第149回 佐藤 卓(2010年11月29日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

いま、『プロフェッショナル 仕事の流儀・選』で再放送観てるんだけど、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の中でも、デザイナーという仕事をしている人の言葉の中でも、最も印象に残っているのがこの佐藤卓氏の放送。何がいちばん印象に残ったかと言うと、自分がイチオシだと思っている案を、イチオシだと判らないように、他の案とイーブンでお客様に提示して、そのイチオシ案が選ばれなかったシーンが出てくること。佐藤卓氏は、そこに全くこだわらず、「お客様が選んだ案を、更にもっともっと良くしていっちゃう」と言う。そして、依頼された以上の仕事をする、という。

お客様の意思を尊重するというのはポイントで、こちら側の想いの押し付けでは、いい結果を出し続けることができない。「戦略商品だから」「会社が売れというから」はもちろん重要だが、お客様に提示するときには常にそれ以上の何かが説明できなければならない。

一方で、お客様の要望を聞いてそれに答えるだけの仕事では、それもいい結果を出し続けることができない。そのバランスを、「依頼以上の仕事を」というもうひとつの軸で、担保しているのだと思う。

『ユリイカ-特集=宮沢賢治、東北、大地と祈り』

4791702255 ユリイカ2011年7月号 特集=宮沢賢治 東北、大地と祈り
吉本 隆明 池内 紀 奈良 美智 大庭 賢哉 桑島 法子 天沢 退二郎
青土社  2011-06-27

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宮沢賢治と吉本隆明は、僕の読書体質に大きな影響をくれた二大文筆家なので、もちろん読まないわけにはいきません。

東日本大震災に遭って、吉本隆明が宮沢賢治ならどう考えただろうか、という推測が語られます。ひとつは、宮沢賢治は両眼的かつ包括的な物の見方をする。だから、津波に関しても、一面的な分析はしなかっただろう、ということ。もうひとつは、東日本大震災で日本の気候の何かが変わってしまったのではなく、ここ十数年の間にじわじわと気候変化が起きていて、その結果のひとつとして東日本大震災が発生したのだと捉え、今後はこのような気候であることを前提として、社会の仕組や建築建造などを考えていったほうがよい、という話で、このふたつが印象に残っています。

より変化に強い、というよりも突発的な破壊に強い、そういう社会や建築建造を志向するのは、最近、目にする度に収集している「メタボリズム」の思想に関連したり、ここ1、2年の間、聞こえることが増えてきているような気がする「”所有”に対する疑問」にも通じるようでおもしろい。

Siri vs グーグル - 『モバイル・コンピューティング』

Siriはグーグルの検索事業に対する「脅威」--グーグル会長

Steven Musil (CNET News) 翻訳校正: 編集部 2011/11/07 08:13

Googleの会長Eric Schmidt氏が、Appleの音声アシスタント「Siri」を同社の事業を脅かし得る「著しい開発成果」だととらえている。

こういうことを、「ちゃんと気づいてますよ」とコメントを出すところがやっぱり違うなと思う。

グーグルは前から音声検索があった。日本語でも検索できる。気恥ずかしくてあんまり使いませんが、『モバイル・コンピューティング』を読んで、モバイルというのはインターフェースの革命が本質だと教えられて、なるほどと注目してました。

ただ、グーグルモバイルのように、いつもの検索窓の横にマイクのアイコンがついて、「音声でもどうぞ」と言われても大多数の人は僕のような感じだと思うけど、これがSiriのように「あなたのプライベート秘書」という提示のされ方をすると、全然活用度が違ってくる。そして、これは紛れもなく「検索」なのだ。

『モバイル・コンピューティング』を読んだ時の感想はこんなことを書いてた。

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モバイル・コンピューティング
PHP研究所  2010-02-06

