「富本憲吉記念館」に行ってきました #jbnsgt3k

10/2に「模様より模様を造るべからず」というエントリを書いて以来、行きたい行きたいと思っていた安堵町の富本憲吉記念館に行ってきました。

僕は陶芸には何の造形もなく知識もなく、ではなぜ富本憲吉に興味を持ったのかと言うと:

  • 第一回の人間国宝認定者であるほどの作陶家であるにも関わらず、大量生産の道を研究していったのはなぜか。そしてその歩みはどのようなものであったのか。
  • 柳宗悦の民藝運動に、参加しながら離脱したのはなぜか。

この二点なので、富本憲吉記念館に行っても場違いだろうということは想像してました。記念館は恐らく、氏の作品が生家に展示されており、館の方にいろいろ解説してもらえることが主眼なんだろうと。でも、僕は、興味を持ったことは少しでも多くの触れ方をするように心がけるようになって、車で40分前後の安堵町に出向いたのでした。トップの写真は記念館ではなくて、記念館の近くの民家の壁に掛けられていた案内なんだけどいい雰囲気出てたので。

記念館では今日、「ならの会」という奈良在住の工芸家の会の、陶芸作品の発表会が行われていて、いよいよ場違いでしたが、館の方は見学ルートを説明してくれて落ち着いて見れました。やはり、作品展示がメインで、先の2点に関する情報はほとんどありませんでしたが、旧家出身という富本憲吉(それはこの記念館の大きさを見てもわかる)が遠い存在である面と近い存在に感じれる面と、双方得たことが収穫でした。

以下箇条書き:

  • 展示でいちばん印象に残ったのは「絵具摺り」。釉薬をする道具で、工房で使うもので人に見せるものではないけれど氏はこの絵具摺りも美しく色づけしていた。「おしゃれの現れである」という解説文もかわいかった。
  • 柳宗悦展のフライヤーが山積みになっていた。
  • 建物は改築されているが、氏のお気に入りの部屋というのは当時からの現存。230年前のもの?
  • 「師を持たなかったので、己を犠牲にするようなことなく、闊達に研究に没頭した」
  • やはり名家の出身である。
  • 元手=資本

人気ナンバー1陶芸家!

『After The Apples』/吉井和哉

BGMにしてオマエを深夜のドライブに連れていくぜ!オマエじゃなくて、オマエだぜ!

・・・という声が聴こえてきそうなアルバム。

正直、そんなに期待してなかったので、CDで買うかどうか悩んだのです。初回限定盤は「Flowers & Powerlight Tour 2011」のライブ音源CD付なので、ミニアルバムなのに¥3,000もするし(笑)。いつまで経っても通常版の案内出なかったし(笑)。そうこうしてるうちに発売日当日が過ぎ、「やっぱ聴きたい」と急に思ってiTSで購入。

#1『無音dB』の、「ムオンデシベル」って言葉の響きと意味の響きとダンスチューンな音!『After The Apple』というタイトルで、『VOLT』以上に「吉井和哉」のエッセンスを詰め込みまくってた総合色の強い『The Apple』の後、『The Apple』を発売した後の、東日本大震災を経験した後、そういうものを込めてくるのかなと思ったら、さに非ず、全然「流して」聴けるアルバムでした。#5『バスツアー』なんか、もう「ザ・ダンスフロアー!」なカンジで。『バスツアー』だけど(笑)。この曲聴いたとき、「これ流して夜、高速流したら気分いいだろうなー」と。

ただ、全体を通して、なんとなく漂う違和感というのがあって。「ここじゃない、ここじゃない」とじくじくと感じてるような。#4『ダビデ』と#6『Born』はその辺とてもわかりやすいし。#3『母いすゞ』なんて、「母」を持ち出してきたところが凄いし。なんだろうなこの違和感。でも全然声高じゃないんで、とりあえず違和感抱いたまま踊っとけ今は!ということなんだろうか、これは。東日本大震災のAfterも未だうだうだ言ってるし、何も先へ進んでるようにないし、けど今は踊っとけ、踊れる元気が出たなら、ということなんだろうか、これは。


B005LUJSPC After The Apples(通常盤)
吉井和哉
EMIミュージックジャパン 2011-11-16

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デザインが教育を殺す - 『震災のためにデザインは何が可能か』

4757142196 震災のためにデザインは何が可能か
hakuhodo+design studio-L
エヌティティ出版 2009-05-29

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全体を通してまず印象に残っているのは、山崎亮氏の章:「デザインが社会のためにできること」。この章の冒頭、山崎氏は”スタルクの「あの発言」をどう捉えるか”と題して、

