なんであの人、おおかた出来上がったイベントとか団体とかの尻馬に乗って我が物顔になって嬉しいんだろう?と不思議に思わされる人に、ときどき出くわす。そういう人はちょっと前だとたいてい、「シェア」とか「コミュニティ」とか「パブリック」とかを振りかざしてたような気がする。事ほど左様に、未だに舶来主義なのか。
多分2年くらい前だったと思うけど、今はもう辞めてしまったとあるネットコミュニティで、ひたすらコンテクストについて喚いてた時期があった。なんでコンテクストなのか?というと、自分の勤める会社で、日本語はハイ・コンテクストな文化だが、それはビジネスにとってはデメリットなので、簡潔な表現を心がけてほしい、という「お触れ」みたいなのが出て、それに猛烈に憤ったからだった。ハイ・コンテクストであることを否定する者はコンテキストに泣く。そうこうしてると大好きなLOSTAGEが『CONTEXT』という名のアルバムをリリースしたりしてびっくりしたんだけど、ともあれ僕はハイ・コンテクストであることの力を信じているタイプだ。そして、自分が働いているIT業界というのは、一面で、如何にオリジナルをサマリーするかに力を注いできた業界で、例えばデータウェアハウスというのはサマリーの最たるもの、ローデータをそのまま分析するには実用に耐えるだけの速度を出せないから、ローデータの特徴を失わない範囲とやり方でサマライズしてきた、コンプレスしてきた、それがITの歴史だけど、今、ビッグデータと言ってローデータをローデータのまま実用に耐え得る範囲で分析できる技術が登場し始めた。これはハイ・コンテクストをハイ・コンテクストのまま扱う第一歩と言うことだ。
本著でも、「パブリックとプライバシーの倫理」で、「コンテクストを考慮せよ」と述べられ、コンテクストの重要性について繰り返し語られる。けれど、これも本著で語られるように、コンテクストは難しい。そもそも、コンテクストは長いのだ。時間がかかるのだ。人々はこの10数年、如何に簡単に結論を手に入れるかに心血を注いできたといって差し支えないと思う。それは今も昔も変わらない、とも言えるが、コンテクストをすっ飛ばして結論を手に入れるということが「倫理的にも」許容されるかのように振る舞われたのはこの10数年くらいからではないかと思う。それはもちろん、テクノロジーの伸長にリンクしている。そして今や、ビッグデータはコンテクストをサマリすらしない。時間のかかるハイ・コンテクストを、ハイ・コンテクストのまま読み取って、ダウ・ジョーンズ工業平均株価の動きを87.6パーセントの確率で読み取るのだ。
それでも、本著がコンテクストの重要性を述べていることは非常に貴重で大切なことだと思う。それがどんなに時間のかかることでも、コンテクストを無視するところにプライバシーもパブリックも存在しないからだ。仮に何らかの事情で答えを早く欲しいとしても、そこにコンテクストがあることを忘れてはいけない。
だからこそ、これだけの厚みのある、これだけの「ハイ・コンテクスト」な一冊を読み通す意味がある。この本を読まずして、パブリックだのシェアだのコミュニティだの言っている人よりも、僕はより深くパブリックとシェアとコミュニティについて考えることができるだろう。あまり関係のないコンテクストからパブリックとシェアとコミュニティに掠るような話をひっぱり出してきて語るようなマネをしなくとも、パブリックとシェアとコミュニティのコンテクストで僕はパブリックとシェアとコミュニティについて会話することが出来る。
コンテクストをすっ飛ばして結論を得るというのは、つまり、自分がいつどうやって死ぬのか分かっている人生を選びたい、というようなものだ。間違うことのない、結論の判っている「成功」の道を進みたいということだ。僕にはそれがあんまりにも詰まらなく見えるので、コンテクストを大事にする。だから、冒頭に述べたような、結論の判っている「成功」に群がる人たちが、つまらなく見えるのだ。
パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ ジェフ・ジャービス 小林 弘人 NHK出版 2011-11-23by G-Tools |