これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍 早川書房 2010-05-22 by G-Tools |
断片的に語りすぎる。それは世界中どこでも共通の言論の癖なのかも知れないけど、この日本では間違いなくそれが当てはまっていると思う。例えば、本著のp231、「実力主義の社会につきものの独善的な前提、すまり成功は美徳がもたらす栄誉であり、金持ちが金持ちなのは貧乏人よりもそれに値するからだという前提を くつがえす」「職やチャンスを得るのは、それに値する人だけだという信念・・・は社会の 連帯を妨げる・・・成功を自分の手柄と考えるようになると、遅れを取った人びとに責任を感じなくなるからだ」あたりを日本の保守支持層や高齢層あたりが読めば、「だから過去の日本に存在していた、過度の成果主義を抑えた社会に回帰すべきだ」と言い募るに違いない。けれど、本著がここで語っているのはそういう文脈ではない。「道徳的功績」を巡る考察があって初めて理解できる文脈だ。過去に非成果主義的な社会があり、そこに成果主義を持ち込んだ現状で、単に非成果主義的社会の長所と見える側面だけを求めて回帰するだけでは、そこにもまた嫌気がさして逆戻りするだけだ。
本著で語られているように、日本では「正義」という概念は、避けて通ってきていたと思われる。もしくは、「すべてから超越してどこかに存在しているもの」という感覚か、または「天皇が判断するもの」「将軍様が判断するもの」という、ある種の特権が、一般人に下ろしてくる判断という、トップダウンの思想だ。「すべてから超越してどこかに存在しているもの」という感覚は、もしかすると本著で述べられている正義に対する第3の考え方に似ているのかも知れない。ただ違うのは、アメリカでは正義と政治は切り離せないものとして考えられていることだ。日本では仮に正義が第3の考え方的なものだったとしても、それを政治に繋げる発想には縁遠いような気がしてならない。そして、正義や道徳から切り離して、まったくもって「リベラル」な環境下で、”競争していればいいものが生まれる”というあまりに純粋無垢な幼稚な考え方でここまでやってきたのかというのがよくわかる。”それで何の文句がある?”という言説に明快にカウンターを打てないというだけでずるずるここまで来てしまった罪は、いたるところで引き受けられなければいけないと思う。