緊急地震速報の経験

緊急地震速報を、初めて経験しました。

長めの東京出張もほとんど体調不良で何やってたのか分からないような過ごし方で、いよいよ最後の木曜の夜。テレビをつけたままうつらうつらしていたら、緊急地震速報が流れました。

緊急地震速報自体は、電車乗ってるとき周りの人のケータイから流れたりしたのを聞いたことあったけど、なぜか「これは来る」と確信持たされるようなのは初めてで、揺れに備えてみました。

果たして、確かに揺れました。

この東京出張中、2度ほど震度1レベルの揺れをベッドで感じたんですが、震度1くらいだとテレビも速報しないんだなと思ってたところだったので、緊急地震速報が伝える地震の怖さを身を持って知りました。震度3だったと思うんですが、あの揺れを「結構」と書くべきなのか、「程度」と書くべきなのか、僕にはわかりません。

ただ言えることは、あんな揺れがちょくちょくあるようじゃ、全然気が休まらないなというのはよくよくわかったということです。余震の怖さというのは、いつかほんとに終わるのか?という不安だということです。今、被災地にいない僕ができることは、忘れないことだと思います。

一部は無神経な東京

東京に来てます。今週の出張は長めです。

自社のオフィスで、自社の社員が二人、話をしていました。どちらも、東京オフィス勤務の二人です。3/11の大地震に遭遇しています。僕がその場に居合わせたときから、大地震当時のアクシデントや大変だった出来事を、半ばおもしろおかしく話をしていたのですが、何かのはずみで、関西に大地震が来たらどうなる?という話に。たぶん、関東に本社機能を置く会社が、大阪に機能を移してるが、だいじょうぶなのか?というような話だったのでしょう。

  • 三重や和歌山の沿岸なんて、今回クラスの津波が来たら危ないんじゃないか?
  • 大阪市内は、四国があるし、直撃を食らうことはないから大丈夫なんじゃないの?
  • でも淀川流域はゼロ海抜地域が続くんでしょ?
  • もっと上流の、吹田市とかが危ないのかもね。

話がこのあたりにきて、僕はこの二人を殴りつけるか、その場を立ち去るか、どちらかしか選択肢がなくなりました。

まあ、関西人の僕がその場にいてるってことを理解してなかったんだろうけど、僕が頭に来たのは、そういうことじゃなくて、なんであんなひどい目にあってるのに、そんなに軽薄なんだってことで、正確でも詳細でもないことを、よくそんなにベラベラとあたかも正しいかのように喋るよな、という、その軽薄さ加減に嫌気が指したのだ。今はせめて軽口をたたくのは自分たちのことだけで、他地域のことを軽口叩くのは間違ってるでしょう。

そうかと思えば、お上が「花見は自粛せよ!」と言えば粛々と自粛するし。なんなん?東京人。いつからそんな、腰抜け市民になったんや。自粛ってのは、自分で決めるから自粛やろ。おんなじ自粛するにしたってそんくらいのこと言えへんのか。

僕はずっと、東京というものをリスペクトして来たけど、今度ばかりは見損なった。一部にね。

行けなかった「3月28日 奈良ネバーランド 東北地方太平洋沖地震チャリティーイベント」のその後

3/28、奈良ネバーランドで実施された東北地方太平洋沖地震チャリテイーイベント、待ちわびていたのですがなんと間の悪いことに当日重症扁桃腺炎に陥ってしまい、諦めざるを得なくなったのです。

ライブは見れなくても、せめてチケットだけは買いたい、募金したい、ネバランならここから30分もあれば、と思うのですが、重症扁桃腺炎というのは本当につらくてとてもじゃないけど行けそうにありません。

そこで、ダメモトで、ツイッタで、五味兄さんとネバーランドのアカウントに、ツイートを飛ばしてみたのです。こんなカンジ:

今日の整理番号16番の者です。楽しみにしていたのに扁桃腺炎と高熱でいけなくなってしまいました。でも五味さん&ネバランの活動に参加したく、後日ネバランにチケ代持ってってもいいでしょうか?いつまでなら間に合いますか?