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「モバイルったって、パソコンが小さくなるだけだろう?」程度の認識しかなかったところを、インターフェースの変化・進化をたどって根本的なところを理解させてくれた良書。モバイル・プラットフォームで始まっている主導権争いの構図は概ねこれまでのIT業界で起きてきた主導権争いの構図で理解できるけど、「モバイル・コンピューティング」の本質的なところは、インターフェース抜きでは理解できないところだった。「モバイルだからキーボードをつける余裕がない」程度の話じゃなかったのだ。

モバイル・コンピューティングは、「モバイル」だから、いつでもどこでも「情報処理」ができる、もしくはそれを実現する、ということ。古くはホストコンピュータの時代は情報処理ができる場所は「ホストコンピュータの設置場所」で、それがパーソナルコンピュータとなって「パーソナルコンピュータのある場所」となり、パーソナルコンピュータがノートブックになって「ノートブックが置ける場所」になった。そして「モバイル」になると、もはや置く場所も問わなくなる。いつでも「持っている」。その代り、どうやってコンピュータに情報処理を「させるのか」というインターフェースの問題が現れる。だから、インターフェースを理解しない訳にはいかなかった。
実用的な情報処理、例えばアドレス帳管理とか写真管理とかは、処理のバリエーションはそれほど多くなく、従ってそれほど多様なサービス提供者も求められないと思う。写真管理で言うとPicasaかFlickrとあと1種類くらいが世界で提供されてば十分。それは裏を返すと、この分野での仕事に従事できる人間がそれだけ少なくて済むということで、それだけ仕事がなくなることを意味する。これまでは、ローカルマシンで処理するが故に、ローカルマシンで動作するアプリケーションを選択することになり、それだけ開発の仕事があった。iPhoneとAndroidというプラットフォーム/マーケットが新たに現れたけど、本質的にはアプリケーションの規模と寿命はどんどん短くなると思う。小規模な開発体制で開発できる環境ということは、1つのアプリケーションはそれだけ短期間しか収益を上げられないということだ。矢継ぎ早にアプリケーションを提供し続けない限り、その開発団体は事業継続できなくなる。でも、ゲーム以外にそんなにバリエーションのあるアプリケーションカテゴリがあるか?ゲームですら、出尽くした感があるというのに。
この「仕事が無くなる」漠然とした問いへの解の道は、第6章「キンドルと出版産業の未来」にかすかに提示されているように思う。

p9「HTC DreamのCPUの処理速度は初代クレイの6.5倍、メモリーの容量は実に48倍」
p12「携帯電話端末の売上は2008年に3589万台と、前年よりも29.3%減少、また2009年上期には前年同期比で14%も減少」
p20「2種類のモバイル端末向けチップ ムーアズタウン メッドフィールド」
p46「ABC(Activity Based Computing)」
p70「1984年」
p71「キャリアを中心とするモバイル産業の構図は、少なくとも、つい最近まで、日本と米国とで驚くほど似通っていた」
p78「2007年7月31日に採択された」「無線インフラのオープン・アクセス規制」「700MHz帯の電波」
p82「契約利用者を獲得するには、一人当たり50~100ポンド(7500~15000円)もかかる。
p100「コンピュータがユーザの置かれた状況(コンテクスト)を感知し、そこで必要な仕事を自動的にこなしてくれる。」
p127「AR」
p131「ビジュアル・マーカーARに向けて、ARToolKit」「奈良先端科学技術大学院大学の加藤博一教授が開発」
p139「恐らくモバイル・コンピューティングに適しているのは、」「音声を中心とするコマンドだろう」「アンディ・ルービン氏が自ら開発した携帯OSにアンドロイドという名称をつけたのは、モバイル・コンピューティングの未来に対する、そのようなビジョンに基づいていたのだろう」
p147「結局、これまでのアクセル要因が、全部逆転する」「新機能を搭載するのはもう止めて、むしろ昨日の利用率を高める方向に舵を切るべきだ」
p162「キャリアにとってアイフォーン・ビジネスは非常に利益率が高い」
p163「マイクロペイメントの仕組みをもっていること」
p173「NFC Near Field Communication」「RFID(電波による個体識別技術)
p182「いちいちダウンロードするよりは、ウエブ上の共通アプリを使用した方が効率的で処理も早くなる」
p183「モバイル・サービスは遅かれ早かれ、必ずクラウド・コンピューティングに向かう」
p209「2009年前期における電子ブックの売上は前年同期比で136.2%増の1400万ドルを記録」
p225「ひたすら情報機器の高性能化や多機能化に向かって突っ走るよりも、ペンやインクのように我々の生活に馴染んだ使い易さを優先する、という姿勢」
p232「たとえば教育があまり行き届いていない地域でも、ワイヤレス・インフラは存在する」

