街の本屋で本を買う - 2012/06/29 文教堂 淀屋橋店

B007CL0GRW ハーバード・ビジネス・スクール 「生き方」と「働き方」の授業 2012年 04月号 [雑誌]
ダイヤモンド社 2012-03-09

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 淀屋橋odonaは大阪にたくさんある商業ビルの中でも特に印象的。odonaがオープンした2008年、僕はそういうビルが淀屋橋にできるということを、本当にオープン間際になるまで知らなくて(ポスター等も全く目に入っていなかった)、オープン間もなく足を運んでみて、「不景気不景気と言われてるのに、まだこんなビルが出来るんだな」と妙に感心したり不思議に思ったりしていたらその年の秋、リーマンショックが全世界を襲い、いよいよ不思議な建物として印象に残ったのです。

 アポとアポの合間にひさしぶりにodonaに立ち寄り。ここの文教堂は、エリアがエスカレーターを挟んで大きく二分割されているのが面白い。雑誌・新刊・話題書系と、ハードカバー・文庫・専門書でぱっきり割れてる。ここは場所柄、平日の日中に行ってもサラリーマン率が凄い高い。自分もそうですが。

 あんまり時間もない中、雑誌・新刊・話題書側のエリアを回ってみたら、未読の『朗読者』の文庫本が出ているのを見つけて、買うか、と思ったものの、図書館で借りてる『ブリキの太鼓』を読んでる途中でまだまだ分量あるし、と躊躇。やはりodonaというビジネスマンよりの立地・雰囲気に乗ってビジネス書関連かなと思い見て回ると『ハニカム式 日経新聞1習慣ワークブック』が目に。あまりこの手の本は手を伸ばさないんだけど、ハウツーというかメソッドというか、そういうのを疑い持たずきっちりやってみるということも必要かな、と思っていたところなのでもう少しのところで買うところだったのですが、その上の棚にあったハーバード・ビジネス・スクールの『生き方と働き方の授業』をレジに。こういう本こそ、読むだけでは何も変わらないと重々承知しているし、自分が今置かれている立場や地位にはあまり役に立たないだろうということも判っているし、なにより行動することが大事ということも判っているけれども、出来る限りいろんな方位の知識を、良い悪い・好き嫌いを置いて見知るべし、という自分のやりかたを曲げない、ということでご購入。¥980。


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“忘れられる権利”はネット社会を変えるか? - NHK クローズアップ現代

 先日、『PUBLIC』を読み終えてこんなエントリを書いた。

「パブリック」というのはシェアであり、つまり「公開」することからは決して切り離されないとしたら、パブリックというのは不可逆的であると言っていいと思う。だから、著者は「データ保護の4つの柱」に喰ってかかっている。一旦公開されたものはなかったことにはできない。それは確かにそうだけど、技術的なことを言えば、人々の記憶に残ることと、某かの媒体に残ることとは区別すべき問題だと思う。

 そして今日、『クローズアップ現代』がこのテーマを取り上げて、「この世界は僕を中心に回っている、少なくとも僕の世界は」と思わせた。

人々が知ってしまったことをなかったことにはできないとしても、ログを削除可能であることは、パブリックに取って必要不可欠なことだと思う。10年前の自分は今の自分とは違う、だから生まれたときの自分と今の自分とはもはや同じ自分ではない、だから「私」の同一性は何をもって保証されるのかと問うと、過去の「私」の痕跡がログに存在していることは、現在の「私」のパブリックの必要条件ではない、と言えると思うからだ。

 facebookの哲学というのは、「全部が明らかだったら、そもそも問題は起きない」というものだと理解している、今のところ。今日のクローズアップ現代で取り上げられていた、犯罪に関する情報をどう取り扱うのかも、全部が明らかであれば問題はなさそうに思える。つまり、刑期を終え、罪を償っているという情報まで同時に読み手に伝われば。今現時点でのネットの情報は、量は莫大だが不完全。質的にも、アクセス性においても。

 だから、情報が完全ですべてにおいて明らかでアクセス性も申し分ないネットが完成すれば、「忘れられる権利」など問う必要はなくなるのだろうか?僕はそうは思わない。人の記憶は操作できないとしても、削除可能な情報に関しては、削除を制御する権利はあって然るべきだと思うから。それゆえ、ネットは完成しないと思うから。