予想では、五味兄さんは、返してくれたとしても「その分他で募金してください。同じことです。」というにべもない答えだろうなーと。ネバランの方は、ひょっとしたら真面目にいつまでって答えてくれるかな?と期待したんですね。ただ、ツイッタなので、あんまり人目に触れたら収集つかなくなるし、答えもらえないかな、と思ってたら、ネバランの方からdを貰ったのです!

それは、「立て替えておきますから、体調がよくなったら持ってきてくださいね。」という趣旨のものでした。

もう僕はびっくりして、速攻お礼のdを打ちました。案の定、五味兄さんからはほぼ予想した通りの(ほぼというのは、「気持ちだけ頂いときます。ありがとうございます」という、意外と優しい言葉が添えられてたから・笑)リプライがあったのですが、ネバランの方も五味兄さんと話はしてくれたみたいでした。

その時点で、僕の体調が完調するのは金曜以降だろうと予想されていたので、「金曜か土曜には必ずお返しにあがります」とdしました。

そして、昨日、無事立て替えて頂いた分をお返しすることができた訳です。

残念なことに、dでやり取りしてくださった方は、そのときたまたま不在にされていたのでお会いできなかったのですが、スタッフの方にほんとに心から感謝の言葉を伝えさせて頂いたつもり。もちろん、実際にお会いしてお礼を申し上げないことには礼儀が立たないので、近々、またネバランに行くつもりです。


僕はそれほど音楽好きという訳でもないし、しょっちゅうライブハウスに行ったりする訳でもないので、近所なのにネバランに行ったのは今年1月のLOST IN TIMEのツアーが初めてでした。このときはLOSTAGE目当てで行って、案の定LOSTAGEに完全に当てられて、数年前からネットの友達が「LOSTAGEいいよ。奈良出身だよ。」と勧めててくれたのですが、目の当たりにして完全にハマりました。そして、LOSTAGE本拠地のネバランは、スタッフの方がとても元気がよくて、爽やかでいいライブハウスだなーと思いました。受け付けなんかも丁寧です。ドリンクは栓を開けて渡してくれたりします。そして今回の出来事。完全にネバランのファンにもなりました。

対岸の火事だと思っているのは誰だ

しかし、ウチの営業はいつになったら売ってくるようになるんだろう?担当してこの方、営業がドライブして成約に至った案件に出くわしたことがない。もちろん、小規模案件ならある。僕が言っているのは、僕たちが手掛けるべきサイズの案件のことだ。僕は今現在、ある程度僕の提案を信用して、あまり厳しい競合にさらさないで検討してくれる案件を提供してくださるお客様を、3社持っている。うち1社は担当変更で手放したけれど、これらのお客様と現在のような関係を築くのに掛かった時間は、1年前後だ。おまけに、それらの土台のあるお客様に対して、僕がフロントに立たないよう、なるべく後ろに下がって接するようにしている。なのに、この営業はいつまで経っても信頼が得られない。理由は簡単だ。その営業の存在価値が、ないからだ。出来あいの資料を持ってきたって、上司や上層部を連れてきたって、それがお客様にとって何のメリットがあるのか、組み立てられないようでは意味がないし、その営業本人のバリューって何?という話になる。人懐っこいかどうかという問題ではない。こんなに無愛想な僕でも、信頼は得られるのだ。確かに、僕はそれぞれのお客様に手数をかけている。でもそれは、営業がやるべき内容をやりきれないから、代わりに僕がやるから手数がかかるだけなのだ。そうして、僕のバリューが上がる。

 

いやいや、こんな批判を書きたかったんじゃない。仕事のことはあんまり書かないようにしてるつもり。今日書きたかったのは、もう一度、「想定外」についての話。でも今回は、「想定」する際の、話。

僕はシステム屋なので、「絶対に止まってはいけない」システムとか、「絶対に事故を起こしてはならない」と言われる会社様の仕事をさせてもらうことがある。そういう、「絶対にダメ」な会社の「絶対にダメ」なシステムは、いったいどういうふうに検討され、構築されているだろうか?

