風邪をひく

 今冬は例年以上によく風邪をひく。2009年の新型インフルエンザ騒動以来、冬場は帰宅時はもちろん、出社時もオフィスについたら手洗い嗽を徹底しているものの、風邪をひいてしまう。もともと風邪に弱いことは自覚しているので、数年前から、風邪を引いたかな?と思ったら早めに市販薬を飲んで鎮めるようにしているんだけど、先月風邪をひいて薬を飲んだ際、治るのは治ったんだけど、数日、寝ても寝ても寝たりないし、目が覚めたとき「ここはどこだ?」という記憶が飛んでるような状態になるし、何をやるにも気力が湧かなくなるし、変だなあと思っていて、これは薬の影響じゃないかと考え、今回の風邪は薬を使わないでおこうとしてみた。

 だいたい、体というのは与えられるものに徐々に慣れてしまうものなので、薬も使えば使うほど効かなくなるということを、病気がちだった僕はよくよく知っている。ここ数年、風邪の治りが悪いのも、薬を使うことに体が慣れてしまったからかと、そういう意味でも一度きっちり風邪をひいてみるか、と思ったのだ、が。

 少し寝不足で目の覚めた16日の朝、のどが痛い。「これは引き始めだな」と思いつつ、そのまま博多に出張。日帰り。翌日17日の朝、いつもの時間に起きられず。普通に活動はまだ出来るものの、どれだけ着てもどこにいても冷えが止まらない(悪寒ではない)。その翌日18日は朝なんとか起きれたものの、仕事をしているうちに徐々に体力が削れていき、気力もなくなる状態に。帰宅早々寝てしまう。

 土曜はしんどいながらも普通に過ごし、日曜の今日はほぼ回復。鼻と痰が続く体質なので息苦しさはあるけれど、普通の活動には支障ない。だいたい、発症してから回復するまで4日。土曜日、辛抱ならずに葛根湯を飲んだけれど薬は使わず。

 予定ややりたいことが溜まっているときに限って風邪をひいたりするものだけど、風邪に平常心を乱されてしまうことで余計なロスをするほうがいけないので、割り切って次のチャンスを手にするように、やるべきことをやるように切り替える。それくらいのことは、さすがにできるようになった。

「言動一致」など造作ないことだ、「心言一致」の難さに較べれば

 「有言実行」が持てはやされ、もはやもともとこの言葉がこの形の四字熟語として昔から存在しているようになったのは何時頃のことだろう。世の中は生活とビジネスがニアリーどころかイコールで結ばれるようになり、晩御飯のメニューにまで説明責任が求められ、グローバル化の掛け声のもと、「言わなきゃわからない」が不滅の真理のように崇められるようになった。

 僕は子どもの頃から信じている。言わなきゃわからないヤツは、言ってもわからないのだ。そして、それなら言わないほうがマシなのだ。自分の言ったことに責任を持ち、その通りに行動することなんて、訳もないことだ。自分が思ったことを、思った通りに伝える言葉を紡ぎだすことの途方もない難しさに較べれば。

 自分が思ったことを、思った通りに伝える言葉を見つけることを放棄した人たちを今までに夥しい数見てきた。こういうときにはこういうふうに思うものです、という習俗的習慣や、今の時代はこういうふうに反応するのが当然です、という時代的迎合に、そしてそれは取りも直さず「言葉」から出来ている、そういう「言」を自分の「心」に取り込んで、それを「心」としている人たちを。

 自分の思ったことを、思った通りに伝えようと必死になるとき、そこで直面するのは嘲笑と蔑笑だった。なぜそんなことに一生懸命になるのかと笑われ、必死になればなるほど伝わらないことで笑われた。

