please don't say
It's too late
このどうしようもない憂鬱が過去へのベクトルから来るものだというのなら
今度という今度は行けるところまで浴びてやる
In this town,
People don't care for thier neighbors
please don't say
It's too late
このどうしようもない憂鬱が過去へのベクトルから来るものだというのなら
今度という今度は行けるところまで浴びてやる
In this town,
People don't care for thier neighbors
昔のことだけ輝いてる そんなクラい毎日は過ごしたくない
十代の終わり、ある時点から、「死ぬ一秒前の自分」が突然いまの自分の前に思い浮かべられるようになって、それがやってきたときは悲鳴をあげるくらい怖くなる。
それがやってくるのは寝入りばなが多い。もしくは眠いのを堪えているとき。どうやら睡眠と深く深く関わっている。今、こうやって「死ぬ一秒前の自分」を思い浮かべても恐怖はやってこない。
今まではその恐怖は、「死ぬ一秒前の自分」という、「未来」に向けてのものだったのが、先日、遂に、「過去」に向けて感じてしまった。
眠気を堪えていたとき、大学生の頃を思い浮かべて、「あれからもう20年も経ってしまったのだ」という恐怖。
この恐怖の大事にする方法を、未だ僕は知らないけれど、大事にしなければいけないことは判っている。
淋しそうに太陽が沈んでも
君は今もきっと笑っている
できたら、「暇と退屈の経済学」が欲しかったな。
新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう?
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?
僕は、歴史は終わらないと思う。それは、一日中暇になるような世界は、経済が許さないから。本著も、マルクスが語ったのは「労働日の短縮」であって「無くすことではない」と言っているけれど、経済は、今までのやり方をより短時間で、より簡単に、より効率的にできるようにして「余暇」を産み出す方向に動きながら、その一方で、その動きは新しい「余暇の削減」を生み出している。本著に沿って言うと、より短時間で、より簡単に、より効率的に、という動きは「習慣」の獲得で、新しい「余暇の削減」という動きは、「退屈の第三形態と第一形態のセット」ということになると思う。より具体的な例で言うと、情報通信技術は正にそれだと思う。情報通信技術の発達で、生産も、ニュースの伝達も、医療も、ありとあらゆるものが、より「習慣」化されていっているけれど、人々は「携帯」により時間を注ぎ込んでしまい、「余暇」は削減されていっている。本来なら、モノを考えるべき「余暇」は、ソーシャルと言われる、双六よりもあっけない携帯ゲームの中に「消費」されてしまう。
だから、歴史は終わらない。世界は終わらない。最適な「余暇」の比率なんて、誰にもわからない。
僕が「できたら”暇と退屈の経済学”が欲しかった」と思ったのは、本著はカバー裏表紙にも書かれているように、ウィリアム・モリスを引合いに出し、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」という問題意識で貫かれているんだけど、現在の世間の不安感というのは、「パンだけを求めねばならない世界に、戻ってしまうんじゃないの?」という不安感のウェートが高まってきてるんじゃないかと思うから。