誰でも想像がつくと思うけど、少しでも安価にするためには、複数の業者で競争させることになるけど、競争させればさせるほど、なんか危なっかしいところが出てきそうな気がする。思わぬところで安い部品を使われたりとか。思わぬ作業工数をケチってカットしてるとか。出てくるのが三流の技術者とか。

かと言って、競争させない訳にもいかない。民間企業であれ公共体であれ、競争がないとぼったくられる。だから、普通は、RFP-提案依頼書というのを作成して、各業者に配布して、各業者はその仕様を満たすべく提案を作成する。そこに、「技術者は一流であること」(何が一流かって話はあるけど)と書いてあれば、三流の技術者を持っていくことはできない。

しかしこのRFPというのが曲者で、僕ら提案者側からすれば、このRFPに、いかに自社独自の製品や技術が盛り込まれているかが勝負を決めると判っている。ウチしかできないことがRFPに書いてあれば、ヨソはRFPをすべて満たすことはできなくなるからだ。かくして、通常、RFP作成前段階で、いかにお客様と会話を重ねられるか、という勝負になる。通常は、こういう争いを避けるために、「検討会」「公聴会」みたいなのを事前に開いて1年かけたり、RFIを出したりするんだけど、まあそんな悠長なスケジュールが組める会社ばかりではない。

で、「絶対にダメ」な会社の「絶対にダメ」なシステム担当者は、「絶対にダメ」なので、あまりにおかしいものを持ってこられたらやっぱり怖い。だから、過去に使ってきた業者や製品を変えたくない、という硬直性が絶対に発生する。そういう業者は、「絶対にダメ」なモノ用の部署とかを設置してたりもするので、過去に付き合いのある業者を変えなくて済むように、いろんなところで細工をする。

これは、決して間違ったことだとは思わない。でも、そこに「淀み」が発生するのもまた間違いない。その「淀み」が高じた結果起きたのが、今回の福島第一原発の事故が起きるような設備状態の放置に繋がったのだと、思わなくはない。

東京に一泊出張してきました

昨日・今日の二日間、一泊出張してきました。二日とも飯田橋近辺だったので、広い範囲を見た訳ではないのですが、それでも「関西とはやはり違うな」と感じることはありました。

  • 往復とも、新幹線の乗客が目に見えて少なかったです。出張が抑制されてるのがありありと感じられました。
  • 東京駅が消灯で薄暗かったです。
  • お客様のビルも、消灯しているフロアが多く薄暗い。
  • お客様への来客も少なく感じました。いつもは必ずと言っていいほど商談スペースが埋まっているのですが、今回はゼロでした。
  • 水道橋近くを歩いていると、ドームで何か騒いでいるなと思ったらみるみる道路沿いに人の列が出来、大きなカメラを抱えた報道関係らしき人がうろうろしだして何事かと思えば、巨人軍の選手が募金活動をしているとか。出張で来ている人間にとっては、報道関係らしき人がうろうろしたり人が行列作ったりするとすごく不安に駆られました。
  • コンビニは割とモノはありました。
  • 駅が寒かったのは、暖房も節約しているからと気づきました。
  • マックのコンセントが、電源供給されてませんでした(たまたまかも)。
  • お客様は意外とふつうに地震のことを話されていました。その「ふつう」ぶりは、やっぱり関西で話しているのとは少し次元が違いました。