 

「磯江毅-グスタボ・イソエ」特別展行ってきました

奈良県立美術館で開催されている「磯江毅」特別展に行ってきました。

現代は「写実」を必要としていない。それは現代を特徴づける、ITの世界を見るとよくわかる。ITは、膨大なデータを扱えると言いながら、以下にそれをサマリして見せるかに心血を注ぎ、そして求められてきた。何を表しているのか一見わからないデータ群、人間が自らの頭脳で解析するには多大過ぎるデータ群、そう言ったものの中から、何かを「余計」だと判断し、何かと何かを「同類」と判断しながら、「意味のある」データに置き換えて要約して提示する。現代は、膨大な時間を一瞬に変えてくれることをひたすら希求するeraだ。曰く、5分で読めるビジネス本、一週間で英語が話せる、四半期で業績倍増・・・。昨今の流行はGoogleに端を発する「ビッグデータ」だが、これもビッグデータをビッグデータのまま扱うのではない。mapして、reduceするのだ。

磯江毅の絵画は、数か月前の日経新聞の朝刊で観た。ちょうど、先行した展示会の紹介だった。確か、「盆の上のあざみとラディッシュ」が掲載されてたと思う。ほんとに衝撃だった。写真にしか見えない。

それで、調べてみると奈良でも11月に開催されることを知り、この日を楽しみにしていた。展示は展示約80点、デッサン100点の抱負な展示で、素人の僕にもとても楽しめた。写真にしか見えないというのはとてもチープな感想だけど、ほんとに凄い。静物画が比較的多くて、人物画が次、風景画は少なかったけど、僕は静物画、それも明るい色合いの静物画が凄く好みだった。はっきり見えているところで、よりはっきり見ようとしているような感覚。よりはっきり見せようとしているような感覚。スペインのアカデミアでの指導は、「より似ているか似ていないか」という明瞭なものだったという解説が印象的。

僕は「写実」というのが好きだ。要約は好きではない。要約は、対象をよく見ているからこそ要約できるのだ、という主張は、なんとなく思い上がりに聞こえる。どれだけよく見ようとしても、見られない点は必ずあるのだから。だからこそ、僕は対象をよく見ようとする。対象をよく見るということは、対象をよく知ろうとすることで、よく知るということは、限りなく対象そのものになろうとすることだと思う。表現は、自分を表現するのではなく、対象を表現する。しかし、自分を対象と同一化する働きは危険を伴う。その危険に敏感になれたら、ほんとうに「写実」することができるのではないかと思う。今、僕に必要なのは「写実」の思想だ。

 

『食う寝る坐る 永平寺修行記』/野々村馨

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)
食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫) 野々村 馨

新潮社  2001-07
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デザイン事務所勤務の著者が30歳の時、突然出家し一年間永平寺にて修行生活を送ったノンフィクション。

まず、お寺と何の関係もない一般の人が、突然思いついて出家するなんてことが許されるんだという驚きと、おまけに一年で帰って来れるんだという驚き。僕は出家と言うと、もうそのまま一生、仏の道を歩まなければいけないものだと思っていたので、「一年間」という区切りのある永平寺の修行というのがまず驚きだった。
ただ、僕にとってこの本を読み終える目的と言うのは、アマゾンのユーザーレビューの中にあった、「強制力を持って成し遂げて得られた達成感というのは、一時的なもので人間的成長にほとんど有用でない」という意味のレビュー、その内容の真偽を確かめたい、というものになっていた。