「生きることはバラで飾られねばならない」という姿勢は、「革命が起こってしまったらその後どうしよう」とウィリアム・モリスが考えたのと同じように、「ある程度、パンには困らない世界が出来上がっていて、なおかつ、そのパンを得るために四六時中、仕事をしなくてもよい」世界に住んでいるから、考える意味のある命題だと思う。実際、現代日本で起きていた空虚感とか、素人目には病理としか思えないような精神的な出来事の数々は、高度経済成長期を経て、「余暇」を持てるようになった日本社会が、「暇と退屈」について考え抜くことをしてこなかった結果だと僕は思ってる。「余暇」が出来たのに、そこにも更に「働け、働け」とやっていけば破綻するのは目に見えているし、「余暇」を「退屈の第二形式」で過ごすことの意味を捉えようとしていなかったからだと思う。でも、今の経済状況は、「後戻りするのかも知れない」という不安が中心にあると思う。「今は、そこそこパンには困らないけれど、明日、急にリストラにあって、退屈の第三形式を経ずに、退屈の第一形式に叩き落されてしまうかもしれない」という不安。そういう不安が広がる中では、この『暇と退屈の倫理学』は、少し上滑りに感じてしまう。「やっぱり、思想では食えないよね」というような。
もちろん、そういう循環の構造もまた、『暇と退屈の倫理学』では考慮されているし、かつ、そこにウェートを置くのは本筋ではないというのは判ってます。でも、どうしても、本著の進み方というのは、「右方上がりの経済」的な、「経済は進化する」前提で成り立っているようで、そこが、現在起きている不安を少し取りこみきれないのかな、と思う。
なので、結論章で、「本著を通読することで、読者であるあなたが何を考えたか大事なのだ」という訴えには何も反論するところがなく、現代が「安易に結論を手に入れたがる」社会であるのは、「考える」という重労働、つまり「不法侵入」に耐えかねてすぐに「習慣」に逃げ込もうとするからだ、ということになるんだけど、それでも少し食い足りない気持ちは残った。余暇が生まれることで、考えることができる、考えてばかりではなく、「退屈の第一形式→第三形式」と「退屈の第二形式」が入り混じり、考えつくされたことについては「習慣」となり、考えることだらけになる訳ではないのが「生」、なんだけど、その「考える」ための時間である「暇」は、現在がもしかしたら最大で、縮小していくのかも知れない。
もう一点、「贅沢」に関して、「浪費」と「消費」の違いを説明する際、「物を受け取る」と、「物」という単語を使っているところが、若干、判りにくかったかな。僕は、ここでいうのは、明らかに、実体を伴う「物質」ではないと思っているんだけど、実は、実体を伴う「物質」を受け取れることだけが「浪費」だと、著者は言ってるんだろうか?
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暇と退屈の倫理学 國分 功一郎 朝日出版社 2011-10-18by G-Tools |
”「自分の仕事」を考える3日間”から始まり、ずっと「仕事」を考え、『わたしのはたらき』を読み、年末に『日本人はどのように仕事をしてきたか』『いま、働くということ』を読んで、「働かなければ食べていけない、これは動かしがたいしどれだけ豊かになっても気を抜けば困窮するのが資本主義経済、けれど青天井だからどこかで転落が発生してバランスを取っているのが資本主義経済としたら、考えないといけないのはやはり「余暇」の在り方だ」と思い至り、それはそうと本屋の初売りにでも行こうっとと、ジュンク堂って今日から開いてたっけ??とジュンク堂HP見てみたら、でかでかと「店長の一押し!」の文字と共に「ヒマか!?」の文字!!
読みます!!
ハイテク進み、心の豊かさ遅れるわが国の
如何ともし難いところ なんてどうでもいいか
いやいやよくないな
あけましておめでとうございます。
目下ご覧頂けていた確実な実績1名様というブログですが、今年も飽きずに続けます。
よろしくお願い申し上げます。抱負なんて、書きません。
強いて言えば、今年は「書く」に拘ろう。
おいしい匂いに敏感なのは才能だけど
節操ないのは 厚化粧よりぜんぜんいやだ
20年近く前に、もうこんなこと言ってたんだなーB'z。凄いなやっぱ。
20年経った今も、なんも変わってなさそうですよ、心の豊かさ。
新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう?
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?