商業的なデザインとは、極言すれば「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」です。

次のデザインを手に入れたくなるのが心情ですが、新しいデザインが登場するたびに商品を買い換え続けるわけにもいきません。結局、幸せは期間限定でしかなかったということになります。

と書いているにも関わらず、それを受ける次節以降は、その「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」という問題に対する解は何も書かれない。書かれずに、「デザイナー」の生き方についての指南が書かれるだけ。この本の大きなコンテキストは、デザイナーの生き方ではないはず。『震災のためにデザインは何が可能か』であって、デザイナーは社会的デザインという生き方があるよ、ということを伝える本ではないはずだ。それに、もしそれを伝えるのなら、社会的デザインに携わっても、「今日新しいものを、明日古くするための」商業的なデザインを携わるのと同じような「商業的な」成功ができる道を示すなり作るなりするべきではないかなと思う。商業的な成功を我慢して社会的デザインに携わりなさいというのでは、道を拓いたことにならないのではないか。

 ついでに繰り返して言うと、僕は、仮にそれが「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」から脱却していて、「新しい古いから解き放たれた永遠のデザイン」だとしても、その分の金額が上積みされるようであれば意味がないと思っている。どちらにしても、この現代で永遠に使い続けることなどあり得ないのだ。なのに、一生モノを一生モノの価格で販売するほうが、思想洗脳した詐欺行為に近いと思っている。

もう一つは、山崎氏の章にも

そのとき、デザインの力が有効に働きます。デザインが持つ「正しさ」や「楽しさ」や「美しさ」が、課題の共有に役立ちます。多くの人たちが共感できるデザインであることが、社会の課題を解決する力を醸成し始めるのです。

と言った文章で表現されるように、デザインが社会の課題を解決する力になることが繰り返し語られていて、これは本著の性格上当然ではあるけれど、ともすれば「デザインがなければ社会の課題を解決する力が生まれない」とまで言っているように聞こえてしまう。

本来、社会の課題を解決しようという意志は、社会に生きる中で感じ取れるものだし、感じ取れなければならないもので、それを感じ取る能力というのは、自律的で能動的で、家庭と教育によって個人に醸成されていくものだと思う。そういう「個人」が多数の社会が前提で、デザインがそれを手助けする、という思想には、どうしても聞こえないような感じがする。それは、もはや「デザインがなければ、現代人は社会の課題を解決しようという気にすらならない」と言っているようで、少し高慢な感じがするし、その姿勢というのは、教育の重要性というのを根本的に忘れてはいないか、と思ってしまう。
自分たちは十分に教育を受け、もしくは独学で学び、十分に知的でソフィスティケートされている、そういう自分達が、デザインというものを使って、やる気のない現代人にやる気を起こさせるような仕掛けをいっちょ作ってやろう、言い方は悪いが、そういう、あの僕たちが忌み嫌う「啓蒙主義」に通底するところがあるように少し感じた。 

目指すは次の世界 明日はもうここにはいない

”別れとはつらく 新しいものだろ”

今更に盛り上がるご近所が
僕をやけに冷静に導いてくれる

ただ歩いているだけでもトライなのと同じように
なんのあてもなくても飛び出してみるのも時には無謀ではない

内輪受けも内輪揉めももうたくさん
それのためになら敵も味方も必要ない

隈研吾 x 産婦人科

義姉が長女を出産したということで訪問した産婦人科が隈研吾設計でした。

最初に断っておくと、隈研吾氏がこの病院を設計するに至った経緯(いきさつ)は、病院の理事長が隈研吾氏とリレーションを持っていたから、と聞きました。

この梅田病院は光市にあるのですが、義姉は違う市に住んでいて、その市は出産に関わる標準的な費用ほぼすべての額にあたるお金を出してくれるそうです。それを先に知っていて、訪れてみたら写真のプレートを見つけて、隈研吾設計と知り驚いたのでした。驚いて、じっと考えて、考え込んでしまったのです。

出産費用をほぼ負担してくれるということは、どんな病院にかかっても費用はゼロということです。だったら、たいていの人は、この梅田病院のような病院に掛かりたいと思うんじゃないか。普通は、そういう需給ギャップを解消するために価格差が発生して、うまく住み分けがされるわけだけど、費用がゼロなら住み分けが発生しない可能性は理論上はある。逆に言うと、「隈研吾設計」というような、従来の産婦人科にはないような、一流の設計を持ちこんだ特別な、よって当然かかる入院費用等が比較して高額になるような、そういう産婦人科が成立するのは、この市のような「特別補助」が存在するところでしかあり得ないんじゃないか。なぜなら、相対的に高額な産婦人科が、一定の妊婦を抱えて継続していくことは困難に思われるから。

