Training for NOT 若草山ヒルクライム#03

油断してたら自分の年代のクラスCは募集終了、若草山ヒルクライムチャレンジは夢と消え、失意の中のトレーニング。

それでも今日から負荷レベルを1段階上げてトレーニングしようと思ったのに、車体が若干傾いてるわケイデンスセンサーがずれてるわ、トレーニング始める前にちょこちょこと直さないといけないことが出て手間がかかってすっかりテンションダウン。10分しか回す気になれず早々終了。これじゃ気分転換になりません!

それにしても若草山ヒルクライム、事務局に「キャンセル待ちできませんか?」と連絡してもレスポンス全くなし。なんというか、奈良のこの手のイベントとかの連絡体制って未整備なことが多いように思う。不慣れと言うか。参加者は、一刻も早くレスポンスが欲しいものだということを、理解していないことが非常に目につくし、中途半端な告知を先出しして、本発表したことを告知しないとか。体質なんかな。

初とうたりんぐ

念願の「とうたりんぐ」に行ってきました!

「とうたりんぐ」は、山崎貴氏や河瀨直美氏の撮影現場にケイタリングしているこみずとうたさんのお店。河瀬監督の映画『朱花の月』の主演男優さんでもあります。

  • サイトは確か11:00~と書いてたと思ったんですが、着いたら12:00 OPENでした(笑)。
  • かぼちゃのイエローカレーを食べました。具としてかぼちゃが入ってるってレベルじゃなくて、カレー自体かぼちゃの味がします!おいしいです。
  • 並を頼みましたが結構な量です。後から来た女性は、僕の並を見て「小で」と言ってました。
  • 店内は狭めです。3、4人くらい?温かくなったら、テイクアウトして公園で、なんかもよさそう。ゴミはちゃんと処理してね!

あの辺、あんまり歩いてなかったんですがところどころ店が増えてておもしろかった!

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1/17

今年は、1/17ということを一切書いたり語ったりせずに一日を過ごしました。

もちろん、1/17という日を忘れてる訳でも、忘れたい訳でもありませんが、去年、3/11があって、1/17への感覚が少し変わりました。

というのは、僕は今関西に住んでいますが、1/17を経験したとは言い辛いからです。

当時、僕は三重県に住んでいました。大学四回生で、卒論の提出に追われていました。確か、締切3日前とかそんな時期だったと思います。朝4時くらいまでワープロ(懐かしい)を打ち続け、目途が立って、やっと一眠りできると思ったら強めの地震が起きて、「頼むから寝かせてくれ!」と布団を被りました。翌日起きてみたら、母親が「えらいことになってるで」と言ってテレビを見させました。

三重は、大学のあった津の県庁の窓ガラスが全部割れた、というニュースくらいだったと思います。大きな被害はありませんでした。もちろん僕もなんの被害も遭ってないのですが、その年に社会人になり大阪に出て、一年間はいろんなところで惨状を目の当たりにしました。阪神高速の崩壊は今もまだ目に焼き付いてます。

関西に住んでいて、1/17を振り返るというのは、特別なことなんじゃないかと思います。人によっては前向きに語るでしょうし、人によっては深刻に語るでしょうし、人によっては軽く語るかも知れません。でもどんな人にとっても多分特別なはずです。それを、コテコテの関西弁を喋るしキツいツッコミもするけれどもその当時関西に住んでおらず経験していない自分が、1/17について振り返るというのは、何か違和感を覚えたのです。3/11があって、それをあんまり「自分事」として捉えてるようにはみえない関西に住んでて。

どんなに真剣に1/17を考えたとしても、あの日被害にあった方々から見れば、やっぱり僕のやってることというのは「余所事やってる」ように見えるのかなと。だったら、1/17について、大袈裟に振り返るような姿勢そのものをやめてみたほうがいいのかも知れない。そう思ったのです。

臥龍坊!

