街の本屋で本を買う - 2012/04/27 ブックスタジオ小倉駅店

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)
ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF) ウィリアム・ギブスン

早川書房 1986-07
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 小倉には今後仕事でしばしば来そうなので、駅前を少し時間をかけて歩いてみた。新幹線口から繋がる広いデッキを歩くと最初に目につく「くまざわ書店」の看板、初めて聞いたと思ったのでローカル展開の書店かと思ったら、調べてみたら東京本社で全国203店舗展開の大チェーンでした。そのくまざわ書店が入るビルから5分と歩かない、新幹線口により近いひまわり通りという商業施設にブックスタジオが入ってるのを発見。

 基本的には大阪で見るブックスタジオと似た陳列だけど、棚がグリーンなのが若干違和感。大阪駅のブックスタジオもグリーンだっけ?あの茶色のイメージが強くて。陳列される本は、よくもわるくも標準的というか、大阪駅ほど尖ってない。
 折角なので小倉ならでは、みたいなチョイスをしたいけどその土地ならではってチョイスは非常に難しい。『xx殺人事件』的なのもつまらないし、旅行ガイド買ってもしょうがないし。散々逡巡して、僕が小倉に初めて降り立って感じたのは「確かにここは都市だったんだなあ」という感慨。今も十分に大きな都市なんだけど、ここが工業都市で全国規模で栄えていた時代があったんだなあと。その感覚が、過去の近未来都市、を思わせて、そんな回想をしていたときにポップと共に棚に表紙見せされていたのが『ニューロマンサー』。三週回ってやっぱりこれが気になりお買い上げ。¥1,008。


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『サウスポイント』/よしもとばなな

どんなことにせよ、あまりに思い入れが強いとうまく行かないもんだという経験則があって、僕の目にはよしもとばななは凄くハワイが好きだと映っていて、その思い入れの強さがそのまま表れてるなあ、滲み出るというよりも隠すことなくそのまま出てるなあと、読みながらずっと感じてた。なので、他のばなな作品より、ストーリーよりも「ハワイの空気」みたいなところに心を寄せられるような小説だった。

よしもとばななの小説は、いつも「登場人物は正直に話す」その言葉の丁寧さにほとほと感心し、そして「時期が来るまで待つ」という、忍耐強い姿勢の大切さを再認識する。物事には、常に然るべきタイミングというのがあると思う。そのタイミングを逃してしまうのも自分の責任、だとは思うけれど、そう言い切るには現代経済の動きはあまりに苛烈すぎるようにも思う。その苛烈すぎる流れのなかで、自分はどういうタイミングで生きていくのか、いつもより少しだけ真剣に考えさせられた。

4122054621 サウスポイント (中公文庫)
よしもと ばなな
中央公論新社 2011-04-23

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大飯に行って

仕事で、大飯に行く機会がありました。

大飯発電所には、2年前に一度行ったことがあり、今回二度目です。2年前ということは、東日本大震災の前になる訳ですが、当たり前ながら、敷地内に入るための手続きは厳重だったことを覚えていました。

僕は、何かを考え語る際は、できるだけ、現場の空気を経験してないといけないと信じているタチで、「なんであんなに数学の天才が輩出されるのか?」という疑問を、現地の空気を感じればなにかあるに違いないと思ってハンガリーを旅行したりするので、仕事で今、大飯に行く機会を得たのは幸運でした。

大飯には電車で行きました。自宅の最寄駅5:13という始発に乗って、新幹線と在来線各停を乗り継ぎ(朝早すぎて在来特急がない)、大飯発電所最寄駅の若狭本郷駅に到着したのは9:06でした。そこからわずか4時間30分の滞在、タクシーの運転手さんと、発電所の警備員さんと、現地の御客様と御客様の協力会社である東京の会社の方、若狭本郷駅の食堂の店員さん、若狭本郷駅の駅員のおばさん、僕が話できたのはわずかこれだけの人々でしたが、大飯はなんというか至って普通、でした。当たり前ですけど、至って普通でした。

