『プロジェクトジャパン』来た

レム・コールハースの『プロジェクトジャパン』到着!

今この時なら当然「プロジェクトジャパン」というと東日本大震災の復興復旧を思い起こしますが、この本のタイトルである「プロジェクトジャパン」は、主に戦後日本の建築界を席巻した「メタボリズム」とその周辺を指してます。レム・コールハースは、コンペに際し「ブックレット」という資料集を作るそうですが、この『プロジェクトジャパン』も正にそんな感じ。分厚いブックレットです。

『プロジェクトジャパン』という著名がなんとなく商売上手に感じもしますが、「戦後日本の復興」のシリアスさは、東日本大震災からの復興復旧のシリアスさに勝るとも劣らないと思いますし、そのシリアスな局面で生まれたのがメタボリズムだとしたら、東日本大震災における復興復旧にとっても振り返るべきものだろう、少なくとも比較検討に値する、というのは頷けます。

僕は、気をつけないといけないのはやはり人口減かなと思います。本著でも繰り返し出てきますが、戦後日本の復興局面では、経済成長と人口増加への対応策が主軸だったと思います。キャパシティの確保・増強をいかに保証していくか。東日本大震災における復興復旧は、一見、メタボリズムの柔軟性・拡張性が有効そうに思えたけれど、その性質が「何に」対する回答なのかを考えると、相応しくないかもしれないと思います。

 

Project Japan, Metabolism Talks… Project Japan, Metabolism Talks…
Hans-Ulrich Obrist Rem Koolhaas

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ビジネスの基本 再教育

案件が圧倒的に不利な局面で、どういうふうに行動するか。

いわゆるアメリカ資本主義的ビジネススタイルでは、かける労力と得られると予想されるリターンとの兼ね合いで行動を決定する。他方、日本的根性主義ビジネススタイルでは、とにかく結果が出るまでは諦めず食い下がれと発破をかけられる。

僕は結局、この両方に毒されていた。正しい行動は、このどちらでもない。

まず第一に、仮に失注したとして、結果が出た後、失注の理由を確認すること。お客様の決定には様々な理由があり、提案の是非だけでは残念ながらないので、教えてくださいと言っても本当のことを教えてもらえるかどうかはわからない。それどころか、こちらはお客様にとって断っている相手なのだから、本当のことを話してくれない確率の方が高い。それでも、その理由を教えてくださいと、お願いして訪問するべきだ。その理由は2点:①失敗の原因の情報を蓄えることは、今後の勝率を高める上で必要な情報②そのお客様との関係を重視する。特に関係を維持したいのであれば、態度で示さなければならない

次に、ほぼ絶望的な状況だとして、後は流れに任せるのか。これは、結論が出るまで諦めるべきではないが、「諦めるべきではない」ということが、どういう行動をすることなのかは、注意する必要がある。あくまで、よりお客様にとって有益になるように改善するために行動をするのであって、自分達の状況を有利にするための手を打つような行動であってはならない。同じようなことに聞こえるが全く違う。仮に、「御社の提案を聞くのはこれが最後です」と言われたとしても、どうしてもそのお客様から受注したいのであれば、改善余地があれば改善させてほしいという情熱を訴えてみるべきだ。有用性を高めるという理由であれば、お客様に納得して頂ける可能性はあるが、単に見積提示を差し替えさせてほしいという自社都合での行動は、敗因のひとつになるだけだ。

最後までやり切る、ということを誤解している人間に、毒されてしまっていた。効率的にビジネスをするという人間に、毒されてしまっていた。ビジネスの基本は、どれだけお客様に有用性を提供できるかであり、その核を無くしたビジネスが、長期間順調に進むことは絶対にない。

こんな基本的なことは、この年になると誰も改めて指摘してくれない。心底感謝するばかり。

アメリカ資本主義的ビジネススタイルも、日本的根性主義ビジネススタイルも、どっちも結局「うまいことやろう」という性根以外の何物でもない。そうしてもしなくても、うまいこと行くときもあれば行かないときもあるが、どうせそうなら、お客様にきちんと有用性を提案できるように、王道で活動するのが最もよいと改めて信じることが出来る。


自分の幅を広げるために、様々なところから情報を得たり、様々な場面に出向いたりしていたが、こういうことはすべてバランスなのかも知れないが、そういう間接的な場面で得たことが本業で生きると思っていたものの、そんなことよりまずやっぱり「本業」に集中することが改めて重要だと思い至った。お客様により多くの時間を割くこと。これがいちばん必要なことだ。

