リッチの文脈

奈良公園に遊びに行ったついでにふらっとビブレの中の啓林堂へ。

久し振りにビジネス雑誌コーナーに足を向けてみたら、プレジデントの表紙に「仕事リッチが読む本 バカを創る本」とあって、「プレジデントはここ最近、年収で階層化して属性分析するのが大好きだな~」と思いながら立ち読み。

そこで目に止まったのが、成毛眞氏の言葉。「年収500万層は、隅から隅まで読む貧乏性読み」というようなサイド見出しのページに、

リッチ層は、おいしいところだけ読むんです。自分に必要なところだけ、「つまみ読み」する。これは、ハワイに初めて旅行する人と、よく旅行している人の違いのようなものです。初めての人は、ハワイ島もアラモアナセンターも・・・と全部詰め込んで楽しもうとする。よく旅行している人は、行きたいところだけゆっくり行く。リッチ層は、隅から隅まで読もうなんてしない。自分に必要なところだけ読むんですよ。

言ってることは凄くよくわかる。確かに、「どこに自分にとって有用なものがあるかも知れない」と思って隅々読むよりも、とりあえず自分に必要だと思えるところだけ読むというのを続けるほうが、確率論的にも自分に必要なものが多く入ってくることになると思うし、その結果、その時点では自分に必要だとは思えなかったことが読めている可能性も高まる。こういう読み方をすることで、「自分に必要なもの」を見抜く眼力も高まる。

ビジネスの世界は、どれだけ少ないリソースでどれだけ大きなリターンを得るか、という世界だから、自ずとこうなる。効率を追求しない行動はない。そしてそれが結局のところ、より大きなよりたくさんのものを手に入れる最善の方法だ。

でも、なぜ効率を追求することが、おもしろそうには思えないのだろう?それは負け惜しみだろうか?

先におもしろいことがあって、それをはたらきにしたときは、それのために効率を追及するのがおもしろいということは知っている。そして、効率を追求しないことでおもしろいはたらきをしている人がいることも知っている。ここにはコンテキストの問題がある。コンテキストを愉しめる人生を望むか、否か。

B007O01OFO PRESIDENT (プレジデント) 2012年 4/30号 [雑誌]
プレジデント社 2012-04-09

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些細なこと

4344417275 Q人生って? (幻冬舎文庫)
よしもと ばなな
幻冬舎 2011-08-04

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散歩の途中に立ち寄った近所の本屋で、たまたま捲ってみたページに現れた言葉。

社会に出るというのは、自己実現(をする)ということではありません。

そう思っていると、いつのまにか周りから人がいなくなります。

細かい言い回しが正確ではないけど、こんなことが書いてあった。

いろんな人の力があって、今の自分は生きていられる。
だから、自分も何かで誰かの役に立たないといけない。
それが、社会に生きるということ。
ソーシャルということは、つながっているというだけの意味では、けしてない。
ぼうっとしてたら見過ごしているいろんな人の力に驚嘆することはできても、
それを自分も何かで誰かの役に立たないといけないと思うことができているかは
別次元の話だった。 

言い聞かせよう、自分に。これはとても大切なことだ。

秘密兵器調達 その1

ツーリングシーズン到来!にあわせて秘密兵器調達!

ウィザードのウルトラライト輪行袋です!

これまでタイオガの輪行袋を使ってて、前輪だけ外せばよいタイプで非常に重宝してたのですが、難点はいかんせんデカい。重い。輪行袋だけで結構なスペースを取ってしまい、荷物が満足に積めないという悩みが。

そこで見つけたのがこの輪行袋。写真の通り、サイズはなんと文庫本。サイクルジャケットのバックポケットにも入ります。ナイロン40デニール(というのがどのくらい強いのかわからないんですが)、さらに重さなんと250g!「行きっぱなしで行けるとこまで行って帰り輪行」型のロングツーリングが好きな僕にうってつけ!