 猫も杓子もプレゼンテーションに明け暮れ、「どう話すか」「どう表現するか」ばかりが追及されるが、もし本当に「言わなきゃわからない」と思っているなら、必要なのは「どう話すか」ではなく「どう聞くか」だ。聞く力をどう養うか。相手が話していることの本意を、言葉の枝葉末節に捉われることなく掴み取ろうとする意志。それこそが、「言わなきゃわからない」状況で必要とされる。今のプレゼンテーションばやりは、コミュニケーションの本質を忘れさせている。コミュニケーションは双方向だ。そして、大事なのは「聞く力」だ。

 芸術家の神髄は、表現力にあるのではなくて、これまでの芸術が歩んできた歴史を知っていて、その文脈の中で各芸術家が何を言おうとしているかを読み取れることにある。だからこそ、自分の表現がどのように伝わるかを考えて、自分の思いを表現できるのだ。自分の言葉の範疇でしか、相手の言葉を理解できないような、そんな「有言実行」は要らない。

言葉ひとつ足りないくらいで
全部諦めてしまうのか 

kindleストア日本版をどう活用するか試行錯誤中-『[速習!]ハーバード流インテリジェンス仕事術 問題解決力を高める情報分析のノウハウ』/北岡元

B0079A3GX2 [速習!]ハーバード流インテリジェンス仕事術 問題解決力を高める情報分析のノウハウ
北岡元
PHP研究所  2011-01-31

by G-Tools

 kindleストアの日本版がオープンしたので、何か1冊買ってみようと思い、選んだのがこれ。よく言われるように、日本のkindleストアは紙書籍に比べて大きく安価な訳でもないし、新刊が多くある訳でもないので、「kindleでなければ」という本を選ぶのは結構難しかった。敢えて「kindleで読む」ということを想定すると、僕の場合、kindleで読むのは概ね通勤時間が最適と言える。なぜかというと、特に行きの通勤時間は混んでいるので、鞄から本の出し入れをするのが大変だから。そして、30分弱の時間は、長めの小説を読むのには不適と経験上判っているので、ビジネス本等が向いている。そこで、少し古めで、1,000円前後のビジネス本を買うのがよかろう、という結論に。
 ところが盲点がひとつあった。僕の持っているkindle 3は、日本のkindleストアで買った書籍をダウンロードできない。日本のアカウントに、kindle 3を紐付できないのだ。アカウント結合したら解決なのかも知れないけど、洋書は洋書で入手できる道を残しておきたいので、androidにkindleアプリを入れてそちらで読むことにした。

 結果を言うと、「ビジネス本」をケータイkindleで通勤時に読む、というのは悪くない。ビジネス本は基本的にはノウハウを吸収するものなので、机に向かうような状況じゃないところで読むほうが頭に残ったりする。読み直したいときに、片手ですぐ読み直せる。小説は、小さい画面でページあたりの文字数が少ない状態で読むとストレスがあるが、ビジネス本はフィットすると思う。

 ところで本の内容自体についてですが、意思決定に関するノウハウの基本が非常にコンパクトにまとまっています。しかもそれらがすべて、「エピソード」という例を元に解説されるので、理解が早いです。個人的には「盲点分析」が知っているようで知らないということが判り、使いこなせるよう読み込みました。

「ビッグデータ」x「松岡正剛」で立ち上るはずのない”物語”-『Harvard Business Review ビッグデータ競争元年』

 「ビッグデータ」と「松岡正剛」と並んでると、読まない訳にはいきません!

B00AN570UK Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2013年 02月号 [雑誌]
ダイヤモンド社 2013-01-10

by G-Tools

 松岡氏は「ビッグデータがどれだけあっても、それを”編集的”に捉えられる視点がなければ有効に活用できない」として、編集工学の手法を要約して説明されている。これは、「データ・サイエンティスト」が注目されるのと同じ文脈で、それ自体は至極全うな意見だと思うけれど、「ビッグデータ」の文脈そのものを、少し捉え損なわれているように感じた。

