初書店・初買いはこの一冊-『暇と退屈の倫理学』/國分功一郎

「自分の仕事」を考える3日間”から始まり、ずっと「仕事」を考え、『わたしのはたらき』を読み、年末に『日本人はどのように仕事をしてきたか』『いま、働くということ』を読んで、「働かなければ食べていけない、これは動かしがたいしどれだけ豊かになっても気を抜けば困窮するのが資本主義経済、けれど青天井だからどこかで転落が発生してバランスを取っているのが資本主義経済としたら、考えないといけないのはやはり「余暇」の在り方だ」と思い至り、それはそうと本屋の初売りにでも行こうっとと、ジュンク堂って今日から開いてたっけ??とジュンク堂HP見てみたら、でかでかと「店長の一押し!」の文字と共に「ヒマか!?」の文字!!

読みます!!

根性無くても言える

ハイテク進み、心の豊かさ遅れるわが国の
如何ともし難いところ なんてどうでもいいか
いやいやよくないな 

あけましておめでとうございます。
目下ご覧頂けていた確実な実績1名様というブログですが、今年も飽きずに続けます。
よろしくお願い申し上げます。抱負なんて、書きません。
強いて言えば、今年は「書く」に拘ろう。

おいしい匂いに敏感なのは才能だけど
節操ないのは 厚化粧よりぜんぜんいやだ 

20年近く前に、もうこんなこと言ってたんだなーB'z。凄いなやっぱ。
20年経った今も、なんも変わってなさそうですよ、心の豊かさ。
新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

根性無くても、言えるんだよ。 

OUT OF CONTROL 思うようにはいかないよね
DON'T YOU LOVE ME? これが住み慣れた街だ 

B00005F5A7 RUN
KOHSHI INABA B’z
BMGルームス 1992-10-28

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”しっかりやりましょう”-『あたまの底のさびしい歌』/宮沢賢治・川原真由美

2011年今年最後のエントリーは、長居したitohenで買った記念の一冊、『あたまの底のさびしい歌』。

うまいことを考えることは広告詐欺師へ任せる。 

自分の死後、手紙というものが公にされるのって、どんな気持ちなんだろうか?と少し胸が苦しくなる。自分だったら相当厭なことだなあと思うけれど、本著は敬愛する宮沢賢治の、作品から知る人物像ではない、作品を作らんとする人間である宮沢賢治を知れて、作家とは作品だけで向き合うのがよいのか、作家という人間全体を知ろうと様々な資料に当たるほうがよいのか、考えは巡る。けれどとにかく、この本を手にしたことは最高によいアクションだったと思う。

幾つかの手紙で、賢治は相反する概念を並列にする。「恋してもよいかも知れない。また悪いかもしれない。」「だまって殺されるなり生きているなりしよう。」「すべては善にあらず悪にあらず」等々。こういう賢治の言い回しでわかるのは、世の中のどんなことも一義的ではないと肝に銘じる賢治の意志の強さ。どう考えたってそれは善いことでしょう(または悪いことでしょう)という行為でも、それは悪いことだ(もしくは正義だ)と訴える、それも自分にとっての都合・利得で言うのではなくそう信じて訴える人がいて然るべきなのだということを、賢治は強く肝に銘じようと努めていたのだと思う。もしくは、善とか悪とかを決めるのは、自分でもなければ誰か別の人でもない。そういう価値判断は、人間が下すべきものではない、と。

そうやって、諸々様々の視点が入り乱れることを賢治は許容し、その結果当然に混濁させてしまうことになる世界の中で、「しっかりやりましょう。」とただひたすらに繰り返す手紙を賢治は書く。この「しっかりやりましょう」の反復に、僕は胸を打たれる。すべてを認めてしまったら、後は「しっかりやりましょう」とお互いに声を掛け合うのみなのだ。

私共の心としては
「真理」よりも
「真理を得了った地位」を求め
「正義」よりも
「正義らしく万人に見えるもの」を索ねている事が度々あります。
見掛けは似て居ますがこれこそ大変な相違です。 

