Training for 若草山ヒルクライム#02

思いの外雑仕事に手間取り、実走するのが面倒になり室内練習。前回同様30分。

 

前半10分をHR level2、後半20分をHR level3に設定しているものの、基本的には85~90rpmを維持し、後半は前半からリアを1段重くする設定。前回よりもスタート時のリアを1段重くしてみたけれど、平均ケイデンスは3rpmしか落とさなかったので上々。

あまり重くするのは地足を鍛えることに繋がらないそうなので、次回からはローラーの強度を上げてトレーニング。

そろそろ、週に1回でもインターバルを入れたい。それと、早い段階で一度、コースを実走しておきたい。

Training for 若草山ヒルクライム#01

楽しさだけがゴールでそれが満足の人生なら要らない。

誰かの不幸せの上に成り立つ生活(くらし)
昔から気づいてるよ 

若草山ヒルクライムの出場を真面目に決意したので、トレーニングも真面目にやろうと決心。

ヒルクライムのためにはどんな練習が必要か?と調べ考えてみたけど、やっぱり基本に戻って心拍だろうと。特に若草山ヒルクライムは距離にして3.4kmと短距離決選なので、どれだけ心臓が強いかが重要と思われる。

なのでインターバルトレーニングを中心にしようと思いましたが、時間のあるときはできるだけ長い時間乗って地足を鍛えることに。

このペースであれば以外といつまでも回していられる感覚。次回、30分回せる際はもう1段階ずつHRレベルを上げてみよう。

トレーナーの負荷を上げるのも有効のようなので、インターバルトレーニングの際、活用しよう。


YouTubeでどれだけ探しても、『okay』のPVがないんだよなー。

B003UIUBT4 Hadou
稲葉浩志
バーミリオンレコード 2010-08-18

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誰ひとり 待ってはいない
それを 知っていても
大事なこと 感じてみたい
だから 行ってみよう 

そしてそれは、楽しいことだけではないはずだ。 楽しくなくても、大事なことがあるはずだ。

ごめんで済んだら警察いらんのじゃ!

警視庁失態 平田容疑者を“門前払い” - 社会ニュース : nikkansports.com
同庁は応対に問題がなかったか詳しい経緯について調べる方針。警視庁管内をはじめ、全国の警察署では平田容疑者の等身大ポスターを入り口などに掲示している。平田容疑者を“門前払い”してしまうなど緊張感の欠如を象徴する事案の発覚で、関係者の責任問題にも発展しそうだ。

指名手配犯の出頭を「見過ごす」という大失態なのに、追及を続けるマスコミはほとんど見かけない。この記事を探し出すのにも随分苦労した。今日は広島から受刑者が脱走というニュースもあり、社会の治安と国民の安全を守る警察機構の怠慢ぶりに危機感を募らせ、厳しく指弾しなければいけないと思うのに、あっさり扱わなくなっている。

「警察がどれだけ失敗しているか、という情報を流すほうが、一般市民の不安を煽り、かつ、犯罪を志向する者に、実際に犯罪遂行の一歩を後押ししてしまう」というような理屈は、尤もらしそうで本当に単なる怠慢のための言い訳でしかない。警察というのは、「万に一つの失敗も許されない」使命なのだ。最近、どこかで聞いたことがある。そう、原発に対しては「万に一つの失敗も許されない」と朗々と読み上げるのに、なぜ警察に対してはその姿勢が取れないのだ?

知らせないことが、事を穏便に済ませられる秘訣だと考えるような社会が、発展繁栄する訳がない。自分たちの住む国は、世界にも稀な凶悪テロの指名手配犯の出頭を見逃すような警察が治安維持の役割を担ってる国だという自覚は、そして、それを粘り強く指摘し続けることはマスコミの役目ではないということになっている国だという自覚は、持っておくべきだと思う。