プロダクトデザイナー秋田道夫氏講演会「しあわせにするデザイン」 #jbnsgt3 #jbnsgt3k

ここ最近の自分の活動でエントリしてないことがいくつかあるので、そういうとき、時系列に書き始めるべきか、それともとりあえずリアルタイム性を重視して最近のものから書き始めるべきか迷うんですけど、今回は昨日参加させてもらったこのセミナーから。

art around NARA主催の、プロダクトデザイナー秋田道夫氏講演会「しあわせにするデザイン」。

この講演会は水曜か木曜くらいに偶然知って、奈良でおもしろいセミナーがあったらなるべく参加してみようと思ってたので、申込みました。秋田道夫さんは、恥ずかしながら存じ上げませんでした。art around NARA/藝育カフェsankakuは以前から知っていて、奈良でめずらしいことやってるなあ、拠点も構えてるんだ、と思ってツイッターでチェックしたりはしてたんですが、今回、初めて活動されているものに触れられるなと思って申し込みました。「おもしろいセミナー」と思ったところは、

  • セミナー紹介で秋田さんが「信号機をデザインした方」と言うのを知って。
  • そんな凄い方が来るのに、セミナー会場が、(僕は土地勘あるのでイメージできるんですけど)あんな小っちゃいとこでやるのか。

というちょっと種類の違う好奇心(笑)がいくつかあって、です。

まずセミナーに参加するにあたって、いくら門外漢とは言え、ある程度の予習は必要だろうと、下記エントリを読んで行きました。

秋田道夫さん:

wikipedia 秋田道夫 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E9%81%93%E5%A4%AB
information(秋田さんのブログ) http://www.michioakita.jp/whiteboard/ 
(特に3/7の「継続性」というエントリ)

やまもとあつしさん:

移山倒海:(やまもとあつしさんのブログ) http://kentikugeinin.jugem.jp/?eid=970

で、参加したメモから:

  • 一人称の普遍的問題。「私」≒自分 「私」にとっての「私」と、誰かにとっての「私」
  • ゲーム理論における「相手の立場」。「相手の立場」に道義的価値観を滲みさせ過ぎない。感じ過ぎない。もちろんあってもよい。
  • 捨てる≒減らす
  • 「不便」と「工夫」 promotionの問題 存在し続けるべきか?
  • suica 山中俊治
  • 「言い易い代表作」
  • 人は人に興味がない
  • ファッション≒デザイン
  • 楽しむことを優先する、かどうか
  • 言葉は、誰が言ったかで変わる → それに対峙する

メモを観ながら、今改めて思いついたことをいくつか:

  • 参加前の興味として、僕はシステム設計をやっているんですが、システム設計の現場というのは、お客様は、必ずしもシステムに通じている訳ではないので、システムの用語でしか会話できなかったら、システム設計者としては三流にしかなれない訳です。秋田さんは、”「僕はあるときからデザインの勉強をやめた」そのかわり、「デザインを知らない人にデザインのことをわかってもらうための語彙を増やす勉強を始めた」と仰ったそうで、この感覚を持っている方のお話は少しでも聞きたいな、と思ったのでした。
  • 「言い易い代表作」の話。信号機とか、一本用ワインセラーが当たったので円筒形のものを立て続けて「円筒形が秋田道夫」みたいになるように仕向けてみたとか。「名刺代わり」というものを、その安易に判断される(というよりも、人々が安易に判断してしまうことで、人が人を考える力が弱まってしまうから)ところから好きじゃなかったんだけど、秋田さんは、もともと同じようなことばかりやっても詰まらない、でも、「言い易い」のがあってもいいんじゃないかと思ってやってみたと仰っていて、その「良かれとおもう価値観」が行ったり来たり試行錯誤するところは感じ入るところがあった。
  • 「言葉は、誰が言ったかで変わる」の話。「言い易い代表作」の話のエッセンスのひとつとクロスするけれど、これは現実であり、否定することはできないことだと思う。そして、その現実の普遍的なルールに乗っかっちゃったほうが、ものごとははるかにスムースに、楽に、進められることも事実である。けれど、ラングとパロールとエクリチュールの問いかけを引き合いに出すまでもなく、「まったく同じ言葉で組み立てられた一文なら、誰が言ったとしてもその価値は同じ」なはずである。その背景のコンテキストを読み取ることを、誰が強制できるというのだろう?その背景のコンテキストを、読み取らなければならないとしたらそんな不自由なコミュニケーションがあるだろうか?発信者は、表さないコンテキストの読み取りに、甘えてはいけないのではないか?発信するものがすべてであり、そこに発信されないコンテキストに裏口を隠して拵えておくような行為に思えてならない。