と言うのも、僕も概ね、スパルタ方式とか徒弟制とかに懐疑的だから。僕たちの世代というのは、親の世代=団塊の世代以上に、徒弟制のようなものに懐疑的で、大学生の頃から年功序列を敵視し、実力主義を尊ぶような思想に染まって育ってきた世代だし、ちょっと話は逸れるけどダウンタウンのような「ノーブランド漫才」=師匠が存在しない、という仕組=主従・徒弟ではなく、職能教育を施す仕組が本格的になっていきそうな時代に育ったので、スパルタ式や徒弟制に疑問を持ち続けてきた。人間扱いされていないような言われようが我慢できない、という程度のこともあるし、世の中にはそれが本当に人間の尊厳を損なうところまで突き進んでしまっていることもある。

だから、徹底的に強制的で、暴力的と言ってもいいくらい厳しい永平寺の修行を通して、著者がどんな満足感を得たのかというのが知りたかった。

読んでいて感じたのは、まず、著者にはそういう視点がないのだろうということだった。ある一つの思想に、哲学に、その方法論に、良し悪しを問わずまるごとどっぷりと浸かること、そのことを批判的に評価する視点はなかったのだろうと思う。もちろん宗教というのはそういうもの。だから、著者はつべこべ言わず、永平寺の流儀を丸ごと飲み込んだ。そして、その結果辿り着いた地点に、十分な達成感と満足感を得て下山した。
僕は、この、「どっぷり浸かる」というやり方が、最も効率的であるということは知っている。右も左もわからない世界では、まずどっぷり浸かるのが最短距離。例えば数学において公理公式を丸ごと暗記するように。でも、その一方で、例えば某企業において、まるで軍隊と見紛うまでの徹底教育が成され、その結果業界でも群を抜いた業績を収めるというトピックがあるけれど、それは、要は社員を徹底的により安くより多くを産みだすように訓練しているに過ぎない。

という訳で、資本主義体制の欠点の視点からも、僕はスパルタ式・徒弟制というのはよくないことだと思っていたのだけれど、反対に、なんでもかんでも理屈や理由がないと行動できない現代人というのもどうかなと疑問に思ってて、例えば電話対応を誤ると自社の悪い評判が口コミであっと言う間に広がり、それを回復するコストが高くつくので正しくやりましょう、とか、そんなもん理屈以前にやれて当たり前だろう、と常々思っている。その「当たり前だろうと常々思っている」部分、かつては「常識」と言えたのに、多様性とか個性を尊重とかが行き過ぎて「常識」と軽々しく言ってはいけない風潮が間違った方向に進んでるところを、「常識だろ」と言えるような、そういう強制力はやっぱり必要じゃないのかな、そんな風に読み終えて思ったのでした。

「五味岳久さんトーク&ライブ似顔絵&ライブショー」行ってきました

兄さんのトーク&ライブ似顔絵&ライブショー、行ってきました!!

 

僕にしては気の利いたことにちゃんと『#oshare in DICTIONAY』持参で行きました(笑)。

会場にはオーディエンスが65人いたそうですが(五味アイコン描いてもらえる人の抽選が、整理番号1から65の間で選んでたので)、さすがにスーツ着てネクタイしたサラリーマンは僕だけで居心地悪い悪い。その上、司会がぴあの高橋一さんとSPACE SHOWER TVの幸山由佳さんだった訳ですが、のっけから高橋さん「ぶっちゃけ、ここ二人はサラリーマンですわ」とのたまっていよいよ居心地悪い悪い(笑)。やっぱり、こういうイベントごとには、アートとかデザインとかに親密な業種の人はともかく、「ふつうの」勤め人は来ないっていう前提になってんだなあと。そういうバリアを改めて。ほんとのこと言うと、日本のカルチャーを、バックグラウンドを、状況を変えたいんだったら、そういうイロメガネから変えなきゃいけないと思うけどね。