賢治が生きた時代は日本にも資本主義が定着していく明治後半~昭和初期なので、どれだけ賢治が崇高な理念を持っていてそれを語れたとしても、勤労に励むことが社会の通念に沿っている時代で、賢治自身も「働いていない自分、こんなんじゃダメだ」と苦悩したことが、手紙の端々から読み取れる。最近、仕事に関する書籍を二冊読み、その歴史、経済の仕組に応じたことが倫理観となって普及させられていくことを学んだところなので、その重さを痛感する。作家の側面を知るということの意義は、こういうことなのだと思う。

488008347X あたまの底のさびしい歌
宮沢 賢治 川原 真由美
港の人  2005-12-01

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ロングライド 綾部

書いたつもりになってました。今月の初め、12/3に綾部までツーリングしてきました!

ほんとうは日本海側まで走り切って、一泊して翌日電車輪行で帰ってくる、というつもりだったのです。距離にして200km。朝5:00に出発して、ルートラボで調べたアップダウン具合と自分の足と経験から、夜18:00に着けたらいいところだろう、と考えて。

ところが当日は小雨が降る極寒のコンディション、いろいろ見込み違い準備不足が祟り、途中で目標をとりあえず100km地点の綾部に変更、12:30過ぎに到着してギブアップ。その時のメモを残していたので、今後のロングライドのために。

  • 鞄は重い。荷物は送るべき。
  • 足が相当つった。寒さ?ニーウォーマーのしめつけ?
  • 冬のツーリングは100kmまで。
  • 登りで足を失う。
  • 苦手なのは向かい風。
  • とにかく足がつったことがいちばんつらい。
  • サドルのセッティング。しめつけトルクは重要。
  • ガーミンの案内には慣れた。
  • シューズカバーは気休め。グローブは相変わらず強力。デフィート最強。
  • 補給食はあまり早く食べてはいけない。
  • 軽いギアだと空回り気味になり、そこから一段あげると重い。確かにスプロケがほしくなる。
  • フォームがだいぶ崩れている。特に背中。それから踵が下がる。
  • コンビニがどこにでもあると思ってはいけない。100kmのときはルートプランは慎重に。

春先に、必ず日本海到達ロングライド、リベンジ果たします!

『いま、働くということ』/橘木俊詔 #jbnsgt3k

4623061094 いま、働くということ
橘木 俊詔
ミネルヴァ書房  2011-09-01

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先日、『日本人はどのように仕事をしてきたか』を読んだのですが、あちらが日本人の仕事の歴史を、戦中あたりから、主に経営における人事管理の視線を中心にまとまっていたのに対して、本著は正に「いま」、現代の仕事の捉え方・意義・価値観といったものを、古今東西の哲学、あるいは仕事に対置させうる「余暇」や「無職」の分析によってより深く理解する本です。この2冊を併せて読んだのはちょうど良かったと思います。どちらも非常に簡明な文章で、仕事を考えるための基礎知識を纏めて把握するのに役立ちます。

印象に残ったこと、考える課題となったことを3点:

  • 「仏教的労働観」の「知識」の説明に感動。「知識」は「情報」ではないのだ。ソーシャルとかコラボレーションとかコワークとかなんだかんだいろいろな新しくて手垢のついていない呼び名で、その自分たちの活動の理想性を表して、他の何かと線を引こうと躍起になっている様をしょっちゅう目にするけれど、僕は今後、「知識」という言葉を自分の行動に活用していこうと思う。
  • 日本人はどのように仕事をしてきたか』でも学んだことで、「勤労」の価値観というのは、その時代の経済のカタチ(日本で言えば高度経済成長)に最も効果のある価値観だから、是とされただけで、普遍的根源的な価値がある訳ではない。資本主義の発展のために、キリスト教が有効に作用した歴史を認識する。同じように、今の日本では「やりたいことをやる」のがいちばんという価値観が広がりつつあるが、この価値観はどんな経済のカタチにとって都合がいいから広がっているのかを考えてみる。
  • 僕がフェミニズムをどうにも好きになれないのは、それが問題の原因を常に「外部」に求めるスタンスだからだ。

与える元気

マニュアル・ライフのアニマル ナビゲートされてハッピー
カウンセラーのささやきはOK 

 