Take me out of the rain

please don't say
It's too late 

このどうしようもない憂鬱が過去へのベクトルから来るものだというのなら
今度という今度は行けるところまで浴びてやる

In this town,
People don't care for thier neighbors 

畏怖の根源

昔のことだけ輝いてる そんなクラい毎日は過ごしたくない

十代の終わり、ある時点から、「死ぬ一秒前の自分」が突然いまの自分の前に思い浮かべられるようになって、それがやってきたときは悲鳴をあげるくらい怖くなる。

それがやってくるのは寝入りばなが多い。もしくは眠いのを堪えているとき。どうやら睡眠と深く深く関わっている。今、こうやって「死ぬ一秒前の自分」を思い浮かべても恐怖はやってこない。

今まではその恐怖は、「死ぬ一秒前の自分」という、「未来」に向けてのものだったのが、先日、遂に、「過去」に向けて感じてしまった。

眠気を堪えていたとき、大学生の頃を思い浮かべて、「あれからもう20年も経ってしまったのだ」という恐怖。

この恐怖の大事にする方法を、未だ僕は知らないけれど、大事にしなければいけないことは判っている。

淋しそうに太陽が沈んでも
君は今もきっと笑っている 

『暇と退屈の倫理学』/國分功一郎

できたら、「暇と退屈の経済学」が欲しかったな。

とにかくおもしろかった。掛け値なしに。これは誰にでも読んでほしいけど、とりわけビジネスマンに読んでほしい。それも、「社会とはこういうもんだ」「会社とはこういうもんだ」というような、定番のセリフを口にする、「諦めてる」ビジネスマンに。それにしても、年初にこんなことを書いてすぐにこういう本に巡り合えてしまう自分の引きの強さに感服(笑)。

新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

僕は、歴史は終わらないと思う。それは、一日中暇になるような世界は、経済が許さないから。本著も、マルクスが語ったのは「労働日の短縮」であって「無くすことではない」と言っているけれど、経済は、今までのやり方をより短時間で、より簡単に、より効率的にできるようにして「余暇」を産み出す方向に動きながら、その一方で、その動きは新しい「余暇の削減」を生み出している。本著に沿って言うと、より短時間で、より簡単に、より効率的に、という動きは「習慣」の獲得で、新しい「余暇の削減」という動きは、「退屈の第三形態と第一形態のセット」ということになると思う。より具体的な例で言うと、情報通信技術は正にそれだと思う。情報通信技術の発達で、生産も、ニュースの伝達も、医療も、ありとあらゆるものが、より「習慣」化されていっているけれど、人々は「携帯」により時間を注ぎ込んでしまい、「余暇」は削減されていっている。本来なら、モノを考えるべき「余暇」は、ソーシャルと言われる、双六よりもあっけない携帯ゲームの中に「消費」されてしまう。

だから、歴史は終わらない。世界は終わらない。最適な「余暇」の比率なんて、誰にもわからない。

僕が「できたら”暇と退屈の経済学”が欲しかった」と思ったのは、本著はカバー裏表紙にも書かれているように、ウィリアム・モリスを引合いに出し、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」という問題意識で貫かれているんだけど、現在の世間の不安感というのは、「パンだけを求めねばならない世界に、戻ってしまうんじゃないの?」という不安感のウェートが高まってきてるんじゃないかと思うから。

「生きることはバラで飾られねばならない」という姿勢は、「革命が起こってしまったらその後どうしよう」とウィリアム・モリスが考えたのと同じように、「ある程度、パンには困らない世界が出来上がっていて、なおかつ、そのパンを得るために四六時中、仕事をしなくてもよい」世界に住んでいるから、考える意味のある命題だと思う。実際、現代日本で起きていた空虚感とか、素人目には病理としか思えないような精神的な出来事の数々は、高度経済成長期を経て、「余暇」を持てるようになった日本社会が、「暇と退屈」について考え抜くことをしてこなかった結果だと僕は思ってる。「余暇」が出来たのに、そこにも更に「働け、働け」とやっていけば破綻するのは目に見えているし、「余暇」を「退屈の第二形式」で過ごすことの意味を捉えようとしていなかったからだと思う。でも、今の経済状況は、「後戻りするのかも知れない」という不安が中心にあると思う。「今は、そこそこパンには困らないけれど、明日、急にリストラにあって、退屈の第三形式を経ずに、退屈の第一形式に叩き落されてしまうかもしれない」という不安。そういう不安が広がる中では、この『暇と退屈の倫理学』は、少し上滑りに感じてしまう。「やっぱり、思想では食えないよね」というような。

