なら国際映画祭2012で『不完全な旅』観てきました

河瀬直美氏がエグゼクティブ・プロデューサーを務める「なら国際映画祭2012」に行ってきました。

なら国際映画祭は、河瀬直美氏がカンヌなど世界の映画祭に招待される中で、映画祭の意義を感じ、故郷奈良にその力をもたらそうとNPO法人を設立して2010年に第一回開催を実現した映画祭。河瀬氏はカンヌでグランプリ(『殯の森』)を受賞している奈良が誇る映画監督ですので、もちろん2010年の第一回も聞こえてはいたんですが、なんとなく、「”国際”って言ってもなあ。二回目あったら別やけど」と、正直そう思ってた訳です。而して第三回が今年開催され、これは凄いことだと素直に思いました。

僕が観た『不完全な旅』は、第一回映画祭で最高賞「ゴールデンSHIKA賞」を受賞した映画作家ペドロ•ゴンザレス•ルビオ氏が、その受賞と共に授与された2012年開催で上映する特別作品”NARAtive2012"の製作権で映画を撮影する、その製作過程を追ったメイキング作品。

ペドロ氏が撮影した作品『』を観ずにこの『不完全な旅』を観たのは、ひとつはこの上映には河瀬氏とペドロ氏、メイキングを撮った萩生田氏の鼎談があったからなんですが、『不完全な旅』は映画製作のプロセスをなんにも知らない私にとってもスリリングで面白かったです。「スリリング」というのは、ひとつは主人公もストーリーも何にもなしでいきなり十津川村神納川に来て二週間で映画を撮る、というそのライブ感のスリリング、もうひとつは、メキシコ人作家ペドロ氏のとてもナイーブで律儀で真摯で目に見えて判る”気ぃ遣い”なスタンスと、「100年後?とんでもない、20年、いや10年後にどんなけ家が残ってるか。ほとんどないんちゃいますか」と冷徹なリアリズムを持ちながらも表向きあの奈良特有の突き放したような言葉づかいの裏に潜む”気ぃ遣い”なスタンスの神納川に住まう人びとの、その魂のぶつかり合い。

率直な感想としては、『祈』を観る機会はもうないのかなあということ。それくらい、『不完全な旅』で興味を引かれるものでした。以下、箇条書き:

  • 鼎談でいちばん印象に残ってるのは、ペドロ氏の「日本人は「完全」であることを大事にするから」という言葉。『不完全な旅』というタイトルを聞いて、「自分に何か不完全なところがあったのだろうか?」と心配になったという話をしたときに言ってた。ペドロ氏には日本人はそう見えているというところから、世界から見て日本人がどう見えているかというのに、自分は意外と無自覚であると気付かされた。
  • ペドロ氏の繊細さはすごかった。外国人の繊細さに触れるにつけ、日本人としての繊細さを大切にしないとと思う。
  • なんとなく、奈良南部は(僕が生まれた)北部と気質が違うのかなと思ってたけど、この作品で観る限りよく似ていた。
  • ならまちセンターのスタッフは、奈良でこういう催しが行われたときに較べて非常によく準備されていた。接客に積極的でとても好感が持てました。
  • 対して、ホームページの情報・更新が少し不備が多いのが残念。この映画祭自体も今年が第二回なのか第三回なのかで若干揺らいでいるし、『不完全な旅』の画像もリンク落ちしたりしてる。
  • 司会の方が河瀬氏の肩書を噛み噛みだったのがちょっと。ページでは「理事長」と紹介されてるし、「理事長」で良かったと思う。

 

街の本屋で本を買う - 2012/09/14 丸善書店 丸の内本店

ひさしぶりに東京出張が入ったので、オアゾの丸善で買いました。

この丸の内本店は、オープンしてそこそこの時に行ってみて、これはとてつもなくエロい本屋だ、という感想を書いたことがあります。エロい、というのはエロ本(!)がたくさん並んでるという意味ではもちろんなくて、当時の東京駅界隈・丸の内界隈の再開発の空気、日本の伝統的なデベロッパースタイル、デベロップメントに纏わるカネのバカデカさから来る潤い加減、バカデカいカネにするためにそれに見合う高級感とそれを嫌味ないよう覆い隠すための洗練、つまりはその源泉たる欲望、そういうものをさすがの高次元で纏めている本屋だなあと感嘆しながら隈なくフロアを歩き回ったのでした。

