- タフにならなければならない。
- もし、その状況を求め是とするというのであれば、どんな試練が襲い掛かったとしてもギプアップしてしまうならタフではない。つまり、その状況に生きる資質を持ち合わせてはいないということだと思う。それが、よいことなのか悪いことなのかは問われない。ただ、資質がないということだ。
- 「かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっている」「しかし、根本的には世界の先進地域や社会、国家におけるハイテク科学産業を歴史的な停滞の役割から歴史的な流れの中に繰り入れる方法を見つける以外に解決は考えられない」これを痛感する。
もちろん観ました「哲子の部屋」! やっぱり「暇と退屈の経済学」が欲しいな、と思ったのでした。
生まれて初めて、村上春樹の作品を、著者の言わんとしているところに沿わずに読もうとした小説だと思う、たぶん。
高校生時代から20年ちょっと、村上春樹の作品を読んできているので、村上春樹の作品の、少なくとも「オモテ面」の著者の意図は、掴み取りながら読めていると思う。あくまで「意図」で、作品の「意味」ではないけれど、ある程度、オモテ面の意図なら間違わずに読み取れると思う。もちろん、本著も、いつも通りならきちんと「意図」を探し、「意図」に沿って読み、「意図」を掴みとれたと思うけれど、僕はそれとは全く違う風に本著を読んだ。僕にとっての主題は「八百万」だった。
物語の後半、主人公の妻・有紀子の父が、「確実に儲かる」と言って、株を買わせようとする下り。主人公は建築業を営む有紀子の父から資金を提供され、ジャズバーを二軒うまく経営していた。主人公が途中語る「引け目」のようなもの、近しい誰かからたまたまうまく資金を得られたからうまくやって来れているという自責に、僕は主人公のように裕福ではないけれども、たとえば「たまたま」日本に生まれたことで他の貧困国と比較するとうまくやって来れている、という自責が生まれることはある、そして主人公はその「確実に儲かる」話の下りで、とうとうその自責を爆発させてしまう。
その自責の爆発は、純粋に経済的な、生活的な、働き的な理由だけで起きたものではないことは自明のように思う。主人公は、島本さんとの事態で抜き差しならなくなっていたのだ。だから、今の自分の、敢えて何かを取りたてようとしても取り立てるところもないくらいの満ちた生活に、違和感を覚えざるを得なかったからだ。そんな状況が、自責の爆発の背中を押していたと思う。でもそれでも、村上春樹が1995年の10月にこの下りを描いていたことに、驚きを禁じ得ない。そしてその下りを、ほとんどの村上春樹の作品は刊行されると同時に読んできたのに、どういう訳かこの『国境の南、太陽の西』だけは手にも取らずにここまでやってきて、そして今、自分の道に迷いのあるこの状況で読むことになるなんて。
主人公のこの懊悩は、あくまでその経済的な生活基盤が揺るぎないものだからこそのもので、ほんとうにその経済的基盤を失うような状況に差し掛かっても、「少しずつ自分が空っぽになっていくような気がするんだ」なんて呑気なことを言ってられるものかどうか。たぶん、それが言えるような人こそが経済的基盤を得ることが出来るのだろう。
そしてそれを言えないような人は、実は日々空っぽになっていることに気付かないまま、別な不安や不満にばかり付きまとわれてその一生を終えるのだ。本当に恐れるべきはその「空っぽになっていく」ことなのに。
主人公は、起こったことが起こってなかったことのようになっている真空地帯で呆然とする。起こってなかったかのようだからといって、起こっていないということにはならない。そして、時間が経つというのは取り返しのつかないこと。一度は起きたことが、通り過ぎてしまったとき、起こっていないこととして生きていくことは、容易いことなのか、許されることなのか。この真空地帯にいてるときの気分、何をどう考えればいいのかさえ浮かばないような脱力した空気、とてもよく判ってしまう。
何不自由なく与えられた経済的基盤に嫌気を感じ捨てようとし、取り返しのつかないことを自分だけのことのように振る舞い、真空地帯で宙ぶらりんに悩むときでさえ-資格という言葉をもち出してきてさえ-自分が中心で相手に問うことを知らなかった主人公にシンクロすると、やり直してもやり直しても結局何も変わらないのではないかという絶望の感しか抱かせないようだ。だが、少しだけ、もしかしたら何かは変わるのかもしれないという微かだが大きな希望を感じるのは、有紀子が「死のうと思ったけど死ななかった」と主人公に語るシーン。有紀子は若い頃、一度自殺を試みている。一度自殺を試みたことがあり、死の淵を彷徨ったことがあるから、その経験が、今回は踏みとどまらせただけだ、とは思わせない何かを感じられるからだ。
![]() |
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) 村上 春樹 講談社 1995-10-04by G-Tools |
8/26の日経夕刊。ちょうど村上春樹読んでるときに!