街の本屋で本を買う - 2012/06/23 ジャパンブックス生駒南店

4861442699 ツール・ド・フランス2012公式プログラム (ヤエスメディアムック366)
八重洲出版 2012-06-20

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 先日、ツールドフランス2012公式プログラムを買おうとして見つけられなかったという顛末だったのですが、それもそのはず、なんとその翌日の6/20発売だった、というオチ。自分の間の悪さっぷりに呆れてしまったのですが、その後、本屋に立ち寄るのを忘れ買いそびれ。この土日に、コースの特徴とか、出場選手とか、ある程度の知識を得ておきたいなあ、そうすると今日公式プログラム買っときたいなあ、でもこの奈良のいち住宅地のそれこそ「街の本屋」で、ツールの公式プログラム売ってるかなあ、と少々不安を持ちつつ、近所のジャパンブックスへ。ちなみにジャパンブックス、地元民は「ジャパブ」と略します。僕は地元で本屋の名前を話すお相手はいないので自分で「ジャパブ」なんて言ったことないですが、この本屋の広報誌みたいのとかで「ジャパブ」と名乗ってるので間違いないです、きっと。

 で、ないんじゃないかな~と思いながら足を運んだジャパブですが、ちゃんとありました、ツール2012公式プログラム。ちゃんと立ち読み防止バンドが掛かって。最近、あんな立派なゴム製の立ち読み防止バンドがあるんですね~。バンドには「ゼクシィ」と書かれてた気がする。「気がする」というのは、そのバンドはレジで回収されるから。「立ち読み防止」なんて書きましたけど、店内をふらっと一周見て回って思いましたが、あれはたぶん、付録系がついている本に、付録が抜けたり抜き取られたりしないように掛けているものですね。この公式プログラムにも、「特大ルートマップ」という、ほんとに特大で貼る壁にちょっと苦労しそうなマップが付録でついてました。

 奈良はマーケットが大きいのか小さいのか、みんな大抵大阪で買うのか、よそで人気のCDとか本とかでも、意外と残ってることがあってねらい目です。ただ、今回みたいに、歩いて5分で行ける本屋でいつでも用が済ませられると判っていればいいんですが、やはりそうもいかないとなると休日の時間の1時間強を大阪に出るための移動時間に取られることになるので、大抵の奈良県人は大阪に通勤してますし、休日の移動時間を嫌うと平日の勤務後に大阪で買い物をするということになります。ただ、人によっては店が開いている時間にたいてい仕事が終わらない、という人も少なくないと思うし、かと言って書店の閉店時間が21:00より遅いところは少なく、なかなかジレンマを感じるところです。


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街の本屋で本を買う - 2012/06/19 ジュンク堂書店 難波店

BRUTUS (ブルータス) 2012年 7/1号 [雑誌]
BRUTUS (ブルータス) 2012年 7/1号 [雑誌]
マガジンハウス 2012-06-15
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 雨の日と言えば本屋!という訳ではないですが、台風4号の接近で街中落ち着かなくなっていく中、外回りの合間に立ち寄ったジュンク堂。ジュンク堂難波店は1フロア構成で、見通しがよく、新刊・特集の棚、芸術・旅行・スポーツ・学術系、専門書系、文庫、雑誌、コンピュータの分類のブロックが判りやすいので回遊しやすいお気に入りのメガ書店。

 ・・・のはずだったのですが、仕事の合間に飛び込んだので、うろうろ本を探し回らず、欲しいと思ってた本をさっと買おうと、『ツールドフランス2012公式プログラム』を買おうと思ったのですが、見つからない。自転車本の棚はもちろん把握してる。地図/スポーツの列のいちばん手前と、雑誌のスポーツの列の真ん中あたりだ。なのに、どんなに探しても、縦に並べられているのを一冊一冊見て行っても、ない。2011だったらあるんだけど。悔しいが(欲しい本が自分の目で見つけられないというのは屈辱なのだ!)検索コンピュータに頼ろうと、「ツールドフランス」と入力してみるも、やっぱり2011しかない!2011があると示された棚に念のため行ってみたものの、やっぱりさっき見つけた2011しかない。