雑誌で見かけてずっと行きたかった「臥龍坊」に、行ってきました!「ウォロンファン」と読みます。

元は三条通りで営業されてたそうです。それこそ何度も何度も行ってるのに全然知らなかった~。

紹介されてた記事で、イートインが2席だけある、ほぼテイクアウト専門のお店と書いてあって、「買い食い」店の大好きな僕は行きたくてしょうがなかったのです。

店頭に立っておじさんとお話してたら迷い始めて、そしたら「寒いから中に入って待ってください~」と言われてお店の中に。看板の台湾バーガーと、併せて酸辣湯麺を買おうかと思ったんだけど、店の名前のついてる臥龍麺を見つけて「これどんなん?」と聞いてみたら、

「醤油ラーメンと思ってもらったらいいですー。3度味が楽しめますー。」とおっちゃん。

「3度ってどういうこと?」と聞いたら、

「最初はそのまま食べて、1/3ほど食べたら豆板醤入れて食べてもらって、また1/3食べたら最後はお酢を入れて食べてもらいます」とのこと。豆板醤はつけてくれるって。

食べ方の説明写真(笑)。
これしかない!と買って帰りました。

台湾バーガーは「割包」、具の豚角煮の油分のとろけ具合とか舌触りとかも抜群で、さらに外皮の饅頭が凄く美味しい!弾力があって食べると跳ね返ってくる。そしてほんのり甘い。これはファンになります。

臥龍麺は、麺が太麺でとてもやさしい味です。辛いの大好きなんでさっさと豆板醤入れようかと思ったんですが、ベースのスープがあっさりしてるのに旨さをしっかり感じられるスープで、そのまま食べきってもいいくらいおいしかったです。

ええ店みっけた。


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Training for 若草山ヒルクライム#02

思いの外雑仕事に手間取り、実走するのが面倒になり室内練習。前回同様30分。

 

前半10分をHR level2、後半20分をHR level3に設定しているものの、基本的には85~90rpmを維持し、後半は前半からリアを1段重くする設定。前回よりもスタート時のリアを1段重くしてみたけれど、平均ケイデンスは3rpmしか落とさなかったので上々。

あまり重くするのは地足を鍛えることに繋がらないそうなので、次回からはローラーの強度を上げてトレーニング。

そろそろ、週に1回でもインターバルを入れたい。それと、早い段階で一度、コースを実走しておきたい。

Training for 若草山ヒルクライム#01

楽しさだけがゴールでそれが満足の人生なら要らない。

誰かの不幸せの上に成り立つ生活(くらし)
昔から気づいてるよ 

若草山ヒルクライムの出場を真面目に決意したので、トレーニングも真面目にやろうと決心。

ヒルクライムのためにはどんな練習が必要か?と調べ考えてみたけど、やっぱり基本に戻って心拍だろうと。特に若草山ヒルクライムは距離にして3.4kmと短距離決選なので、どれだけ心臓が強いかが重要と思われる。

なのでインターバルトレーニングを中心にしようと思いましたが、時間のあるときはできるだけ長い時間乗って地足を鍛えることに。

このペースであれば以外といつまでも回していられる感覚。次回、30分回せる際はもう1段階ずつHRレベルを上げてみよう。

トレーナーの負荷を上げるのも有効のようなので、インターバルトレーニングの際、活用しよう。


YouTubeでどれだけ探しても、『okay』のPVがないんだよなー。

B003UIUBT4 Hadou
稲葉浩志
バーミリオンレコード 2010-08-18

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誰ひとり 待ってはいない
それを 知っていても
大事なこと 感じてみたい
だから 行ってみよう 

そしてそれは、楽しいことだけではないはずだ。 楽しくなくても、大事なことがあるはずだ。

ごめんで済んだら警察いらんのじゃ!