今回は、その前日にジュンク堂本店を歩き回った際に目に入ってた『ワークシフト』を買おうと決めてたので、一階に入ってすぐ見つかって買うだけでした。確か、ICOCAに結構チャージが残ってるなと思い、店員のお姉さんにICOCAが使えるか聞こうと思ったのですが、まずそもそもICOCAが通じるのか、若干不安に。こういうとき、地方に行くと概してその地方のICカード名しか通じないということが頭に入ってるし、逆に東京はびっくりするくらいなんでも知ってるのでその点不安はないと言えばない、なので一応気を使って、「SUICAしかダメですか?ICOCAでもいけますか?」と聞いてみたのですが、物凄い美人のその店員さんは、「はい、ICOCAもお使い頂けます」と丁寧に答えてくれ、「少々お待ちください」と、そのレジにはカードリーダーがなかったので隣のレジで処理してカードリーダーを差し出してくれました。一通り手続きが終わって「お待たせ致しました、ありがとうございます」と差し出してくれた包みを受け取り、今朝の売店でこれから「どうも」ではなくこう言うことにしようと決めた「ありがとう」を発して立ち去った後、僕の背中に向けて「ありがとうございました、またの御利用をお待ちしております」と、か細いながらもきっちり客の耳に届く声で挨拶するあたり、やっぱりここはとてつもなくエロい本屋だと再認識したのでした。

4833420163 ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
リンダ・グラットン 池村 千秋
プレジデント社 2012-07-28

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『情況との対話』

「状況との対話」というイベントがあると聞いて。

4334977030 「語る人」吉本隆明の一念
松崎 之貞
光文社 2012-07-19

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吉本隆明は『情況』という雑誌を発行していた時期があり、1997年に休刊されるまで、雑誌『サンサーラ』に「情況との対話」という連載を続けていた。こういう重複を見かけるにつけ思うのは、「俺も気づかぬままに盗用したり、または誰かの気の利いた掛け合わせに気付かなかったりしてるのだろうなあ」ということ。相当に高いセンスや高度な知識が必要だったりするものはともかく、常識的に流通してそうなことについてはやっぱり最低限として知っていたいし、厚顔無恥でいるような事態は避けたい。

贋作と沈黙

『翼の王国』で偶然に知った、<エマオの食事>。

それが嘘であったことを断罪しているのではなく、それが「ずっと」嘘であったことを断罪しているのだ。それが「ずっと」嘘であったことを、未だに嘘のままで通していることに。通せていると思われていることに。

嘘のままで通す場が、真実を希求することは許されない。審判の場でもまだ嘘のままで通す者に、ハン・ファン・メーヘレンのように一躍英雄に転換するポイントは訪れない。

なぜ日本は「後戻り」したがるのだろう?-『再帰的近代化 近現代における政治、伝統、美的原理』/ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ

確か中学生の頃、パソコンのプログラミング関連の本で初めて「メタ」と言う概念を知って以来、「メタ」概念の鮮烈さに打たれつつも、何でもキリを無くさせそうなその魔術的な性質に、これはできる限り距離を置いたほうがいいと、一種タブー視してきました。「再帰的近代化」は、ウルリッヒ・ベックによる第1章でその基本的な意味を把握したとき、「メタ」に対するタブー感を思い起こしました。近代化そのものも再帰的に近代化される。行為も行為自身の影響を受け変化する。確かにそれは、資本主義と工業化を推し進めてきた現代社会で起きている状況を説明する論理だと思いましたが、今の僕の理解では、「それは結局、”変わり続けるということだけが不変”と言っているのと同義では?」という疑問を解消するために読み込むことになります。「単純的近代化」が「規則主導」、「再帰的近代化」が「規則改変」という部分を確認したとき以降、頭の中では直近に読んだ『家族のゆくえ』で目撃した課題-

かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっている

しかし、根本的には世界の先進地域や社会、国家におけるハイテク科学産業を歴史的な停滞の役割から歴史的な流れの中に繰り入れる方法を見つける以外に解決は考えられない

この課題を思い起こしながら読むことになりました。この「暗黙の了解と意思の疎通が不可能に近くなっている」事態は、アンソニー・ギデンズが「信頼の喪失」と語る部分に重なります。まだ信頼が損なわれていなかった前近代社会での「伝統」は、再帰的近代化の過程で個々人のレベルに落とし込まれ、個々人によって取捨選択の末に完全にゼロクリアの末作り変えられるのか、それは希望に満ちたことなのか、満ちていようといまいとその先に向かって進んでいくのだ、という風に読み取ったのですが、特に「伝統」という言葉を用いて前近代社会を扱うとき、日本と少なくとも欧米の思想には大きな違いがあるといつも感じます。日本の思想はこういうとき、ほぼ「回帰」を指向するように思います。「そのままでいよう」というような。前に進めることは現状を改悪すること、だから何とかして歩みを留めよう、できることならあの良かった頃に戻ろう、というような。それに対して欧米の思想は不可逆性を見据えた「再帰」-ただ、日本にも、これは不可逆だからどんどん前に進めてしまおう、できることなら循環を実現しようとした大きな実例がある、それは原子力発電と核燃料再利用、それを思うと少し絶望的な気分になります。

スコット・ラッシュの章で、日本の工業体型が取り上げられて驚きつつ、「情報コミュニケーション構造」の概念の登場に、先の課題と連携させながら読みました。ただ、ニーチェ・アドルフが関わる「美的」が以前からうまく理解できておらず、そしてこの「美的」という軸がキーポイントになると感じているので(それはブルデューが引かれることからも感じる)、この辺りを再度入念に考え直してみようと思いました。

4880592366 再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
ウルリッヒ ベック スコット ラッシュ アンソニー ギデンズ Ulrich Beck
而立書房 1997-07

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デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?-『図書館戦争』/有川浩

もちろん娯楽小説であることは大前提の上で、本著の読むべきところは、「専守防衛」を旨とする-つまり自衛隊の理念の再認識と、東京都青少年健全育成条例改正問題等、表現の自由だけに留まらず、「自由とは何か」という普遍的なテーマであることは疑いの余地はない。しかし、僕にとって途中から頭を回り続けたテーマは、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」-では、デジタルを焼く国はいずれ人を焼くのか?というものだった。

「本を焼く国ではいずれ人を焼く」の言が18世紀のハイネの言であることを考えれば、ここで言う「本」を「紙の書籍」としていいと思う。メディアはどうあれ、本には人々の思いや考え方、大袈裟に言えば「思想」が表され誰かに伝えようとされていて、それを「焼く」ということは、誰かに伝えられては不都合な考え方がある誰かが存在するということで、そんなことが許される国は、必ず「思想」を焼くために、「思想」が表された「本」ではなく、それを表した「人」を直接焼く愚挙に出るだろう、ということだけど、ではデジタルを焼く国も、同じように人を焼くのだと言って、誰もが賛成するだろうか?

当然だろ、と僕は思うんだけど、一方で、誰もが賛成するかと考えるとちょっと待てよ、と思う自分もいる。「本を焼く国ではいずれ人を焼く」と真面目に語る人を想像すると、先に「メディアはどうあれ」と断ったものの、その人たちは「本」を物理的に紙でてきた「書籍」を想定しているように思う、それは、電子書籍を全面的には受け入れないような、「メディア」そのものに固執するような人たちが想定できてしまう。いわば紙の書籍を「神格化」しているように映る人たちだ。

そういう人たちは、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と語るだろうか?デジタルであっても、そこに人々の「思想」が現れることは変わらず、世界ではデジタルの強烈な伝播性によって革命すら起こるくらい、「思想」を伝えることができるというのに。なぜか僕は、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人のほうが、同じく「思想」を伝えるはずのデジタルを差別する図が目に浮かぶ。違法ダウンロード禁止法は、利用者側に対する処罰を規定したという点で、デジタル利用への委縮を想定していると思って不思議はないが、何の為に、誰を利益を守るためにそんな法律を作る必要があったのかと言えば、いわゆる「著作権者・管理団体」の利益を守るため、ということになっている。著作権者は自由に「思想」を表現している訳だけど、その権利を守るための方策が、引いてはデジタル利用を委縮させる方向の、ややもすると「別件逮捕」運用のような、正に「本を焼く」ような危惧をしなければならないような方向の法律が成立するに至っている。これでも、「本を焼く国ではいずれ人を焼く」という人々は、「デジタルを焼く国ではいずれ人を焼く」と、自信を持って警鐘を鳴らせるだろうか?

