『スウィート・ヒアアフター』/よしもとばなな

これは、関西に住んでいる僕のような、東日本大震災で直接的な被害に遭っていない人こそ読むべき物語だと思います。絶対に読むべきです。

帯に「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。」とあって、「そうなんだ」と思って読んで、読み終えて「そうかなあ?」と思って、今これを書き始めて「その通りだ」と思ったのです。

この物語の中には、大震災は出てきません。そこまで直接的な物語ではなく、帯に「小夜子は鉄の棒がお腹にささり、一度死んで、生き返った。」と書いているほど、オカルティックな物語でもありません。確かに鉄の棒がお腹にささるんだけど、「一度死んだ」はどちらかと言うと、比喩的です。
でもこの物語は、確かに大震災を経験した人々に向けて書かれているということは、読めば実感できると思います。「とてもとてもわかりにくいとは思いますが」と書かれてますがけしてそんなことはなくて、恋人を喪失し、自身も生死の淵を彷徨い、そこから回復していく様は、変わらぬばなな節であり、大震災を経験した人々への祈りであることもストレートに読み取れると思います。

でも、僕は読中も読後も、いくつも胸に迫るシーンがあったりしつつも、何か読み足りない気持ちが残りました。うーん…と思ったのですが、あとがきを読んでわかりました。

もしもこれがなぜかぴったり来て、やっと少しのあいだ息ができたよ、そういう人がひとりでもいたら、私はいいのです。

この物語の「重さ」は、やはり、あの大震災の被災者の方にきっちりと伝わるのだと思います。あとがきでばなな自身が「どんなに書いても軽く思えて、一時期は、とにかく重さを出すために、被災地にこの足でボランティアに行こうかとさえ思いました。しかし考えれば考えるほど、ここにとどまり、この不安な日々の中で書くべきだ、と思いました。」と書いている通り、被災を真剣に受け止めている人に伝わる「重さ」なんです。そして、その「重さ」を、頭でわかっても心には感じ切れなかった僕は、やはり、大震災を自分のこととして捉えていないのだと思います。
だからこそ、東日本大震災で直接的な被害にあっていない、西日本の人々に読んでほしい、如何に自分が東日本大震災を自分のこととして捉えていないかがきっとわかるから。だから、冒頭で引用したように、「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたもの」という言葉に深く納得したのです。あらゆる場所。

4344020936 スウィート・ヒアアフター
よしもと ばなな
幻冬舎  2011-11-23

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『ラフ・ライド-アベレージレーサーのツール・ド・フランス』/ポール・キメイジ

4915841863 ラフ・ライド―アベレージレーサーのツール・ド・フランス
ポール・キメイジ 大坪 真子
未知谷  1999-05

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今、日本は空前の自転車ブーム。ほぼ連日のようにニュースでは自転車に関するニュース(それはたいていピストの暴走とかのあまりよくないニュース)が取り上げられる。エコな移動手段、健康的、クリーンなイメージと共にある自転車。でも自転車がブームになったのは今が初めてじゃない。1960年代にも大流行したことがあるらしく、当然だけどその歴史は古い。

本著が取り上げているのはそれよりはまだ新しく、1980年代後半のツール・ド・フランスを中心に語られる。1980年代と言えば日本は高度成長期からバブルに向かおうとする、正に現代に通じる発展を遂げてきた時代で、世界ももちろんそう変わらない。にも関わらず、登場するエピソードはいったいいつの時代の話なんですか?と繰り返し聞きたくなるくらいに泥臭く闇の世界的なある行為が語られる。ドーピングだ。
自転車競技は1980年代、薬物に汚染される道をひた走っていたらしい。ドーピング自体は禁止行為だったが、バレなければ構わない。というよりも、バレずに済むことが判っていれば使用する者が当然のように現れ、使用しない者は使用する者にどうやっても勝てないとすれば、これも当然のように誰も彼も使用するようになる。正に悪化は良貨を駆逐する。そこまでして勝たなければいけない最大の理由はスポンサーだ。つまり、1980年代のロードレース界は、金によって薬にズブズブと使ってしまっていたのだ。