何かモノを言うとき、目を瞑ってモノを言うなら、それほどたやすいことはありません。でも、何かモノを言うとき、それが誰かにとってはマイナスになる意見のときもあるわけです。その「誰か」の顔が具体的に浮かんでしまうとき、どうしてもそのモノ言いは鈍くなってしまいがちだけど、それでも、その「誰か」の顔を、目を瞑らずにしっかり見て言うことができるかどうかが、真剣に考えてモノを言えているかどうかを分けると思います。

大飯ではどうしても写真を撮る気になれませんでした。帰りの電車に乗って、若狭本郷駅をいよいよ離れるというときに撮った一枚がこれです。

街の本屋で本を買う - 2012/04/14 啓林堂書店奈良店


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 思いつきで、本屋で買った本をメモしていこうと思う。amazonの便利さを手ばなしで褒め称えてる僕なので、本屋で本を買うことにノスタルジーを覚えたりはしないけど、本屋を見つけたらなるだけ入って本を買うことにしてみたらどんな本が部屋に並ぶのか?出張の多い身なので、行く先々で本屋に入ってみたらなんか変わるのか?その程度の面白がり方でこんなことを始めてみる。

 その初回は、休日の時間潰しに奈良に行ったついでに入った啓林堂書店奈良店。小西通には啓林堂が2つあって、先に奈良ビブレ店に入ってた。奈良ビブレ店のが広いので、なんとなく先に奈良ビブレ店に足が向いてしまう。近鉄奈良駅からだと奈良店が先に現れるんだけど。
 啓林堂書店奈良店は、「奈良」という特色があるかというと、レジすぐ隣に、奈良関連書籍が集められているけど、控えめ。雑誌と文庫が表舞台で新書は奥手という、読書家に向けた頗る標準的な配置。

 「永遠の0」を探してた二人組が、店員に訊いたほうが早いよと店員へ。ところが店員は書籍リストを繰りながら、著者と出版社を調べたのか、調べ終わってから棚へ移動。無事に見つかりはしたものの、そんな著名な本くらい、どこに収めてるのか頭に入ってておかしくないんじゃないの?と顛末を見ててちょっと心配に。

 自分が選んだのは『青春の終焉』 三浦雅士。定年を過ぎても「青春」を謳う人種が増えた今、「青春」とは何なのかを整理しておく必要があると思えたから。日本最古の歴史を持つ、我が奈良で手に入れるにふさわしいテーマだと思う。三浦雅士って人、有名な人なんだろうと思いつつ、見たことあるなくらいに思ってたら、先週かった木田元『反哲学入門』の帯にコメント書いてた人だった。

青春の終焉
青春の終焉 三浦 雅士

講談社 2001-09-27
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リッチの文脈

奈良公園に遊びに行ったついでにふらっとビブレの中の啓林堂へ。

久し振りにビジネス雑誌コーナーに足を向けてみたら、プレジデントの表紙に「仕事リッチが読む本 バカを創る本」とあって、「プレジデントはここ最近、年収で階層化して属性分析するのが大好きだな~」と思いながら立ち読み。

そこで目に止まったのが、成毛眞氏の言葉。「年収500万層は、隅から隅まで読む貧乏性読み」というようなサイド見出しのページに、

リッチ層は、おいしいところだけ読むんです。自分に必要なところだけ、「つまみ読み」する。これは、ハワイに初めて旅行する人と、よく旅行している人の違いのようなものです。初めての人は、ハワイ島もアラモアナセンターも・・・と全部詰め込んで楽しもうとする。よく旅行している人は、行きたいところだけゆっくり行く。リッチ層は、隅から隅まで読もうなんてしない。自分に必要なところだけ読むんですよ。