「言葉は時代とともに変遷するものだから、使われ方の変化にあまり目くじらを立てるのは」というのは基本的に賛成で、「ヤバい」がとても良いという意味で使われるようになる流れもわかるし、「凄まじい」の出発点「すさまじ」が今使ってるのと意味が異なっているけれどその流れもわかる。だけど、変わって行く過程でもちろん落としてしまっている意味とか意義とかニュアンスはもちろんあって、それが許容できるのとできないのがある。「ヤバい」は許容できなくないけど、言葉の使われ方で今まで最も許容できなかったのはこれ:

大変お求めやすい価格となっております

なんでこれを聞いた客の立場の人が、誰も腹を立てないの?「お求めやすい」って、売り手が言うのって失礼だと思わない?「お求めやすい」だよ。「こんなけ値下げしたら、手持ちの少ないあなた方でも買えるでしょ」って言ってるのと同じ言い回しなんだよ。ここは「お求め頂きやすい価格となっております」と、「頂く」を入れて然るべきだと思う。

ところが最近、この用法以上に、気に入らない用法の言い回しを頻繁に聴くようになった:

皆さんに元気を与えられるように、精一杯頑張りたいと思います

元気を「与えられる」?何様だオマエ?立場が反対なら、「与える」という言葉を使っていいと思う。「元気を与えられました」のように。でも、自分が誰かの何かに貢献することを、貢献したいという気持ちがあるからと言って、「与えられる」と直裁に言うのはどうにも神経が行き届いてない感じがする。自分が「する」ことを、自分が「する」とそのまま言ってしまうところに、無神経さを感じるし、「与える」というのはどう考えても上から目線。普通に、「皆さんに元気になって頂けるように頑張ります」でいいじゃないか。なんで「与える」「与えられる」なんて、モノのやり取りみたいな言い回しが普通になってしまったんだ?これ、主と客は、自分と誰かの関係では実はイーブンではない、ひっくり返したらそのままひっくり返る訳じゃないんだよ、という、人間関係の基本が判ってない人が増えたからのような気がする。悪しき対等主義。

『これ、いなかからのお裾分けです。』/福田安武

僕は生粋のど田舎育ちなので、「いなか」を持ち上げる言葉とか話とかがどうも好きになれません。「田舎暮らし」とか、一生田舎で暮らすなんて子どもは絶対嫌がるよ。せめてときどき都会に出れる環境だから、田舎暮らしもいいかな、なんて言えるんだよ。自分の子どもの頃の感覚からそう思ってるんだけど、日本には僕が住んでたような、電車で1時間半で都会に出ようと思えば出れるような環境じゃない田舎もたくさんあって、そういう地域の子ども達は、都会に出たいとより強く思うのかそうじゃないのか、もちろん個人によりけりだろうけど、そういうことを思う。
この『これ、いなかからのお裾分けです。』の著者は、生半可な田舎ファンじゃなくて、田舎に生まれ育ち田舎を心から愛している「田舎人」なので、その生き方にただただ感服してしまう。僕は田舎で育ったとは言え、引っ越してきたサラリーマン家庭なので、農業を体験する訳でもなく、著者のようなディープな田舎知識は身についてなくて、同じ田舎で生きてもこうも差のつくものなのかと、引いては日々の過ごし方が大きな差になるんだよなと、当たり前のことを改めて反省したり。そして著者が、漁師に憧れたり、漁師になるために大学を選んだり、そこで漁業の現実を知り将来に迷ったりする姿は、真摯過ぎて圧倒。ここまで筋を通して生きていくことはなかなかできない。田舎暮らしのディティールよりも、その筋の通し方に、誰しも感じるところの多い本だと思います。

田舎で暮らしていくことは、都会で暮らしていくことに較べて、金銭的な豊かさはたいてい劣ることを覚悟しないといけない。「心から喜んでくれる人がいるから、お金儲けにならなくてもいいんだと言うおじいさん」の話が登場するが、これはとても象徴的だと思う、というのは、お金儲けにならなくても暮らしていける要求水準の「おじいさん」ならそういうスタンスで(理想の)生活をやっていけるかも知れないけど、これからいろいろな人生のイベントのある著者が、そういうスタンスで続けていけるのかどうか、そこを指し示すことこそが、現在ではこういう本には必要なことかな、と思う。「はじめてみよう」と誘い出す本はあまた溢れていて、そういうことを言う役割は、もう本では終わったのかな、と。

