負け犬根性 - 『シゴトとヒトの間を考える シゴトヒトフォーラム2012』/中村健太・友廣裕一

仏生山温泉の岡さんの章が、最大級にしっくりきました。

僕はいつも本は付箋をつけながら読むのですが、本著は付箋の準備をせず、パーーーッと読みました。意図的に。それは、自分にとってはこの本はおそらく、ゆっくり腰を入れて読むよりも、パーーーッとスピード感持って読むほうが引っかかるものがあると直感してのことでした。フォーラムとして開催されたものの収録ということも、そう思わせた理由の一つかも知れません。

内容的には「場をつくる人」が圧倒的に面白かった。特に、まち塾@まちライブラリーの磯井さんと、仏生山温泉の岡さん。中でも仏生山温泉の岡さんの、

  • ボランティアではなく、利益を出して継続できるようにやるべき。
  • 補助金や助成金は使いたくない。補助金や助成金を使うと単発になるし、おのお金側の意図に自分の意図を歩み寄らせてしまうことになる。

 

この2つが、常々自分が考えていることと完全にリンクして気持ちがよかった。自分と同じ考え方の摂取は読書ではあんまり求めないようにしてるのですが、最近、あまりにもこの自分の考え方に理解をもらえない状況が多くてイライラしていたのだと思います。磯井さんの発言のほうは、過去必死で働いてきたからだとは言え、その過去の貯金で企業内にのさばる人が社会問題を産んでいることを考えると疑問をさしはさむ余地があるのですが(磯井さんのやっていることは、もちろん会社にとっても利益に繋がるものだとは思いますが)、岡さんのスタンスは完全同意でした。

僕は、前々からいつもいつも何かの折に書くんですが、パトロンありきの仕事は仕事じゃないと思う訳です。芸術だったらまだそれもありかなと思うんですが、自分の衣食住をパトロンに依存している状態でやっていることは、仕事と言ってはいけないと思う訳です。例えば、主婦が空き時間で自分の好きなことをやる。それが売上を立てていても、そりゃ仕事ではないと思うのです。自分の衣食住はダンナの金で賄って、自分のやりたいことを存分にやる。そういう考え方を根っこに持っている人というのは、僕は絶対に信用できない訳です。こういうことを言うと、「主婦がやっていることだって無償ではない」というような反論を必ず食らうんですが、僕は何もそういうことを言ってなくて、その家庭で収入を完全に折半しているならそれはどちらも仕事だと思うんです。主婦が空き時間でやっていることの収入も、すべて家計に入れてやっているなら。でも、どういう訳か、その収入はすべて自分のものとして回っているのが当たり前みたいになっていると思う。そういうのは仕事とは言わないのです。これ言うと、いつも「セコい男だ」みたいな嫌味が聞こえるんですが、そういう嫌味が成り立つ時点で、それは、男性社会を肯定化しているということが、未だに一般常識化しないところが根が深いと思います。

結局、今の企業社会がおかしい、とっくに破綻している、と言って個人で何かを起こし、行動する、それ自体は勇気のあることだし、それを伝えることで実際にいろんな人に波及していく訳だけど、実際に「できている」ことの大きさは、企業には叶わない。実現したことこそがすべてだ、としたら、個人で腕を振り回したところで、それは自己満足の域を出ていないと言ってもいいと思う。それを弁えている人と弁えられていない人とでは、説得力が大きく違うなと思ったのでした。

『ワーク・シフト』/リンダ・グラットン

要は、「今後、最も潰しが聞かなくなる職種は営業です」ということ。

Social Book Reading With Chikirin」で取り上げられていることもあって、ジュンク堂本店で目にして直感的に読まねばと思い東京出張時に丸善本店で買って帰りの新幹線で読んだのですが、正直言って、読まなくてもよかったかな…という内容でした。「未来の働き方」を考えるなら、こないだ奈良で買ってきた『チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし』のほうがよほどプラクティカルでためになります。もちろん、本著のように、学究的なアプローチも知り学び理解しなければいけないのですが、「生きていく」という意味での「食っていく」ためには、何より重要なのは実際的であることです。「「やる」ことは「考える」ことより大切だと思われがちだが、私はそんなことは信じていない」それはそうだし大切なことだけど、考えるだけでは食っていけない人間にとっては、「やる」ための実際的なことが優先されるのです。