そしていちばん興味があったのは「ケトル(だったと思う、たぶん)」の話。

秋田さんがかつてケトルをデザインされたことがあって、そのケトルはクロムメッキ?っていうんですかね?たぶん、iPhoneの背面のような、ピッカピカのメッキ、なんだそうです。普通、ケトルをあんなメッキにはしない。指紋はべたべたつくし、使い辛い。普通は、ヘアラインにしたりするもの。それをなぜあえてピッカピカのメッキにしたかというと、中国の生産工場を見学に行って、そこで見た生産現場の環境の劣悪さ。ヘアラインなんかお願いすると、金属粉で働いている人が大変な目に遭ってる。だったら、まだ少しでもましなピッカピカのメッキのほうがいい。あれなら磨くだけだから。そこを変えることで、中国の働いている人の不幸を、少しでも減らして幸せに出来た、と思う。

「なるほどな」、と思ったんですけど、少し疑問が出てくるところもあって、

  • それを買う側の僕らにとっては、どうなんだろう?「嫌なら買わなければいい」と言えばそれまでだけど、ヘアラインよりクロムメッキのほうが高いなら、たぶん買う人は少ない。それによって新たな使い勝手とか、新たな面白さがあれば別だけど、もし、買う人が少ないなら、生産そのものが中止になって、その中国の工場の仕事は減るのではないか。もちろん、独占契約してる訳じゃないだろうから、次から次へと仕事は来るんだろうけど、持続可能でなければ、プロダクトデザインとしては、どうなんだろう?そのときの一瞬だけでも、中国の労働者の健康被害を軽減できたなら、それがプロダクトデザインにとって出来たこと、なんだろうか?でもプロダクトデザインの第一対象はやっぱりユーザだと思う。
  • 仮にヘアラインのほうがコストも使い勝手も何もかも勝っていたとして、それでもピッカピカのメッキを選ぶことによる中国の労働者の健康被害軽減を優先したところに価値のあるプロダクトだったとして、買い手はそれがわかるだろうか?いちいち、売り場で、その説明文句を読まないとわからないのではないだろうか?確かに、コンシューマーは賢くなるべきで、その背景となるものを弛まず知ろうとする必要はあると思う、だけど、その努力をどこまで強いることができるのだろう?それをいちいち、文句(言葉)で伝えなければいけないというのは、やっぱりちょっと違うんじゃないだろうか。僕の仕事はシステム設計で、最終的には機能が満足に使えればそれでいいよ、としか言われない現場だけど、どうやってそれが満足に動いているか、という苦労を聞いて関心してくれるユーザはまずいない。というよりまず理解できない。そんなユーザへ向けて、それでもわかってもらえるようなアウトプットを日々生み出そうと奮闘しているのだ。
 

全部自分がやったんだよと 叫べるおシゴトしましょう

えっちらおっちら 責任は ウヤムヤケムリのセカイ

(『ケムリの世界』/B'z) 

「こんなときに~」第二弾。顰蹙を買うこと必定だし、素性がバレることも承知で、勢いで普段はあまり書かない仕事のことを書いてみようと思う。

福島第一原発の話。津波によって非常用電源が破損し緊急冷却が作動しないことが、現在の状況に陥った主な理由だという。「あんな海の近くに作っておいて、どうして津波が来ても破損しないような非常用電源の設置にしておかなかったのだ」って、すぐに思う。この東北関東大地震のような大天災は1000年に1度のことだと言ったところで、1000年に1度のことでも防げるような万全な仕組にしておかなければいけないじゃないか、それは全く正論だと思う。

