の持ち込みによって対称に解放し、それによって要介護者の「生活」も豊かになる。それは、要介護者が何かを「受け取る」からではなく、聞き書きで自らの経験を民俗学者に「与える」ことによって得る生活の豊かさ、というところが素晴らしさだと思う。

著者が聞き出せた語りはどれも印象深いが、最も印象深かったものを二つ挙げると、ひとつは、昭和10年代は、食糧事情が良くない時代であり、農家がサラリーマンを見下す視線があったということ、もうひとつは、叔母が姪を育てるなど、血のつながりのない親子関係というのが、めずらしいものではなかったということ。

前者は、貨幣経済の浸透過渡期において、「食糧」のウェイトの大きさ、ひいては「生」の実在感を感じることができる。逆に、「これからは貨幣経済が終わりに向かう」という意見を時折見かけるけれど、それは、こういう「食糧」が重要視される世の中に戻っていくということなんだろうか?と考えた。

後者は、現代社会は「家族」「親子関係」の複雑さによる家庭問題が多発していると言われるけれども、少なくとも血のつながりの有無は、急に出てきた問題ではないということが判る。家庭問題の多発というのは、血のつながりの多様化ではなく、主に経済社会の変質に依存するのではないか、と思う。

4260015494 驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)
六車 由実
医学書院 2012-03-07

by G-Tools

奈良びいき、村田と生駒をテレビで観る

偶然、奈良が関係するテレビ番組を二つも観た。

 「課外授業 ようこそ先輩」に、ロンドンオリンピック・ボクシングで金メダルを獲った村田選手が。冒頭、「僕に教えられることはあまりないので」と言ってボクシングのトレーニングを軽く体験してもらってた。

 この回は、いつも観てる「課外授業」とちょっと視点が違うように感じた。いつもは、後輩である生徒たちを変えていく先輩の「指導」にフォーカスが当たってると思うけど、今日の村田選手のは、村田選手と生徒と、その「人」そのものにフォーカスが当たってるようだった。村田選手が恩師のおかげでここまでこれた、というエピソードを話した後、「出会い」について作文を書いて、と後輩に指示したら、「ママと出会えてよかった」という作文を発表されて壇上で思わず涙ぐむところとか。

 村田選手はオリンピック中も、そのインタビューも、オリンピック後の言葉なんかも全部好きで、かっこいい男だなあと、同郷にこんなかっこいい男がいて誇らしいと思ってたんだけど、番組の最後、後輩たちに「実家帰ってなあ~」と声かけられてた姿を見て、ますます好きになりました。

 「追跡!真相ファイル」の「119番通報にいま何が」には、生駒の消防署が。よく生駒消防署、取材受けたなあと感心。

  内容に関して。消防は、通報者とのやり取りを通じて、救急車の出動要請なのか、出動が必要なのかどうかを確認していると言うが、なぜそのようなことをするかというと、全ての要請を受けると過負荷・高負担であったり、いたずらに対処しなければならなかったり、つまり「出動させない」方向にインセンティブが働いてのことだから、そのやり取りの言葉も当然、「出動しなくてもよいですか?」という誘導に近くなる。
これは企業のクレーム対応を考える際と同じだが、「より熱心に要求することを、本当に困っているかどうかを計る基準とする」というのは、一見正当にも思えるが、結果平等の原則に反している。しつこく言えば何とかなるというのは、正当に見えて、実は「声の大きい者が勝つ」社会を助長している。
119に電話をして、「救急車が要りますか?」と問うて「要ります」と答えた人には、等しく救急車を出さなければならない。それが徒だったり、不要だったりした場合に、初めて何かのペナルティを加えればよい。もしくは、通常の救急車ではなく、低費用の簡便な「救急車両」を準備する、という方向で費用を抑えつつ出動機会を増やす方向が僕には正しいように思える。#7119を準備して、コールセンター的に、電話での判断の精度を上げようとするのは、いかにも日本的だけど、適切なコストのかけ方とは思えない。事は命に関わること、無用な電話によって緊急度の高い方の救急車要請に応えられないケースを減らすのがゴールなら、選別よりも、如何に要請にこたえるキャパシティを増やすか、それも低コストで、という方向のほうが圧倒的に正しいはずだ。

会社員の品格

ターゲット(ノルマ)達成のためなら、金のためなら、何をやってもいいのか?「それは道義が許さない」と反論するのなら、オマエは道義の為に死ねるというのか?-という極論の応酬。

僕は、結局のところ、この騒動というのは、「目に見えるものしか、論拠として認めない」というスタンスが根源だと思う。人間の活動は、目に見えるものだけで説明することは出来ないし、そもそも目に見えるものはすべて集めてこれていると思うことが傲慢なのだ。一応、その傲慢さは認識してかおらずか、「一面からの仮説」という前提がつけられることも多いが、その「一面からの仮設」を検証する過程で、何が失われるかを検証する試みはこれまで一度も見たことがない。