そう、本著は、言うなれば「「考える」なら、「考える」の一流になれ」と説く訳です。ITが一層進展し、グローバル化が一層進展する未来の世界では、専門性に磨きに磨きをかけなければ、生き残っていけません、都市部に住んでても貧困層に落っこち、孤独な老後を迎えます、縮めていうとそういうことを言われます。それに関しては何の異存もない。けれどそれは、1990年と比べて、革命というほど大転換したことなのかな?そういうと、「変化のゆっくりさに、変化に気づけない凡庸な一般人」みたいなレッテルを貼られるけれど、1995年に社会に出たIT業界人として、例えば旅費精算一つでも昔はどうやって運賃申請してた?と思いだせないくらい、IT化が進行していることは分かっている訳です。それで、「専門性を磨け。世界と対峙せよ。」と言われて、「おおそうだ。世界と対峙だ。やるやる。」という人間が、どれだけいるのか?と思う訳です。

ましてや、専門性を磨けない今の勤務形態では、あなたは近い将来、ダメになります、と言われても、更に、専門性を磨いて事を起こすためには、今の職は残したまま、ちょっとずつお試ししてみろと言われても、「そりゃそうしたほうがいいって判ってるけどさ~」って誰もが言うと思います。なんかそれだけの中身の本、と纏めてしまいたくなります。それはもちろん、僕が昨年来、いろんな「働き方」の考えに関する書籍を読んできているからであって、今まであまり考えたことのない人にとっては、有用な内容だとは思います。

大きなポイントは、専門性を磨く=高額な金銭的報酬に繋がる、とはどこにも書かれていないこと。専門性を磨くのは、自分の充足感を高めるためだ、という、「第3のシフト」を謳っています。理想論とか空論とか言われてきたけれど、これは実際にこうならないとこの先世の中がほんとうに行き詰ってしまうと思うし、そうなっていく気配は確かに少しずつ感じられる。でも大事なのは、やはりそこには金銭という交換価値は必要で、かつ、金銭的成功を収めたいという人が、倫理観や道徳観に反することなくそれをなし遂げようとするならそれを批判したり嫉妬したりしてはならず、かつ、そうやって富が集中することに対して、富を集積した人が、社会的な活動をする人に「寄付」をすることが至極当然という社会を作っていかなければ、これはうまく回らないと思う、この考えは本著を読む前にすでに自分の中では組み上がっていたことで、本著ではこういうことには触れられていないので、やっぱり自分にとってはそれほど大事ではなかったと言ってよさそうです。

4833420163 ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
リンダ・グラットン 池村 千秋
プレジデント社 2012-07-28

by G-Tools

『チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし』/チャルカ

ならまちの『カウリ』で立ち読みして即決。

僕がハンガリーに旅したのはおととし。『放浪の天才数学者エルデシュ』を読んで以来、ハンガリーへの興味がずっと尾を引いていたから。インテルの創業者も、ルービックキューブの発明者も、そしてハンガリーの重い歴史。その旅行の際の切符とか、残しておいた品々を引っ張り出して写真撮ってみたけど、インスタントラーメンの袋とか、なんでオレこんなんなんだろうと情けなくなったりして。

カウリ』はならまち散策にとって絶妙にいい場所にあるのでつい立ち寄るんですが、映画祭ついでに立ち寄ったら、たまたま『チャルカの東欧雑貨市』というのをやってました。で、手に取った『チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし』、開いたページにお店の運営のことが書かれていたので、即決。買いました。

いちばん印象的だったのは、買い付け方。というか、「お気に入り箱」があって、商品として買い付けたのに売り出してないものがあるということとか、なるほど、買い付けというのはもちろん自分のアンテナで買うんだけど、完全に吟味するのではなく、可能性を信じてごっそり買い付けるんだな、というところ。

  • 創業のお二人は、当初は別にお仕事をお持ちだったこと。これはメソッドとして揺らがない鉄則。
  • やりたいことをやり続けるために、何を手ばなし、何に特化するか、その判断と実行。
  • 「本を出す」というメソッド。
  • 東欧を選ぶ、というのは、もちろんフィーリングに合致し、好きだということが大前提で、なおかつ、ビジネス上の戦略性も感じられる。
  • ウェブ上の蚤の市の発想。これは目から鱗。ロングテールなんか目じゃないと思う。

僕自身、自分の仕事のこれからに悩むところもあり、いろんな仕事のディティールを見聞しようとしてるんですが、この本は、お店を始めたいという人にも役に立つし、僕みたいな動機でも有用ないい本だと思います。