 がっくりきて「時間もったいなかったなあ」と嫌な気分になってたところに、今朝の通勤電車の吊り広告で見たBRUTUSを思い出し、「あ、あれは買って読んでみようと思ったんだった」と、雑誌コーナーに行って手際よく見つけて購入。読みたい本は、どんなタイミングで目に入ってきてどんなタイミングで思い出すか、わかりません。¥630。


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『PUBLIC 開かれたネットの価値を最大化せよ』/ジェフ・ジャービス

なんであの人、おおかた出来上がったイベントとか団体とかの尻馬に乗って我が物顔になって嬉しいんだろう?と不思議に思わされる人に、ときどき出くわす。そういう人はちょっと前だとたいてい、「シェア」とか「コミュニティ」とか「パブリック」とかを振りかざしてたような気がする。事ほど左様に、未だに舶来主義なのか。

多分2年くらい前だったと思うけど、今はもう辞めてしまったとあるネットコミュニティで、ひたすらコンテクストについて喚いてた時期があった。なんでコンテクストなのか?というと、自分の勤める会社で、日本語はハイ・コンテクストな文化だが、それはビジネスにとってはデメリットなので、簡潔な表現を心がけてほしい、という「お触れ」みたいなのが出て、それに猛烈に憤ったからだった。ハイ・コンテクストであることを否定する者はコンテキストに泣く。そうこうしてると大好きなLOSTAGEが『CONTEXT』という名のアルバムをリリースしたりしてびっくりしたんだけど、ともあれ僕はハイ・コンテクストであることの力を信じているタイプだ。そして、自分が働いているIT業界というのは、一面で、如何にオリジナルをサマリーするかに力を注いできた業界で、例えばデータウェアハウスというのはサマリーの最たるもの、ローデータをそのまま分析するには実用に耐えるだけの速度を出せないから、ローデータの特徴を失わない範囲とやり方でサマライズしてきた、コンプレスしてきた、それがITの歴史だけど、今、ビッグデータと言ってローデータをローデータのまま実用に耐え得る範囲で分析できる技術が登場し始めた。これはハイ・コンテクストをハイ・コンテクストのまま扱う第一歩と言うことだ。

本著でも、「パブリックとプライバシーの倫理」で、「コンテクストを考慮せよ」と述べられ、コンテクストの重要性について繰り返し語られる。けれど、これも本著で語られるように、コンテクストは難しい。そもそも、コンテクストは長いのだ。時間がかかるのだ。人々はこの10数年、如何に簡単に結論を手に入れるかに心血を注いできたといって差し支えないと思う。それは今も昔も変わらない、とも言えるが、コンテクストをすっ飛ばして結論を手に入れるということが「倫理的にも」許容されるかのように振る舞われたのはこの10数年くらいからではないかと思う。それはもちろん、テクノロジーの伸長にリンクしている。そして今や、ビッグデータはコンテクストをサマリすらしない。時間のかかるハイ・コンテクストを、ハイ・コンテクストのまま読み取って、ダウ・ジョーンズ工業平均株価の動きを87.6パーセントの確率で読み取るのだ。

それでも、本著がコンテクストの重要性を述べていることは非常に貴重で大切なことだと思う。それがどんなに時間のかかることでも、コンテクストを無視するところにプライバシーもパブリックも存在しないからだ。仮に何らかの事情で答えを早く欲しいとしても、そこにコンテクストがあることを忘れてはいけない。

だからこそ、これだけの厚みのある、これだけの「ハイ・コンテクスト」な一冊を読み通す意味がある。この本を読まずして、パブリックだのシェアだのコミュニティだの言っている人よりも、僕はより深くパブリックとシェアとコミュニティについて考えることができるだろう。あまり関係のないコンテクストからパブリックとシェアとコミュニティに掠るような話をひっぱり出してきて語るようなマネをしなくとも、パブリックとシェアとコミュニティのコンテクストで僕はパブリックとシェアとコミュニティについて会話することが出来る。