著者のポール・キメイジは本著のサブタイトルに「アベレージレーサー」とある通り、華々しい戦績を挙げた選手ではない。であるが故に、ドーピングの告発を込めたこの本も、その発言も、「ぱっとしない選手がああいうことよく言うんですよね」式に片づけられそうになったらしい。ルールを破ることが成功するための唯一の道で、その中でルールを守ることを貫き通す勇気を、この本から学ぶことには意味がある。どんな世界でも、常にルールと倫理を厳しく守り通して競い合うとは限らない。むしろ逆で、ルールの抜け道を探し出すことが勝利に大きく貢献したりする。それでも、自分はそのようなことはしないというスタンスを貫く勇気と、そういうルールを補正し続けて行こうという持続力の大切さを知ることのできる良書。

大阪市長選に思う

僕は大阪府民でも大阪市民でもないので明日のダブル選に直接は関係ないのだけど、働いている主戦場が大阪なので、もちろん強い関心があります。ダブル選が確定して以来、大阪市長は橋下氏がよいのか平松氏がよいのか考えても考えても長い間自分の結論が形作れなかったのだけど、やっと結論が出せました。

僕は、橋下氏が市長に選ばれるのが良いと思う。

その理由はこう:

まず、その主張や行動で賛成か反対かを論じやすい候補は橋下氏。

  • 大阪都構想。
  • 大阪市職員の給与削減等の財政再建策。
  • 「独裁」。

大阪都構想は、僕にはどうも「帝国主義」のように映る。大阪府知事としてやってきて、どうにもお金が足りないから大阪市を取り込もう。そういう発想の行動に映る。なので、この時点では橋下市長はいかがなものか、と思っていた。

けれど、それを受けた平松氏の対応も頂けなかった。橋下氏が大阪都構想を提唱するに至ったスタンスはともかくとして、大阪都構想のような変革を真剣に検討しなければいけないくらい、大阪の地盤沈下は著しいし、確かに大阪市職員の待遇が問題になったこともある。なのに、平松氏はその問題には表だっては触れなかった。なぜ、「大阪市」が「大阪市」のままでいいのか、その理由を語った場面はほとんどなかった。「だって昔から大阪市やんか」くらいのことしか言ってない。要は、「みんな仲良くやりましょうや。そんでええやんか。」ということだ。

これがやっぱり曲者だ、と思ったのです。

確かに、橋下氏のラジカルなやり口は、問題点も多々あると思う。教育施策に関するスタンスなどは首を傾げる部分もあるし、職員給与削減についても、大阪市職員ではない一般市民からすれば溜飲を下げるようなところもあるだろうけど、それが誰も幸せにしないことは薄々判っている。給与削減で財政に余裕ができても、そのお金で大阪市の景気回復に有効な手立てが打てるとは限らないし、収入が減少した人数が多ければ多いほど、短期的には消費が落ち込むのだ。だから、特定の誰かを狙い撃ちするような政策に、どんなにカタルシスを覚えても、安易にそれに乗っかることは、ゆくゆくは自らの首を絞める、そのことを僕たちは近年学んだところだった:

小泉政権時代だ。

小泉氏と橋下氏はよく似ていると思う。そのアメリカ的な競争至上主義的発想、「公」を敵とする手法、そして「独裁」。小泉氏の政治の成果は賛否両論がもちろんあるけれど、「公」を敵にしても競争を煽っても、国民万人が遍く好景気を感受できる社会は構築できないということを経験した。

そして、橋下氏が市長に選ばれることに警戒感や否定の意志はほとんどが、その「独裁」を徹底的に批判する。こういう状況では、強いリーダーシップを持っているように見える誰かを選ぶ傾向がある、でもそれは独裁政治への道を開く、まるでいつか来た道ではないか、あの太平洋戦争への道を開いたときのように。だからこの選挙で、日本に独裁政治の先例を作ってはいけいない。

この論点に随分悩んだ。確かにその通りなのだ。確かにその通りなんだけど、遂に僕はこの論点に肯んずることができなかった。

それは、「この論点を持ちだすのは、ほとんどが60歳を過ぎた高齢者ばかり。しかも、戦争を体験などしていない世代ばかり」だからだ。

彼らには結局、それほど時間が残っていない。だから、とにかく自分達が死ぬまでの間は、このままにしておいてもらうのが彼らの利益にいちばん叶ってるのだ。だから、変化を好まない。「ええやんかこのままで。なんで変えなあかんのん。」これに乗っかって適当にアメなめさせられて、その裏でもっとでっかいアメなめてるヤツらがいて、ずるずるやってきてにっちもさっちもいかなくなりつつあるのが今の大阪だ。