僕はシステム屋なので、日常的にこういう場面に遭遇してる。トラブルの現場という意味ではない。これから構築するシステムに、どれくらいの耐障害性を持たせるか、という話だ。「これはわが社の重要なデータが保管されるシステムなので、絶対に壊れてはいけないし、止まってはいけない。」そういう要望に随時触れている。原発も同じだと思う。東電なら首都圏の電力供給を一手に引き受けている訳で、絶対に止まることは許されないし、原発は何があっても破損して大量の放射能を飛散させてはならない。

だけど、悲しいかな、「災害が起こる前」の「対策」には、コストの意識が付きまとう。

直近で思い出してみよう。「どうして世界で二番じゃダメなんですか?」飛躍と思われるかも知れないけど、災害対策を考えるとき、人の頭の中にはたいてい、常にこれと同じような意識が働いていると思う。「そこまで、お金をかけなければいけないか?そうそう、起きることでもないのに。」そうやって、事業仕訳ではいろんなものをカットしようとしてきたし、多くの人が両手を挙げて賛成してきた。もちろん、不正の温床となる無駄だらけの官製事業を放置していいとは全然思ってない。そういう文脈で話してるのではなくて、「災害対策を考えるとき、それに係るお金をすぐに”コスト”だと発想する」人間の性、というのがあると言いたいのだ。

システム屋の世界では、いかにもそれらしく、「リスクに対する適切なコストをかけることが肝要」と言われる。けれど、たいていの人は、リスク対策にお金なんてかけたくないと思っている。100TBのストレージがあって、それを保護するのにもう100TB購入するくらいなら、200TBの実容量を欲しがるものなのだ。「絶対に壊れてはならない」と言われるのに、「できる限り安価で済ませたい」なんて言われると、内心「何言ってんだこの人」と思ってるのは否めない。

でも、ここまでなら誰にでも考えられるけど、振り返ってみよう、仮に福島第一原発が今回のような災害にも耐えうる機構に改修されたとして、そのための費用が電気代に転嫁され、1w当たりに電気代が2倍になると言われたら、それでも僕たちはOKを出しただろうか?その金額の妥当性は分からない、けれど、それは追加費用の多寡の問題ではない、「追加コストがかかる」と言われたら、間違いない、「できる限り安価にしろ」と声高に叫ばないだろうか?その声が想定できるところが、つまりは、無言の「改修させない」圧力になるんじゃないだろうか?

例えば、自分のPCに、ウィルス対策ソフトウェアを購入するのさえ、躊躇うような人がいる。「そうそうウィルスなんて感染しないだろう」と、パターンファイル更新ライセンスを買わない人がいる。何度言っても、パスワードが誕生日の人がいる。自賠責すら、支払っていない人がいる。バックアップを取らずにデータを紛失して、ハードウェアのせいにする人がいる。みんな、同じことのようにシステム屋からは見える。いったい、誰が誰を責められるというのだろう?なあなあで済ませましょうというのではない。「責任」というのは、必ずしも双方向のベクトルではないのだ。

 

まわりまわって誰のせい? 
焦点はぼやけてく 
全部自分がやったんだよと 
叫べる おシゴトしましょう それがこの世で一番ステキ

(『ケムリの世界』/B'z) 

こんなときに、こんなときだから、こんなときでも LOSTAGE五味さんの「自主」の話 #jbnsgt3k #lostage

こんなときになんなんですが、去年からLOSTAGEというバンドをしっかり聴くようになって、大好きなんです。

五味兄弟が奈良出身で、なんだかよくわかんないけど、声とか、顔とか、メロディとか歌詞とか、ものすごいシンパシーを感じる訳です。 

この画像は、前後の状況がよくわかんないんですが、調べてもいないんですが、とにかく2010/10/2の4:00AMに仙台駅前で、ゲリラ的に演奏して撮影したもののようです。「あしたタワレコでライブ」みたいなこと言ってるのが聞こえるので、インストアライブ前に、レコード会社の人と企んで、撮影したもんじゃないかなと思います。アップしているアカウントがflakerecordsオフィシャルのようなので。

五味さんは、今、仙台を思い出してるんだろうか?