4862020372 これ、いなかからのお裾分けです。
福田安武
南の風社  2010-07-07

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外資系に勤めているということ #jbnsgt3k

僕はいわゆる外資系というところに勤めていて、「日本の国力が凋落傾向」とか「日本経済を復活させるためには」とかいう言説を見るたび、何とも言えず難しいことを言われている気持ちになります。今やもう20年も前のバブルの頃を知る僕たちの世代には、外資系というと給料が高くて(であるが故に女性にもモテて、だから)憧れ、みたいなイメージがあるけれど、外資系が人気がある国というのはつまり、その国自体は程度低いってことだよ判ってる?と外資系に盲目的な人全員に聞いて回りたい気になったりする。そういうこという人が、片や「TPP反対!」みたいなこと声高に叫んだりして絶句する。

価格は誰が決めるのか。円高傾向が続いているのに輸入品の価格が一向に下がらなくて、それでその会社の日本法人を非難したりしてるのを時々目にするけれど、何言ってんの?って思う。商品をいくらで売るのかは、売り手が勝手に決めるのだ。そうでなきゃ、自由経済なんて成り立たないでしょう。「円高だから、その分価格下げろ」なんて平気な顔して言う人の気が知れない。もちろん、公共サービス的なものは(特に日本では)別だと思う。電力料金なんかは下げるべきだ。統制価格なんだから。けれど、民営企業の価格をどうするのかは、その会社の裁量だ。円高だから価格下げろなんて平気な顔して言う人は、じゃあ自分とこの製品の原料価格が下がったとか、交渉の結果下請け会社への支払いを削減できたとか、資材調達のコストが減少したりとかしたら、即刻製品価格に反映してるの?しないでしょう。「粗利率改善」とか、そういう方向に動くでしょう。なんでここ最近、誰もが自分の中にある「売り手」と「買い手」を分離させ、そんでもって平気な顔してモノ言うんでしょう。これが僕にはほんとに分からない。

僕が携わる日本のIT業界は、その黎明期から国策との関わりが深く、今でも国産企業と外資系の苛烈な戦いがあり、(僕らの目から見て)国産企業のその「体力」はどこから来るのか、と理解できないことも儘あります。どこかの部門の利益でもって、ほとんど利益の上がらないような業務や事業を支えたりして、そういうことの積み重ねによって、僕たち外資系の入り込めないような諸条件を予め造り出している。でもこれは、企業としては戦略として正当なことだと思うから、同じことができない自社の仕組みを恨めしくは思うけれど、悪しざまに非難したりはしない。ただ、僕たち「外資系」が、国産企業を打ち負かしていけばいくほど、日本の「国力」というのは、落ちていっているんだろうなあと思う。僕たち「外資系」が好業績を上げるためには、日本経済は反映してもらってないと困る。というのと同じ理屈で、やっぱり日本企業は、諸外国で稼ぐ道をもっと考えないといけないのではないか、とも思う。

『日本人はどのように仕事をしてきたか』/海老原嗣生・荻野進介 #jbnsgt3k

1月の3連休に、”「自分の仕事」を考える3日間”に参加して以来、「仕事」「働く」ということが常に頭の中にあった1年。その1年の締めくくりに、”日本における「仕事」の歴史”を学んでおこうと思い、本著を手に取りました。

僕はこと仕事に関する話に限らず、「今、アメリカで起きているのは…」「今、ヨーロッパで主流なのは…」という言説がとても嫌いで、また、「これは日本人特有の…」「これが日本独特の…」という言説も常に疑ってかかる。前者は、もちろん同時代で先進的な国の同行は常に学ばなければならないものの、この言葉が述べられるときのスタンスが多くが盲目的で安易であることと、先行者を追いかけるというやり方はいつまで経っても自らが先行者にはなれないことを認めてしまってるから。後者は、本当に日本独自のことなのかどうなのかという客観的な見極めがないのもあるし、「なぜ、それは日本では成り立つのに、諸外国では成り立たないのか?」ということを考えもしないから。