言ってることは凄くよくわかる。確かに、「どこに自分にとって有用なものがあるかも知れない」と思って隅々読むよりも、とりあえず自分に必要だと思えるところだけ読むというのを続けるほうが、確率論的にも自分に必要なものが多く入ってくることになると思うし、その結果、その時点では自分に必要だとは思えなかったことが読めている可能性も高まる。こういう読み方をすることで、「自分に必要なもの」を見抜く眼力も高まる。

ビジネスの世界は、どれだけ少ないリソースでどれだけ大きなリターンを得るか、という世界だから、自ずとこうなる。効率を追求しない行動はない。そしてそれが結局のところ、より大きなよりたくさんのものを手に入れる最善の方法だ。

でも、なぜ効率を追求することが、おもしろそうには思えないのだろう?それは負け惜しみだろうか?

先におもしろいことがあって、それをはたらきにしたときは、それのために効率を追及するのがおもしろいということは知っている。そして、効率を追求しないことでおもしろいはたらきをしている人がいることも知っている。ここにはコンテキストの問題がある。コンテキストを愉しめる人生を望むか、否か。

B007O01OFO PRESIDENT (プレジデント) 2012年 4/30号 [雑誌]
プレジデント社 2012-04-09

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些細なこと

4344417275 Q人生って? (幻冬舎文庫)
よしもと ばなな
幻冬舎 2011-08-04

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散歩の途中に立ち寄った近所の本屋で、たまたま捲ってみたページに現れた言葉。

社会に出るというのは、自己実現(をする)ということではありません。

そう思っていると、いつのまにか周りから人がいなくなります。

細かい言い回しが正確ではないけど、こんなことが書いてあった。

いろんな人の力があって、今の自分は生きていられる。
だから、自分も何かで誰かの役に立たないといけない。
それが、社会に生きるということ。
ソーシャルということは、つながっているというだけの意味では、けしてない。
ぼうっとしてたら見過ごしているいろんな人の力に驚嘆することはできても、
それを自分も何かで誰かの役に立たないといけないと思うことができているかは
別次元の話だった。 

言い聞かせよう、自分に。これはとても大切なことだ。

秘密兵器調達 その1

ツーリングシーズン到来!にあわせて秘密兵器調達!

ウィザードのウルトラライト輪行袋です!

これまでタイオガの輪行袋を使ってて、前輪だけ外せばよいタイプで非常に重宝してたのですが、難点はいかんせんデカい。重い。輪行袋だけで結構なスペースを取ってしまい、荷物が満足に積めないという悩みが。

そこで見つけたのがこの輪行袋。写真の通り、サイズはなんと文庫本。サイクルジャケットのバックポケットにも入ります。ナイロン40デニール(というのがどのくらい強いのかわからないんですが)、さらに重さなんと250g!「行きっぱなしで行けるとこまで行って帰り輪行」型のロングツーリングが好きな僕にうってつけ!

タイオガの輪行袋と比較するとこんな感じ。歴然です。

B004KJWT3S ウィザード ウルトラライト輪行袋


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『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』/イーヴァル・エクランド

異常なまでに徹底的に「アベレージ」というものを毛嫌いする人を知っている。本著の第3章「予想」で『雇用、利子および貨幣の一般理論』の引用に出くわしたとき、一見結びつかないそのことを思い出し、連想が暴れ始めた。

われわれが到達する第3段階とは、これが平均的意見だろうと考えるものを予想しようと努めることである。

「アベレージ」を毛嫌いする心理は、直感的に判る。「標準」なんてものはまずもってつまらないし、誰が「標準」なんて決めるのかという問題もある。だが、おもしろかろうがおもしろくなかろうが、実際にそんなものがあろうがあるまいが、どこかに「基準」がなければ、自分の「独創性」というものも表しきれない。何も何もすべての「個」はそれだけで独創的であると言えば聞こえはいいが、現実にはそんなことは、「標準」の存在を厭う人間の手にかかってもあり得ない。そういう人であっても、駄作を見ては「特に代わり映えのない」と評価するのだ。これはあくまで、凡庸としての「標準」という話だが。