なんで今LOSTAGEかというと、『自分の仕事』を考える3日間以来、「仕事」「働く」ということについて、一介のサラリーマンのスタンスで考え込み続けている僕にとって、とても、というか、あまりにも僕の考えをトレースして書いてもらったかのような、そんなエントリーを五味さんのブログで読むことができたから。

”最近のできごと、これから" - LOSTAGE 五味岳久の日記

エントリがある訳だからくどくどとここでサマリしたりするつもりは全然なくて、でも五味さんの「やり方」というか「進め方」というか、その律儀でバカ丁寧なやり方加減というのは、ほんとに共感するし、手を抜きそうになる自分の強い戒めになる。まとめるつもりはないと言いながら雑把に言っちゃうと「次のリリースは自主でやる。どうなるかはわからない。」ということを言ってて、引用すると、

自分達でやることでどれくらいの予算が必要で、どれくらいの労力、人手が必要で、それがどのくらい大変な事なのか、思い知りたいわけです。

「リリース」というフローを、最初から最後まで全部体験したい、と言ってる訳です。これは僕たちサラリーマンにとっても永遠の命題で、「スペシャリトがいいのかジェネラリストがいいのか」とか、「経営者は自社の業務プロセスに精通しているべきか、しかしそれでは外部から経営のプロを招聘できない」とか、「だから経営のプロは短期間で業務プロセスを把握できるような明晰でスピーディーな頭脳を持たなければならない」とか、「所詮そんなもの机上のもので本質に触れない」とか、いろんな議論が日々巻き起こってる訳です。でも僕は、やっぱり「経験」していないと、どこかで「歪み」を引き起こしているものだと思います。数字は大事ですが、数字で計れないものがちゃんとあることをわかって行動していないと、結局、その「計れない」失敗さえも、数字の暴力でごまかしていこうとするのが企業というものだと思うんです。

話が若干それてしまったけど、五味さんの、この「筋の通ったバカっぷり」が僕は本当に大好きで、もちろん音楽も大好きで。そして、この「自主で出す」ということについて、ちゃんと「お金」のことについてもエントリで触れているところもたまらなく好きです。僕は、「仕事」「働く」というのは、なんとしても、自分で食っていけていて初めてそれを「仕事」と呼んでいい、と思ってて、LOSTAGEがバンド活動を「仕事」と呼ぶかどうかは別ですが、創作系の人の感覚として時々出会うような、タニマチやパトロン(なんてどぎつい明言はしないけど、言ってしまえばそういうこと。スポンサーね、要は)がどこかにいて、自分の創作が生み出す収益とは無関係に、生活が保障され安定してなければ、安心していいクリエイションができないよ」みたいな、そういうのは断じて仕事じゃない、と思う訳です。それはそれで、「趣味として創作してる人」と名乗ってもらえばよい。それが産業であれ創作であれ、誰かにとって何かの「価値」を生み出すところに意味があって、その対価でもって生活を成り立たせてる人じゃなければ、僕は同じ「働く人間」としては認められない。そりゃいろんな問題はある、やりたいことが今の日本ではもうほとんど対価を貰えないようなことであったり、だけれども、やっぱり、自分の活動と関係ないところで、自分の生活が保障されることを、「働く」という状態とは言えないと思う。そういうコンテクストの中で、五味さんのこのエントリはかっこよすぎる、と思う訳です。