例えば年金。マクロ経済スライドの厳格適用を、高齢者側から求める声というのは終ぞ聞いたことがない。聞こえてくるのは「ただでさえ少ない年金やのに、これ以上減らされたてたまるかい」という、いかにもさもしい声だ。しかし、ルールはルールだし、このままでは団塊ジュニア世代が年金受給世代になる頃には年金財政が破綻することは数字上明確になっている。それでも実行に移さないのは、第一には選挙になると年金受給世代のほうが意見が統一する上に投票率も高いから、第二には高齢者がマクロ経済スライドの厳格適用を自ら求めるほどに「成熟」していなからだ。

僕たちは「お年寄り」の幻想に惑わされてきた。僕たちが持っている「お年寄り」のイメージは、もう20年も30年も前のもので、その当時の「お年寄り」は尊敬すべき対象だった。年を多く取っている分だけの知見があり、精神性があった。今の「お年寄り」は違うのだ。これだけ、国家的な財政危機が叫ばれていても、ルールとして決まっているはずのマクロ経済スライドをいっとき無効化し、それをずるずる引っ張り、そしてツアーでやれ九州新幹線だ韓国だと旅行に出かけるような、そんな「非成熟」の人間の集団なのだ。

とてもじゃないが、「みんな仲良くなったらよろしいですやん」で、何かが改善されることは望めない。なぜなら、そう言ってる連中は、残り時間が限られていて、「自分が死ぬまで持ってくれたらそんでええ」というのが根底にあるからだ。お年寄りというのは、長年培ってきた経験と知恵で、ここぞというときにここぞという貢献を社会にしてくれるものだというのがある。例えばそれを、この不況下で具体策として出すならば:

  • 引退高齢者の低給与での再雇用。年棒200万前後で勤務。

こういうことを言いだすのなら、僕は「高齢者」の意見に耳を傾けてもいいと思う。スキル・ノウハウとして高度な能力を持った「戦力」を、安価で企業は導入できるのだ。大きな経済効果が見込める。しかし、そんな声は聞いたことがない。「オレはこんなけやれる。若いもんには負けへん。なんで安い給料で働かなあかんねん。」そんな声しか聞こえない。社会に貢献しようなんて気はさらさらない。

読売巨人軍の例を引き合いに出すまでもなく、老害というのはかくも解消し辛いものなのだ。「独裁には注意せよ」という金科玉条を振りかざされても、どちらかというとその振りかざしのほうこそ警戒しなければいけないということに気が付いた。結局、この問題に関しては、日本ではエボリューションは望めない。レボリューションしかないのだ。もう、随分僕たちは待ってみたと思う。高齢者が高齢者らしく成熟するのを。そして、無理だったのだ。

それに、もし橋下氏の市長に何か問題があるとすれば、国政とは違い、よりリコールしやすいのが地方政治なのだ。もしそこに独裁が見えたとしても、何を恐れる必要があるというのだ?却って「国政にもこのような民意反映制度を」というトライアルにすらなるかもしれない。

ひとつ、小泉政治のときと違うこと。あのとき僕たちは、その「既得権益者」と戦うことを、自分達ではなく、別の世代-正にその既得権益者と重なる世代のひとり-に託した。今回は違う。橋下氏は僕たちと同世代であり、もう僕たち自身でやるしかないのだという覚悟を持ったのだ。

LOSTAGE 五味さんの日記がそこはかとなく穏やか

最近、五味さんの日記がなんというか凄い穏やかだ。

というか、CONTEXTツアーの途中から(途中だっけ?パンゲアもNEVERLANDもCONTEXTツアーじゃないか)ぜんぜんブログ更新してはらなくて、こないだのSTANDARD BOOKSTOREのイベントの後、feedlyに久し振りに五味さんの日記の更新が通知されて(たぶん沖縄の後くらい?)ツアーの過密スケジュールが終わったからなのかそれ以来結構コンスタントに更新してはる。ファンとしてはツアー中の心情みたいのも読みたいところもあるけどね。

で、その五味さんのブログがなんかすごい口調(文調?)が穏やかに感じる。MCで聞いても口調はどっちかっていうと穏やかなほうだし、もともとブログが凄い攻撃的という訳でもないんだけど、なんというか、「凪」なカンジ。悪い意味じゃなくて、いろいろ経験して、いろいろやりたいこともあって、でも落ち着いている、取り乱してはない、ちゃんと見据えている、そんな口調。