もちろん、そういう循環の構造もまた、『暇と退屈の倫理学』では考慮されているし、かつ、そこにウェートを置くのは本筋ではないというのは判ってます。でも、どうしても、本著の進み方というのは、「右方上がりの経済」的な、「経済は進化する」前提で成り立っているようで、そこが、現在起きている不安を少し取りこみきれないのかな、と思う。

なので、結論章で、「本著を通読することで、読者であるあなたが何を考えたか大事なのだ」という訴えには何も反論するところがなく、現代が「安易に結論を手に入れたがる」社会であるのは、「考える」という重労働、つまり「不法侵入」に耐えかねてすぐに「習慣」に逃げ込もうとするからだ、ということになるんだけど、それでも少し食い足りない気持ちは残った。余暇が生まれることで、考えることができる、考えてばかりではなく、「退屈の第一形式→第三形式」と「退屈の第二形式」が入り混じり、考えつくされたことについては「習慣」となり、考えることだらけになる訳ではないのが「生」、なんだけど、その「考える」ための時間である「暇」は、現在がもしかしたら最大で、縮小していくのかも知れない。

もう一点、「贅沢」に関して、「浪費」と「消費」の違いを説明する際、「物を受け取る」と、「物」という単語を使っているところが、若干、判りにくかったかな。僕は、ここでいうのは、明らかに、実体を伴う「物質」ではないと思っているんだけど、実は、実体を伴う「物質」を受け取れることだけが「浪費」だと、著者は言ってるんだろうか?

425500613X 暇と退屈の倫理学
國分 功一郎
朝日出版社 2011-10-18

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初書店・初買いはこの一冊-『暇と退屈の倫理学』/國分功一郎

「自分の仕事」を考える3日間”から始まり、ずっと「仕事」を考え、『わたしのはたらき』を読み、年末に『日本人はどのように仕事をしてきたか』『いま、働くということ』を読んで、「働かなければ食べていけない、これは動かしがたいしどれだけ豊かになっても気を抜けば困窮するのが資本主義経済、けれど青天井だからどこかで転落が発生してバランスを取っているのが資本主義経済としたら、考えないといけないのはやはり「余暇」の在り方だ」と思い至り、それはそうと本屋の初売りにでも行こうっとと、ジュンク堂って今日から開いてたっけ??とジュンク堂HP見てみたら、でかでかと「店長の一押し!」の文字と共に「ヒマか!?」の文字!!

読みます!!

根性無くても言える

ハイテク進み、心の豊かさ遅れるわが国の
如何ともし難いところ なんてどうでもいいか
いやいやよくないな 

あけましておめでとうございます。
目下ご覧頂けていた確実な実績1名様というブログですが、今年も飽きずに続けます。
よろしくお願い申し上げます。抱負なんて、書きません。
強いて言えば、今年は「書く」に拘ろう。

おいしい匂いに敏感なのは才能だけど
節操ないのは 厚化粧よりぜんぜんいやだ 

20年近く前に、もうこんなこと言ってたんだなーB'z。凄いなやっぱ。
20年経った今も、なんも変わってなさそうですよ、心の豊かさ。
新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

根性無くても、言えるんだよ。 

OUT OF CONTROL 思うようにはいかないよね
DON'T YOU LOVE ME? これが住み慣れた街だ 

B00005F5A7 RUN
KOHSHI INABA B’z
BMGルームス 1992-10-28

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”しっかりやりましょう”-『あたまの底のさびしい歌』/宮沢賢治・川原真由美