春樹の作品で、北海道なら、集まる気持ちもわかるしサマになる。
花巻でやってみたいなあ。
このポスト(『暇と退屈の経済学』)を取り上げてもらったことに行き着いて、これはほんとに魂消た。
このポストイットのおかげです、デザインの威力を、身を以て実感したほとんど初めての強烈な出来事でした。
ヘルシンキから帰ってきて、「さすがに書けることたくさんあるな~。FRED PERRYのWiggins Modelも買ってきたし~、変なラーメンも食べてきたし~、あ、そもそもヘルシンキに行く前のことで書けてないこともあるなー、PCの調子があまりにも悪くって」と思いながら数ポスト書いて、「最近、ぜんぜんアクセスしてもらえないし、ここはひとつちゃんとアクセスログを見てみますか」とひさしぶりに見てみたら、一日だけ、異常に(あくまで僕のしがないブログ的には)アクセス数の跳ねている日が。
「どうした!?何があったこの日!?なんかまずいこと書いたっけ!?」
と強烈な不安に襲われながらアクセスアナリシスを操ること十数分(今回、この件で初めてアクセスアナリシスの使い方を相当覚えた。やはり必要に迫られないと人は真剣にならんもの)。
なるほど!
と、先のツイートに行き着いた訳です。
今、この自分の状況で、このポストを読み返せたこの偶然にほんと感謝です。今これからの僕が、このポストの内容を自分自身で反芻した上で、どういうふうな考えを広げ、どういうふうな道を選びながらいくのか。これにだけは嫌気をさしたくない。
『暇と退屈の経済学』/國分功一郎
できたら、「暇と退屈の経済学」が欲しかったな。
とにかくおもしろかった。掛け値なしに。これは誰にでも読んでほしいけど、とりわけビジネスマンに読んでほしい。それも、「社会とはこういうもんだ」「会社とはこういうもんだ」というような、定番のセリフを口にする、「諦めてる」ビジネスマンに。それにしても、年初にこんなことを書いてすぐにこういう本に巡り合えてしまう自分の引きの強さに感服(笑)。
新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう?