 (主に)企業が、「ビッグデータ」に期待しているのは、正に「編集的な能力がなくても、自動的に”物語”を抽出してくれる技術」のように見えているからだ。ビッグデータそのものが、イコール物語だとはさすがに思っていない。ただ、ビッグデータから物語を抽出するのに、いちいち「仮説」を考えないといけないようだと、(商用)ITとしての「ビッグデータ」には価値がない。少なくとも、ほとんど売れない。
 そして、完璧な"物語"の抽出など求めている人も、たぶんほとんどいないと思う。今までのDWHよりは物語的な物語を、自動で抽出してくれる装置として、ビッグデータに注目している。それは完璧でなくても構わない、Web2.0以降の「ベータ社会」よろしく、自動抽出された半完成の物語、「物語ベータ」で以て一旦企業活動を回してみる。それをフィードバックする。そういうことを意図している。いわば、編集を不要化したいのだ。なぜなら、ITを頼むというのは、本来的に自動化することであり、「誰でも出来る」ようにするのがその本質だから。物語の抽出さえ、経営者は「個人のスキル」に依拠したくないのだ。

 この「IT(ビジネス)の本質」に届いていなかった分、松岡氏の稿は期待外れでした。 

何歳でも挑むべき「青春」はある-『横道世之介』/吉田修一

「年甲斐もない」という言葉の意味を、間違えてました。この本は、我々団塊ジュニア世代にこそお勧めです!

オビに「青春小説」と書かれてるんですが、主人公世之介の青春時代は1980年代。つまり、本作が書かれた2008-2009年には世之介は40歳過ぎ。青春時代を世之介と過ごした登場人物達が、現在(2008-2009年)から、当時の世之介を回顧するエピソードが挟み込まれて物語が進行します。団塊ジュニアで今年41歳になる僕に取っては若干世代が上ではあるのですが、自分達の青春時代の舞台を背景にして、現代に書かれた青春小説を読む、という、「青春小説なのに懐かしさを伴う」不思議な読書体験になります。土地転がしとか、大韓航空機爆破事件とか。

例えば世之介が大学入学後、地元で高校生の時付き合ってた彼女と再会し、行きがかり上二人でドライブしているときに言われた言葉、

「世之介とこうやってると楽しいんだけど、何かが終わったんだなって、しみじみ思う」

青春小説の王道のモチーフですが、これが、現代から青春時代を眺めている視線で読むことで、それが子どもから大人になる過程としてのみ経験することではなく、いくつになっても避けられないことなのだということをありありと感じます。世之介は九州から東京に出てきて、同じアパートの住人に世慣れてきたと言われたり、ホームレスに無頓着になったり、何かを失う過程を通過しながら、それでも何かを失わずに生きてきたことが描かれるのですが、それは、けして19歳から40歳の間にのみ起こることではなくて、生きている以上死ぬまでそれは避けてはいけない過程だということを、伝えようとしているように読んでいて感じます。

30歳になり、35歳を過ぎて40歳になり、歳を重ねれば重ねる程、「年甲斐もない」という言葉に捉われてきていたのですが、もちろん成熟しなければいけないところは成熟しつつ、本当に「人生死ぬまで青春」という何かはあって、「悩むことを止めたとき、人は老い始める」という言葉そのままに、挑み続けないといけない面があるのだと感じさせられました。本作は本当に、僕と同じくらいの年代の人にお勧めです。少し前に読んだ『青春の終焉』と、組み合わせて自分なりに解釈したいなと思います。

4167665050 横道世之介 (文春文庫)
吉田 修一
文藝春秋 2012-11-09

by G-Tools

戒壇院、十七時丁度、昭和二十二年生

東大寺戒壇院の御朱印を書く方(正式な呼び名は何と言うのでしょう?)とお友達になりました。

二日に春日大社に初詣した際に、御朱印帳を購入しました。一時、御朱印帳が(ネットも含めた私の目に映る範囲で)一大ブームになったことがあり、その時はどうも安易な感じがして買わなかったのですが、私のロードバイクの「近所乗り」の行先は圧倒的に神社仏閣なので、御朱印帳に御朱印を頂いていくのも良いなと思い、お気に入りの神社である春日大社で御朱印帳を買いました。