アルミフレンチバルブキャップ

着けてみました。

リアのバルブキャップがあまりにもよく割れるので、アルミ製のものに変えよう変えようと思いながらなかなかできず、やっと変えてあげました。

バルブキャップを変えようという人は、だいたいファッション性を重視してのことなのか、お店に置いているバルブキャップもカラーだったりフィギュアがついてるみたいなので、シンプルに「黒」というのがなかなかなくて意外と手こずった記憶があります。Y's ROAD大阪で購入。

 

多分これだと思うのです。

アリゲーター アルミフレンチバルブキャップ (仏式)1個 ブラック アリゲーター アルミフレンチバルブキャップ (仏式)1個 ブラック

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オレは負け犬なのか

それは難しいことなのか?やはり、常に上を上を目指さなければ、どこかで行き詰ってしまうものなのか?経済は常に成長を必要とするから。しかし、グローバル企業に勤めながらここ最近、ローカルのSI企業にコンペで負けることが相次ぎ、その理由はほとんどが構築作業費が無償に近い金額でローカルSI企業が提案してくるから、でも彼らはそれで食べていけている。この差はどう考えればいい?グローバル企業が存在するが故に、価格戦略でローカル企業が優位に立つことができている。

もしかしたら、この会社をここでドロップしても、このローカルな土地を愛して生きて行く道があって、それは、今思い描いているような惨めで負け犬なものではないのかも知れない。それなら「規模の経済」をグローバルに喧伝したアメリカの一企業を、肌で知っているのは悪くないことだいう意義もある。

目の前には大きな壁がある。その壁はチャンスの裏返しでもある。周りを見れば、その壁に挑む機会さえ与えらない人も、偉そうな言い方だが、何人もいる。チャンスを目の前にするたびに怖気づいて逃げを打ち、チャンスを棒に振ったことを、吹聴しないまでも安心の材料にして過ごしてきたようなところがある。
それまでの経験を財産として売り物として、違う組織に、違うマーケットに、身を移していくことは戦略として何も間違っていない。けれども、移した先で新たな経験と財産を持たなければ、単に貯金を切り崩しているのと同じことになる。オレは直近はそうやって暮らしてきたに相違ない。現状の自分の能力と実績以上の収入を得てしまっているに相違ない。だから身動きが取れない。

この、収入のジレンマを無視するとしても、自分に何ができるのか、という根本的な答えがないから、何がやりたいのかという前に、何かをしようという決断もできない。ビジネスパーソンとしては完全に力量不足で、今、目の前のチャンスに挑戦するとしても、その挑戦するモチベーションが結局、「ここではないどこかにはいけないから」という、究極に消極的なものになる。これこそ、負け犬ではないか?

何かに踏み出したくても踏みさせる先が見いだせない。収入のジレンマは無視しない。これは「遣り甲斐」とかで片の付く問題ではないし、かと言って、収入という「結果」を追い求めるだけでも解消しない。オレは負け犬なのか?自分で決めたときから負け犬は負け犬になる。時間がかかっても無理矢理でもこのモチーフと格闘していくしかない。それが金銭的な結果ではなくとも、インプット&アウトプットで進んでいくしかない。 

『来たるべき蜂起』/不可視委員会

4779114802 来たるべき蜂起
不可視委員会 『来たるべき蜂起』翻訳委員会
彩流社  2010-05

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『来たるべき蜂起』はフランスで2007年に刊行されたもの。本書は2009年の『焦点を合わせる』が所収された増補版の訳書。僕にとってのポイントは3つ:

1.これは基本的には「目には目を」の思想である。
2.「蜂起」は比喩ではない。
3.フランスの思想に触れるときはいつも、相対するように見えるものがそれぞれお互いの一部であり、あるものはあるものの一部であり、それが一つのものに見えるように見えて実は既に異なるものに変わってしまっている、ということが詳らかにされる。そうやって常に出口を切り開いてきたが、遂に出口などないということが語られている。

コミューンとは何か。コミュニティとは何か。コミューンであれコミュニティであれ、何かひとつの集団を形成するとき、形成する成員につきまとうあの選民感情、特権意識、優越感。たとえそれが「自由」を標榜するコミュニティとしても、コミュニテイである以上はコミュニティの内と外を造り出してしまうことに、気づかない。本著ではこう記される。

そうしたものをネットワークと呼んだところで、それらは結局のところひとつの界(ミリュー)として固着してしまう。そこではコード以外何も共有されず、アイデンティティの絶え間ない再構築が行われるだけである。