タイオガの輪行袋と比較するとこんな感じ。歴然です。

B004KJWT3S ウィザード ウルトラライト輪行袋


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『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』/イーヴァル・エクランド

異常なまでに徹底的に「アベレージ」というものを毛嫌いする人を知っている。本著の第3章「予想」で『雇用、利子および貨幣の一般理論』の引用に出くわしたとき、一見結びつかないそのことを思い出し、連想が暴れ始めた。

われわれが到達する第3段階とは、これが平均的意見だろうと考えるものを予想しようと努めることである。

「アベレージ」を毛嫌いする心理は、直感的に判る。「標準」なんてものはまずもってつまらないし、誰が「標準」なんて決めるのかという問題もある。だが、おもしろかろうがおもしろくなかろうが、実際にそんなものがあろうがあるまいが、どこかに「基準」がなければ、自分の「独創性」というものも表しきれない。何も何もすべての「個」はそれだけで独創的であると言えば聞こえはいいが、現実にはそんなことは、「標準」の存在を厭う人間の手にかかってもあり得ない。そういう人であっても、駄作を見ては「特に代わり映えのない」と評価するのだ。これはあくまで、凡庸としての「標準」という話だが。

引用した一文の一節で、ケインズは株価というのは「自分が美しいと思う顔を選ぶのではなく、この問題を同じ観点から眺めている他の応募者たちの気に入りそうな顔を選ばなければならない」と述べ、株価形成がもはや個人の主観ではなく、平均的意見の予測によって平均的意見が形成されていくことを述べている。そのことの是非を言うつもりではなく、情報の非対称性的な話題は本著でも後の章で取り上げられるんだけど、ここで連想を飛びたてられた契機は、「株価を決めるのは市場(マーケット)」と、”マーケット”という言葉が出てきたことだ。株価は、主観ではなく、平均的意見の予測によって決まる。そして決まるものはというと、平均的意見である。そして、平均的意見を決める機構は、”マーケット”と呼ばれるものである!

ことここに至って、「アベレージ」を毛嫌いする道理がひとつ露わになった気がした。「アベレージ」という考え方は、マーケットそのものだったのだ。典型的な需給曲線による価格決定然り、株価形成然り。「何が標準なのか」ということを考えることが「標準」を産む、その人為的作為的な経済機構を毛嫌いしていたのだ。「アベレージ」を毛嫌いする心性というのは、個人対個人の向き合い方を尊重する、主観重視の心性だったのだ。僕個人も、「アベレージ」を好む訳では全くないが、その存在意義は認めざるを得ないと思っていたので、そこまで否定はしていなかったけれど、本著で連想の幅が広がったことで、より「アベレージ」を毛嫌いする裏付けを語れるようになった気がする。

と、これは本著の非常に一面的な紹介で、本著は「偶然とは何か」という問いに対して、サブタイトル通り北欧神話を引き合いに出しながら、永遠を思う際に漂う儚さを哲学と共に織り交ぜたテイストで、現代数学を解説してくれます。数か所、突然フルエンジンになって数学的についていけなくなるとこがありましたが、数学的な知識はほとんどなくて楽しめます。決定論的と確率論的。この違いがちゃんと頭に入ってきたあたりから俄然面白くなりました。

4422400193 偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章
イーヴァル エクランド Ivar Ekeland
創元社 2006-02

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ツライ

そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは
僕とずっといっしょにいるほうが 気持ちよくなれるから

昨日、とあるショッピングモールのファミリーレストランに入ってオーダー済ませて携帯いじってたら。

左斜め前前方からぼんやり感じた視線。

・・・

2歳児?

子ども椅子に座って何かを食べてるんだけど、食べてる最中にわざわざ振り返ってこっちを見てる。
じーーーーーっと。

まあ慣れてますけどね。僕、やったら子どもにじーーーーーっと見られますので。

怖がってる訳でも、おもしろいものがいるというふうな訳でもなく、ただただ惹きつけられるようにじーーーーーっと見るんですよね。なぜか。

なんかリアクション取ってあげたほうが、見てること気づかれた!と思って見なくなるかなと思い、ちょっと笑ってみたりしたけど無駄。ときどき向き直ってなんか食べては、こっち向く。

しょうがないので諦めて、再びケータイを見始めて、しばらくその子のこと忘れてたら・・・

うわーーーーーん!!