記念すべき第一頁はもちろん春日大社でしたので、第二頁はそれなら東大寺でしょうと(ほんとは昨日、稲蔵神社で頂こうと思ったのですが、御朱印を書いてくれるところが判らなかった・・・)、今日は東大寺まで走りました。

ただ、下調べしておいたのですが、東大寺は御堂が多いので、御朱印を頂けるところがとても多いのです。大仏殿はもちろんとして、二月堂、三月堂、四月堂、戒壇院、行基堂、念仏堂、不動堂、まだまだあったと思います。まだ混雑してると思われる初詣の時期の今日、大仏殿にロードバイクで乗り付けてビンディングシューズで歩く気にはなれなかったので、今まで行ったことのない戒壇院でもらうことに決めて出発。

 

大仏池から見た大仏殿。こちら側は人通りも車通りもほとんどありませんでした。いつもの静けさでした。

 

その大仏池側から境内に入れる門があったので、ここから入りました。門の先は華厳寮と千手堂。千手堂は閉まっているようでしたが、ちょうど私が通り過ぎた後におばあさんが持参物と共に立ち止まっていたので、何かあったのかも知れません。

 

戒壇院と千手堂の間の門を、戒壇院側から見ています。この正月飾りが余りにも好みで写真に収めました。

 

このささやかさ、小ささ、均衡感、華美ではないけれども、不動の門に絶対で最低限のアクセントを置いた祝賀の表現。たまりません!

 

戒壇院は参拝時間の終わりが近づいていたからか、全然参拝者がいませんでした。静かなものでした。戒壇院は厳かと言うよりもむしろ人を寄せ付けない厳しい雰囲気があります。

堂内の四天王・二仏を拝ませて頂き、帰りに御朱印をお願いしたら、スーツを着た書き手の方が「自転車ですか?」と聞いて来られる。なんでもその方もクロスバイクに乗られているそうで、一日20km程毎日乗っておられたときがあったとか。主たるスポーツは剣道をされていて、足腰のトレーニングのために自転車も始められたとか。更にお話を聞くと、御勤務先を定年退職されてから、東大寺の職員として戒壇院に詰められているとか。とても若々しい方で、「私の親父も定年退職してますがどこにも出て行きませんよ」と言うと、「おいくつですか?」「65です」「あ、私と同じですわ、昭和二十二年生まれ?」「そうですそうです」「おや奇遇ですなあ~」と話が進みました。

ちょくちょくこの界隈まで走りに来てるので、また寄らせてもらいますと、名乗り、お名前をお伺いし、気持ちよく戒壇院を後にしたのでした。しかしいつも思いますが、年配の方でお話のうまい方というのは本当にうまい。顔がまず常時笑顔だし、使われる言葉に気持ちのよくない言葉が入らない。この方は、定年まで勤められた会社・ご職業も大きいと思いますが、年配の方と話をさせて頂くといつもこうできるように努力しないとなあと思うところです。

 

これが戒壇院の御朱印です。四天王の文字の睨みの効き具合が迫力ですが、書き手の方の人となりに少しでも触れたというだけで、御朱印というものへの印象も大分変わってくるから不思議です。東大寺の他の御堂の御朱印も頂いて行きたいと思います。

ちなみにタイトルの「十七時丁度」は、今日の日没の時刻です。寒いながらも日が出ている時は気持ちよく走れたのですが、日が暮れてからの寒さはサイクリストにとっては厳し過ぎました・・・。

走り初め、初氷と稲蔵トースト

手水の水の表面が凍ってました。

長い年末年始休暇で、しかも必ずや降るだろうと予想してた雪も全くでいい天気が続いたのになぜかロードバイクを駆る気が向かず、さすがにこのままうだうだと日を過ごすと乗ることが習慣から離れてしまうと思い、少しでも乗ろうと、近所で気になってた稲蔵神社まで。