設計が病院経営のランニングコストに跳ね返るのかどうかは知識不足で存じ上げません。けれど、少なくともイニシャルコストは通常よりも「相対的に」高額になるとは思われる訳で、それでもそのイニシャルコストを支払おうというインセンティブは、ある程度それでも経営がやっていけるという目算がないと働かない。そして、その目算を働かせているのは、行政の「補助」。

僕はこの仮説を瞬時に頭の中で巡らせたとき、ひどくげんなりしたものでした。

そしてこの仮説はあくまで仮説で、おそらく事実とは全く異なるということを付け加えておきますが、この仮説に似たようなことが、いわゆる「こういう」働きをしている人たちの生活の結構な割合を占めているのは事実だし、その事実が「相対的に」分かりにくくされていることに、-それは見栄えが「美しい」ことがその本質であるから-苛立ちを覚えます。平たく言えば、その元手は税金だったりするのです。

ちなみに梅田病院、サインは原研哉氏。

’98 梅田病院 サイン計画 | SELECTION | 日本デザインセンター
常識をくつがえす柔らかなサイン計画

CL 梅田病院 AD・D 原 研哉 D 井上 幸恵

 

吉井和哉/寺田亨「The Apples Gallery」行ってきました

仕事の合間のわずかな時間で、大丸心斎橋店14Fで開催中の「The Apples Gallery」行ってきました。

500円でポストカード3枚ついてお得です。

会場には大スクリーンで「Flowers & PowerLight Tour 2011」の映像が流れライブ音源が流れてました。吉井の衣装が3セットとギターが展示。

寺田亨さんって静岡出身だったんだ、『Bunched Birth』、『smile』のジャケットもやってたんだ、と撮影しながら読む。受付で聞いてみたら撮影自由とのことだったんで。Little DとD.D.のイラスト群が愛らしくてよかった。邪気が全然なくて、見てると無になれそう。

写真はIKEDA MICHIさんのが、撮ってるほうが完全に吉井の色気にはまってるな~と感じれていいのが多かったです。

『After Apples』、待ち遠しいー。

第149回 佐藤 卓(2010年11月29日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

いま、『プロフェッショナル 仕事の流儀・選』で再放送観てるんだけど、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の中でも、デザイナーという仕事をしている人の言葉の中でも、最も印象に残っているのがこの佐藤卓氏の放送。何がいちばん印象に残ったかと言うと、自分がイチオシだと思っている案を、イチオシだと判らないように、他の案とイーブンでお客様に提示して、そのイチオシ案が選ばれなかったシーンが出てくること。佐藤卓氏は、そこに全くこだわらず、「お客様が選んだ案を、更にもっともっと良くしていっちゃう」と言う。そして、依頼された以上の仕事をする、という。

お客様の意思を尊重するというのはポイントで、こちら側の想いの押し付けでは、いい結果を出し続けることができない。「戦略商品だから」「会社が売れというから」はもちろん重要だが、お客様に提示するときには常にそれ以上の何かが説明できなければならない。

一方で、お客様の要望を聞いてそれに答えるだけの仕事では、それもいい結果を出し続けることができない。そのバランスを、「依頼以上の仕事を」というもうひとつの軸で、担保しているのだと思う。

『ユリイカ-特集=宮沢賢治、東北、大地と祈り』

4791702255 ユリイカ2011年7月号 特集=宮沢賢治 東北、大地と祈り
吉本 隆明 池内 紀 奈良 美智 大庭 賢哉 桑島 法子 天沢 退二郎
青土社  2011-06-27

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宮沢賢治と吉本隆明は、僕の読書体質に大きな影響をくれた二大文筆家なので、もちろん読まないわけにはいきません。

東日本大震災に遭って、吉本隆明が宮沢賢治ならどう考えただろうか、という推測が語られます。ひとつは、宮沢賢治は両眼的かつ包括的な物の見方をする。だから、津波に関しても、一面的な分析はしなかっただろう、ということ。もうひとつは、東日本大震災で日本の気候の何かが変わってしまったのではなく、ここ十数年の間にじわじわと気候変化が起きていて、その結果のひとつとして東日本大震災が発生したのだと捉え、今後はこのような気候であることを前提として、社会の仕組や建築建造などを考えていったほうがよい、という話で、このふたつが印象に残っています。