店舗、行ったことないのでさっそく行ってみたいと思います。

チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし
チャルカの旅と雑貨と喫茶のはなし チャルカ

産業編集センター 2009-09
売り上げランキング : 151295


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

生駒-三宮61.7km

妙にご高齢の方に親しく話し掛けてもらった、そんな早朝ライドでした。

三連休の中日、あまりない機会なので、できるだけ長い距離を走ろうと思い、例によって自分の足と相談:どんなに頑張っても平均20km/hと考えると、目標を200kmにしたら10時間。200kmを自走で帰ってくるルートで考えると、未経験でメジャーなところは和歌山くらいしかなく、あまり山を絡ませたくなかったので、神戸方面をひたすら西に走ろうと決定。朝6時に出たら夜6時だけど、200km行きっぱなしで電車乗ることを考えると4時には電車に乗りたいだろう、ということで、朝4:30に家を出発することに。

真っ暗な阪奈道路を登るのは、おもしろいのとおっかないのが入り混じりでしたが、よりおっかないのはむしろ下り。夜明け前の夜景はめっちゃ綺麗なんですが、意外と街灯が少ないので、追い越す車が自分に気づいてくれるかが結構不安。

夜明けを背に、がらがらの8号線を快調に飛ばして北新地に。この時点で6時前。早朝のビジネス街は毎度いい感じ。

淀川大橋渡って、例によって43号に乗り換えるのを早まって淀川通に入ってしまい、もう嫌だと(なぜ43号に乗り換えたいかというと少しでも海に近いところを走りたい)すぐ2号線に戻って三ノ宮までは2号線で走ることを決意。したのもつかの間、歩道の段差を踏んだときに、やけに衝撃が大きい、というか、明らかにリムが段差を掴んだことに気付く。

「パンク?」

と思ったけどそこまででもない。でも気になるので止めてみたら、やっぱり薄い。これは打ってるな~と思いつつ、応急処置でハンドポンプで空気入れてたら、ママチャリのかごに小型犬を乗せてお散歩中の上品なご年配のご婦人に

「おはよう」

と声を掛けられる。

「その自転車は、やっぱりすごく軽いんですか?」

「軽いですよ。持ってみはります?」

と言って、サドルバックを外して渡してみる。

「はい、ぜひ」と言ってトップチューブ掴んで持ち上げられて「あらほんと!軽いわね~」と驚嘆。

「これで旅行されてるんですか?」「いや、今日は旅行まではいかないですよ」「どちらからお越しなんですか?」「奈良です」「奈良!何日に出られたんですか?」「いや、今朝ですよ」「今朝!そんな時間で来れるんですか~。何キロくらい出せるの?」「私は頑張って30km/hくらいですね~」「今日はどちらまで行くんですか?」「そうですね~できたら明石くらいは行きたいですね」「じゃあ淡路島も行かないといけませんね」「それがね、あそこ自転車で自力では行けないんですよ。橋渡れないですし~」「あら!そうなの?」

てな感じで僕はハンドポンプで空気入れながら、ご婦人とお話。「それじゃあ気をつけてくださいね~さようなら」とお別れした後も、また違う初老のおじいさんから「足長いね~」と声を掛けられたり。早朝だから、散歩されてるご年配の方が多いということもあったんでしょうけど、なかなか楽しいものです。

その後、2号線が43号線と合流?する岩屋交差点の右折トラップに引っかかったりして、僕はこういうので時間ロスると一気にテンションが下がってしまうんですが、それとリアタイヤのパンク気味なのと、2号線のあまりの信号の多さにもめげてしまい、ちょっと冷静に考えてみて、確かに走ってるときはド平地だし30km/hオーバーで走れてるのに、どう考えても1時間に10回くらい信号に引っ掛かってる、1回1分とられたとして10分も停止時間があることになる!30km/hで走っていても、1時間で走ってる時間は5/6、つまり25km/hしか進まない。その計算通り、北新地を6時前に出たのに、三宮についたのはご婦人との歓談もあったものの、結局7:30。

駅前のファミマでおにぎりを食べつつ、どうしたものかと考える。50km強を3時間。200km走るとなると後9時間。つまり17時。

それよりは、このガラガラの三宮近辺を適当に流す、という非日常を味わって、さっと電車乗って帰ってしまいたいな、と、突然気持ちが切れてしまい、元町界隈を適当に流して阪神三宮から快速急行に乗ったのでした。