労働を憎む。労働こそが、この資本主義社会を維持してしまう装置になっている。もちろんこれを額面通り受け止めて自らの行動に直結させることはできないが、誰もが薄々感じていながら口に出さなかった多くのことの一つとして、現在を考える上で認識しておかなければならないことのひとつ。

これからも消費するために消費を減らし、これからも生産するためにオーガニック商品を生産し、これからも規制するために自己規制すべきであると。

「タルナック事件」が明らかにした、国家によるテロリズム、「いずれ犯行に及ぶに違いないという憶測で」逮捕されたこの事件。それを可能にしたのは、人民の恐怖心なのだろうか。

いずれのテーマも、どこかに引かれる線-”界(ミリュー)”が問題になっている。自分が何者かを語ろうとするとき、自明のように「個人」の概念が用いられるが、「個人というあのフィクションは、それが現実化したのと同じ速さで崩壊してしまった。メトロポリスの子供としてわれわれは断言できるが、剥奪状態が極まったときにこそ、つねに暗黙のうちに企てられてきたコミュニズムの可能性がひらかれる」。

問題は、いつも境界だ。”界(ミリュー)”だ。どれだけ崇高な志から形成されたコミュニティでも、必ず”界”を準備する。そうして個人も”界”がなければ個人として成立できない。そのことに自覚的であり敏感であるコミュニティにお目にかかることは滅多にない。コミュニティを形成じた時点で、自分達のその崇高な志と相反するものを敵とするだけでなく、自分達以外のすべてを”界”の外側として敵に回しているということに自覚的でない。

それでもコミュニティが生き残り、コミュニティの生成が止まないのは、人間の生の循環が止まないからではない。人間の根源的な弱さ-それも無自覚的な弱さの故だと思う。都合のいいところだけを味わって、生きていきたいのが人間なのだ。そのご都合主義が、新たな「社会問題」を生み出し、それによって繰り返し疎外され、それをまた「社会問題」と定義づけられその解消に励むように誘導されてしまっているというのに。

コミューンの拡張にさいしてそれぞれが配慮すべきは、これ以上拡張すれば自分を見失い、ほぼ不可避的に支配階層ができてしまう規模を越えないということである。そうなったときコミューンは不幸な結果を察知しつつ分裂し、また広がっていくことを選ぶだろう。

カリスマとコミューンは矛盾する。コミュニティも然り。コミュニティにヒエラルキーは不要なのだ。某かの秩序を持ったコミュニティは、偽物のコミュニティだ。擬制なのだ。しかし、それには誰もが目を瞑ろうとする。

集合の欲求は人類にとって普遍であるが、決定を下す必要はめったにない。

Sid Vicious My Way [Official] - YouTube

auの「未来は選べる」CMで聴いて、懐かしかったので。

Sid Viciousと言えばパンク精神の体現と言われているし僕もそう思う。でも「パンク」って何だ?破滅的なことがパンクなのか?無政府主義がパンクなのか?反体制がパンクなのか?

Sid Viciousの"Vicious"はJohnny Rottenが付けたらしいが、Rotten曰く「Sidから最も遠い名前を付けた」。Sidがどんな人物なのか追求したことはないけれど、ありのまま振る舞った結果がああいう人生だという訳ではなさそうだ。極度の麻薬中毒だったというのも、快楽主義や安直な手出しというよりは、Sid Viciousとしての振る舞いの皺寄せを麻薬でごまかしていたくらい、「まとも」な精神性を持ち合わせていたのだろう。

初期のパンクは、政治的な反権力ではなく、音楽的な反権力を志向していた。ロックがどんどん複雑になり権威主義に陥っていくことに逆らったのだ。もともと権威など纏わない、純粋な音楽の楽しさを愛する人間が、その権威と対峙しようとすれば、ただの純粋な音楽好きのままでは戦えない。勢い、自分の素の姿ではないかも知れない、「反権力的な」振る舞いで戦わなければいけない。

僕がパンクを愛するのはそういうところなのだ。求めるもののために、自分の生来を曲げて無理をしてでも反権力を貫こうとする、そういうところ。

「模様より模様を造るべからず」 / 富本憲吉

先日、『行動主義 レム・コールハースドキュメント』を読み終え、その過程で興味が伸びていった先のひとつが「民藝運動」だった。

「民藝運動」という言葉は、柳宗悦が、「民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界。その価値を人々に紹介しようと、「民藝」という言葉を作った」ところに始まる。「道具は使われてナンボ」という感覚の僕にとっては、プラグマティズムにも通ずると思える民藝運動は全面的に受け入れてよい運動、のはずなのに、富本憲吉は一旦は民藝運動に参加しながら、その後離脱している。

ここが気になる。なぜ、富本憲吉は、民藝運動から離脱したのか?第一回の人間国宝の認定者のひとりである富本憲吉は、陶芸を、日用品ではなく芸術品としてのみ認めたということなのか?