根性無くても、言えるんだよ。
OUT OF CONTROL 思うようにはいかないよね
DON'T YOU LOVE ME? これが住み慣れた街だ
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RUN KOHSHI INABA B’z BMGルームス 1992-10-28by G-Tools |
2011年今年最後のエントリーは、長居したitohenで買った記念の一冊、『あたまの底のさびしい歌』。
うまいことを考えることは広告詐欺師へ任せる。
自分の死後、手紙というものが公にされるのって、どんな気持ちなんだろうか?と少し胸が苦しくなる。自分だったら相当厭なことだなあと思うけれど、本著は敬愛する宮沢賢治の、作品から知る人物像ではない、作品を作らんとする人間である宮沢賢治を知れて、作家とは作品だけで向き合うのがよいのか、作家という人間全体を知ろうと様々な資料に当たるほうがよいのか、考えは巡る。けれどとにかく、この本を手にしたことは最高によいアクションだったと思う。
幾つかの手紙で、賢治は相反する概念を並列にする。「恋してもよいかも知れない。また悪いかもしれない。」「だまって殺されるなり生きているなりしよう。」「すべては善にあらず悪にあらず」等々。こういう賢治の言い回しでわかるのは、世の中のどんなことも一義的ではないと肝に銘じる賢治の意志の強さ。どう考えたってそれは善いことでしょう(または悪いことでしょう)という行為でも、それは悪いことだ(もしくは正義だ)と訴える、それも自分にとっての都合・利得で言うのではなくそう信じて訴える人がいて然るべきなのだということを、賢治は強く肝に銘じようと努めていたのだと思う。もしくは、善とか悪とかを決めるのは、自分でもなければ誰か別の人でもない。そういう価値判断は、人間が下すべきものではない、と。
そうやって、諸々様々の視点が入り乱れることを賢治は許容し、その結果当然に混濁させてしまうことになる世界の中で、「しっかりやりましょう。」とただひたすらに繰り返す手紙を賢治は書く。この「しっかりやりましょう」の反復に、僕は胸を打たれる。すべてを認めてしまったら、後は「しっかりやりましょう」とお互いに声を掛け合うのみなのだ。
私共の心としては
「真理」よりも
「真理を得了った地位」を求め
「正義」よりも
「正義らしく万人に見えるもの」を索ねている事が度々あります。
見掛けは似て居ますがこれこそ大変な相違です。
賢治が生きた時代は日本にも資本主義が定着していく明治後半~昭和初期なので、どれだけ賢治が崇高な理念を持っていてそれを語れたとしても、勤労に励むことが社会の通念に沿っている時代で、賢治自身も「働いていない自分、こんなんじゃダメだ」と苦悩したことが、手紙の端々から読み取れる。最近、仕事に関する書籍を二冊読み、その歴史、経済の仕組に応じたことが倫理観となって普及させられていくことを学んだところなので、その重さを痛感する。作家の側面を知るということの意義は、こういうことなのだと思う。
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あたまの底のさびしい歌 宮沢 賢治 川原 真由美 港の人 2005-12-01by G-Tools |
書いたつもりになってました。今月の初め、12/3に綾部までツーリングしてきました!
ほんとうは日本海側まで走り切って、一泊して翌日電車輪行で帰ってくる、というつもりだったのです。距離にして200km。朝5:00に出発して、ルートラボで調べたアップダウン具合と自分の足と経験から、夜18:00に着けたらいいところだろう、と考えて。
ところが当日は小雨が降る極寒のコンディション、いろいろ見込み違い準備不足が祟り、途中で目標をとりあえず100km地点の綾部に変更、12:30過ぎに到着してギブアップ。その時のメモを残していたので、今後のロングライドのために。
春先に、必ず日本海到達ロングライド、リベンジ果たします!