さてショーは、最初30分くらいトークして、オーディエンスの中から選ばれた3名(当初は2名の予定だったみたいだけど、店側が時間おしてもいいってOK出して、3名に増えた)のアイコンを画伯がライブペインティングして、最後の弾き語りで二曲。スタンダードブックストアのページには、「LOSTAGEのアコースティックライブ」って書いてたので、ナニ拓人さんと岩城さんも来るの?と思ってたけど兄さんひとりでした。あれねえ、イベントタイトルには『#oshare in dictionaryの五味岳久さんって書いてるのに、ライブやるのは「LOSTAGE」って、ちょっと揺れてるねえ。

トークは、最初に高橋さんが「今日はUSTしません。なぜかと言うと、ここだけの話満載にするつもりだから」と言ってたワリにはそんなに危ない話もなかった気がするけど、それは、オーディエンスのあったまり具合の問題かも。同じく高橋さんがはじめに「飲み会気分で!」(スタンダードブックストアのページにも書いてる)と言ってたんだけど、五味さんが「みんなシャイやねん」と言う通り、LOSTAGEのファンってびっくりするぐらいほんとにシャイな人が集まるんよね。「奈良の人?」って聞いたとき、結構な数手を挙げてたんで、奈良県人がシャイなんだろうか(笑) 始まってすぐに、五味さんが会場に問いかけて、例によってノーリアクションで、「オレ、このコール&レスポンスが出来てないカンジ、キライじゃないねん」と言ってたのがめちゃおかしかった。

五味アイコンは、五味さんの無差別選択で選ばれた番号の方が、次の番号を選ぶってので、僕の整理番号は36だったんだけど、その方が仰ったのが39で、最後の一人はジャンケンで選んだんだけど、一回目は勝ってそれでもう10人くらいまで絞り込まれたんだけど、二回目で負けて。なんか惜しい感じでした。で、ほぼ1時間30分くらい、五味さんがアイコン描くとこをスクリーンで眺めながらダベる、という珍しいイベント(笑)。

途中、五味さんが似顔絵がうまくなりすぎてるという話になって(オーディエンス3名のアイコンも確かにめっちゃ似てた)、高橋さんが、「初期の味のあるアイコンのほうが好きな方」と聞いたらほとんどの人が手を挙げ、「今のうまくなったアイコンのほうが好きな方」と聞いたら誰も手を挙げなかったのに、アイコン描いてた五味さんが「え?オレ見てなかった。どれくらいの比率やったん?」と高橋さんに聞いて、詰まった高橋さん「んー五分五分かな?いや6:4くらいで・・・」と適当に答えたら五味さん、「6:4てめっちゃええ比率やと思うねん、音楽でも、”初期のアルバムのほうがいい”とかいう人でてくるやんか」みたいなこと言ってて痛々しい(笑)。あのくだりがめっちゃおもしろかった。

その他箇条書き:

  • 『oshare in DICTIONARY』は、初版は結構間違いがあるらしい。
  • アイコン展の話。アイコン展の話もそうだけど、今日のイベントのMCの高橋さんと幸山さんが、手弁当でノーギャラで引き受けた話。引き受けたというのか、そもそもお二人がやりたいと言って動いたのかまでは分からなかったけれど、幸山さんが五味アイコンブックを創るに至った経緯然り、動くことのおもしろさを伝えてもらった。
  • 反対に、五味アイコンブックを創る困難さも。幸山さんが高橋さんに「ぴあがあるじゃん(=出版できるという意味」と聞いたら、「ウチはちょっと・・・」と難色を示した話とか、これだけ親密にしている間柄でも、柵を通すことがあったりするのが当たり前だと改めて認識。
  • そして本を出すにあたっての五味さんのスタンス。「自分から、本にしたいと言って動くつもりはなかった」と。パルコの人とかに「本にするなら言ってくれたら」と、基本的には自主的なスタンスを求められてて、五味さんはそこまでの自主性は本に関してはなかったので腰を挙げなかったが、幸山さんが動いてくれたと。これは珍しい例で、普通は、やりたいなら自分が動かないとダメだと思う。
  • 五味さんは、いろんな人達が動いてくれて、こういうことが出来ていると頻りに言ってた。この1年、パンゲアとかいろいろあったけど五味さんを見続けてよかったと思った。自分の仕事にとっても。
  • 「もう五味アイコン飽きられてるやろ、ピーク過ぎてるやろと思ってるやろ、じぶんでもわかってます」と自虐的に言ってた五味さんがおもしろかった。
  • 会場に来てたのは、ほぼLOSTAGEファンだった。五味アイコンからLOSTAGEを知った、もしくは五味アイコンの作者、というので来た人はほとんどいなかったみたい。