ところがそうではなく、富本憲吉は「日常のうつわ」の作陶に非常な関心を寄せ、実際に「信楽、益子、瀬戸、九谷、清水(きよみず)などの名高い窯業地で、ご当地の素地に独自の模様を描いて、実用陶磁器づくりに取り組んだ」。富本憲吉はこんな言葉を残している。「私は今年から出来得る限り安価な何人の手にも日常の生活に使用出来る工芸品をこさえたいと思い出しました。このことは私に取って随分重大なことで、今後の私の進むべき道に非常な関係があることと思います」。

僕にはこの同郷の陶芸家の生涯に、思想に、僕が今追い求めている仕事の、生活の、スタンスの重要なエッセンスが見いだせるに違いないと思っている。芸術性と実用性がトレードオフするかのような、指向を追求すれば追求するほどマーケットは-マーケットという言葉に語弊があるのであれば「理解者」は-狭まっていきそれを選ばざるを得ないというような、そんな、いかんともし難いことと思い込んでいた理をブレイクスルーするエッセンスが見いだせるに違いないと思っている。

不安の影は既に見て取れる。この道は、孤独で孤高でなければ進めない道なのだ。そうであるが故が、富本憲吉が民藝運動を離脱することになった理由のひとつであると思う。社会において一つのムーブメントになることは、自分が正しいと信じたことを社会に伝播するために必要なことであり、一つのムーブメントにするためには、ある種の「理念の単純化」と「形式化」が欠かせない。これは、『歴史のなかに見る親鸞』を読んだときにも痛感したことだ。しかしそれは、自分が信じた理念を歪め、ともすれば骨抜きにする。富本憲吉は、その道を選ばなかったということだろうか?「模様より模様を造るべからず」-模様は自然の注意深い観察から生み出すべきであって、模様の安易な模倣は許さないと宣言したこの言葉は、それ以上の深いメッセージを発してるように感じる。

富本憲吉を追求する。

『行動主義-レム・コールハースドキュメント』/瀧口範子

行動主義―レム・コールハースドキュメント
行動主義―レム・コールハースドキュメント 瀧口 範子

TOTO出版  2004-03-15
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レム・コールハースは、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+ホウ・ハンルゥ というサイトで偶然知った。ハンス・ウルリッヒ・オブリストもホウ・ハンルゥも知らなくて、このサイトを知ったところから本当に偶然。このサイトを見るきっかけになったのは日経朝刊最終面に、森美術館で開催中の「メタボリズムの未来都市展」と関連づけて、メタボリズムが取り上げられていて、「メタボリズムとはなんだろう」と検索してみたところから始まった。そこでレム・コールハースを知り、レム・コールハースが『プロジェクト・ジャパン』という本を出すということを知り、そうしてこの本に辿り着いた。

レム・コールハースは、こういった風に書籍に取り上げられる他の著名人と同じで、天才であり超人だ。だから、このタイプの書籍を読むときにはいつも「鵜呑みにしてはいけない。自分の頭で考えて取りこむように」と意識している。それでも、レム・コールハースのスタイルには惹きつけられ、鼓舞されるようなところがある。

最も印象に残っているのは、「コールハースの仕事ぶりについて、彼をいくらかでも知っている人に尋ねると、「レムは編集者だ」という言葉がよく返ってくる」というくだり。「編集とは何か?」というのは、今年ずっと付きまとっている命題なんだけど、ここでは、コールハースの建築家としての活動の、世界と世界の"変化"を受け止め掘り下げその社会的な問題に深く関与していくというスタンスとイメージが重なりあう。コールハースはプラダ・プロジェクトに携わることで商業主義に堕落したという批判を受けるが、現代世界にショッピングが大きなウェイトを占めていることから目を逸らしても意味がない、という。