より変化に強い、というよりも突発的な破壊に強い、そういう社会や建築建造を志向するのは、最近、目にする度に収集している「メタボリズム」の思想に関連したり、ここ1、2年の間、聞こえることが増えてきているような気がする「”所有”に対する疑問」にも通じるようでおもしろい。

Siri vs グーグル - 『モバイル・コンピューティング』

Siriはグーグルの検索事業に対する「脅威」--グーグル会長

Steven Musil (CNET News) 翻訳校正: 編集部 2011/11/07 08:13

Googleの会長Eric Schmidt氏が、Appleの音声アシスタント「Siri」を同社の事業を脅かし得る「著しい開発成果」だととらえている。

こういうことを、「ちゃんと気づいてますよ」とコメントを出すところがやっぱり違うなと思う。

グーグルは前から音声検索があった。日本語でも検索できる。気恥ずかしくてあんまり使いませんが、『モバイル・コンピューティング』を読んで、モバイルというのはインターフェースの革命が本質だと教えられて、なるほどと注目してました。

ただ、グーグルモバイルのように、いつもの検索窓の横にマイクのアイコンがついて、「音声でもどうぞ」と言われても大多数の人は僕のような感じだと思うけど、これがSiriのように「あなたのプライベート秘書」という提示のされ方をすると、全然活用度が違ってくる。そして、これは紛れもなく「検索」なのだ。

『モバイル・コンピューティング』を読んだ時の感想はこんなことを書いてた。

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モバイル・コンピューティング
PHP研究所  2010-02-06

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「モバイルったって、パソコンが小さくなるだけだろう?」程度の認識しかなかったところを、インターフェースの変化・進化をたどって根本的なところを理解させてくれた良書。モバイル・プラットフォームで始まっている主導権争いの構図は概ねこれまでのIT業界で起きてきた主導権争いの構図で理解できるけど、「モバイル・コンピューティング」の本質的なところは、インターフェース抜きでは理解できないところだった。「モバイルだからキーボードをつける余裕がない」程度の話じゃなかったのだ。

モバイル・コンピューティングは、「モバイル」だから、いつでもどこでも「情報処理」ができる、もしくはそれを実現する、ということ。古くはホストコンピュータの時代は情報処理ができる場所は「ホストコンピュータの設置場所」で、それがパーソナルコンピュータとなって「パーソナルコンピュータのある場所」となり、パーソナルコンピュータがノートブックになって「ノートブックが置ける場所」になった。そして「モバイル」になると、もはや置く場所も問わなくなる。いつでも「持っている」。その代り、どうやってコンピュータに情報処理を「させるのか」というインターフェースの問題が現れる。だから、インターフェースを理解しない訳にはいかなかった。
実用的な情報処理、例えばアドレス帳管理とか写真管理とかは、処理のバリエーションはそれほど多くなく、従ってそれほど多様なサービス提供者も求められないと思う。写真管理で言うとPicasaかFlickrとあと1種類くらいが世界で提供されてば十分。それは裏を返すと、この分野での仕事に従事できる人間がそれだけ少なくて済むということで、それだけ仕事がなくなることを意味する。これまでは、ローカルマシンで処理するが故に、ローカルマシンで動作するアプリケーションを選択することになり、それだけ開発の仕事があった。iPhoneとAndroidというプラットフォーム/マーケットが新たに現れたけど、本質的にはアプリケーションの規模と寿命はどんどん短くなると思う。小規模な開発体制で開発できる環境ということは、1つのアプリケーションはそれだけ短期間しか収益を上げられないということだ。矢継ぎ早にアプリケーションを提供し続けない限り、その開発団体は事業継続できなくなる。でも、ゲーム以外にそんなにバリエーションのあるアプリケーションカテゴリがあるか?ゲームですら、出尽くした感があるというのに。
この「仕事が無くなる」漠然とした問いへの解の道は、第6章「キンドルと出版産業の未来」にかすかに提示されているように思う。