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?僕は、歴史は終わらないと思う。それは、一日中暇になるような世界は、経済が許さないから。本著も、マルクスが語ったのは「労働日の短縮」であって「無くすことではない」と言っているけれど、経済は、今までのやり方をより短時間で、より簡単に、より効率的にできるようにして「余暇」を産み出す方向に動きながら、その一方で、その動きは新しい「余暇の削減」を生み出している。本著に沿って言うと、より短時間で、より簡単に、より効率的に、という動きは「習慣」の獲得で、新しい「余暇の削減」という動きは、「退屈の第三形態と第一形態のセット」ということになると思う。より具体的な例で言うと、情報通信技術は正にそれだと思う。情報通信技術の発達で、生産も、ニュースの伝達も、医療も、ありとあらゆるものが、より「習慣」化されていっているけれど、人々は「携帯」により時間を注ぎ込んでしまい、「余暇」は削減されていっている。本来なら、モノを考えるべき「余暇」は、ソーシャルと言われる、双六よりもあっけない携帯ゲームの中に「消費」されてしまう。
だから、歴史は終わらない。世界は終わらない。最適な「余暇」の比率なんて、誰にもわからない。
僕が「できたら”暇と退屈の経済学”が欲しかった」と思ったのは、本著はカバー裏表紙にも書かれているように、ウィリアム・モリスを引合いに出し、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」という問題意識で貫かれているんだけど、現在の世間の不安感というのは、「パンだけを求めねばならない世界に、戻ってしまうんじゃないの?」という不安感のウェートが高まってきてるんじゃないかと思うから。
「生きることはバラで飾られねばならない」という姿勢は、「革命が起こってしまったらその後どうしよう」とウィリアム・モリスが考えたのと同じように、「ある程度、パンには困らない世界が出来上がっていて、なおかつ、そのパンを得るために四六時中、仕事をしなくてもよい」世界に住んでいるから、考える意味のある命題だと思う。実際、現代日本で起きていた空虚感とか、素人目には病理としか思えないような精神的な出来事の数々は、高度経済成長期を経て、「余暇」を持てるようになった日本社会が、「暇と退屈」について考え抜くことをしてこなかった結果だと僕は思ってる。「余暇」が出来たのに、そこにも更に「働け、働け」とやっていけば破綻するのは目に見えているし、「余暇」を「退屈の第二形式」で過ごすことの意味を捉えようとしていなかったからだと思う。でも、今の経済状況は、「後戻りするのかも知れない」という不安が中心にあると思う。「今は、そこそこパンには困らないけれど、明日、急にリストラにあって、退屈の第三形式を経ずに、退屈の第一形式に叩き落されてしまうかもしれない」という不安。そういう不安が広がる中では、この『暇と退屈の倫理学』は、少し上滑りに感じてしまう。「やっぱり、思想では食えないよね」というような。
もちろん、そういう循環の構造もまた、『暇と退屈の倫理学』では考慮されているし、かつ、そこにウェートを置くのは本筋ではないというのは判ってます。でも、どうしても、本著の進み方というのは、「右方上がりの経済」的な、「経済は進化する」前提で成り立っているようで、そこが、現在起きている不安を少し取りこみきれないのかな、と思う。
なので、結論章で、「本著を通読することで、読者であるあなたが何を考えたか大事なのだ」という訴えには何も反論するところがなく、現代が「安易に結論を手に入れたがる」社会であるのは、「考える」という重労働、つまり「不法侵入」に耐えかねてすぐに「習慣」に逃げ込もうとするからだ、ということになるんだけど、それでも少し食い足りない気持ちは残った。余暇が生まれることで、考えることができる、考えてばかりではなく、「退屈の第一形式→第三形式」と「退屈の第二形式」が入り混じり、考えつくされたことについては「習慣」となり、考えることだらけになる訳ではないのが「生」、なんだけど、その「考える」ための時間である「暇」は、現在がもしかしたら最大で、縮小していくのかも知れない。
もう一点、「贅沢」に関して、「浪費」と「消費」の違いを説明する際、「物を受け取る」と、「物」という単語を使っているところが、若干、判りにくかったかな。僕は、ここでいうのは、明らかに、実体を伴う「物質」ではないと思っているんだけど、実は、実体を伴う「物質」を受け取れることだけが「浪費」だと、著者は言ってるんだろうか?