4043898053 図書館戦争 図書館戦争シリーズ(1) (角川文庫)
有川 浩 徒花 スクモ
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-04-23

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「Cycro d'Art」行ってきました

JR大阪三越伊勢丹のDMO ARTSで開催中の「Cycro d'Art」に行ってきました!

ほんとは18:00からのオープニングパーティーに行ったほうがおもしろかったとは思うんですけど、予定の都合上と、そんなことよりまだまだ鍛錬が大事なのと、僕の持ってるサイクルジャージは愛想も何もない本気仕様の2XUのジャージで行っても様にならないということで、午前中に観にいってきました(笑)。

午前中の百貨店というのは空いてて非常に快適でした。「Cycro d'Art」はYuji Yamada氏の自転車モチーフの作品を集めた個展。パンフでいくつか絵を見てた印象と違って、結構均一塗りが多く、そこが「静」の印象が強くなる所以かなと思いました。ウェブデザインをもともとやってたということなので、ウェブの特質というか感性もそういうところに生きているのかなと思ったり。

周りにはFeebとRaphaが並んでました。思わず何か買いそうになりますがぐっと堪えました(笑)。

2012/08/30

哲子の部屋

もちろん観ました「哲子の部屋」! やっぱり「暇と退屈の経済学」が欲しいな、と思ったのでした。

哲子の部屋
30分という限られた時間で選ばれたテーマは、「浪費と消費」でした。納得。

「浪費」と「消費」について、凄く判りやすく構成されてました。「浪費」するためには、「モノ」とどう対峙するかが大切。「消費」はイメージ-いわゆる「記号」-が対象なので、無尽蔵になり、その結果、いつまでも満足が得られない。だから、「浪費」しよう。「浪費」は限度のあるものだ。終わりが来るものだ。なぜか。対象が「モノ」だから。

これはすごくすんなり頭に収まるんだけど、「でもなあ」という声が頭に登る理由は、やはり「消費なくして生産なし、生産なくして稼ぎなし」という、資本主義社会に生きる切実なルールに抗えないからだと思う。消費は、番組でも言っていたように、「魔法の仕組み」なのだ。もともとは「万人が必要なモノを、安価に大量に提供する」ことが目的だったかも知れない大量生産のシステムの中で生きていけている僕達は、「消費」が何かを狂わせていることは判っていても、それをどう乗り越えてどんなシステムを描き実現すればいいのか、うまく想像できないでいる。そう、番組中で紹介された、『ファイル・クラブ』のダーデンのように。

消費は終わりがない、けれども無限に続くということではない。消費が魔法なのは、「消費」という一つの概念の中に、破壊と再生の両方を含めることが出来たからだ。消費は、破壊と再生を無限に繰り返して終わりがないのであって、消費ということをいつまでも続けられるということではない。もちろんイメージの消費は消費を無限に続けられるけれど、ここで問題になっているのはイメージ=記号に掻き立てられた、モノの消費だと思う。

だとしたら、「浪費」を大切にする仕組み、すなわち「モノ」を存分に大切にする仕組みというのが、いわゆる「ロングライフ」のような取り組みではないことは明らかだ。なぜなら、「ロングライフ」ということ自体が消費そのものになってしまっているからだ。「ロングライフ」という考え方自体は色褪せないように見えるかもしれないが、それによって実現できていることというのは他ならぬ「消費」だ。何かとってもいいモノがあったとして、それをどこまで扱えばそれは大切にしたことになるのか、十分な線などないのだ。僕たちはまだ見ぬ形で、「浪費」を実現しなければいけないのか、それとも、それすらも「消費」して行きながら、変転する経済社会の中で次々と「浪費」に値する仕組みを見つける不断の努力を強いられるのだろうか?