コンテクストをすっ飛ばして結論を得るというのは、つまり、自分がいつどうやって死ぬのか分かっている人生を選びたい、というようなものだ。間違うことのない、結論の判っている「成功」の道を進みたいということだ。僕にはそれがあんまりにも詰まらなく見えるので、コンテクストを大事にする。だから、冒頭に述べたような、結論の判っている「成功」に群がる人たちが、つまらなく見えるのだ。

4140815132 パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス 小林 弘人
NHK出版 2011-11-23

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余計な気配り

 ずいぶん昔から気に入ってシャツを買っているお店から、オンラインショップがオープンしました、というダイレクトメールが届いて、ダイレクトメールと言っても本当の郵便で、最近シャツを新調してないし、オープンセールで送料無料で返品自由というので、さっそく買ってみた、二着。ひとつはホワイトだけど織の違う生地を交互に入れることでストライプのように見えるシャツ、もうひとつは極細のブルーストライプ。基本地味好き。

 僕は結構腕が長いので、シャツのサイズは慎重になる。袖が足りないのはスーツを着るとどうしても変、かと言って袖で揃えるとやけに首回りがスカスカになったり。そこへ来てこのお店のシャツは、首回りで揃えてもそれほど袖に違和感がないのと、袖丈長めという選択肢があるのもいいなと思いオンラインショップの品揃えを眺め、手持ちのこのお店のシャツを改めて来てみてサイズ感を確認し(同じ店のものと言ってもデザインによってやはり多少の違いはある)、結局、袖丈長めではない普通モノでいける、と普通モノでオーダー。

 ところが、実際手元に届いて着てみると、心なしかやっぱり袖丈が短い…。これは交換するか、と思い、交換の問い合わせメールを打ちながら、到着したシャツを箱から出して開封したときのことをちょっと思い起こす。「もしかしたら、サイズ合わないから返品するかも」と思い、できるだけ丁寧に開封。シャツの襟のところに嵌っているプラスチックとか、たたみが崩れないように入れられてる厚紙とか、留めているプラスチックのクリップとかを外しながら、無料で返品を受け付けるのは大変なことだよなあ、絶対気に入らなくて返品する人も何%かいるだろうし、でもその何%を見込んだ上で無料返品受け付けにしたほうが売上増につながるとシミュレーションしているということだよな、その手法でショップチャンネルとかは大きくやれてるんだよな、とは言うもののこのお店がどのくらいの規模かわからないし、例えばこのシャツを留めているクリップの1つ取っても、無料で交換を受け付けたら同じ売上でそこの部分のコストは2倍掛かってしまう訳で利益圧迫要因になるし、と言ってそんなもの回収して再利用するほうが、ちゃんと使えるものかどうかチェックしたりしてると余計なコストが掛かって余計利益圧迫か、だけどやっぱり少しでもパーツは無駄にしないほうがいいとオレは思う、と思って丁寧に包装を解いて、ひとつ残らず取っておいた。それがこの写真。

一着目試着して交換を決めたので二着目は未開封だったんだけど、問い合わせたら袖丈眺めがあるのは片方だけだったので、微妙な長さだしもう一方はこの長さで着ようと決めて一方だけ交換にしたら、未開封のほうが交換可能だったので、丁寧に包装を解いたほうはそのまま手元に残りました、というオチつき。

街の本屋で本を買う - 2012/06/12 三省堂東京駅一番街店

 東京は既に17:00過ぎ、ワールドカップアジア予選オーストラリア戦見れない確定の新幹線、車内を過ごすための一冊を探しに。

 朝から鼻がむずむず、朝起きたら部屋がひんやりしてたのでもしやエアコンつけはなしたか?と思ったものの体調はおかしくなかったので安心してたらデニーズで昼飯食べてる間にくしゃみとまらなく。そんな体調なので、新幹線でムリにPC広げると酔ってしんどくなるので、最低限のことを乗車前に済ませて車中は読み物を、という算段で。

 三省堂東京駅は、さすが新幹線のターミナル、ヒジネス街の玄関とあって、週刊ダイヤモンドや東洋経済、日経ビジネスのバックナンバーがレジ前の最も目立つ広いスペースにずらり。昼間はいったローソンでチラ見した日経ビジネスの「イオン対セブン」にしようか、せっかく東京なのでスカイツリー特集から選ぼうか、など思いついたなか、やはりヒジネスマンonビジネス街ということで東洋経済の『数字脳を鍛える』。いつのバックナンバーと思ったら6/9だった。タイムリー!なのもビジネスマンに大事な資質。今日の訪問先でも「鼻が効くね」と褒められたし。6/9号で¥690。ロック連発。¥690。

B0085MLYLE 週刊 東洋経済 2012年 6/9号 [雑誌]
東洋経済新報社 2012-06-04

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the pillows "TRIAL TOUR" 2012/06/08 Zepp Namba

No Surrender, Busters!! It was the enjoynableness last friday night!!