警視庁失態 平田容疑者を“門前払い” - 社会ニュース : nikkansports.com
同庁は応対に問題がなかったか詳しい経緯について調べる方針。警視庁管内をはじめ、全国の警察署では平田容疑者の等身大ポスターを入り口などに掲示している。平田容疑者を“門前払い”してしまうなど緊張感の欠如を象徴する事案の発覚で、関係者の責任問題にも発展しそうだ。

指名手配犯の出頭を「見過ごす」という大失態なのに、追及を続けるマスコミはほとんど見かけない。この記事を探し出すのにも随分苦労した。今日は広島から受刑者が脱走というニュースもあり、社会の治安と国民の安全を守る警察機構の怠慢ぶりに危機感を募らせ、厳しく指弾しなければいけないと思うのに、あっさり扱わなくなっている。

「警察がどれだけ失敗しているか、という情報を流すほうが、一般市民の不安を煽り、かつ、犯罪を志向する者に、実際に犯罪遂行の一歩を後押ししてしまう」というような理屈は、尤もらしそうで本当に単なる怠慢のための言い訳でしかない。警察というのは、「万に一つの失敗も許されない」使命なのだ。最近、どこかで聞いたことがある。そう、原発に対しては「万に一つの失敗も許されない」と朗々と読み上げるのに、なぜ警察に対してはその姿勢が取れないのだ?

知らせないことが、事を穏便に済ませられる秘訣だと考えるような社会が、発展繁栄する訳がない。自分たちの住む国は、世界にも稀な凶悪テロの指名手配犯の出頭を見逃すような警察が治安維持の役割を担ってる国だという自覚は、そして、それを粘り強く指摘し続けることはマスコミの役目ではないということになっている国だという自覚は、持っておくべきだと思う。

Take me out of the rain

please don't say
It's too late 

このどうしようもない憂鬱が過去へのベクトルから来るものだというのなら
今度という今度は行けるところまで浴びてやる

In this town,
People don't care for thier neighbors 

畏怖の根源

昔のことだけ輝いてる そんなクラい毎日は過ごしたくない

十代の終わり、ある時点から、「死ぬ一秒前の自分」が突然いまの自分の前に思い浮かべられるようになって、それがやってきたときは悲鳴をあげるくらい怖くなる。

それがやってくるのは寝入りばなが多い。もしくは眠いのを堪えているとき。どうやら睡眠と深く深く関わっている。今、こうやって「死ぬ一秒前の自分」を思い浮かべても恐怖はやってこない。

今まではその恐怖は、「死ぬ一秒前の自分」という、「未来」に向けてのものだったのが、先日、遂に、「過去」に向けて感じてしまった。

眠気を堪えていたとき、大学生の頃を思い浮かべて、「あれからもう20年も経ってしまったのだ」という恐怖。

この恐怖の大事にする方法を、未だ僕は知らないけれど、大事にしなければいけないことは判っている。

淋しそうに太陽が沈んでも
君は今もきっと笑っている 

『暇と退屈の倫理学』/國分功一郎

できたら、「暇と退屈の経済学」が欲しかったな。

とにかくおもしろかった。掛け値なしに。これは誰にでも読んでほしいけど、とりわけビジネスマンに読んでほしい。それも、「社会とはこういうもんだ」「会社とはこういうもんだ」というような、定番のセリフを口にする、「諦めてる」ビジネスマンに。それにしても、年初にこんなことを書いてすぐにこういう本に巡り合えてしまう自分の引きの強さに感服(笑)。

新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

僕は、歴史は終わらないと思う。それは、一日中暇になるような世界は、経済が許さないから。本著も、マルクスが語ったのは「労働日の短縮」であって「無くすことではない」と言っているけれど、経済は、今までのやり方をより短時間で、より簡単に、より効率的にできるようにして「余暇」を産み出す方向に動きながら、その一方で、その動きは新しい「余暇の削減」を生み出している。本著に沿って言うと、より短時間で、より簡単に、より効率的に、という動きは「習慣」の獲得で、新しい「余暇の削減」という動きは、「退屈の第三形態と第一形態のセット」ということになると思う。より具体的な例で言うと、情報通信技術は正にそれだと思う。情報通信技術の発達で、生産も、ニュースの伝達も、医療も、ありとあらゆるものが、より「習慣」化されていっているけれど、人々は「携帯」により時間を注ぎ込んでしまい、「余暇」は削減されていっている。本来なら、モノを考えるべき「余暇」は、ソーシャルと言われる、双六よりもあっけない携帯ゲームの中に「消費」されてしまう。