![]()
暇と退屈の倫理学
國分 功一郎
朝日出版社 2011-10-18by G-Tools
![]() |
独立国家のつくりかた (講談社現代新書) 坂口 恭平 講談社 2012-05-18by G-Tools |
ヘルシンキ行きの前後に渡り読了したんですが、その間に読んだ『家族のゆくえ』と恐ろしいほどシンクロするところがあって、痛烈なインパクトで頭に残りました。それは「考える」ということに関して。吉本隆明氏も坂口恭平氏も「考える」ことの重要性を強調されている。それも、ただ「考える」という枠に収まっているのではなく、「考える=生きる」というところまで持ちあげて語られている。効率化すること、自動化することは考えずに済むことを増やすこと。それにどうやれば対抗して生きていけるのかを、真剣に考えるだけでなく、長く深く考え続けないといけないと思いました。
全体を通じての感想は、経済に関する論点と、精神に関する論点の二つに対しての感想に大きく分かれるのですが、経済に関する論点、態度経済について、ホームレスの方の生き方を述べる部分では、一点、大きく欠落している点があると思っていて、それは、「都市には確かになんでもゼロ円で手に入るくらいものが溢れているかもしれないが、それは誰かが資本主義経済の下で”余剰”的に生産する人がいるから成り立つもの」だということ。ある経済システムがその経済システムだけで自立して成り立つためには、その経済システムの中に「生産性」がないといけない。必要なものをタダで拾ってくる経済システムは、自立していないのでこれを手ばなしで称賛する訳にはいかないと思う。
そこを拡張しているのがゼロ円特区ということになると思うけど、ゼロ円特区も「贈与」で成り立つ訳なので、けして自立していないし、そもそも「パトロンを持つ」ということを推奨しているし、「パトロン」という概念を金銭以外に拡張してはいるけれど、結局のところ資本主義経済からの流入に依存しているのであって、これ自体が資本主義経済に対するカウンターとなるシステムとは言えないと思います。
なので、「態度経済」というのは成立しない、と思うわけではありません。「資本主義経済」でも「態度経済」でも、どちらも安直に否定してはいけないし、選びたい人がそれを選ぶことを尊重するような、そういう精神性を持たなければな、と思うのです。「態度経済」を実現するためには、パトロンと成り得るような人が存在してくれないといけないし、パトロンと成り得るような才能を持った人には、「資本主義経済」のほうで頑張ってもらわないといけない。そこで稼ぎ出されたお金というのは、稼いだ人だけが独り占めして当然というような価値観、いわゆる「競争原理主義」的価値観ではなくて、パトロンとなって当たり前、というような価値観でやっていけるような社会を目指す、そういうのが「態度経済」が目指すところの神髄かなと思いました。
精神に関する論点は、鬱状態のときの視線、「絶望眼」の捉え方は共感しました。僕は鬱ではないけれどひどく塞ぐことはあり、そのときは感性は冴えるのでひどくいろいろなものの捉え方ができるものの、生産的ではないのであまり有用な状態ではないと自分を責めていたが、この捉え方を改める契機になりそう。そして、この状態は、芸術のような領域には役に立つのかもしれないが、自分のようなふつうの社会人には必要のないものと決め込んでいたけれど、芸術と生活を切り離そうとするそのスタンスこそが問題で、芸術と生活は同一線上にあるという認識を保ち続けないといけない。「芸術」をそのように捉えることは坂口氏も本著で書いているし、『楽園への道』でも学んだことだった。
Alvar Aaltoが設計し、併設のCafe Aaltoも有名な、Akateeminen Kirjakauppaで買いました!