 無視されたのが悲しかったんでしょうか・・・

けたたましく泣き始め、その後その子が泣きやむことはありませんでした・・・

まさか近づいて行って「ごめんね」という訳にもいかず・・・

ツライつらいとわめいてるばかりじゃ 心にしわが増えるだけ 

つよがり

「優しいね」なんて 買い被るなって
怒りにも似てるけど違う

言葉に出せないもやもやがまだ自分の胸の内にも残っていることを幸せに思う

ずうずうしいやつ、軽薄なやつ、要領のいいやつに

いつもいつも出し抜かれて歯軋りで堪えている僕を信じてくれる人を信じる

たまにはちょっと自信に満ちた声で
君の名を叫んでみんだ 

『バートルビー/ベニト・セレノ』/ハーマン・メルヴィル

『バートルビー』を読もうと思ったのは、「偶然」というテーマに少し興味が向いていたところに「バートルビー 偶然性について」という書籍が出版されたことを知ったから。以前に、エンリケ・ビラ=マタスの『ポータブル文学小史』を読んだ際、同じ著者の作品で『バートルビーと仲間たち』という小説があるのを知っていたり、モーリス・ブランショの『災厄のエクリチュール』で取り上げられているとかで、まずは『バートルビー』を読んでおかなければいけないと思って読みました。

I would prefer not to. この呪術的な言葉。代書人として雇われたバートルビーは、代書以外の仕事を、悉く「I would prefer not to.」と言って拒否する。それも穏やかに。そして、そのうち代書すら拒否する。雇い主である「わたし」はバートルビーを追い出したいが、なぜかバートルビーに面と向かうと強く出れない。困り果ててバートルビーを残して引越しするという手段に出るが、その後もバートルビーは建物に留まり、新しい入居者たちからなんとかしろと迫られる。「わたし」は何もいい手を打てないが、建物の管理人は、バートルビーを刑務所送りにする。刑務所でバートルビーは、モノを食べることすら拒み、餓死してしまう。後に、代書人だったバートルビーの前の職業が、「配達不能郵便物係」だったことを噂に知る。

言葉の埋葬人のような職業から、言葉をあっちからこっちにコピーする職業へ。そしてそれさえも拒んでしまう。言葉というものの限界を悟るようなその生涯。そして、I would prefer not to. 「せずにすめばそれにこしたことはない」というようなこのスタンス、モーリス・ブランショだけでなく、いろいろな解読がなされていてそれを眺めるだけでもおもしろいのだけど、僕は、「なんでもやれるけど、どれもあんまりやる気にならない」という、「飽食」の一歩進んだ姿のように見えた。制限があるとき、やりたいことがやれないとき、そういう状況は、人を夢中にさせる。それは、「できない」という状況があるからで、「できない」ことを「できる」ようにするモチベーションは、本能的に、自然に、湧いてくる。

いっぽう、「なんでもやろうと思えばやれる」状況というのは、夢中にさせてくれない。「明日でいいか」と、こうなる。だから、「I would prefer not to.」こんな言葉も出てくる。その結果、バートルビーは死んでしまう。「I'm not particular.」なんてことも言いながら。これは、「なんでもやれるようになるというのは、結局、なんにもやらないのと同じこと」という含意なんだろうか?それはなんとなく、なんとなくでしかわからないけれど違う気がする。I would prefer not to.というのは、もはや何か言葉を発することさえ捨ててしまうような態度だけど、言葉を捨てるということが何か新しい可能性に繋がっているような気配がある。このあたりの課題を携えて、「バートルビー 偶然性について」にあたることにしよう。

4990481127 バートルビー/ベニト・セレノ
ハーマン・メルヴィル 留守晴夫
圭書房 2011-01-10

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『乳と卵』/川上未映子

クライマックスのところ、今まで筆談でしか話さなかった緑子が母の巻子に、「お母さん」と大きな声を出すくだり、このまま緑子の思いが巻子とすれ違ったまま終わるような流れにするんじゃないだろうな、ととてもハラハラしながら読んだ。こういう物語で、予定調和というかハッピーエンドというか、思いが通じないまま終わるかもしれないってスリリングな感じを抱いて読んだのは久し振り。このくだりに、「ほんまのこと」の切望と、それを茶化す心性と、その過ちを悟り「ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで」と語る箇所があって、ここはやっぱりぐっとくる。