なぜ気になっていたかと言うと、アルション東生駒本店に「稲蔵トースト」というメニューがあるのを見たその日の帰り道に稲蔵神社を見つけたからです。稲蔵トーストには米粉が加えられたハードトーストで、アルション東生駒本店にほど近い稲蔵は昔から米作りが盛んな土地で、その米をパンに活かしたいと開発されたという情報が、稲蔵神社のホームページに書かれていたりして、一度稲蔵神社を見て起きたいな、と思っていたのです。

 

稲蔵神社はこじんまりとした静かな神社です。矢田丘陵に差し掛かって在ります。168号線沿いの鳥居からまっすぐ1km程進むと辿り着きます。この168号の鳥居からの一本道がさながら表参道です。

 

稲蔵神社はこじんまりとした中に結構な数の鳥居があります。この石造りの鳥居が古くからのもののよう。

 


祭神は生魂明神と大宮能御膳神とのことで、「なんだろうその神様?」と思い、Googleで検索したのですが、生魂明神はこの稲蔵神社を紹介したページばかりヒットする。神社の神様というのは、有数で決まっていて、ある神様が祭られている神社が全国に複数あると思っていたので、ましてや「生魂」ならよく聞く名前なのでとても標準的な神様だろうと思ったので、何か腑に落ちないような感じ。更に調べて観て、生魂は生命の神、大宮能御膳神は五穀豊穣の神(こちらはいくらか情報があった)で、この二柱の神が、稲蔵の烏帽子岩に宿ったということで、稲蔵神社はこの烏帽子岩を磐座(いわくら)としています。

奈良は大神神社を始め、自然そのものを神体とする神社が多いと言われますが、僕の感覚としては、自然が神体ではない神社の神体は例えばなんだろう?と考え込んだりします。そのくらい、僕は日本的なアニミズムが感覚として身についているんだろうなと思います。

磐座と稲蔵。そして稲作。こういう言葉の音の連関を考えるのが昔から好きです。

 

境内は完全に無人。そんな中、本殿に御神籤があったのですが、「引かれたら御茶屋で番号を言ってください」と書かれていて、「御茶屋?そんなのあったっけ?」と思いつつ神社を後にして、ロードバイクを準備して漕ぎ始めた瞬間、脇のおうちの表に「お守り xxx円」等々書かれた張り紙を発見。「あそこだったのか~」と残念に思いながら、すぐ近くのアルションへ。今度、あの御茶屋に行ってみよう。

 

で、なぜかぼけている稲蔵トーストの写真(笑)。アルションのパンはおいしいので期待大、さっそく食べてみよう。

稲蔵神社の近くに稲蔵寺もあるので、今度御茶屋と併せて行ってみようと思ってます。

Grit Computing(グリット・コンピューティング)

いつでも正しい人なんているのかな
まあ そんなこと たいした問題じゃないネ
行こうよ行こうよ あいかわらずなボクら

(『あいかわらずなボクら』/B’z) 

2013年の年頭、最初に意見したのは、「”ちゃんと年下の人に憧れられてる?”って、なんだその”ちゃんと”って!ちゃんと憧れられてる?ってどんな言い草だ!!」というものでした(笑)。

以下、箇条書き:

