僕は大阪府民でも大阪市民でもないので明日のダブル選に直接は関係ないのだけど、働いている主戦場が大阪なので、もちろん強い関心があります。ダブル選が確定して以来、大阪市長は橋下氏がよいのか平松氏がよいのか考えても考えても長い間自分の結論が形作れなかったのだけど、やっと結論が出せました。
僕は、橋下氏が市長に選ばれるのが良いと思う。
その理由はこう:
まず、その主張や行動で賛成か反対かを論じやすい候補は橋下氏。
- 大阪都構想。
- 大阪市職員の給与削減等の財政再建策。
- 「独裁」。
大阪都構想は、僕にはどうも「帝国主義」のように映る。大阪府知事としてやってきて、どうにもお金が足りないから大阪市を取り込もう。そういう発想の行動に映る。なので、この時点では橋下市長はいかがなものか、と思っていた。
けれど、それを受けた平松氏の対応も頂けなかった。橋下氏が大阪都構想を提唱するに至ったスタンスはともかくとして、大阪都構想のような変革を真剣に検討しなければいけないくらい、大阪の地盤沈下は著しいし、確かに大阪市職員の待遇が問題になったこともある。なのに、平松氏はその問題には表だっては触れなかった。なぜ、「大阪市」が「大阪市」のままでいいのか、その理由を語った場面はほとんどなかった。「だって昔から大阪市やんか」くらいのことしか言ってない。要は、「みんな仲良くやりましょうや。そんでええやんか。」ということだ。
これがやっぱり曲者だ、と思ったのです。
確かに、橋下氏のラジカルなやり口は、問題点も多々あると思う。教育施策に関するスタンスなどは首を傾げる部分もあるし、職員給与削減についても、大阪市職員ではない一般市民からすれば溜飲を下げるようなところもあるだろうけど、それが誰も幸せにしないことは薄々判っている。給与削減で財政に余裕ができても、そのお金で大阪市の景気回復に有効な手立てが打てるとは限らないし、収入が減少した人数が多ければ多いほど、短期的には消費が落ち込むのだ。だから、特定の誰かを狙い撃ちするような政策に、どんなにカタルシスを覚えても、安易にそれに乗っかることは、ゆくゆくは自らの首を絞める、そのことを僕たちは近年学んだところだった:
小泉政権時代だ。
小泉氏と橋下氏はよく似ていると思う。そのアメリカ的な競争至上主義的発想、「公」を敵とする手法、そして「独裁」。小泉氏の政治の成果は賛否両論がもちろんあるけれど、「公」を敵にしても競争を煽っても、国民万人が遍く好景気を感受できる社会は構築できないということを経験した。
そして、橋下氏が市長に選ばれることに警戒感や否定の意志はほとんどが、その「独裁」を徹底的に批判する。こういう状況では、強いリーダーシップを持っているように見える誰かを選ぶ傾向がある、でもそれは独裁政治への道を開く、まるでいつか来た道ではないか、あの太平洋戦争への道を開いたときのように。だからこの選挙で、日本に独裁政治の先例を作ってはいけいない。
この論点に随分悩んだ。確かにその通りなのだ。確かにその通りなんだけど、遂に僕はこの論点に肯んずることができなかった。
それは、「この論点を持ちだすのは、ほとんどが60歳を過ぎた高齢者ばかり。しかも、戦争を体験などしていない世代ばかり」だからだ。
彼らには結局、それほど時間が残っていない。だから、とにかく自分達が死ぬまでの間は、このままにしておいてもらうのが彼らの利益にいちばん叶ってるのだ。だから、変化を好まない。「ええやんかこのままで。なんで変えなあかんのん。」これに乗っかって適当にアメなめさせられて、その裏でもっとでっかいアメなめてるヤツらがいて、ずるずるやってきてにっちもさっちもいかなくなりつつあるのが今の大阪だ。
例えば年金。マクロ経済スライドの厳格適用を、高齢者側から求める声というのは終ぞ聞いたことがない。聞こえてくるのは「ただでさえ少ない年金やのに、これ以上減らされたてたまるかい」という、いかにもさもしい声だ。しかし、ルールはルールだし、このままでは団塊ジュニア世代が年金受給世代になる頃には年金財政が破綻することは数字上明確になっている。それでも実行に移さないのは、第一には選挙になると年金受給世代のほうが意見が統一する上に投票率も高いから、第二には高齢者がマクロ経済スライドの厳格適用を自ら求めるほどに「成熟」していなからだ。
僕たちは「お年寄り」の幻想に惑わされてきた。僕たちが持っている「お年寄り」のイメージは、もう20年も30年も前のもので、その当時の「お年寄り」は尊敬すべき対象だった。年を多く取っている分だけの知見があり、精神性があった。今の「お年寄り」は違うのだ。これだけ、国家的な財政危機が叫ばれていても、ルールとして決まっているはずのマクロ経済スライドをいっとき無効化し、それをずるずる引っ張り、そしてツアーでやれ九州新幹線だ韓国だと旅行に出かけるような、そんな「非成熟」の人間の集団なのだ。
とてもじゃないが、「みんな仲良くなったらよろしいですやん」で、何かが改善されることは望めない。なぜなら、そう言ってる連中は、残り時間が限られていて、「自分が死ぬまで持ってくれたらそんでええ」というのが根底にあるからだ。お年寄りというのは、長年培ってきた経験と知恵で、ここぞというときにここぞという貢献を社会にしてくれるものだというのがある。例えばそれを、この不況下で具体策として出すならば:
- 引退高齢者の低給与での再雇用。年棒200万前後で勤務。
こういうことを言いだすのなら、僕は「高齢者」の意見に耳を傾けてもいいと思う。スキル・ノウハウとして高度な能力を持った「戦力」を、安価で企業は導入できるのだ。大きな経済効果が見込める。しかし、そんな声は聞いたことがない。「オレはこんなけやれる。若いもんには負けへん。なんで安い給料で働かなあかんねん。」そんな声しか聞こえない。社会に貢献しようなんて気はさらさらない。
読売巨人軍の例を引き合いに出すまでもなく、老害というのはかくも解消し辛いものなのだ。「独裁には注意せよ」という金科玉条を振りかざされても、どちらかというとその振りかざしのほうこそ警戒しなければいけないということに気が付いた。結局、この問題に関しては、日本ではエボリューションは望めない。レボリューションしかないのだ。もう、随分僕たちは待ってみたと思う。高齢者が高齢者らしく成熟するのを。そして、無理だったのだ。
それに、もし橋下氏の市長に何か問題があるとすれば、国政とは違い、よりリコールしやすいのが地方政治なのだ。もしそこに独裁が見えたとしても、何を恐れる必要があるというのだ?却って「国政にもこのような民意反映制度を」というトライアルにすらなるかもしれない。
ひとつ、小泉政治のときと違うこと。あのとき僕たちは、その「既得権益者」と戦うことを、自分達ではなく、別の世代-正にその既得権益者と重なる世代のひとり-に託した。今回は違う。橋下氏は僕たちと同世代であり、もう僕たち自身でやるしかないのだという覚悟を持ったのだ。