緑子が、辛い思いとか悲しい思いとかそういうのは生まれてくるから起きることだから生まれてこなければいい、だから私は子どもは生まないと決めてる、というのをお母さんの関係と、それから精子と卵子があって受精するということを、自分の胸が成長を始めたことと絡めながら書くところ、その徹底した追及ぶりが根源的で感服。そして、辞書を操って「言葉で表せない言葉はないん」とこれまた徹底して追求していくところ、そういう要素がてんこ盛りで満喫できた。

4163270108 乳と卵
川上 未映子
文藝春秋 2008-02-22

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『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』/池澤夏樹

池澤夏樹氏が東日本大震災について書いたエッセイということで、期待大で手に取りました。情報量の多い濃密なルポタージュ的なエッセイを想像していましたが、実物は比較的短い、端正な9編のエッセイから成っていました。優れた文章を書く人の多くがそんな気がするのですが、池澤氏も文章を書くことだけをやってこられたのではなく、大学で物理をされていたそうで、エッセイの内容も単に情緒的に流れるのではなく、原発の今後についてどう考えるかが、落ち着いた論が展開されます。心情、宗教、科学・工学、政治まで、東日本大震災が引き起こした問題を「どう考えるか」、それらひとつひとつにきちんと自分の「意見」を形作るところまで持っていっているところに尊敬の念を覚えました。と同時に、自分も何かを語るときは、ベストではなくとも、その時点での「意見」を形作って言葉にすることを心がけようと改めて思いました。

「春を恨んだりはしない」というのは、ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」の一節。そして、後段で池澤氏は「春を恨んでもいいのだろう」と書く。

自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話し掛けることができる相手として遇する。それが人間のやりかたであり、それによってこそ無情な自然と対峙できるのだ。
来年の春、我々はまた桜に話し掛けるはずだ、もう春を恨んだりはしないと。今年はもう墨染めの色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと。

去年の我々はその災害のあまりの大きさに、被災していない我々は桜を愛でてもいいのか、そして被災されたけれども比較的日常を取り戻された方々が桜を愛でることに躊躇されたり躊躇しろと言われたりしているのを目の当たりにして、いよいよどう考えてよいのか分からず途方に暮れた。でももう我々は知っているはずだ。春そのときだけの問題ではなく、この一年をどう過ごして来たか、この一年をどんな思いで過ごしてきたかが、春を恨んだりはしないと言わしめるのだと。 

4120042618 春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと
池澤 夏樹 鷲尾 和彦
中央公論新社 2011-09-08

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『Sunny』/松本大洋

僕は本当に何一つ不自由なく両親に育ててもらった。その両親は非常に貧しく、文化住宅暮らしから生活を始め、父親は僕が小学二年の頃重度の慢性病を患い死の淵を彷徨いつつ家族のために必死に働き続けてくれ、僕を何一つ不自由なく育ててくれた。高度経済成長に伴い学歴社会化する中、十分な学歴を持たなかった父はその悔しさもあって僕に「学」という名をつけ、その親の期待に沿うレベルではなかったけれどもともあれ大学も無事卒業することができた。そして今こうやって社会人として生活を営むことができている。

もちろん、子どもの頃からそんなに聞き分けがよかった訳がない。でも今は違う。面と向かえばおもしろくないことも多く、憎まれ口を叩いたり無愛想になったり未だにするけれど、両親には本当に感謝している。僕は苦労した両親のことも含めて、自分の出自を隠すつもりは全くない。そして、すべてひっくるめて感謝するようになったのは、そんなに古いことではないがそんなに新しいことでもなくなった。

だから、「星の子学園」という施設で過ごす子どもたちを描いた『Sunny』について、コミックナタリーで松本大洋が語っていることが、在り来たりな言葉に見えて本当によくわかる。

大洋 施設を出て30年ぐらい経つし、もういいだろって感じですかね。あと、いま43歳っていうのも結構重要で。自分の場合、50歳くらいになってから始めちゃうと、ノスタルジックな話を描いちゃう気がして。だから今なら描けるというより、今しか描けないかな、と。

自分の過去を今なら振り返れる、そう思えてる人が読むのが、この漫画をいちばん味わえると思います。そういう意味で、この漫画は分かる人にしか分からない漫画だと思います。だからこそ、お勧めです。

4091885578 Sunny 第1集 (IKKI COMIX)
松本 大洋
小学館 2011-08-30

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