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いま、働くということ 橘木 俊詔 ミネルヴァ書房 2011-09-01 by G-Tools |
先日、『日本人はどのように仕事をしてきたか』を読んだのですが、あちらが日本人の仕事の歴史を、戦中あたりから、主に経営における人事管理の視線を中心にまとまっていたのに対して、本著は正に「いま」、現代の仕事の捉え方・意義・価値観といったものを、古今東西の哲学、あるいは仕事に対置させうる「余暇」や「無職」の分析によってより深く理解する本です。この2冊を併せて読んだのはちょうど良かったと思います。どちらも非常に簡明な文章で、仕事を考えるための基礎知識を纏めて把握するのに役立ちます。
印象に残ったこと、考える課題となったことを3点:
マニュアル・ライフのアニマル ナビゲートされてハッピー
カウンセラーのささやきはOK
「言葉は時代とともに変遷するものだから、使われ方の変化にあまり目くじらを立てるのは」というのは基本的に賛成で、「ヤバい」がとても良いという意味で使われるようになる流れもわかるし、「凄まじい」の出発点「すさまじ」が今使ってるのと意味が異なっているけれどその流れもわかる。だけど、変わって行く過程でもちろん落としてしまっている意味とか意義とかニュアンスはもちろんあって、それが許容できるのとできないのがある。「ヤバい」は許容できなくないけど、言葉の使われ方で今まで最も許容できなかったのはこれ:
大変お求めやすい価格となっております
なんでこれを聞いた客の立場の人が、誰も腹を立てないの?「お求めやすい」って、売り手が言うのって失礼だと思わない?「お求めやすい」だよ。「こんなけ値下げしたら、手持ちの少ないあなた方でも買えるでしょ」って言ってるのと同じ言い回しなんだよ。ここは「お求め頂きやすい価格となっております」と、「頂く」を入れて然るべきだと思う。
ところが最近、この用法以上に、気に入らない用法の言い回しを頻繁に聴くようになった:
皆さんに元気を与えられるように、精一杯頑張りたいと思います
元気を「与えられる」?何様だオマエ?立場が反対なら、「与える」という言葉を使っていいと思う。「元気を与えられました」のように。でも、自分が誰かの何かに貢献することを、貢献したいという気持ちがあるからと言って、「与えられる」と直裁に言うのはどうにも神経が行き届いてない感じがする。自分が「する」ことを、自分が「する」とそのまま言ってしまうところに、無神経さを感じるし、「与える」というのはどう考えても上から目線。普通に、「皆さんに元気になって頂けるように頑張ります」でいいじゃないか。なんで「与える」「与えられる」なんて、モノのやり取りみたいな言い回しが普通になってしまったんだ?これ、主と客は、自分と誰かの関係では実はイーブンではない、ひっくり返したらそのままひっくり返る訳じゃないんだよ、という、人間関係の基本が判ってない人が増えたからのような気がする。悪しき対等主義。
僕は生粋のど田舎育ちなので、「いなか」を持ち上げる言葉とか話とかがどうも好きになれません。「田舎暮らし」とか、一生田舎で暮らすなんて子どもは絶対嫌がるよ。せめてときどき都会に出れる環境だから、田舎暮らしもいいかな、なんて言えるんだよ。自分の子どもの頃の感覚からそう思ってるんだけど、日本には僕が住んでたような、電車で1時間半で都会に出ようと思えば出れるような環境じゃない田舎もたくさんあって、そういう地域の子ども達は、都会に出たいとより強く思うのかそうじゃないのか、もちろん個人によりけりだろうけど、そういうことを思う。
この『これ、いなかからのお裾分けです。』の著者は、生半可な田舎ファンじゃなくて、田舎に生まれ育ち田舎を心から愛している「田舎人」なので、その生き方にただただ感服してしまう。僕は田舎で育ったとは言え、引っ越してきたサラリーマン家庭なので、農業を体験する訳でもなく、著者のようなディープな田舎知識は身についてなくて、同じ田舎で生きてもこうも差のつくものなのかと、引いては日々の過ごし方が大きな差になるんだよなと、当たり前のことを改めて反省したり。そして著者が、漁師に憧れたり、漁師になるために大学を選んだり、そこで漁業の現実を知り将来に迷ったりする姿は、真摯過ぎて圧倒。ここまで筋を通して生きていくことはなかなかできない。田舎暮らしのディティールよりも、その筋の通し方に、誰しも感じるところの多い本だと思います。
田舎で暮らしていくことは、都会で暮らしていくことに較べて、金銭的な豊かさはたいてい劣ることを覚悟しないといけない。「心から喜んでくれる人がいるから、お金儲けにならなくてもいいんだと言うおじいさん」の話が登場するが、これはとても象徴的だと思う、というのは、お金儲けにならなくても暮らしていける要求水準の「おじいさん」ならそういうスタンスで(理想の)生活をやっていけるかも知れないけど、これからいろいろな人生のイベントのある著者が、そういうスタンスで続けていけるのかどうか、そこを指し示すことこそが、現在ではこういう本には必要なことかな、と思う。「はじめてみよう」と誘い出す本はあまた溢れていて、そういうことを言う役割は、もう本では終わったのかな、と。
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これ、いなかからのお裾分けです。 福田安武 南の風社 2010-07-07by G-Tools |