It was my first and last TRIAL TOUR show. I couldn't schedule only this show because I already had some schedules on the other dates. And the night was my first Zepp Namba. Zepp Osaka is familiar to us busters, but it closed in April and a new Zepp called Zepp Namba opened. The night was also the first time for the pillows.

I was deeply impressed with 持ち主のないギター. Sawao's shout of the latter half was strongly touching. I clearly remember his reverbed shout. I want to listen this tune again someday.

Almost all audiences didn't raise thier hand during エネルギヤ. I didn't know why. エネルギヤ is the very dancable tune. Of cource I raised my hand forcefully during それは僕を動かすエネルギー … .

Sawao said "This is our new theme song", it's トライアル. I can't help taking the lyric of TRIAL so seriously because I'm forties this year as sawao is forties. The lyric is very realistic but full of hope. "絶望感の暗闇を 何度も抜け出したはずだ"

They played ICE PICK and TRIP DANCER. The tunes is bery popular with busters and very great, but I was very pleased that they played サードアイ. サードアイ is the one of the most favorite tunes.

The double encore was NO SURRENDER. We Japanese busters always remind 3/11 listening this tune. I want them to play this tune until we Japanese really unite and rebuild after 3/11.

Sawao said "It's our first sliver tapes." and I successfully caught that. This picture is that. That is printed below: "THANK YOU VERY MUCH, I LIKE YOU BUSTERS!!"

『100の思考実験』/ジュリアン・バジーニ

クラスになんか微妙に話が通じるような通じないような女の子、いわゆる天然、もうちょっと新しい目の言葉で言うと不思議ちゃん-その当時そんな言葉はまだなかったような気がするが-がいて、その「微妙に通じない具合」から、「もしかして、オレが使ってる言葉とオマエの使ってる言葉はすっごいよう似てるけど全然違う言葉で、オレが「おはよう」と言ったその言葉は、オマエの言葉ではたまたま「昨日何食べた?」という意味の言葉で、それに対してオマエが返す「すき焼き」というのが、オレの世界の言葉では「よう!」って言葉なんかも知れんなって思うわ」とか言ってたのは確か高校生の頃だったと思う。

このネタは今でもときどき言うことがあるんだけど、今これを思い出したのは、本著のNo.23「箱の中のカブトムシ」という、ウィトゲンシュタインの言語使用に関する考察を取り上げてる章を呼んでいるときだ。少年二人がそれぞれ箱を持っている。中に何が入っているのかは明かさないが、二人ともその箱の中に入っているのはカブトムシだという。大人はその箱の中身は同じようには思えないのに二人ともカブトムシと言って聞かない。

ウィトゲンシュタインの著書から引用されたこの思考実験は、言葉に意味があるのか?という疑問を掘り起こさせる。例えば二人の人が「痛い」という言葉を発したとしても、その二人に起きていることが全く同じであることはない。ということは、自分の内側で起きているその事象と、「痛い」という言葉には何の関係もない。どういう状況で「痛い」という音の言葉を使うのか、という共通ルールがあるだけだ。それが「痛い」という言葉ではなくて「いかがわしい」という音だった可能性だってあるのだ。内面で起きていることがらが違っても、使うべきシチュエーションの類似性から、二人の大人は同じ「痛い」と言う言葉を使う。

こんな風に哲学というのは「当たり前」と思っていることを徹底的に言葉で言い表し説明し切ろうとする。本著はこういういろんな事例が100も並んでいて、考えを詰めていくためのよいトレーニングになります。

4314010916 100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか
ジュリアン バジーニ 河井美咲
紀伊國屋書店 2012-03-01