引用した一文の一節で、ケインズは株価というのは「自分が美しいと思う顔を選ぶのではなく、この問題を同じ観点から眺めている他の応募者たちの気に入りそうな顔を選ばなければならない」と述べ、株価形成がもはや個人の主観ではなく、平均的意見の予測によって平均的意見が形成されていくことを述べている。そのことの是非を言うつもりではなく、情報の非対称性的な話題は本著でも後の章で取り上げられるんだけど、ここで連想を飛びたてられた契機は、「株価を決めるのは市場(マーケット)」と、”マーケット”という言葉が出てきたことだ。株価は、主観ではなく、平均的意見の予測によって決まる。そして決まるものはというと、平均的意見である。そして、平均的意見を決める機構は、”マーケット”と呼ばれるものである!

ことここに至って、「アベレージ」を毛嫌いする道理がひとつ露わになった気がした。「アベレージ」という考え方は、マーケットそのものだったのだ。典型的な需給曲線による価格決定然り、株価形成然り。「何が標準なのか」ということを考えることが「標準」を産む、その人為的作為的な経済機構を毛嫌いしていたのだ。「アベレージ」を毛嫌いする心性というのは、個人対個人の向き合い方を尊重する、主観重視の心性だったのだ。僕個人も、「アベレージ」を好む訳では全くないが、その存在意義は認めざるを得ないと思っていたので、そこまで否定はしていなかったけれど、本著で連想の幅が広がったことで、より「アベレージ」を毛嫌いする裏付けを語れるようになった気がする。

と、これは本著の非常に一面的な紹介で、本著は「偶然とは何か」という問いに対して、サブタイトル通り北欧神話を引き合いに出しながら、永遠を思う際に漂う儚さを哲学と共に織り交ぜたテイストで、現代数学を解説してくれます。数か所、突然フルエンジンになって数学的についていけなくなるとこがありましたが、数学的な知識はほとんどなくて楽しめます。決定論的と確率論的。この違いがちゃんと頭に入ってきたあたりから俄然面白くなりました。

4422400193 偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章
イーヴァル エクランド Ivar Ekeland
創元社 2006-02

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ツライ

そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは
僕とずっといっしょにいるほうが 気持ちよくなれるから

昨日、とあるショッピングモールのファミリーレストランに入ってオーダー済ませて携帯いじってたら。

左斜め前前方からぼんやり感じた視線。

・・・

2歳児?

子ども椅子に座って何かを食べてるんだけど、食べてる最中にわざわざ振り返ってこっちを見てる。
じーーーーーっと。

まあ慣れてますけどね。僕、やったら子どもにじーーーーーっと見られますので。

怖がってる訳でも、おもしろいものがいるというふうな訳でもなく、ただただ惹きつけられるようにじーーーーーっと見るんですよね。なぜか。

なんかリアクション取ってあげたほうが、見てること気づかれた!と思って見なくなるかなと思い、ちょっと笑ってみたりしたけど無駄。ときどき向き直ってなんか食べては、こっち向く。

しょうがないので諦めて、再びケータイを見始めて、しばらくその子のこと忘れてたら・・・

うわーーーーーん!!

 無視されたのが悲しかったんでしょうか・・・

けたたましく泣き始め、その後その子が泣きやむことはありませんでした・・・

まさか近づいて行って「ごめんね」という訳にもいかず・・・

ツライつらいとわめいてるばかりじゃ 心にしわが増えるだけ 

つよがり

「優しいね」なんて 買い被るなって
怒りにも似てるけど違う

言葉に出せないもやもやがまだ自分の胸の内にも残っていることを幸せに思う

ずうずうしいやつ、軽薄なやつ、要領のいいやつに

いつもいつも出し抜かれて歯軋りで堪えている僕を信じてくれる人を信じる

たまにはちょっと自信に満ちた声で
君の名を叫んでみんだ