取引(先)も生殺与奪が繰り返されるのだから、次々と新しい会社が生まれ、ということはどんどんと投資が行われるマーケットにフォーカスし、投資が終わった会社とはオサラバする、というサイクルが最も効率的であることは誰の眼にも明らかだけど、ある一定の幅を持った時間軸の中で、そういった活動をしている団体が、多くの信頼を得ることができるかと言えば、オサラバされた会社の集合から三行半を突きつけられているのが現実だろう。長い時間の間に何が起きるのか、それを予め認識した振る舞いの暗黙知が「品格」である。

節操がなくても、羽振りを見せびらかしても、それで良いと思うならその生き方を極めればそれでよいと思う。その姿を見る、様々な人々の様々なまなざしに無自覚でいられるうちは。私はそのような道は選ばない。

ネット書店には一覧性がないのです

amazonとどっちを使うことになるかな?

amazonとの比較はともかく、hontoのネットストアが「3,000円以上購入で500ポイント進呈」という12/24までのキャンペーンをやってたので、折角なので買ってみようと思いました。ちょうど、『言語にとって美とはなにか』を買おうとしてたこともあるので。

『言語にとって美とはなにか』は1巻が¥780、2巻が¥740で¥1,520。あと¥1,480分何を買おう?さすがにジャスト¥3,000は狙わないけれど、¥500はみ出したら500ポイントのために何やってるのか分からなくなるので、ちょうどいいぐらいの金額の本を見繕うんだけど、これがなかなかうまくいかない。

「なんか欲しい本あったっけな?」と思い返しても数冊しか出て来ないので、勢いamazonのwishlistを見ることに。これが実店舗だとそれこそ山と本があるので偶然の出会いもあるんだろうけど、ネットだとせいぜい売れ筋と新刊で眺めるくらいしかやりようがない。

おまけに意外と¥1,500前後の本がない!どういう訳か¥1,470の本ばかりなのだ。10円足りない!(笑)そうかと思えば¥2,000を超える本ばかりで、おまけに中古で買えば500円以上安くなるので二の足を踏む。

結局、今回はキャンペーンが適用されるように買うのは止め。でもそうなると、hontoネットストアで買う意味ってあんまりない。だからと言ってamazonに拘る理由もないんだけど。実店舗でもネットでも買えてポイント貯められるhontoに片寄せしたほうがいい?ちょっと思案どころ。

美意識の到来

来年のテーマは「美」。もう決めた。

4041501067 定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
吉本 隆明
角川書店 2001-09

by G-Tools

思えば僕は造詣のない芸術の中でもとりわけ美術は全然解せなくて、素晴らしい絵画を見て「これは凄い」と感動するなど、そのくらいのことは出来るけれど、著名な作者とか歴史とかその作風や背景や意図や、といったことに全く疎いと言っていい。なぜ疎いかというと細やかな違いが判らないからで、大雑把に見てはっきり特徴のあるようなものは認識できるけれど、そうでないものは識別できなくて鑑賞できない。

そんな僕なので、デジカメもケータイのカメラ機能で十分とずっと思ってきた。ロードバイクで遠出する際、写真を撮りやすいようにとデジタル一眼を買ったけれど、それもどちらかというと「すぐ撮れる」という点を重視した買い物だった。

ところが、そんな僕が、ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真の違いに気づき始めた。奈良に住んでいるのでサイクリングの行先も神社仏閣が勢い多いんだけど、神社は取り分け違いがはっきり判る。社に漂う気配の映り具合が違うのだ。

このことに気付き始めたときに読んだのが、『プラスチックの木で何が悪いのか』だった。本物の木と見分けが全くつかない精巧なプラスチックの木があったとしたら、街路樹をプラスチックの木で代用して何が悪いのか。直感的には悪いと言うけれども言葉にするのが難しい命題。ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真も、解像度の差としてその命題が現れる。つまり、いくらデジタル一眼は社に漂う気配が映し出せているといっても、あくまで千数百万画素のレベルでの話であって、一億画素があればそちらにはより克明に映し出され、それでも肉眼に映る気配とは似て非なるもの。では画素数を問わない絵画なら話はどうなるのか。

ニーチェが最後にたどり着いた<価値基準>は「美」だという。僕は何かが美しくて何かが美しくない、という判断にはあまり興味が湧かなかったのだけど、ここにきて「美」に対する興味が大きくなっている。何が美しくて何が美しくない、という話は、相対的で主観的なものとして、相互認証的に「放置」しておくのが最もよい、という消極的な考え方だったところが、「何が「美」なのか」ということと、「「美」とは何か」ということを、突き詰めて考えてみたくなった。この、「美」をうまく言えないところに何かがある。だから、『言語にとって美とはなにか』の再読から始めようと思う。

来年は、僕にとって「美」を深く考えることで、そういう「絶対的な」価値基準から自由に物事を考えられるようになっている自分の思考を、一歩深めることができると思う。