Akateeminen Kirjakauppaももちろん例外ではなくて、Helsinkiだから置いてある本はもちろんFinland語の本が圧倒的に多くて、そんなんぜんぜんわかる訳もなく、日本文化について書いてそうな表紙の本を見て、どんなこと書いてるんだろう~とパラパラめくって写真でその内容を推測する、みたいな楽しみ方ですが、思いっきり吹き抜けの造りがただ回遊してるだけの書店でのおもしろさを更に大きくしてくれます。二階のほとんどが吹き抜けで一階が丸見えで、日本ではなかなかあそこまで売り場面積を犠牲にする造りに出会えないです。
で、回遊した結果、ロードバイク本ディスプレイを発見。ツールのドキュメンタリーっぽいものとか数冊紹介されていたなか選んだのは『THE URBAN BIKING HANDBOOK』。フィンランドではなくアメリカの出版社からの本だけれど、"The DIY Guide to Building,Rebuilding,Tinkering with, and Reparing Your Bicycle for City Living"と表紙に書かれていて、こういう本をスタンドディスプレイで紹介しているところがフィンランドっぽさなのかなーと思ったりしました。URBAN BIKING、つまり「街乗り」のスタイルも、欧州らしさもあればアメリカらしさ、日本らしさもあると思うけれど、より自転車を使いこなしているのは日本よりは欧州だなと、欧州に旅行するといつも思います。
![]() |
The Urban Biking Handbook: The DIY Guide to Building, Rebuilding, Tinkering with, and Repairing Your Bicycle for City Living Charles Haine Quarry Books 2011-08by G-Tools |
Helsinki旅行での自分へのおみやげ、FRED PERRYのBradley Wigginsモデル!
全然遅いのにアルカンシェルをあしらったウェア着るなんて柄じゃないけど、これはちゃんとバックポケットもついてて生地も昔風サイクルジャージのようで、飛びついて買ってしまいました。
![]() |
銀輪の巨人 野嶋 剛 東洋経済新報社 2012-06-01by G-Tools |
![]() |
スペクテイター〈23号〉 エディトリアルデパートメント 2011-03by G-Tools |
「街の本屋で本を買う」を思いついたきっかけがそうだけど、一頃よりもメガ書店に対する高揚感というのがなくなった。三重の片田舎の高校生だった頃初めて入った紀伊国屋梅田店に浮き足立ったり、仕事場の近くにジュンク堂が出来たりしたときの興奮だったり、そういうのはこのMARUZEN&ジュンク堂梅田店が出来たときにはほとんど感じなかった。1Fの雑誌コーナーの高さと配置にちょっと物珍しさがあったけれど、「結局、本屋は本屋」という思いが、この数年の間に出来上がったのかも。これは、決して電子書籍が普及しつつあるからとか、amazonで何でも買えるからということではないと思う。
買いたい本が決まってるときはメガ書店に行って買う、そのついでに何か別の本と巡り合うのがメガ書店のおもしろさとしたら、本屋自体に偶然の出会いで入ってしまえというのが「街の本屋で本を買う」なんだけど、今回は久し振りにメガ書店で偶然の買い物。お目当ては、趣味のロードバイクに関連したビジネス本『銀輪の巨人』、台湾の一大ロードバイクメーカーGIANTの成長ドキュメンタリーで、なぜ台湾企業は日本をしり目に急成長できるのか、その内実を読みたくて買ったんだけど、一方で、趣味のロードバイクとして、台湾を走ってみたいなと思っているところへこの『SPECTATOR vol.23』。「台湾縦断 自転車紀行」なんてど真ん中の記事があったら読まずにいられない。おまけにもうひとつの特集が、「再考・就職しないで生きるには」。これからの仕事についてキャリアについて突然深刻に考えざるを得なくなった自分には正にセレンディピティなめぐり合わせ。ロードバイクとビジネスと台湾。この繋がりが銀輪のように回る、回る。 ¥1,680+¥1,000。
40歳になりました。
ここ数年毎年思ってるような気がするが、39歳の1年は何も成せなかった一年だった。その前もその前も、進歩はなくても某かの結果はあって、手ごたえのないまま結果が手に入ることに躊躇うということはあったが、偶然の結果すらない、マイナスばかりで終えた1年というのはそうはない気がする。
すべては自分のせいだと、思い込むことは実は容易い。けれど、そこから次の一歩を踏み出すことが、泥田で駆け足するがごとく困難極まりないことであることを、40年の生活で知っている。だからといって、よく考えもせず、フォーマット化された分析で手際よくこなして果実を手に入れても、そこには空洞が待ち受けるだけということもよく知っている。ではどうすればいいのか?答えはまだない。もがき続けるのが人生だと知っていても、それだけではどうにもならないスパイラルは確かにある。