同様に、世界は常に変化を続け、好むと好まざるに関わらず、というよりも、ほとんどの人は変化を好み、その結果、今年は去年と、来年は今年と異なる洋服を纏いたいと思うものだ。そういった「欲望」からの変化への圧力と、世界が複雑になったが故に変化しなければならないという「必然性」からの変化への圧力によって、世界だけではなく個人も常に変化の圧力にさらされる。このような世界では、「未来永劫維持できる」建築や品物を創ることは到底不可能なのだ。住居ですら、一生モノではない世界なのだ。その住居の内部に存在させる品々を一生モノにしたところで、何の意味があるというのか?一生モノを謳える製品は確かにそれだけの耐久性とクオリティを保有しているかもしれない。しかし、もはや「一生モノ」を一生保有し続けることなど、「欲望」と「必然性」のどちらの観点からも能わない世の中で、「一生モノを保有すること・選択すること」に優越性を覚えさせるような価値観を流布することは、どちらかと言えば犯罪的だろう。不必要となる時間分の、余剰の金額を払わせてそれを自らの利潤としているのだ。

変化は受け入れるべきなのだ。変化が存在する以上、一生モノを選ぶモノと選ばないモノの、選ぶときと選ばないときの、その「選択の自由」を尊ぶような価値観でなければ現代には存在する意味がない。これが、僕がコールハースによって自信を与えられた僕の考えだ。そうして僕の興味はここから民藝活動にジャンプする。それはこの一節からだ。

”あえて何が僕の本当の審美感かというと、アルテ・ポーベラ(貧しい芸術)が最も深く僕をかたどっている。そのために用意されたのではないオブジェ、日常的でないものの美しさ、ランダムさ。現在の文明には、多くのランダムさと分裂が起こっている。その分裂を見出して美しさに転換すると、妥当なオブジェが生まれる。”

『そこへ行くな』/井上荒野

4087713989 そこへ行くな
井上 荒野
集英社  2011-06-24

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僕は小学五年生の冬、祖母を亡くした。

小説では、多感な幼少時代、肉親を亡くすような出来事に遭遇した子は、周りの子の呑気さ加減に違和感を覚え距離を覚えるようによく描かれるが、僕はどうだったのだろうか?そんな感情を覚えた記憶はない。ただただ悲しかった。祖母は一年近く入院しての闘病生活の末に亡くなった。気持ちの優しく、人情にも厚く義理堅くもある父母は僕と妹を連れて、毎週必ず車で片道1時間強の病院に見舞いに行った。半年以上が過ぎた頃、土日に満足に友達と遊びに行けないことを不満に思った僕は、父母に「もういい加減にしてくれ」というようなことを言った。今覚えば、そんなことを言えば間違いなく僕を殴り飛ばしたに違いない父に殴り飛ばされた記憶はない。相当に困り果てた空気が流れたのを覚えている。

祖母は入院していた病気ではなく、直接的には風邪で発熱し体調を崩してそうして亡くなった。その数週間前、まだ発熱もなかった頃、祖母がベッドに腰掛ける傍で風邪気味の僕がふざけてベッドに寝っころがっていたりして、風邪をうつしたのは自分だと思った。本当にそうなのかどうかはわからないまま、そう思わなければいけないような気がして、でも母も父も当然それを否定するし、そんな状況でそう思わなければならないと思ってそう思うこと自体が厭らしいことではないのかという非難にも苛まれた。苛まれたというほど自分を追い込めてはいないという思いも苦しかった。「もういい加減にしてくれ」という気持ちを抱いてしまったことの罪悪感も、同じだった。

本著『病院』の龍は、母親が「よくない病気」で「消えていく様子」をつぶさに感じている。しかし龍は、自分が置かれたその境遇から、周りの子が「ひどく幼く見える」と感じる、などとは描かれない。事実、龍はひどく幼い。いじめに遭い、階段から転げ落ちて骨折し、母と同じ病院に入院している泉と微かに心を通わせても、泉と病院で親しくしていたことを同級生に知られて同じようにいじめられることを恐れ、泉がもしそんなことを言っても全部否定してかかろうと考える。

ところがそんなことを考えていたとき、父と話しながら手に取った母の料理本に気付いてしまう。常にさばさばとした振る舞いのように見えた母の本心を。

ボールペンは、レシピを記した文章の中の文字の幾つかを丸く囲んでいた。マルとマルとは線で繋ぎ合わされ、辿っていくとひとつの言葉があらわれる。し、に、た、く、な、い。

僕はいつも、自分から見た祖母しか考えたことがなかった。自分が考える、祖母がどう考えていたのかだけを追い求めて、あの病床で祖母は何を考えていたのかということを、30年近く思い至らそうと考えたことがなかった。堪えきれなくなりそうだったがここで泣く訳にはいかなかった。感情というのは、なんだって発露すればよいというものではないのだ。発露して消化してそれで済ませてしまうようなところが感情にはある。感情には、そういうふうに使ってはいけない種類の感情が、確かにあるのだ。

『そこへ行くな』のタイトルの意味、短編ごとの意義、全編通してのメッセージ、そういうことを読み解くことは、僕にとっては今回はしなくてもよいことのように思える。これだけでよいのだ。

Preparation before しまなみアイランドライド その1

去年に引き続き、今年もやっぱりビンディングなしで行きます!