そして押しも押した22:00過ぎ、待望の弾き語り。曲目は『楽園』と、会場からのリクエストで『母乳』でした。

 

 

総取りの誘惑を振りほどけ

僕はジョブズ信奉が好きじゃない。アンチ・アップルと言ってるのではない。そんなにアップル製品を持っている訳ではないけれど、MoraとiTunesのどちらを選ぶかは、将来性を十分考えiTunes+iPodにしたし、iPod touch発売のニュースが飛び込んだときには速攻でappleのサイトで予約した。つまり、あの「英語版でしか初期化できない」悪夢に見舞われ、徹夜でVMware playerを導入し、英語版XP仮想マシンを立ち上げ、・・・ということをやったクチなのだ。消して、アップルが嫌いなワケでもないし、Windowsを持ちあげてるワケでもない。

僕は、ジョブズを盲目的に奉る心性がどうも好きになれないのだ。理由は二つある。ひとつは、特に日本で「ジョブズ信奉」を語る人の多くが、「日本も、ああいう独創的な人材が出てくるような、社会とか教育とかに変わらなければならない。アメリカは、ああいう独創的な人物を輩出できる社会になっていて、それがアメリカという国の強さに繋がっているのだ」と論じること。

僕はこの論法を聞くと、決まって思う:「そうは言っても、ジョブズとゲイツくらいだろ?」もちろん、IT以外の分野で、高い業績を挙げている学者や研究者やビジネスマンが多く存在するのは知っている。けれど、昨今、日本人もノーベル賞受賞が続いているし、とりわけ科学技術分野で劣っているとは思わない。第一、アメリカの人口は日本の約3倍。それだけ数がいても、iPhoneのような、社会にイノベーションをもたらす天才は、ひとりしか輩出しないのだ。IT業界における別な天才、リーナス・トーバルズはフィンランド人だ。なんでもかんでも、日本が日本然としているから、独創的な発想ができないようなモノを言う人は、僕はあんまり信用できない。まして、「だから日本もアメリカみたいな社会に変革しなければいけない」なんて言う人は、日本で出来ることをやりきっていない人のように感じる。

もうひとつは、先の理由にも関連するけれど、ジョブズを信奉するということはすなわち、「一位総取り」的な社会の仕組みを暗に認めるということに繋がってることに無自覚なことが多いからだ。ジョブズのような天才が、非常に魅力的な製品を産みだした。それは現代では、アメリカという国籍を越えて、世界中からカネを吸い上げる。そうしてアップルは今やアメリカ政府の資産を上回る資産を保有する。もちろん、ジョブズはそれに相応しいだけの製品を産みだしたのだけど、だからジョブズが避難される筋合いはまったくないのだけど、世界中で巻き起こっている経済危機の根っこの問題が、こういうところにあるということはあまり触れられない。