  • ライフハック以降、「習慣」「仕組」「仕掛」ということに、非常に力点が置かれてきた昨今だったと思う。確かに、アクションを起こすための「工夫」としての仕組み、システム、コツというのは非常に助かるし有用だけど、ちょっとそれに頼り過ぎになってきてるような気がする。「精神論の強要は、物事を何も解決しない」という反省点が、「仕組」論者の出発点だけれども、それが行き過ぎて、なんでもツールとフォーマットで小器用にやれ過ぎて、芯の通ったモノに出会えない傾向にあると感じている。
  • なので、今年はひとつ、「やろう」という気概、意思、精神、そういうものが大事なのだ、とリマインドしてやっていこうと思う。IT-コンピューティングはいつも「習慣」「仕組」「仕掛」側の味方だったと思うけれど、そのコンピューティングを使う「意思」を、コンピューティングと並置してみたい。Grit ComputingはもちろんGrid Computingと掛けていて、「意思を持ってコンピューティングする」という、何かを導くためにコンピューティングするというスタンスの再確認と、「意思とコンピューティングの両輪で、新しい地平を見出す」という大方針の両方を指している。
  • 「つなぐ」というのにももう飽きた。「誰かと誰かを繋ぐ働きをしたい」というのに僕は興味がない。興味がないというよりも、誰もがみんな、誰かと誰かを繋ぐことにばかり興味があるように思える。それは言うなれば商社ばかりの社会、物流機能ばかりの社会。確かにどんな人間でも、誰かと誰かが出会うことで何かは起きる。しかし、「誰かと誰かを繋ぐ働きをしたい」というのは、自分自身は何もしなくても、誰かと誰かのチカラを利用して生きていくようなところがある。僕は、「つながれる」役に立てる何かを実現するほうに自分を注力したい。できていないだけに。
  • ビジネスにおける「目標」という言葉と、人生における「目標」という言葉の、意味は異なる。
  • 美の追求。
  • いろんな人の話を聞くというのは、30代までの方法だと認識。
  • 何を受け取るか、何を読み解くか、批判、の順。
  • 仕事においては、つまるところ、あまりにも時間ロスが多いことが、そしてそれを「付き合わなければいけないものだ」と思い込んでいるところが自分を苦しめている。付き合わなくてもよいと思うことは説明する。そして、思い定めた方向に対する時間を死守する。
  • 無駄にする時間がない、本当にいつ死んでしまうかも知れない、来年はやれないかも知れない、そう思って元日の1:00の電車に乗ってみた。乗車はPiTaPaで出来るけれど、記念に買ってきたこの切符を毎日眺めて、この思いを日々思い返し、日々の行動に繋げよう。

本気で探したいのは何なんだろう-『ロスト・シティ・レディオ』/ダニエル・アラルコン

2012年最後の読書は、久し振りにジャケット一目惚れ、タイトル一目惚れ!が、しかし、難しかった・・・。

グリーンを基調としていて、少年が駆け出していて、下、半分よりも気持ち少ない面積が単色で塗り込められた表表紙。そしてタイトルが『ロスト・シティ・レディオ』。この洒落っ気ある一冊が南米生まれ合衆国育ちの現代作家の作品で、間違いなく好みの本だと手を伸ばす。

『ロスト・シティ・レディオ』は、この物語の舞台である架空の国のラジオ番組。内戦が続いたその国で、行方不明者を探すリスナーの電話を紹介する人気番組。その番組の司会である、誰もが恍惚とする声の持ち主、ノーマが主人公。ラジオ局のノーマのもとに、ジャングルからひとりの少年がやってくる。少年は、ジャングルから消えた人びとのリストを持っていた。「ロスト・シティ・レディオで呼びかけてほしい」と見せられたそのリストに、行方不明のノーマの夫の名前があった。

ノーマと、その夫レイの間の物語として読むならそれほど難しくない。ノーマは、レイのすべてを知らされることはなく、レイの不在の時間にレイに起きた出来事も当然知ることはできず、読んでいる側はその「知れない」苦悩を目の当たりにして、人生の困難さを考えることになる。

けれど、『ロスト・シティ・レディオ』は、そこにだけ焦点を当てているようには思えない。ダニエル・アルラコンの文章は、情感をほとんど抑えた、事物や行動の描写でありながら、内戦や政治といった「事象」の説明は極端に少なく、人びとの暮らしそのものの描写が重なっているんだけど、その人びとの窮屈で困難で恐怖に満ちた生活の炙り出しが、内戦や政治の凶暴性を伝えてくる。ノーマが、レイのすべてを知れることはない、それはどうすることもできないのと同じで、内戦や政治も、人びとが直接には「あまり」どうすることもできない。