五味さんの最新のエントリは地震に関することで、「ああなるほど」と思うところがあるし、このエントリで触れている事柄に対するその筋の通り方も、ほんとに共感できて好きでたまらないんですが、あらぬ誤解をする人もいそうなので、ここでは引用したりはしません。とにかくシンパシーなのです。

九州グルメ旅・サマリー編

もちろん、グルメ旅なんかじゃない!!出張なんですが、おいしいもん食べに連れてってもらったので、メモ。

まず博多では2軒:

①「越後屋」:京風もつ鍋と脇に書かれてました。味噌ベースのもつ鍋です。そのコクが旨い!!レバ刺しも旨かったです。もつは、すっと溶けるカンジ?なめらかでしつこさもなくてとてもおいしいです。

②「秀ちゃんラーメン」:「だるま」の店主?創業者?がやってる別店。革新をテーマにしてるそう。博多ラーメンはほんと豚骨の味がしっかりしてるのにくどくないです。今回は麺をふつうで頼んだのですが、バリカタがうまいってことがよくわかりました。

③「こくまろらーめん馬力屋」:純粋な豚骨でなくて、スープ感が強いです。特製ラーメンにすると、二郎のような野菜満載っぷりの食べ物系ラーメンが登場します。

次回、熊本の際は、「火の国文龍」に連れてってもらう予定です!

急患

今週は月・火と九州。博多に10:30頃入ろうと、新大阪8:00前のN700に乗車。

山陽は無線LAN使えないけどバッテリが取れるだけでもありがたい。E席でPC、USBケーブル、Blackberryとセッティング、完了、して新神戸を出る。


-そのとき異変が。


「すみませんーすみませんー乗務員さんをー乗務員さんを!」

叫び声とまではいかないけれど不穏な気配を漂わせた、女性の声が聞こえる。その声の主は、僕の前の席だった。立ち上がって見てみると、声の主は中年のおかあさんという感じ、その隣に座っている成人はしているだろう男性-おそらく息子だろう-が、激しく引き付けている。癲癇か?

「意識が、意識がないんですー」

動きがあるのに意識がないというのはどういうことか、と思わなくもないけれど、言ってることは感覚的に判る。これはどう考えても一大事だ。気付いた何人もの人が、前方・後方に移動していく。僕は前のほうに向かって行き、2車両ほど進んだところで、先に行ってる人がいたのでいったん引き換えし、グリーン車のパーサーが駆けつけているのを確認して、先に行っていた人のところに戻ってその旨を告げる。

程なく車掌も到着し、社内アナウンスで「お医者様がいらっしゃいましたら~」というのが流れ、二方、医療関係の方が到着。とりあえず横にしたほうがいいということで、隣の3列シートに座っていた人に席を替わってもらい、車掌と僕でその男性を抱えて3列シートに移す。男性はどうしても起き上がろうとするんだけど、起き上がると余計に危ないらしく、必死に寝かせようとするお母さんと思しき女性。

お医者さんが少し話をしだしたくらいで、男性は嘘のように正気を取り戻した。しばらく様子を見つつ、車椅子が準備され、そのふたりは岡山で降りていった。女性は律儀に「ありがとうございました」と声をかけてくれた。


今回の件で自分が痛感したのは、緊急時というのは、ほんとうに訓練していないと思うように動けないのだな、ということ。冷静に考えれば、グリーン車に近づくのがいちばん乗務員に当たる可能性が高いし、乗務員室がどこなのか、座席の前のテーブルに書いてるのを見たのにその時は目に入らなかった。後から見たらすぐに乗務員室が何号車か、目に飛び込んできた。訓練というのはほんとに必要なんだなと痛感した。

もうひとつ、どれだけ相手にとってイヤなことでも、スムースに言葉を選んで話さなければいけないこともあるということ。車掌さんは、頻りに「岡山で降りられたほうがよろしいかと思います」と言っていた。言い方と言うべきことをちゃんと持ってること。これが仕事をする上でも大事なことだな、と痛感。