本著は戦中~戦後から2000年までの約70年の、日本人の仕事の仕方を、雇用・労働・企業人事の観点で整理しています。構成は、「働き方」「企業のマネジメント」に大きな影響を与えた13冊を紹介し、その著者との往復書簡形式になっています。2010年の今、その著作の内容を振り返っている書簡もあり、単なる「言いっぱなし」ではないおもしろさがあります。例えば『新しい労働社会』の濱口桂一郎氏と、「ワーキング・プア問題」における非正規社員の捉え方と解決策について、2009年に著した内容を照らしながら意見交換されています。

自分の理解のために大雑把にKWを整理すると:

■戦中…差別的・大格差の社内階級が存在(この時点で、「家族的経営」が日本の風土から来るものという通説が覆る) 
■戦後動乱期…労使協調→「終身雇用・年功序列」
■高度経済成長期…職務給への対抗→能力主義の誕生・職能制度
■第一次オイルショック後(80年代)…職能の熟練・人本主義
・ブルーカラー中心の産業構造=猛烈な経営効率化・生産拡大が国際競争力に繋がる時代
p97「日本の人件費は先進国の中では圧倒的に安い部類」「もっと人件費の安い途上国といえば、こちらはまだ教育水準・技術力が低いため競争相手にはならず、さらに、社会主義国は冷戦最中で、こちらも国際競争には参加してこられない。」「日本が、まだまだ国際的に優位に立てて当たり前」
■プラザ合意後(85年~)…無策だった時期
■1990年代前半…p152「95年には、50代前半の会社員の年収が20代前半の若年社員の2・88倍」また弥縫策しか手を打たない時代
・終身雇用・年功賃金は高度経済成長期に最適なシステムであっただけ
・集団的・暗黙的な技術・知識より、個人単位の創造的能力
■1990年代後半…下方硬直では経営ができない時代/職能←→コンピテンシー
・就職氷河期
・1971年ハーバード大学マクレランド教授「コンピテンシー」
■2000年以降…「人で給与が決まる」をより透明で客観的に/非対人折衝業務の極端な現象(製造・建設・農業・自営業) 定年破壊、雇用改革

本筋から離れたところで、興味を掻き立てられたポイントが2つ:

p110「世の中の声を聞き、現場の生の資料を集め、公的データと見比べているときに、もう「話の筋」が見えてくるものなのだ」

この後、「筋が見えない人は、高等数学を使って「答え」をなんとか作り出す」と続く。この、「筋」と「高等(数学)」の部分、来年いよいよメインストリームに現れるだろう「ビッグデータ」への懸念に近い。今のところは、解析したい「筋」を持つ人によって、ビッグデータ処理が使われているものの、明確な「筋」を持たずに「なんとなく凄い」ということでビッグデータ処理を手にする人たちが増えだしたとき、かつてのDWHのときのような大混乱が起きるのではないか。そして本当に問題なのは、売る側としては「なんとなくすごい」もののほうが、売れてしまうことである。

p191「西洋人は「情報処理機構としての組織」という組織間を信じて疑わないそうですから。組織で行われるのはもっぱら情報処理にとどまり、知識の創造という考え方がないのです。その伝でいけば、個人はいつでも取り換えの利く、機械の部品に過ぎない」

革新的で創造的なITは、多くが西洋から今のところやってくる。それは位相の違う問題だととりあえず納得しておいて、ソーシャルメディアの流行に併せて日本世間に増えつつある、情報を交換を増やすことで、某かの成果があがるような、コラボレーションやソーシャルやコワークと言われるものがどの程度のものであるのか、よく考えてみたい。そもそも、特にアメリカでソーシャルメディアが勃興したのには社会的な理由がある。「ネットワーク」という考え方も、心の満足度ということを考えたとき、今のままでいいのか。編集の思想、エクリチュール、そういうこともひっくるめてよく考えてみる必要がある。

412150402X 日本人はどのように仕事をしてきたか (中公新書ラクレ)
海老原 嗣生/荻野 進介 
中央公論新社  2011-11-09

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