STANDARD BOOKSTOREのイベントのとき、「もう、アイコンなんかでやっていけへんぞ、ピーク過ぎてるぞってみんな思ってるやろ?本人もわかってる」と言ってたのを思い出したりして。

年末のNEVERLANDのチケットも予約したし、楽しみ楽しみ。


[BOOK]リアル・ブラジル音楽CommentsAdd Star

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こないだkacicaのワンマンを観に奈良町のカフェ、カナカナへ行った時に購入。

ブラジル音楽に特に興味があったかといえばそうでもないんですが、最近親父のレコードを引っ張りだして聴いたりしてたので(なんかそういうのが多い)、ちょっと知識から入ろうかなと思って買いました。

まず出てくるジャンルというか言葉からしてどんな音楽なのか全然わからないので、これを読みながらネットで検索したり試聴したりして、レコードとか買ってみようかななんて思ってます。

だからといってLOSTAGEがブラジル音楽の影響を受けたような曲を作るようになるとは思えませんけどね…笑。聴いてみたいと思う音楽がまだまだ世界にはたくさんあって、一生かかっても辿り着けないようなモノもあると思うんですが、その未開の地がこの先に広がってると思うとなんかワクワクするというか。いいですよね。

ボッサや、サンバ、MPBだけじゃないみたいですブラジル。ブレーガ・ポッピとかパゴーヂとか…って一体どんな音楽なんだろうかと。謎に興奮しますね…。

そういえば、中学くらいのときにロック雑誌の本で初めて読んで知ったマイブラッディバレンタインって言葉が、その時は「一体どんな恐ろしいバンドの音楽なんだろうか」と思ってCDを買いにいったのを思い出しました笑。ある意味恐ろしいくらい美しい音楽でしたけど。

知らない事があるのは、可能性とか希望がある みたいで素敵だと思いました。

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B001QDMS50 GO
lostage
TOY'S FACTORY Inc.(VAP)(M) 2009-03-25

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「富本憲吉記念館」に行ってきました #jbnsgt3k

10/2に「模様より模様を造るべからず」というエントリを書いて以来、行きたい行きたいと思っていた安堵町の富本憲吉記念館に行ってきました。

僕は陶芸には何の造形もなく知識もなく、ではなぜ富本憲吉に興味を持ったのかと言うと:

  • 第一回の人間国宝認定者であるほどの作陶家であるにも関わらず、大量生産の道を研究していったのはなぜか。そしてその歩みはどのようなものであったのか。
  • 柳宗悦の民藝運動に、参加しながら離脱したのはなぜか。

この二点なので、富本憲吉記念館に行っても場違いだろうということは想像してました。記念館は恐らく、氏の作品が生家に展示されており、館の方にいろいろ解説してもらえることが主眼なんだろうと。でも、僕は、興味を持ったことは少しでも多くの触れ方をするように心がけるようになって、車で40分前後の安堵町に出向いたのでした。トップの写真は記念館ではなくて、記念館の近くの民家の壁に掛けられていた案内なんだけどいい雰囲気出てたので。

記念館では今日、「ならの会」という奈良在住の工芸家の会の、陶芸作品の発表会が行われていて、いよいよ場違いでしたが、館の方は見学ルートを説明してくれて落ち着いて見れました。やはり、作品展示がメインで、先の2点に関する情報はほとんどありませんでしたが、旧家出身という富本憲吉(それはこの記念館の大きさを見てもわかる)が遠い存在である面と近い存在に感じれる面と、双方得たことが収穫でした。

以下箇条書き:

  • 展示でいちばん印象に残ったのは「絵具摺り」。釉薬をする道具で、工房で使うもので人に見せるものではないけれど氏はこの絵具摺りも美しく色づけしていた。「おしゃれの現れである」という解説文もかわいかった。
  • 柳宗悦展のフライヤーが山積みになっていた。
  • 建物は改築されているが、氏のお気に入りの部屋というのは当時からの現存。230年前のもの?
  • 「師を持たなかったので、己を犠牲にするようなことなく、闊達に研究に没頭した」
  • やはり名家の出身である。
  • 元手=資本

人気ナンバー1陶芸家!

『After The Apples』/吉井和哉

BGMにしてオマエを深夜のドライブに連れていくぜ!オマエじゃなくて、オマエだぜ!