だから、歴史は終わらない。世界は終わらない。最適な「余暇」の比率なんて、誰にもわからない。

僕が「できたら”暇と退屈の経済学”が欲しかった」と思ったのは、本著はカバー裏表紙にも書かれているように、ウィリアム・モリスを引合いに出し、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」という問題意識で貫かれているんだけど、現在の世間の不安感というのは、「パンだけを求めねばならない世界に、戻ってしまうんじゃないの?」という不安感のウェートが高まってきてるんじゃないかと思うから。

「生きることはバラで飾られねばならない」という姿勢は、「革命が起こってしまったらその後どうしよう」とウィリアム・モリスが考えたのと同じように、「ある程度、パンには困らない世界が出来上がっていて、なおかつ、そのパンを得るために四六時中、仕事をしなくてもよい」世界に住んでいるから、考える意味のある命題だと思う。実際、現代日本で起きていた空虚感とか、素人目には病理としか思えないような精神的な出来事の数々は、高度経済成長期を経て、「余暇」を持てるようになった日本社会が、「暇と退屈」について考え抜くことをしてこなかった結果だと僕は思ってる。「余暇」が出来たのに、そこにも更に「働け、働け」とやっていけば破綻するのは目に見えているし、「余暇」を「退屈の第二形式」で過ごすことの意味を捉えようとしていなかったからだと思う。でも、今の経済状況は、「後戻りするのかも知れない」という不安が中心にあると思う。「今は、そこそこパンには困らないけれど、明日、急にリストラにあって、退屈の第三形式を経ずに、退屈の第一形式に叩き落されてしまうかもしれない」という不安。そういう不安が広がる中では、この『暇と退屈の倫理学』は、少し上滑りに感じてしまう。「やっぱり、思想では食えないよね」というような。

もちろん、そういう循環の構造もまた、『暇と退屈の倫理学』では考慮されているし、かつ、そこにウェートを置くのは本筋ではないというのは判ってます。でも、どうしても、本著の進み方というのは、「右方上がりの経済」的な、「経済は進化する」前提で成り立っているようで、そこが、現在起きている不安を少し取りこみきれないのかな、と思う。

なので、結論章で、「本著を通読することで、読者であるあなたが何を考えたか大事なのだ」という訴えには何も反論するところがなく、現代が「安易に結論を手に入れたがる」社会であるのは、「考える」という重労働、つまり「不法侵入」に耐えかねてすぐに「習慣」に逃げ込もうとするからだ、ということになるんだけど、それでも少し食い足りない気持ちは残った。余暇が生まれることで、考えることができる、考えてばかりではなく、「退屈の第一形式→第三形式」と「退屈の第二形式」が入り混じり、考えつくされたことについては「習慣」となり、考えることだらけになる訳ではないのが「生」、なんだけど、その「考える」ための時間である「暇」は、現在がもしかしたら最大で、縮小していくのかも知れない。

もう一点、「贅沢」に関して、「浪費」と「消費」の違いを説明する際、「物を受け取る」と、「物」という単語を使っているところが、若干、判りにくかったかな。僕は、ここでいうのは、明らかに、実体を伴う「物質」ではないと思っているんだけど、実は、実体を伴う「物質」を受け取れることだけが「浪費」だと、著者は言ってるんだろうか?

425500613X 暇と退屈の倫理学
國分 功一郎
朝日出版社 2011-10-18

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