「内戦」をどう解釈すればいいのか、「内戦」は少し生々し過ぎて、これを何かの隠喩と捉えて解釈するのがとても難しかったのだけれど、内戦も政治も「あまり」どうすることもできない、と人びとが「諦める」様が、このように描かれる:

あることと、その正反対のことを同時に信じ、怖れていながら同時に向こう見ずでいることはできる。偽名で危険な論文を書き、自分自身は公正な研究者だと信じる。・・・(中略)・・・戦争状態の国家は悲劇だが、自分の手によるものではないというふりをする。自分はヒューマニストだと公言しつつ、鋼のような意思で憎む。

本当は自分もその状況に陥る選択の当事者なのに、「あまり」どうすることもできない状況だと決め付けてやり過ごす。この「分裂」は、一瞬、「ディビジュアル」という概念を提示した『ドーン』を思い出すけれど、それで片づけて良いのだとこの著者が語っているようには思えなかった。

それは何故なんだろう?どうしようもない状況の中でも、人は逞しく生きていくことができる、いや、生きていくしかないんだよ、という、現代文学におけるティピカルな主張ではないように感じながら読んだのだけど、それが何故なのか、そして著者は何だと主張しているのか、それは一読だけではわかりませんでした。段が変わってしばらく読んだら唐突に時空が変わっていた、というような挿話のされ方に頻繁に見舞われ混乱しながら、読み終えてなお「ロスト・シティ」を自分の身の周りにうまく引き付けられなかった。

4105900935 ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス)
ダニエル アラルコン Daniel Alarc´on
新潮社 2012-01-31

by G-Tools

介護の相互作用とは-『驚きの介護民俗学』/六車由美

図書情報館の乾さんに「絶対読め」と勧められ(実際にはこんな口調ではない)て購入。

民俗学者である著者が、デイサービスの介護職に就き、その職場で利用者との「聞き書き」を通じて話を聞く。民俗学は、高齢者の語りからの情報収集が素材として重要なようで、語りを得る方法として「聞き書き」が優れており、かつ、ケアワークの職場は「聞き書き」相手がたくさん居る、そして「聞き書き」を受けることは要介護者にとってもよいフィードバックをもたらす、という、介護と民俗学の出会いが「介護民俗学」。

介護の現場で民俗学を、というのも目から鱗だし、単に民俗学にとって都合のいいフィールドというだけではなく、「聞き書き」が介護にとっても有効で、なおかつ、要介護者にとっても心の安定に有用なものだ、ということが部外者にも理解できるように書かれていて一気に読めます。介護する人と介護される人、というと、そこに序列があることを前提としてしまっている、この「非対称性」を、「聞き書き」の持ち込みによって対称に解放し、それによって要介護者の「生活」も豊かになる。それは、要介護者が何かを「受け取る」からではなく、聞き書きで自らの経験を民俗学者に「与える」ことによって得る生活の豊かさ、というところが素晴らしさだと思う。

著者が聞き出せた語りはどれも印象深いが、最も印象深かったものを二つ挙げると、ひとつは、昭和10年代は、食糧事情が良くない時代であり、農家がサラリーマンを見下す視線があったということ、もうひとつは、叔母が姪を育てるなど、血のつながりのない親子関係というのが、めずらしいものではなかったということ。

前者は、貨幣経済の浸透過渡期において、「食糧」のウェイトの大きさ、ひいては「生」の実在感を感じることができる。逆に、「これからは貨幣経済が終わりに向かう」という意見を時折見かけるけれど、それは、こういう「食糧」が重要視される世の中に戻っていくということなんだろうか?と考えた。

後者は、現代社会は「家族」「親子関係」の複雑さによる家庭問題が多発していると言われるけれども、少なくとも血のつながりの有無は、急に出てきた問題ではないということが判る。家庭問題の多発というのは、血のつながりの多様化ではなく、主に経済社会の変質に依存するのではないか、と思う。

4260015494 驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)
六車 由実
医学書院 2012-03-07

by G-Tools