・・・という声が聴こえてきそうなアルバム。

正直、そんなに期待してなかったので、CDで買うかどうか悩んだのです。初回限定盤は「Flowers & Powerlight Tour 2011」のライブ音源CD付なので、ミニアルバムなのに¥3,000もするし(笑)。いつまで経っても通常版の案内出なかったし(笑)。そうこうしてるうちに発売日当日が過ぎ、「やっぱ聴きたい」と急に思ってiTSで購入。

#1『無音dB』の、「ムオンデシベル」って言葉の響きと意味の響きとダンスチューンな音!『After The Apple』というタイトルで、『VOLT』以上に「吉井和哉」のエッセンスを詰め込みまくってた総合色の強い『The Apple』の後、『The Apple』を発売した後の、東日本大震災を経験した後、そういうものを込めてくるのかなと思ったら、さに非ず、全然「流して」聴けるアルバムでした。#5『バスツアー』なんか、もう「ザ・ダンスフロアー!」なカンジで。『バスツアー』だけど(笑)。この曲聴いたとき、「これ流して夜、高速流したら気分いいだろうなー」と。

ただ、全体を通して、なんとなく漂う違和感というのがあって。「ここじゃない、ここじゃない」とじくじくと感じてるような。#4『ダビデ』と#6『Born』はその辺とてもわかりやすいし。#3『母いすゞ』なんて、「母」を持ち出してきたところが凄いし。なんだろうなこの違和感。でも全然声高じゃないんで、とりあえず違和感抱いたまま踊っとけ今は!ということなんだろうか、これは。東日本大震災のAfterも未だうだうだ言ってるし、何も先へ進んでるようにないし、けど今は踊っとけ、踊れる元気が出たなら、ということなんだろうか、これは。


B005LUJSPC After The Apples(通常盤)
吉井和哉
EMIミュージックジャパン 2011-11-16

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デザインが教育を殺す - 『震災のためにデザインは何が可能か』

4757142196 震災のためにデザインは何が可能か
hakuhodo+design studio-L
エヌティティ出版 2009-05-29

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全体を通してまず印象に残っているのは、山崎亮氏の章:「デザインが社会のためにできること」。この章の冒頭、山崎氏は”スタルクの「あの発言」をどう捉えるか”と題して、

商業的なデザインとは、極言すれば「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」です。

次のデザインを手に入れたくなるのが心情ですが、新しいデザインが登場するたびに商品を買い換え続けるわけにもいきません。結局、幸せは期間限定でしかなかったということになります。

と書いているにも関わらず、それを受ける次節以降は、その「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」という問題に対する解は何も書かれない。書かれずに、「デザイナー」の生き方についての指南が書かれるだけ。この本の大きなコンテキストは、デザイナーの生き方ではないはず。『震災のためにデザインは何が可能か』であって、デザイナーは社会的デザインという生き方があるよ、ということを伝える本ではないはずだ。それに、もしそれを伝えるのなら、社会的デザインに携わっても、「今日新しいものを、明日古くするための」商業的なデザインを携わるのと同じような「商業的な」成功ができる道を示すなり作るなりするべきではないかなと思う。商業的な成功を我慢して社会的デザインに携わりなさいというのでは、道を拓いたことにならないのではないか。

 ついでに繰り返して言うと、僕は、仮にそれが「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」から脱却していて、「新しい古いから解き放たれた永遠のデザイン」だとしても、その分の金額が上積みされるようであれば意味がないと思っている。どちらにしても、この現代で永遠に使い続けることなどあり得ないのだ。なのに、一生モノを一生モノの価格で販売するほうが、思想洗脳した詐欺行為に近いと思っている。

もう一つは、山崎氏の章にも

そのとき、デザインの力が有効に働きます。デザインが持つ「正しさ」や「楽しさ」や「美しさ」が、課題の共有に役立ちます。多くの人たちが共感できるデザインであることが、社会の課題を解決する力を醸成し始めるのです。

と言った文章で表現されるように、デザインが社会の課題を解決する力になることが繰り返し語られていて、これは本著の性格上当然ではあるけれど、ともすれば「デザインがなければ社会の課題を解決する力が生まれない」とまで言っているように聞こえてしまう。