ボトルケージは2つつけてるけど、ボトルはいっこしか持ってなくて、その理由は、ケージの1つはTopeakのモジュラーケージという、サイズ変更したらボトルもペットボトルも入れられるヤツを使ってて、普段は走行中に買ったペットボトルをそのまま載せてるから。ボトル1つとペットボトル1つ。走りながら飲むのと、買ってすぐ搭載できる利便性と両方兼ねさせてるんだけど、今年のしまなみはボトル2つちゃんと持って行こうかと思い、そしてどうせボトル買うなら、東日本大震災復興の義援金に売上の一部が寄付される「Ride for Japan」プロダクトにしようと、CINELLIのRide for Japan water bottleにしました。限定個数だったのか、今まで見たことのあるサイトでは軒並み売り切れてて、BLUE LAGで在庫見つけたので即オーダー。今サイト見たらSOLD OUTになってたので、これが最後の一個だったのかな?

少し前にWiggleでオーダーしたRudy Project Rydon ImpactXも到着。日本国内で売られてる値段より¥10,000安い!Wiggleは何度も使ってるし使ってる人も多いので、ニセモノが送られてくるなんて思えないし、そろそろサングラスはきちんとしたものを買おうと思っていたので躊躇いなく購入。¥10,000も安くImpactXレンズのサングラスが手に入ってご満悦。

こうやって着々としまなみアイランドライドに向けて準備を進めてる中、ずっと迷ってたのが「いよいよビンディングにするか?」。纏まったお金が入った今、ビンディングアイテムを揃える好機。かなりの間悩み、出した結論は「ビンディング見送り」。

そもそもなぜ僕がビンディングを使ってないか?それは、ロードバイクを始めたとき、これがいつまで続く趣味になるかわからないから、必要最低限の道具を揃えるだけで始めようと思ったこと、最初からなんでもかんでも道具を揃えようとせず、必要最低限のものを揃えて、それである程度やれるようになって、道具の意味とかがわかるようになってから、ひとつひとつ買い揃えていこう、そう思ってビンディングは買わなかった。去年のしまなみは、フラットペダルで多々羅130を走った。その後、お金の問題と、僕はしばらく、遠出をしてその土地を愉しむというようなツーリングをしたいなと思い、乗ってるのがクロモリホリゾンタルで少しランドナーな雰囲気を持ってること、だからそのレトロ感にあったトゥークリップ・トゥーストラップがいいなと思ってそうしたこと。それも最初は安いトゥーストラップをつけて切れるくらいまで乗って、使いこなせるなと思って奮発して革製のトゥーストラップにしたり。

そんなことを思い出しながら、「やっぱり、僕のスタイルはトゥークリップ・トゥーストラップだな」と。とりわけ、今年のしまなみアイランドライドは、ひたすら足を突かずに完走を目指した去年と違い、いろいろ景色を楽しんだり、ファンライドしようと思ってる。それなら断然、ふつうのシューズのほうが楽しい。もしかしたら近々、ビンディングを求めることがまたあるかもしれないけど、しまなみに関してはいいだろう。というのが結論。

それでも悩んでるのが、今使ってるペダルが、本来はシューズに専用プレートを装着して嵌めるタイプのものなので、ペダルに凸部があって、それがプレートを嵌めてない普通のシューズだと食い込んでくることがある点。踏み込んでしまうと、足が痺れてくる。買い換えようかどうしようか。

それにしても、改めて、自分が書いた去年のしまなみアイランドライドのブログを読むと、すごく苦労して走りきったことがよくわかる。今の僕は「あれは完走できた」という頭があって、ビワイチも達成してるので、すこし安直に考えてるところがあったけど、去年のしまなみ、ほんとに苦しい思いをしながら完走したのだ。今年はさらに10km距離が伸びている。どんなに経験したことであっても、けして気を抜いてはいけない。経験は、物事に胡坐をかくために積むのではない。そう思いながら、今日はせっせとスプロケを洗浄し、ディレイラーを調整した。