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『青春の終焉』/三浦雅士

この、圧倒的に打ちのめされる感じが、評論の醍醐味。

「青春の終焉」というタイトルだけで、もうビッと来た。何が書いてあるかはすぐわかったし、読んでみたいと思った。この本を書店で見つける数日前に、別の書店で買った『反哲学入門』の帯で見た名前が著者だというのも、この本は読まなければいけないというサインだと思った。そして、期待通りの面白さだった。最初の1ページから最後の1ページまで、ずっとおもしろいおもしろいと思いながら読み続けられた評論は久し振り。原本は2001年刊行、なんで見つけられなかったんだろうと思うくらい。「青春の終焉」というテーマについて、「そもそも青春とはあったのか?あったとすれば、それはいつからあったのか?」という問いの設定からおもしろくて、1972年生まれの僕にとって物心ついた頃からずっと胡散臭かった「青春」について、余すところなく徹底的に解剖してくれる。

僕にとって「青春の終焉」以上に大きなインパクトだったのは、「連歌」の話。連歌は15世紀に宗祇が完成させた知的遊戯だが、僕は連歌のことを単なる「知的遊戯」だと思っていた。その当時の知的階級=特権階級が、どれだけの知識量を持っているかを背景に戦う知的遊戯。事細かに規則が決められ、その規則を知らないことが野暮扱いされ、元は「おもしろさ」を保つためだった規則に雁字搦めになって芸術性を保てなくなる詩歌の類同様に下火になったというような理解をしていた。

しかし、連歌を考えるときに大切なのは、「座」だった。連歌というのは複数でその場に集って句を読み合うので、必然的に「その場所に集まれる」人達とのつながりが大切になる。というか、その地理的なつながりがないとできない遊びだ。そうして、連歌は前の人の句を受けて読む訳だから、どうしても何か共通の「おもしろい」と思える感覚が必要になる。それは土地に根付いたものなのかどうなのか、かくしてその「おもしろさ」のための規則が生まれたりしたようだけど、僕にとっては、この、「座」という場所は、当たり前のように「共通の言語」を持たなければならないという事実に、改めてインパクトを受けたのだった。

僕はコミュニティが特権意識を持つことがとても嫌いで、コミュニティが特権意識を持つために「共通言語」が必ず生まれると思っていた。言語だけではなくて知識もそうだけど、先にコミュニティに入っている人は後から入る人よりも当然たくさんのコミュニティ内で必要な言葉や知識を持っていて、それをオープンにするかクローズにするか、というようなところで嫌悪感をよく抱いていた。しかし「座」にとってはそれは当たり前のことで、さらに重要だったのは、それを「座」だけのものにしておこう、という姿勢もあった、ということだ。それを「座」だけのものにしておくことで、徒に句としての高尚さを競ったり、難渋な解釈を覚えたりすることを避けることが出来、「座」の一同は、いつも楽しくおもしろく連歌を愉しむことができる。それを担保しているのは、共通言語であり共通知識なのだ、と。

その分岐点となるのが、口語か文語か。「座」というその場限りの口語で留めておくのか、後に残すために「文語」を選ぶのか。「文語」を選んだ途端、「おもしろさ」を犠牲にせざるを得ない。なぜなら、「文語」は「座」の存在する土地を離れてしまうから。何が「共通」するかわからない地点に飛んで行ってしまうから。「文語」を選んだ途端に、「笑い」を失っていく文学。

何かが一斉に流行することは昔からあったけど、これだけ「個性」「個性」と言われるなかで、あれは「森ガール」が端緒だったのか「沼ガール」が端緒だったのか、「ある程度」の固まりが出来るような流行がときどき発生し続けているのは、個人社会になって細分化された社会のなかで、やっぱり「座」が欲しいと叫んでいる証左なのかも知れないと思った。流行歌のない時代は寂しい、というようなことを登場人物が言ったのは重松清作品だったと思うけど、やっぱり人は「座」が欲しいのだ。

4062921049 青春の終焉 (講談社学術文庫)
三浦 雅士
講談社 2012-04-11

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時折街で耳にとまる そう流行歌さえ
愛の詩と気づかすような
熱い熱い想い胸をこがす様な日々が
消えちまっちゃ終わりネ