本来、社会の課題を解決しようという意志は、社会に生きる中で感じ取れるものだし、感じ取れなければならないもので、それを感じ取る能力というのは、自律的で能動的で、家庭と教育によって個人に醸成されていくものだと思う。そういう「個人」が多数の社会が前提で、デザインがそれを手助けする、という思想には、どうしても聞こえないような感じがする。それは、もはや「デザインがなければ、現代人は社会の課題を解決しようという気にすらならない」と言っているようで、少し高慢な感じがするし、その姿勢というのは、教育の重要性というのを根本的に忘れてはいないか、と思ってしまう。
自分たちは十分に教育を受け、もしくは独学で学び、十分に知的でソフィスティケートされている、そういう自分達が、デザインというものを使って、やる気のない現代人にやる気を起こさせるような仕掛けをいっちょ作ってやろう、言い方は悪いが、そういう、あの僕たちが忌み嫌う「啓蒙主義」に通底するところがあるように少し感じた。 

目指すは次の世界 明日はもうここにはいない

”別れとはつらく 新しいものだろ”

今更に盛り上がるご近所が
僕をやけに冷静に導いてくれる

ただ歩いているだけでもトライなのと同じように
なんのあてもなくても飛び出してみるのも時には無謀ではない

内輪受けも内輪揉めももうたくさん
それのためになら敵も味方も必要ない

隈研吾 x 産婦人科

義姉が長女を出産したということで訪問した産婦人科が隈研吾設計でした。

最初に断っておくと、隈研吾氏がこの病院を設計するに至った経緯(いきさつ)は、病院の理事長が隈研吾氏とリレーションを持っていたから、と聞きました。

この梅田病院は光市にあるのですが、義姉は違う市に住んでいて、その市は出産に関わる標準的な費用ほぼすべての額にあたるお金を出してくれるそうです。それを先に知っていて、訪れてみたら写真のプレートを見つけて、隈研吾設計と知り驚いたのでした。驚いて、じっと考えて、考え込んでしまったのです。

出産費用をほぼ負担してくれるということは、どんな病院にかかっても費用はゼロということです。だったら、たいていの人は、この梅田病院のような病院に掛かりたいと思うんじゃないか。普通は、そういう需給ギャップを解消するために価格差が発生して、うまく住み分けがされるわけだけど、費用がゼロなら住み分けが発生しない可能性は理論上はある。逆に言うと、「隈研吾設計」というような、従来の産婦人科にはないような、一流の設計を持ちこんだ特別な、よって当然かかる入院費用等が比較して高額になるような、そういう産婦人科が成立するのは、この市のような「特別補助」が存在するところでしかあり得ないんじゃないか。なぜなら、相対的に高額な産婦人科が、一定の妊婦を抱えて継続していくことは困難に思われるから。

設計が病院経営のランニングコストに跳ね返るのかどうかは知識不足で存じ上げません。けれど、少なくともイニシャルコストは通常よりも「相対的に」高額になるとは思われる訳で、それでもそのイニシャルコストを支払おうというインセンティブは、ある程度それでも経営がやっていけるという目算がないと働かない。そして、その目算を働かせているのは、行政の「補助」。

僕はこの仮説を瞬時に頭の中で巡らせたとき、ひどくげんなりしたものでした。

そしてこの仮説はあくまで仮説で、おそらく事実とは全く異なるということを付け加えておきますが、この仮説に似たようなことが、いわゆる「こういう」働きをしている人たちの生活の結構な割合を占めているのは事実だし、その事実が「相対的に」分かりにくくされていることに、-それは見栄えが「美しい」ことがその本質であるから-苛立ちを覚えます。平たく言えば、その元手は税金だったりするのです。

ちなみに梅田病院、サインは原研哉氏。

’98 梅田病院 サイン計画 | SELECTION | 日本デザインセンター
常識をくつがえす柔らかなサイン計画

CL 梅田病院 AD・D 原 研哉 D 井上 幸恵

 

吉井和哉/寺田亨「The Apples Gallery」行ってきました

仕事の合間のわずかな時間で、大丸心斎橋店14Fで開催中の「The Apples Gallery」行ってきました。

500円でポストカード3枚ついてお得です。

会場には大スクリーンで「Flowers & PowerLight Tour 2011」の映像が流れライブ音源が流れてました。吉井の衣装が3セットとギターが展示。

寺田亨さんって静岡出身だったんだ、『Bunched Birth』、『smile』のジャケットもやってたんだ、と撮影しながら読む。受付で聞いてみたら撮影自由とのことだったんで。Little DとD.D.のイラスト群が愛らしくてよかった。邪気が全然なくて、見てると無になれそう。

写真はIKEDA MICHIさんのが、撮ってるほうが完全に吉井の色気にはまってるな~と感じれていいのが多かったです。

『After Apples』、待ち遠しいー。