いい製品を作っても、それが売れすぎないように配慮せよとか言うつもりじゃなくて、今の資本主義社会はそのシステム上、「勝てば官軍」式になっていることは自明かつ必定。だから、資本主義社会に生きる僕たちは誰も彼も、「成果を挙げた者は、それに相応しい報酬を得て然るべきだし、勝ち上がった者が最終的に果実を独占して当然」と思い込んでいる。でもそれが今、思ってもみない形で、世の中を壊しに掛かっている。資本主義社会の会社組織は、マーケットがあるところに攻め込み、すべてを刈り取るまで膨らんで、刈り取ったら解散するか新たな種を撒くかで、とにかく「一位総取り」が当たり前の仕組。それが「当たり前」であることを象徴し、かつ、正しいこととして固定してしまうことに、ジョブズ信奉は加担しているのに、あんまりそういうことは言われない。

『オートバイ・ライフ』/斎藤純

4166600486 オートバイ・ライフ (文春新書 (048))
斎藤 純
文藝春秋  1999-06

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オートバイ好きの作家による、オートバイの愉しみ方。
僕はオートバイには乗らないので、オートバイに直接関わる情報についてはそれほど役に立つ訳ではないけれど、「愉しみ方」という観点はとても面白かった。僕はロードバイクに乗っているが、ロードバイクもオートバイと同じで、パーツやウェアに拘りだすと切りがないものの、それが「愉しみ方」とは思えないし、欲しいものは出てくるものの、それを愉しみとはできない自分がいて、なぜそれが「愉しみ」ではないのかを、本著は明確に語ってくれる。

オートバイの本と言いながら、映画やクラシックの話題も絡められ、オートバイに乗るということが、ひとつの文化と言えるようになっている。オートバイが文化を形作ってる側面。こういう本に触れるにつけ、自分が若い頃からあまりにも映画やクラシックに興味を持たな過ぎてきたことを後悔する。

特に面白かったのは、エコロジーに対する「感傷」という批判。「牛肉を食べている人間に自然保護を語る資格はない」式の言い分に対して、「子供っぽい感傷」と一刀両断にしている。そして、「知ること。行動すること。」というロジックを展開している。ここで言う「感傷」と言うのは、言うなれば「思考停止」ということだろう。僕は感傷そのものは否定しない。何も生み出さない感情の美学というのは確かにあるから。それを、文学とか音楽とか、アートだけの特権にしておく必要はないと思う。けれど、感傷を持ちながらも知り、行動する手立てはある。そこまで考えた上で、「アンドレ・マルローが1930年代に、悲観的かつ行動的な者たちは、ファシストであり、将来ファシストになるだろうと述べている」という一文が、重い。

五味アイコンブック!

我らが奈良が誇る超絶かっこいい3ピースロックバンド"LOSTAGE"のVo.& Bass五味兄画伯のアイコン集!この厚みがまたかわいらしい!

正直、PARCOでの五味アイコン展とか、なんかちょっと利用されてるのかな感があったりして、もちろん五味さんは主体的なんだろうけど、展示やる側とかはLOSTAGEの音に感動してるんかなとかごっつい好きなんかなちゃんととか、思っちゃうし、LOSTAGEのファンが凄い増えてきてる感じがしないところを見ると、やっぱり魂入れてこういうイベントしてる訳じゃないんだろうなイベンター側が、イベンター側に熱のあることはやっぱ広まっていくもんなー、と思ったり。

でもなんにせよ、五味兄さんの、LOSTAGEの、露出が増えていくのはとても嬉しい!

4860204360 五味アイコンブック #oshare in DICTIONARY (P-Vine Books)
五味岳久(LOSTAGE)
ブルース・インターアクションズ 2011-09-23

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『聖☆おにいさん7』/中村光

一緒の晩餐!

406387026X 聖☆おにいさん(7) (モーニングKC)
中村 光
講談社 2011-10-21

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仕事のことでバースト寸前のアタマとココロをいっとき解放してくれました!

いっちゃん面白かったのはブッダとイエスのPVを創る『実在を証明せよ!』。
ゼウスの「ボカーン」連発が溜まらん!!(笑)
あと、この次の話『逸話の多い子供たち』の冒頭で松田さんが切れるシーン(笑)

気分転換って大事。