2011年今年最後のエントリーは、長居したitohenで買った記念の一冊、『あたまの底のさびしい歌』。

うまいことを考えることは広告詐欺師へ任せる。 

自分の死後、手紙というものが公にされるのって、どんな気持ちなんだろうか?と少し胸が苦しくなる。自分だったら相当厭なことだなあと思うけれど、本著は敬愛する宮沢賢治の、作品から知る人物像ではない、作品を作らんとする人間である宮沢賢治を知れて、作家とは作品だけで向き合うのがよいのか、作家という人間全体を知ろうと様々な資料に当たるほうがよいのか、考えは巡る。けれどとにかく、この本を手にしたことは最高によいアクションだったと思う。

幾つかの手紙で、賢治は相反する概念を並列にする。「恋してもよいかも知れない。また悪いかもしれない。」「だまって殺されるなり生きているなりしよう。」「すべては善にあらず悪にあらず」等々。こういう賢治の言い回しでわかるのは、世の中のどんなことも一義的ではないと肝に銘じる賢治の意志の強さ。どう考えたってそれは善いことでしょう(または悪いことでしょう)という行為でも、それは悪いことだ(もしくは正義だ)と訴える、それも自分にとっての都合・利得で言うのではなくそう信じて訴える人がいて然るべきなのだということを、賢治は強く肝に銘じようと努めていたのだと思う。もしくは、善とか悪とかを決めるのは、自分でもなければ誰か別の人でもない。そういう価値判断は、人間が下すべきものではない、と。

そうやって、諸々様々の視点が入り乱れることを賢治は許容し、その結果当然に混濁させてしまうことになる世界の中で、「しっかりやりましょう。」とただひたすらに繰り返す手紙を賢治は書く。この「しっかりやりましょう」の反復に、僕は胸を打たれる。すべてを認めてしまったら、後は「しっかりやりましょう」とお互いに声を掛け合うのみなのだ。

私共の心としては
「真理」よりも
「真理を得了った地位」を求め
「正義」よりも
「正義らしく万人に見えるもの」を索ねている事が度々あります。
見掛けは似て居ますがこれこそ大変な相違です。 

賢治が生きた時代は日本にも資本主義が定着していく明治後半~昭和初期なので、どれだけ賢治が崇高な理念を持っていてそれを語れたとしても、勤労に励むことが社会の通念に沿っている時代で、賢治自身も「働いていない自分、こんなんじゃダメだ」と苦悩したことが、手紙の端々から読み取れる。最近、仕事に関する書籍を二冊読み、その歴史、経済の仕組に応じたことが倫理観となって普及させられていくことを学んだところなので、その重さを痛感する。作家の側面を知るということの意義は、こういうことなのだと思う。

488008347X あたまの底のさびしい歌
宮沢 賢治 川原 真由美
港の人  2005-12-01

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ロングライド 綾部

書いたつもりになってました。今月の初め、12/3に綾部までツーリングしてきました!

ほんとうは日本海側まで走り切って、一泊して翌日電車輪行で帰ってくる、というつもりだったのです。距離にして200km。朝5:00に出発して、ルートラボで調べたアップダウン具合と自分の足と経験から、夜18:00に着けたらいいところだろう、と考えて。

ところが当日は小雨が降る極寒のコンディション、いろいろ見込み違い準備不足が祟り、途中で目標をとりあえず100km地点の綾部に変更、12:30過ぎに到着してギブアップ。その時のメモを残していたので、今後のロングライドのために。

  • 鞄は重い。荷物は送るべき。
  • 足が相当つった。寒さ?ニーウォーマーのしめつけ?
  • 冬のツーリングは100kmまで。
  • 登りで足を失う。
  • 苦手なのは向かい風。
  • とにかく足がつったことがいちばんつらい。
  • サドルのセッティング。しめつけトルクは重要。
  • ガーミンの案内には慣れた。
  • シューズカバーは気休め。グローブは相変わらず強力。デフィート最強。
  • 補給食はあまり早く食べてはいけない。
  • 軽いギアだと空回り気味になり、そこから一段あげると重い。確かにスプロケがほしくなる。
  • フォームがだいぶ崩れている。特に背中。それから踵が下がる。
  • コンビニがどこにでもあると思ってはいけない。100kmのときはルートプランは慎重に。

春先に、必ず日本海到達ロングライド、リベンジ果たします!