でも、早朝出て、人けのないライドで、午前中に帰る、このプランに三宮行はすごくはまってるなと思いました。

なら国際映画祭2012で『不完全な旅』観てきました

河瀬直美氏がエグゼクティブ・プロデューサーを務める「なら国際映画祭2012」に行ってきました。

なら国際映画祭は、河瀬直美氏がカンヌなど世界の映画祭に招待される中で、映画祭の意義を感じ、故郷奈良にその力をもたらそうとNPO法人を設立して2010年に第一回開催を実現した映画祭。河瀬氏はカンヌでグランプリ(『殯の森』)を受賞している奈良が誇る映画監督ですので、もちろん2010年の第一回も聞こえてはいたんですが、なんとなく、「”国際”って言ってもなあ。二回目あったら別やけど」と、正直そう思ってた訳です。而して第三回が今年開催され、これは凄いことだと素直に思いました。

僕が観た『不完全な旅』は、第一回映画祭で最高賞「ゴールデンSHIKA賞」を受賞した映画作家ペドロ•ゴンザレス•ルビオ氏が、その受賞と共に授与された2012年開催で上映する特別作品”NARAtive2012"の製作権で映画を撮影する、その製作過程を追ったメイキング作品。

ペドロ氏が撮影した作品『』を観ずにこの『不完全な旅』を観たのは、ひとつはこの上映には河瀬氏とペドロ氏、メイキングを撮った萩生田氏の鼎談があったからなんですが、『不完全な旅』は映画製作のプロセスをなんにも知らない私にとってもスリリングで面白かったです。「スリリング」というのは、ひとつは主人公もストーリーも何にもなしでいきなり十津川村神納川に来て二週間で映画を撮る、というそのライブ感のスリリング、もうひとつは、メキシコ人作家ペドロ氏のとてもナイーブで律儀で真摯で目に見えて判る”気ぃ遣い”なスタンスと、「100年後?とんでもない、20年、いや10年後にどんなけ家が残ってるか。ほとんどないんちゃいますか」と冷徹なリアリズムを持ちながらも表向きあの奈良特有の突き放したような言葉づかいの裏に潜む”気ぃ遣い”なスタンスの神納川に住まう人びとの、その魂のぶつかり合い。

率直な感想としては、『祈』を観る機会はもうないのかなあということ。それくらい、『不完全な旅』で興味を引かれるものでした。以下、箇条書き:

  • 鼎談でいちばん印象に残ってるのは、ペドロ氏の「日本人は「完全」であることを大事にするから」という言葉。『不完全な旅』というタイトルを聞いて、「自分に何か不完全なところがあったのだろうか?」と心配になったという話をしたときに言ってた。ペドロ氏には日本人はそう見えているというところから、世界から見て日本人がどう見えているかというのに、自分は意外と無自覚であると気付かされた。
  • ペドロ氏の繊細さはすごかった。外国人の繊細さに触れるにつけ、日本人としての繊細さを大切にしないとと思う。
  • なんとなく、奈良南部は(僕が生まれた)北部と気質が違うのかなと思ってたけど、この作品で観る限りよく似ていた。
  • ならまちセンターのスタッフは、奈良でこういう催しが行われたときに較べて非常によく準備されていた。接客に積極的でとても好感が持てました。
  • 対して、ホームページの情報・更新が少し不備が多いのが残念。この映画祭自体も今年が第二回なのか第三回なのかで若干揺らいでいるし、『不完全な旅』の画像もリンク落ちしたりしてる。
  • 司会の方が河瀬氏の肩書を噛み噛みだったのがちょっと。ページでは「理事長」と紹介されてるし、「理事長」で良かったと思う。

 

街の本屋で本を買う - 2012/09/14 丸善書店 丸の内本店

ひさしぶりに東京出張が入ったので、オアゾの丸善で買いました。

この丸の内本店は、オープンしてそこそこの時に行ってみて、これはとてつもなくエロい本屋だ、という感想を書いたことがあります。エロい、というのはエロ本(!)がたくさん並んでるという意味ではもちろんなくて、当時の東京駅界隈・丸の内界隈の再開発の空気、日本の伝統的なデベロッパースタイル、デベロップメントに纏わるカネのバカデカさから来る潤い加減、バカデカいカネにするためにそれに見合う高級感とそれを嫌味ないよう覆い隠すための洗練、つまりはその源泉たる欲望、そういうものをさすがの高次元で纏めている本屋だなあと感嘆しながら隈なくフロアを歩き回ったのでした。