p9「HTC DreamのCPUの処理速度は初代クレイの6.5倍、メモリーの容量は実に48倍」
p12「携帯電話端末の売上は2008年に3589万台と、前年よりも29.3%減少、また2009年上期には前年同期比で14%も減少」
p20「2種類のモバイル端末向けチップ ムーアズタウン メッドフィールド」
p46「ABC(Activity Based Computing)」
p70「1984年」
p71「キャリアを中心とするモバイル産業の構図は、少なくとも、つい最近まで、日本と米国とで驚くほど似通っていた」
p78「2007年7月31日に採択された」「無線インフラのオープン・アクセス規制」「700MHz帯の電波」
p82「契約利用者を獲得するには、一人当たり50~100ポンド(7500~15000円)もかかる。
p100「コンピュータがユーザの置かれた状況(コンテクスト)を感知し、そこで必要な仕事を自動的にこなしてくれる。」
p127「AR」
p131「ビジュアル・マーカーARに向けて、ARToolKit」「奈良先端科学技術大学院大学の加藤博一教授が開発」
p139「恐らくモバイル・コンピューティングに適しているのは、」「音声を中心とするコマンドだろう」「アンディ・ルービン氏が自ら開発した携帯OSにアンドロイドという名称をつけたのは、モバイル・コンピューティングの未来に対する、そのようなビジョンに基づいていたのだろう」
p147「結局、これまでのアクセル要因が、全部逆転する」「新機能を搭載するのはもう止めて、むしろ昨日の利用率を高める方向に舵を切るべきだ」
p162「キャリアにとってアイフォーン・ビジネスは非常に利益率が高い」
p163「マイクロペイメントの仕組みをもっていること」
p173「NFC Near Field Communication」「RFID(電波による個体識別技術)
p182「いちいちダウンロードするよりは、ウエブ上の共通アプリを使用した方が効率的で処理も早くなる」
p183「モバイル・サービスは遅かれ早かれ、必ずクラウド・コンピューティングに向かう」
p209「2009年前期における電子ブックの売上は前年同期比で136.2%増の1400万ドルを記録」
p225「ひたすら情報機器の高性能化や多機能化に向かって突っ走るよりも、ペンやインクのように我々の生活に馴染んだ使い易さを優先する、という姿勢」
p232「たとえば教育があまり行き届いていない地域でも、ワイヤレス・インフラは存在する」

 

「磯江毅-グスタボ・イソエ」特別展行ってきました

奈良県立美術館で開催されている「磯江毅」特別展に行ってきました。

現代は「写実」を必要としていない。それは現代を特徴づける、ITの世界を見るとよくわかる。ITは、膨大なデータを扱えると言いながら、以下にそれをサマリして見せるかに心血を注ぎ、そして求められてきた。何を表しているのか一見わからないデータ群、人間が自らの頭脳で解析するには多大過ぎるデータ群、そう言ったものの中から、何かを「余計」だと判断し、何かと何かを「同類」と判断しながら、「意味のある」データに置き換えて要約して提示する。現代は、膨大な時間を一瞬に変えてくれることをひたすら希求するeraだ。曰く、5分で読めるビジネス本、一週間で英語が話せる、四半期で業績倍増・・・。昨今の流行はGoogleに端を発する「ビッグデータ」だが、これもビッグデータをビッグデータのまま扱うのではない。mapして、reduceするのだ。

磯江毅の絵画は、数か月前の日経新聞の朝刊で観た。ちょうど、先行した展示会の紹介だった。確か、「盆の上のあざみとラディッシュ」が掲載されてたと思う。ほんとに衝撃だった。写真にしか見えない。

それで、調べてみると奈良でも11月に開催されることを知り、この日を楽しみにしていた。展示は展示約80点、デッサン100点の抱負な展示で、素人の僕にもとても楽しめた。写真にしか見えないというのはとてもチープな感想だけど、ほんとに凄い。静物画が比較的多くて、人物画が次、風景画は少なかったけど、僕は静物画、それも明るい色合いの静物画が凄く好みだった。はっきり見えているところで、よりはっきり見ようとしているような感覚。よりはっきり見せようとしているような感覚。スペインのアカデミアでの指導は、「より似ているか似ていないか」という明瞭なものだったという解説が印象的。

僕は「写実」というのが好きだ。要約は好きではない。要約は、対象をよく見ているからこそ要約できるのだ、という主張は、なんとなく思い上がりに聞こえる。どれだけよく見ようとしても、見られない点は必ずあるのだから。だからこそ、僕は対象をよく見ようとする。対象をよく見るということは、対象をよく知ろうとすることで、よく知るということは、限りなく対象そのものになろうとすることだと思う。表現は、自分を表現するのではなく、対象を表現する。しかし、自分を対象と同一化する働きは危険を伴う。その危険に敏感になれたら、ほんとうに「写実」することができるのではないかと思う。今、僕に必要なのは「写実」の思想だ。