http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=12n8020120828#

『太陽の南、国境の西』/村上春樹

生まれて初めて、村上春樹の作品を、著者の言わんとしているところに沿わずに読もうとした小説だと思う、たぶん。

高校生時代から20年ちょっと、村上春樹の作品を読んできているので、村上春樹の作品の、少なくとも「オモテ面」の著者の意図は、掴み取りながら読めていると思う。あくまで「意図」で、作品の「意味」ではないけれど、ある程度、オモテ面の意図なら間違わずに読み取れると思う。もちろん、本著も、いつも通りならきちんと「意図」を探し、「意図」に沿って読み、「意図」を掴みとれたと思うけれど、僕はそれとは全く違う風に本著を読んだ。僕にとっての主題は「八百万」だった。

物語の後半、主人公の妻・有紀子の父が、「確実に儲かる」と言って、株を買わせようとする下り。主人公は建築業を営む有紀子の父から資金を提供され、ジャズバーを二軒うまく経営していた。主人公が途中語る「引け目」のようなもの、近しい誰かからたまたまうまく資金を得られたからうまくやって来れているという自責に、僕は主人公のように裕福ではないけれども、たとえば「たまたま」日本に生まれたことで他の貧困国と比較するとうまくやって来れている、という自責が生まれることはある、そして主人公はその「確実に儲かる」話の下りで、とうとうその自責を爆発させてしまう。

その自責の爆発は、純粋に経済的な、生活的な、働き的な理由だけで起きたものではないことは自明のように思う。主人公は、島本さんとの事態で抜き差しならなくなっていたのだ。だから、今の自分の、敢えて何かを取りたてようとしても取り立てるところもないくらいの満ちた生活に、違和感を覚えざるを得なかったからだ。そんな状況が、自責の爆発の背中を押していたと思う。でもそれでも、村上春樹が1995年の10月にこの下りを描いていたことに、驚きを禁じ得ない。そしてその下りを、ほとんどの村上春樹の作品は刊行されると同時に読んできたのに、どういう訳かこの『国境の南、太陽の西』だけは手にも取らずにここまでやってきて、そして今、自分の道に迷いのあるこの状況で読むことになるなんて。

主人公のこの懊悩は、あくまでその経済的な生活基盤が揺るぎないものだからこそのもので、ほんとうにその経済的基盤を失うような状況に差し掛かっても、「少しずつ自分が空っぽになっていくような気がするんだ」なんて呑気なことを言ってられるものかどうか。たぶん、それが言えるような人こそが経済的基盤を得ることが出来るのだろう。

そしてそれを言えないような人は、実は日々空っぽになっていることに気付かないまま、別な不安や不満にばかり付きまとわれてその一生を終えるのだ。本当に恐れるべきはその「空っぽになっていく」ことなのに。

主人公は、起こったことが起こってなかったことのようになっている真空地帯で呆然とする。起こってなかったかのようだからといって、起こっていないということにはならない。そして、時間が経つというのは取り返しのつかないこと。一度は起きたことが、通り過ぎてしまったとき、起こっていないこととして生きていくことは、容易いことなのか、許されることなのか。この真空地帯にいてるときの気分、何をどう考えればいいのかさえ浮かばないような脱力した空気、とてもよく判ってしまう。

何不自由なく与えられた経済的基盤に嫌気を感じ捨てようとし、取り返しのつかないことを自分だけのことのように振る舞い、真空地帯で宙ぶらりんに悩むときでさえ-資格という言葉をもち出してきてさえ-自分が中心で相手に問うことを知らなかった主人公にシンクロすると、やり直してもやり直しても結局何も変わらないのではないかという絶望の感しか抱かせないようだ。だが、少しだけ、もしかしたら何かは変わるのかもしれないという微かだが大きな希望を感じるのは、有紀子が「死のうと思ったけど死ななかった」と主人公に語るシーン。有紀子は若い頃、一度自殺を試みている。一度自殺を試みたことがあり、死の淵を彷徨ったことがあるから、その経験が、今回は踏みとどまらせただけだ、とは思わせない何かを感じられるからだ。

4062630869 国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社 1995-10-04

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