今回は、その前日にジュンク堂本店を歩き回った際に目に入ってた『ワークシフト』を買おうと決めてたので、一階に入ってすぐ見つかって買うだけでした。確か、ICOCAに結構チャージが残ってるなと思い、店員のお姉さんにICOCAが使えるか聞こうと思ったのですが、まずそもそもICOCAが通じるのか、若干不安に。こういうとき、地方に行くと概してその地方のICカード名しか通じないということが頭に入ってるし、逆に東京はびっくりするくらいなんでも知ってるのでその点不安はないと言えばない、なので一応気を使って、「SUICAしかダメですか?ICOCAでもいけますか?」と聞いてみたのですが、物凄い美人のその店員さんは、「はい、ICOCAもお使い頂けます」と丁寧に答えてくれ、「少々お待ちください」と、そのレジにはカードリーダーがなかったので隣のレジで処理してカードリーダーを差し出してくれました。一通り手続きが終わって「お待たせ致しました、ありがとうございます」と差し出してくれた包みを受け取り、今朝の売店でこれから「どうも」ではなくこう言うことにしようと決めた「ありがとう」を発して立ち去った後、僕の背中に向けて「ありがとうございました、またの御利用をお待ちしております」と、か細いながらもきっちり客の耳に届く声で挨拶するあたり、やっぱりここはとてつもなくエロい本屋だと再認識したのでした。

4833420163 ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
リンダ・グラットン 池村 千秋
プレジデント社 2012-07-28

by G-Tools


大きな地図で見る

『情況との対話』

「状況との対話」というイベントがあると聞いて。

4334977030 「語る人」吉本隆明の一念
松崎 之貞
光文社 2012-07-19

by G-Tools

吉本隆明は『情況』という雑誌を発行していた時期があり、1997年に休刊されるまで、雑誌『サンサーラ』に「情況との対話」という連載を続けていた。こういう重複を見かけるにつけ思うのは、「俺も気づかぬままに盗用したり、または誰かの気の利いた掛け合わせに気付かなかったりしてるのだろうなあ」ということ。相当に高いセンスや高度な知識が必要だったりするものはともかく、常識的に流通してそうなことについてはやっぱり最低限として知っていたいし、厚顔無恥でいるような事態は避けたい。

贋作と沈黙

『翼の王国』で偶然に知った、<エマオの食事>。

それが嘘であったことを断罪しているのではなく、それが「ずっと」嘘であったことを断罪しているのだ。それが「ずっと」嘘であったことを、未だに嘘のままで通していることに。通せていると思われていることに。

嘘のままで通す場が、真実を希求することは許されない。審判の場でもまだ嘘のままで通す者に、ハン・ファン・メーヘレンのように一躍英雄に転換するポイントは訪れない。

なぜ日本は「後戻り」したがるのだろう?-『再帰的近代化 近現代における政治、伝統、美的原理』/ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ

確か中学生の頃、パソコンのプログラミング関連の本で初めて「メタ」と言う概念を知って以来、「メタ」概念の鮮烈さに打たれつつも、何でもキリを無くさせそうなその魔術的な性質に、これはできる限り距離を置いたほうがいいと、一種タブー視してきました。「再帰的近代化」は、ウルリッヒ・ベックによる第1章でその基本的な意味を把握したとき、「メタ」に対するタブー感を思い起こしました。近代化そのものも再帰的に近代化される。行為も行為自身の影響を受け変化する。確かにそれは、資本主義と工業化を推し進めてきた現代社会で起きている状況を説明する論理だと思いましたが、今の僕の理解では、「それは結局、”変わり続けるということだけが不変”と言っているのと同義では?」という疑問を解消するために読み込むことになります。「単純的近代化」が「規則主導」、「再帰的近代化」が「規則改変」という部分を確認したとき以降、頭の中では直近に読んだ『家族のゆくえ』で目撃した課題-

かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっている

しかし、根本的には世界の先進地域や社会、国家におけるハイテク科学産業を歴史的な停滞の役割から歴史的な流れの中に繰り入れる方法を見つける以外に解決は考えられない

この課題を思い起こしながら読むことになりました。この「暗黙の了解と意思の疎通が不可能に近くなっている」事態は、アンソニー・ギデンズが「信頼の喪失」と語る部分に重なります。まだ信頼が損なわれていなかった前近代社会での「伝統」は、再帰的近代化の過程で個々人のレベルに落とし込まれ、個々人によって取捨選択の末に完全にゼロクリアの末作り変えられるのか、それは希望に満ちたことなのか、満ちていようといまいとその先に向かって進んでいくのだ、という風に読み取ったのですが、特に「伝統」という言葉を用いて前近代社会を扱うとき、日本と少なくとも欧米の思想には大きな違いがあるといつも感じます。日本の思想はこういうとき、ほぼ「回帰」を指向するように思います。「そのままでいよう」というような。前に進めることは現状を改悪すること、だから何とかして歩みを留めよう、できることならあの良かった頃に戻ろう、というような。それに対して欧米の思想は不可逆性を見据えた「再帰」-ただ、日本にも、これは不可逆だからどんどん前に進めてしまおう、できることなら循環を実現しようとした大きな実例がある、それは原子力発電と核燃料再利用、それを思うと少し絶望的な気分になります。

スコット・ラッシュの章で、日本の工業体型が取り上げられて驚きつつ、「情報コミュニケーション構造」の概念の登場に、先の課題と連携させながら読みました。ただ、ニーチェ・アドルフが関わる「美的」が以前からうまく理解できておらず、そしてこの「美的」という軸がキーポイントになると感じているので(それはブルデューが引かれることからも感じる)、この辺りを再度入念に考え直してみようと思いました。

4880592366 再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
ウルリッヒ ベック スコット ラッシュ アンソニー ギデンズ Ulrich Beck
而立書房 1997-07

by G-Tools

デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?-『図書館戦争』/有川浩

もちろん娯楽小説であることは大前提の上で、本著の読むべきところは、「専守防衛」を旨とする-つまり自衛隊の理念の再認識と、東京都青少年健全育成条例改正問題等、表現の自由だけに留まらず、「自由とは何か」という普遍的なテーマであることは疑いの余地はない。しかし、僕にとって途中から頭を回り続けたテーマは、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」-では、デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?というものだった。

「本を焼く国ではいずれ人を焼く」の言が18世紀のハイネの言であることを考えれば、ここで言う「本」を「紙の書籍」としていいと思う。メディアはどうあれ、本には人々の思いや考え方、大袈裟に言えば「思想」が表され誰かに伝えようとされていて、それを「焼く」ということは、誰かに伝えられては不都合な考え方がある誰かが存在するということで、そんなことが許される国は、必ず「思想」を焼くために、「思想」が表された「本」ではなく、それを表した「人」を直接焼く愚挙に出るだろう、ということだけど、ではデジタルを焼く国も、同じように人を焼くのだと言って、誰もが賛成するだろうか?

当然だろ、と僕は思うんだけど、一方で、誰もが賛成するかと考えるとちょっと待てよ、と思う自分もいる。「本を焼く国ではいずれ人を焼く」と真面目に語る人を想像すると、先に「メディアはどうあれ」と断ったものの、その人たちは「本」を物理的に紙でてきた「書籍」を想定しているように思う、それは、電子書籍を全面的には受け入れないような、「メディア」そのものに固執するような人たちが想定できてしまう。いわば紙の書籍を「神格化」しているように映る人たちだ。

そういう人たちは、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と語るだろうか?デジタルであっても、そこに人々の「思想」が現れることは変わらず、世界ではデジタルの強烈な伝播性によって革命すら起こるくらい、「思想」を伝えることができるというのに。なぜか僕は、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人のほうが、同じく「思想」を伝えるはずのデジタルを差別する図が目に浮かぶ。違法ダウンロード禁止法は、利用者側に対する処罰を規定したという点で、デジタル利用への委縮を想定していると思って不思議はないが、何の為に、誰を利益を守るためにそんな法律を作る必要があったのかと言えば、いわゆる「著作権者・管理団体」の利益を守るため、ということになっている。著作権者は自由に「思想」を表現している訳だけど、その権利を守るための方策が、引いてはデジタル利用を委縮させる方向の、ややもすると「別件逮捕」運用のような、正に「本を焼く」ような危惧をしなければならないような方向の法律が成立するに至っている。これでも、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人々は、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と、自信を持って警鐘を鳴らせるだろうか?

4043898053 図書館戦争 図書館戦争シリーズ(1) (角川文庫)
有川 浩 徒花 スクモ
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-04-23

by G-Tools